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	<title>中里佳苗 &#8211; 編集室水平線のオンラインマガジン　雨晴（あまはらし）</title>
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	<title>中里佳苗 &#8211; 編集室水平線のオンラインマガジン　雨晴（あまはらし）</title>
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		<title>第1回　アブラゼミと団地祭（1）</title>
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		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 04 Nov 2022 02:11:48 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[中里佳苗]]></category>
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					<description><![CDATA[０．アブラゼミと団地祭 　今年も、アブラゼミの声がやけに大きく聞こえる季節がやってきた。ミーンミーンといった夏の高い空を思わせるようなミンミンゼミではなく、ジリジリという重低音をしつこく響かせているアブラゼミだ。この声を&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/nakazato-kanae/1430/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第1回　アブラゼミと団地祭（1）</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><strong>０．アブラゼミと団地祭</strong></p>
<p><em>　</em>今年も、アブラゼミの声がやけに大きく聞こえる季節がやってきた。ミーンミーンといった夏の高い空を思わせるようなミンミンゼミではなく、ジリジリという重低音をしつこく響かせているアブラゼミだ。この声を聞くと、いつも思うことがある。「ああ、また今年も団地祭の夏が来たな」と。団地祭では、南米のエンパナーダやベトナムの春巻きといった多国籍な料理を、たくさん油で揚げていた。アブラゼミのジリジリという鳴き声が、油を熱したときのはねる音と重なり、まとわりつくような暑さの中で快然と執り行われた祭りのことを、毎年思い起こさせるのだ。</p>
<p><em>　</em>団地祭とは、私がまだ学生だった頃、湘南団地（仮名）で行われていた夏祭りのことである。湘南団地は、神奈川県の湘南市（仮名）にある県営住宅だ。団地祭は、毎年8月のお盆の時期に行われ、2015年にその幕を閉じるまで、50年近く続いた祭りだ。私はそのうち、1999年から2007年まで8回参加したのであるが、私の記憶に残っている団地祭は、このような様相だった。</p>
<p><em>　</em>団地祭は、100mほどの団地のメインストリートを、朝9時から夜10時まで車両通行止めし、毎年2日にわたって開催されていた。ストリートの先端部分には、祭りの本部と大きな仮設舞台が組まれる。舞台では、日中は高齢者によるフラダンスや子どもたちの和太鼓が披露され、合間にスイカ割り大会などもあった。そして夜はカラオケ大会。カラオケが終わると、仮設舞台の前は盆おどりの会場になる。盆踊りの音楽に合わせ、子どもたちが和太鼓で会場を盛り上げる。メインストリートの右側には、金魚すくいや輪投げ、チョコバナナやりんご飴などの「テキ屋」の屋台が4～5店ほど。左側には、団地自治会の老人会や子ども会などによる、手作りの焼きそばやかき氷、ハンドメイド雑貨、生ビールや焼き鳥の屋台が5～7店ほど並ぶ。</p>
<p><em>　</em>この2日間は、団地全体が、焼き鳥や焼きそばなどいわゆる「B級グルメ」のワクワクするような匂いで包まれる。午前中は、興奮気味の小学生たちが、「歩行者天国」となったストリートで追いかけっこをしながら、屋台の開始を待っている。正午近くになると、香ばしい煙を上げながら、屋台がじわりじわりと開始される。その匂いにつられるようにして、団地住民たちが、ちらほらと下に降りてくる。昼ごはんの「たし」にすると言って焼き鳥などを買っていく人や、どんな屋台が出ているか見るだけの人もいた。子ども会の焼きそば屋台は、1人前100円という破格の値段から、数十名の行列ができることもあった。突然の夕立に見舞われることはあっても、たいてい天気はいつも晴天、気温は30度超え。炎天下に長居する住民はいない。なので、だいたい昼過ぎの3時頃までは、人出はまばらである。汗だくの小学生たちが、時々テキ屋のくじの景品などを物色しながら、メインストリートを何度も往復しているくらいだ。ジリジリ・ジージーと、アブラゼミがしつこく鳴いている。</p>
<p><em>　</em>暑さのピークが過ぎると、ようやく神輿が登場する。祭りのメインは、やはりこの神輿だろう。団地祭には、毎年3基の神輿が集合する。「ドッコイ、どっこい」「ドッコイ、そーりゃ」という掛け声に合わせ、神輿を担いだ男衆がメインストリートをゆっくりと歩く。神輿の登場に合わせて、たくさんの団地住民がメインストリートに出てくる。神輿の見物客と担ぎ手たちが入り混じり、容易に身動きができない状態となるので、屋台はいったん商売を休憩せざるを得ない。重なり合いながら、皆が神輿を目で追う。神輿に乗って音頭をとりながら扇子を振るのは、全身に刺青が入った男性である。担いでいる人たちもみな「彫り物会」の人々だそうだ。通称「刺青祭り」と呼ばれ、担ぎ手は、神奈川県外からも集まっていると聞く。あでやかな神輿が通り過ぎると、一気に屋台へ人が押し寄せる。子どもから高齢者まで、たくさんの人々が闊歩し、薄暗くなって提灯が光るメインストリートを「祭りらしい」雰囲気にした。いつしか仮設舞台ではカラオケ大会が始まり、大音量の昭和歌謡が流れてくる。そして、二日目の夜。祭りが終了する間際、提灯で鮮やかに飾られた神輿が、メインストリートを練り歩く。夜の神輿はどこか妖艶な魅力があり、昼間の見物人より倍近くの人々が見にくるのだった。昼間よりもよりいっそう熱がこもった担ぎ手たち。祭りにくり出した人々やひしめく屋台に向かって、神輿が大げさに傾きながら迫ってくる。「ドッコイ、どっこい」「ドッコイ、そーりゃ」の掛け声と、見物人たちの感嘆や歓喜の悲鳴がこだまする。あやうく神輿に押しつぶされそうになる興奮を、ひとしきり味わいつくすと、喧騒のハレの日が終わる。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img fetchpriority="high" decoding="async" class="alignnone wp-image-1441 size-full" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/①提灯が映える万燈神輿（2006年撮影）-scaled.jpg" alt="" width="2560" height="1920" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/①提灯が映える万燈神輿（2006年撮影）-scaled.jpg 2560w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/①提灯が映える万燈神輿（2006年撮影）-300x225.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/①提灯が映える万燈神輿（2006年撮影）-1024x768.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/①提灯が映える万燈神輿（2006年撮影）-768x576.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/①提灯が映える万燈神輿（2006年撮影）-1536x1152.jpg 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/①提灯が映える万燈神輿（2006年撮影）-2048x1536.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2560px) 100vw, 2560px" /></p>
<p>提灯が映える万燈神輿（<span lang="EN-US">2006</span>年撮影）</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img decoding="async" class="alignnone wp-image-1442 size-full" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/②団地メインストリート（2006年撮影）-scaled.jpg" alt="" width="2560" height="1920" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/②団地メインストリート（2006年撮影）-scaled.jpg 2560w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/②団地メインストリート（2006年撮影）-300x225.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/②団地メインストリート（2006年撮影）-1024x768.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/②団地メインストリート（2006年撮影）-768x576.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/②団地メインストリート（2006年撮影）-1536x1152.jpg 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/②団地メインストリート（2006年撮影）-2048x1536.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2560px) 100vw, 2560px" /></p>
<p>団地メインストリート（<span lang="EN-US">2006</span>年撮影）</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img decoding="async" class="alignnone wp-image-1443 size-full" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/③舞台にて太鼓を披露する子どもたち（2006年撮影-scaled.jpg" alt="" width="2560" height="1920" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/③舞台にて太鼓を披露する子どもたち（2006年撮影-scaled.jpg 2560w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/③舞台にて太鼓を披露する子どもたち（2006年撮影-300x225.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/③舞台にて太鼓を披露する子どもたち（2006年撮影-1024x768.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/③舞台にて太鼓を披露する子どもたち（2006年撮影-768x576.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/③舞台にて太鼓を披露する子どもたち（2006年撮影-1536x1152.jpg 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/③舞台にて太鼓を披露する子どもたち（2006年撮影-2048x1536.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2560px) 100vw, 2560px" /></p>
<p>舞台にて太鼓を披露する子どもたち（2006年撮影）</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>私はその団地祭で、中国の餃子に始まり、南米エンパナーダ、ベトナムやカンボジアの春巻き、ベトナム王宮料理バンベーオ、カンボジアのバインセオなど、外国の食べ物を作って売る屋台をやった。団地に住んでいる外国にルーツをもつ人々と一緒に、エスニックな料理をこしらえて、売る。「これなあに？　どうやってたべるの？」「へんなにおいがする」「変わったもん売ってるね」「食べられるの？」「みるだけにしとくわ」「これで300円？　高すぎる」などといろいろ言われつつ、油にまみれながら汗水たらして売っても、あがりは2日間で3万円くらいにしかならなかった。しかし、毎年こりずに、団地祭で屋台をやった。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone wp-image-1444 size-full" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/④団地祭、ベトナムの春巻き屋台（2001年撮影）-scaled.jpg" alt="" width="2560" height="2500" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/④団地祭、ベトナムの春巻き屋台（2001年撮影）-scaled.jpg 2560w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/④団地祭、ベトナムの春巻き屋台（2001年撮影）-300x293.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/④団地祭、ベトナムの春巻き屋台（2001年撮影）-1024x1000.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/④団地祭、ベトナムの春巻き屋台（2001年撮影）-768x750.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/④団地祭、ベトナムの春巻き屋台（2001年撮影）-1536x1500.jpg 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/④団地祭、ベトナムの春巻き屋台（2001年撮影）-2048x2000.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2560px) 100vw, 2560px" /></p>
<p>団地祭、ベトナムの春巻き屋台（<span lang="EN-US">2001</span>年撮影）</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone wp-image-1445 size-full" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/⑤団地祭、中国の餃子屋台（1999年撮影）-scaled.jpg" alt="" width="2560" height="1920" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/⑤団地祭、中国の餃子屋台（1999年撮影）-scaled.jpg 2560w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/⑤団地祭、中国の餃子屋台（1999年撮影）-300x225.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/⑤団地祭、中国の餃子屋台（1999年撮影）-1024x768.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/⑤団地祭、中国の餃子屋台（1999年撮影）-768x576.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/⑤団地祭、中国の餃子屋台（1999年撮影）-1536x1152.jpg 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/⑤団地祭、中国の餃子屋台（1999年撮影）-2048x1536.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2560px) 100vw, 2560px" /></p>
<p>団地祭、中国の餃子屋台（1999年撮影）</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>そんな団地祭の記憶が、アブラゼミの鳴き声とともに、毎年よみがえってくるのだ。最後に参加した団地祭が2008年だったから、かれこれ14年前の記憶だ。私はこの湘南団地に住んでいたわけではないし、湘南団地が自宅の近くにあったというわけでもない。むしろ、湘南市にしろ、湘南団地にしろ「縁もゆかりもない」土地であった。さらに言えば、団地から自宅までは、電車とバスを使って1時間半以上かかり、神奈川県内としてもかなり「遠い」場所だった。</p>
<p><em>　</em>そもそも団地とは、都市部への人口流入に合わせ1950年代から60年代にかけて造成された、低所得者向けの賃貸住宅だ。湘南団地も、1960年代後半から建造され1971年に完成している。団地の多くがエレベータのない鉄筋コンクリートの4階～5階建て、2DK～3DKの間取り。1部屋40平米程度で、広さよりも戸数優先の造りになっている。棟数は数棟から100棟超えの大きな団地までとその規模は様々だが、湘南団地は約50棟、戸数は1000戸以上の比較的大きな団地であった。</p>
<p><em>　</em>多くの団地に共通して言えるのは、公共交通機関が比較的発達している都市部としては、立地がかなり悪いということ。最寄りの駅から徒歩圏内の団地はほぼみられず、大抵、最寄駅からバスを使う距離の場所にある。団地との縁が続いていた間、自分自身も転居を3度しているが、電車で1時間とバスで30分が一番近く、一番遠いときは、電車に1時間40分ゆられた後バスで30分という時もあった。駅からバスにゆられ、「湘南団地前」という停留所で降りる。70年代から団地に住んでいる人たちは、「湘南団地前」ができて、大変便利になったと話していた。団地の前にバス停ができるまでは、1つ手前のバス停しかなく、バスの本数も1時間に1～2本だったという。当時は、車の不所持が入居条件でもあったから、住民たちの当惑の声が聞こえてきそうだ。団地住民はバス会社と交渉を重ね、現在では通勤時間帯で5分に1本のバスが通るようになった。そのような住民の努力に敬意を抱きながらも、「湘南団地前」までのバス30分は、どうしても私の足取りを重くさせるものであった。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone wp-image-1446 size-full" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/⑥湘南団地とそこで暮らす外国人の子どもたちが作った七夕飾り（2000年撮影）　.jpg" alt="" width="2416" height="2417" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/⑥湘南団地とそこで暮らす外国人の子どもたちが作った七夕飾り（2000年撮影）　.jpg 2416w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/⑥湘南団地とそこで暮らす外国人の子どもたちが作った七夕飾り（2000年撮影）　-300x300.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/⑥湘南団地とそこで暮らす外国人の子どもたちが作った七夕飾り（2000年撮影）　-1024x1024.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/⑥湘南団地とそこで暮らす外国人の子どもたちが作った七夕飾り（2000年撮影）　-150x150.jpg 150w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/⑥湘南団地とそこで暮らす外国人の子どもたちが作った七夕飾り（2000年撮影）　-768x768.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/⑥湘南団地とそこで暮らす外国人の子どもたちが作った七夕飾り（2000年撮影）　-1536x1536.jpg 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/⑥湘南団地とそこで暮らす外国人の子どもたちが作った七夕飾り（2000年撮影）　-2048x2048.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2416px) 100vw, 2416px" /></p>
<p>湘南団地とそこで暮らす外国人の子どもたちが作った七夕飾り（2000年撮影）</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>そんな「遠く」の「縁もゆかりもな」かった団地に、なぜ、10年間も通うことになったのか。しかも、なぜ、聞いたこともないような、外国のソウル・フードを作って祭りで売ることになったのか。そして、なぜ、団地から足が遠のいてから十数年、またおそらく今後も、アブラゼミの声を聞くと「団地祭」が自動的によみがえってくるまでに、潜在意識の奥深くまで記憶が刻まれているのか。夏が来るたびそのように思うのだが、いつも、あまり明確な答えが出せないでいる。</p>
<p><em>　</em>その当時、私はまだ大学生だった。誘われるがまま、人の動きに巻き込まれるようにして、湘南団地を訪れるようになった。その流れ自体は、当時はとても自然に感じられていた。私は当たり前のように、団地に通うようになり、自然に団地祭にも参加して、当然のように屋台でエンパナーダやベトナムの春巻きを売るようになった。しかし、こうして14年後に客観視してみると、そうした「自然」が、自然的な流れになるように、慎重に計画され舵取りがなされていたことが、なんとなくわかってくる。その流れは、多くの人々のかかわりや働き、そしてその言動に託された希望や想いがなければ生まれなかったものであること。一つのボタンの掛け違い、かかわる人のバランスが少しでも崩れたら、その場所は成り立たなかったであろうという、大変センシティブな場であったこと。そんな繊細な動きの中で、自身も何かを望み、何かを求めて、ずぶずぶとのめりこんでいったのだと思うのだが、改めて、その様子をこの手記を通して残しておきたいと思っている。団地祭だけでなく、団地祭に参加する母体となった、湘南団地に集った人々の活動を、記録に残しておきたい。</p>
<p><em>　</em>それは、毎年思い出してしまう団地祭の記憶に、なにがしかの決着をつけたいという、とても自分勝手な理由からでもある。何度書いても完結しない物語になる、とわかっていたとしても。そしてもう一つ。ただ単純に、団地祭の記憶とともに、思い浮かべる人々の姿を、細部まで丁寧に残しておきたいという理由。記憶の奥底からふきだしてくる、その人たちがいた場所と風景、声や音、そして匂い。たくさんの出会いや別れと、その場所に集った人々の間で起こったこと、繰り広げられた人間ドラマ。湘南団地という場所で出会った人たちのエピソードを、記憶が風化してしまう前に、少しでもいいから残しておけたらと思う。そしてそれがいつか、私と同じように、いつまでも記憶に刻まれる物事に出会った人々のもとへ、届けられたらと思っている。アブラゼミの声を聞いた時、ここで語られる団地祭を想像してくれる人がいるのであれば、この手記に登場する人物たちが、その人の支えになってくれることを願いつつ。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>［© Kanae Nakazato］</p>
<p>&nbsp;</p>
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<p><a href="https://suiheisen2017.jp/appli/">https://suiheisen2017.jp/appli/</a></p>
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			</item>
		<item>
		<title>第2回　アブラゼミと団地祭（2）</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/nakazato-kanae/1435/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 04 Nov 2022 02:12:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[中里佳苗]]></category>
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					<description><![CDATA[１．「湘南プロジェクト」 　湘南団地に通うことになったのは、私が大学生だった頃、ゼミナールの担当教員であった新原道信先生に、声をかけられたことがきっかけだ。1998年の夏のことである。新原先生は当時、神奈川県の社会福祉協&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/nakazato-kanae/1435/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第2回　アブラゼミと団地祭（2）</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><strong>１．「湘南プロジェクト」</strong></p>
<p><em>　</em>湘南団地に通うことになったのは、私が大学生だった頃、ゼミナールの担当教員であった新原道信先生に、声をかけられたことがきっかけだ。1998年の夏のことである。新原先生は当時、神奈川県の社会福祉協議会（以下、県社協）の外国人支援5か年計画を受け、1996年から「研究委員会」を発足し、県在住の外国人や支援現場の声を聴くプロジェクトを遂行していた。その成果は、1997年の外国人フォーラムの開催や報告書などの形でまとめられている。1998年からは、県社協の5か年計画が、より地域に根付いた支援へと向かい、県社協から市の社会福祉協議会（以下、市社協）へと足場を移すこととなった。その現場として選ばれたのが、神奈川県の湘南市だ。もう一つ現場はあったのだが、私はその現場に行ったことがないので、湘南市に限って話を進める。</p>
<p><em>　</em>湘南市では、市社協の担当者が場をセッティングし、「在住外国人生活支援活動研究委員会」（以下、委員会）という会議がもたれた。そこは、県・市社協の職員、湘南市の国際室や児童福祉課、湘南市や神奈川県内各地で外国人支援をしているボランティア、そして、湘南地区の民生委員、主任児童委員、湘南団地の自治会長、事務局長、団地の住民（外国人代表）、小中学校の教員や保育園の園長らが、一同に会する場であった。様々な立場の人が、外国人住民の支援について話し合う趣旨の委員会だ。座長である新原先生の計らいにより「オブザーバー」という席を与えられ、私はその会議を「見学」することになる。「見学」とはいっても、その会議は「喧々諤々」といった表現がぴったりとくるような雰囲気で、委員らの熱意に圧倒された私は、メモをとっている「ふり」をして気配を消すので精一杯だった。初めて「見学」をしたのは、1998年7月13日だった。そんな始まりであったので、その後10年間、湘南市に通うことになるとは夢にも思っていなかった。</p>
<p><em>　</em>冒頭で述べた湘南団地は、この委員会の会議の中でも、とりわけ議論の中心におかれる地域であった。湘南団地には、1998年の時点で155世帯503人の外国人が暮らしており、これは団地住民の15％にあたる。国籍も多様であり、1980年代からカンボジア・ラオス・ベトナムのインドシナ難民が、1990年代からはブラジル・ペルー・ボリビアからの日系人の家族たちが集住するようになった。他に、韓国や中国の国籍の人々も暮らしていた。神奈川県国際課の「外国人登録者市（区）町村別主要国籍別人員調査表」によると、1998年の湘南市全体の外国人登録者は約3700人（湘南市人口の約1.5％）だったので、その内の14％近くが湘南団地で暮らしていた計算になる。</p>
<p><em>　</em>湘南団地は、言語や生活習慣の異なる外国人が集住しており、日常的になにかしらの衝突が発生している場所であった。例えば、「外国人住民が窓からタバコの吸い殻を投げている」「夜中に外で宴会をして騒いでいる」といった苦情が、昼夜問わず、自治会に寄せられる。また、周辺地域からは、低所得者や無職の外国人が多いため治安が悪く、子どもたちは非行にはしり「スラム化」していると噂される団地でもあった。実際に、駅から団地に向かうバスに乗ると、「この湘南団地行のバスに乗るの、ちょっとやだよね」「それわかる。団地に住んでる人って思われるから。こんなこといっちゃ悪いけど、貧乏な人が多い。それにあそこ、外人ばっかで怖いから、行かない方がいいよ。この前、先輩がそこに連れてかれて…外国人…少年院の…」という、制服を着た高校生のヒソヒソ話が聞こえてきたこともある。</p>
<p><em>　</em>そんな湘南団地に、1998年冬、市社協の委員会は「湘南プロジェクト」を発足させることとなる。私は、この「湘南プロジェクト」を足場にして、湘南団地に10年間通った。「湘南プロジェクト」は、団地住民もそのメンバーではあったが、団地の外からも、大学教員、日本語教師、小中高の教師、日本語教育や外国人支援に携わるボランティア、社会福祉協議会の職員、そして私のような学生などが多数参加した。「湘南プロジェクト」は、「外国人支援」という枠組みで、外部からは理解されていたし、参加者の多くはそのように自分たちを理解していた。外国人の多数集住する団地で発足したプロジェクトなので、自動的に、外国人を支援したり、外国人問題を解決するためのプロジェクトというイメージが先に来ると思う。</p>
<p><em>　</em>なぜ、このような歯切れの悪い言い方で、「湘南プロジェクト」を紹介するのかというと、「湘南プロジェクト」は、何がそこで起こっていたのか詳細に語ろうとすればするほど、一つの言葉ではまとめきれない動きだったからだ。「湘南プロジェクト」は、外国人支援という側面も持ってはいたが、支援しようとした者が逆に支えられる、さらに言うと、何かを教えられる、価値観を逆転させられるような場所としてあった。よく耳にするような「支援を通して、自分も学べることがたくさんあります」という綺麗ごとではなく、実際に、「こんなこともできないのか」と外国人に呆れられたり、「日本人はこれだからだめだ」と叱咤されることもあった。異国の地で言葉もわからない中、生活を作ってきた人々の経験に基づく知恵や生きる姿勢には、日本で親の庇護のもと学生である私などには、到底かなわない深さがあった。また、戦火を潜り抜け、全てを投げうって日本に逃れてきた人々の子どもたちは、平和への強い願いと生命をかけた親の愛情を深く理解しており、簡単には折れないたくましさを持っていた。そして、そのような外国人住民たちと、長年共に生きることを実践してきた、団地住民や団地自治会の人々。「かわいそうな外国人を助けてあげたい」という態度ににじみ出る傲慢さや他者への侮蔑を、誰よりも敏感に感じとる人々でもあった。表面上どんなに綺麗な言葉を並べていても、外国人を見下している人は、その蔑みが「目に出るから、すぐわかる」と言う。</p>
<p><em>　</em>湘南団地に限らず、団地というのはそもそも、時に騒音トラブルが傷害事件や殺人事件に発展するほどの、薄い壁、薄い床の建造物だ。ただでさえ隣近所と摩擦なく生活をしていくことが難しい居住空間で、言葉も文化も異なる外国人と鼻を突き合わせて暮らしてきたのが、湘南団地の住民たちだ。彼らは「助けてあげたい」という欺瞞や我欲を超え、ぶつかり合いを繰り返しながら徐々に獲得していった、深い共生の知恵を持っていた。「あいつらはガメツイ」と、外国人への偏見と敵意に満ちた発言をしながらも、外国人からの相談に昼夜問わず応じる人々でもあった。「現場たたき上げ」の、粗野であっても洞察に富んだ生活の知恵を、外からやってきたプロジェクト参加者たちは、じっくりと理解し、学ぶ必要があった。外国人住民や日本人住民といった国籍を問わず、このような団地住民たちの共生のあり方に出会い、魅力を感じ、理解し、共に時を過ごしたいと思った人々が、「湘南プロジェクト」に参加することになった。</p>
<p><em>　</em>だから「湘南プロジェクト」は、「外国人支援」とか「多文化共生」という一つの目標を立てて、その遂行に邁進するようなプロジェクトではなかった。外国人に関する「専門家」が外から団地にやってきて、団地の日本人と協力しながら「問題のある外国人」を支援し、問題を排除したり隠ぺいすることで理想郷をつくっていくというような計画とは、一線を画していた。いや、外側から見たら、「湘南プロジェクト」もそのような活動に見えるのかもしれない。しかし、「湘南プロジェクト」のプロセス一つ一つを丁寧にたどってみると、そこにかかわった人々の内面的な変容や価値観の転換が起こっていた。「問題のある外国人」を支援しようとすればするほど、それは我々の問題であったことに気づかされる。支援する側が、問題を抱える側にシフトするので、常に内省とともに動かねばならないという感覚。団地の中に日本語教室を一つ開設するにあたっても、「団地の外国人は言葉の問題を抱えていたので、日本語教師を雇って日本語教室を作って喜ばれました。これからも発展させてゆきましょう」という方向では動かなかった。</p>
<p><em>　</em>この手記の中盤で記す予定であるが、「湘南プロジェクト」も、湘南団地に日本語教室を開設した。公民館や地区センターなどのレベルで開かれる教室には珍しく、湘南団地の日本語教室には、プロの日本語教師が配属された。団地外国人からはとても評判がよく、人気の教師だった。しかし、この日本語教師は、間もなくプロジェクトからは「退出させられ」た。そして、沢山の外国人が勉強しにきていた日本語教室も、一時閉鎖となる。一体それはなぜだったのかについては、今後の手記の中で明らかにしてゆくつもりだが、外側からみると全く合理的ではないような選択を続けるプロセス自体が、湘南プロジェクトの目的であり内容であったと思う。今後この手記が進むにつれ、おそらく「湘南プロジェクト」でなければこの選択はしなかっただろうという「特異な決定」が、いくつも出てくると思う。そのような意思決定に至るプロセス、かかわった人々の動きや内面の変容を詳細に読んでもらえたら、「湘南プロジェクト」が何であったのかが、見えてくることと思う。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>２．生きた「吹き溜まり」</strong></p>
<p><em>　</em>現在はもう、かつて湘南団地に集っていた「湘南プロジェクト」のメンバーは、ほとんど団地に残っていない。多くの団地住民は転居してゆき、団地の外から通ってきていた人たちは他の土地で活動を行っていたり、また、亡くなった人もいる。もはや、この世で再び会うことは無いであろう人たちとの、湘南団地でのかかわり合い。そのかかわり合いは、強烈に今も私の中に印象づいているが、私が1年長く生き延びるたびに、その様相をごちゃつかせ、今も私の中で変容しつづけているように感じる。また、どうしても時間軸に沿って執筆するせいで、「湘南プロジェクト」が、企画遂行するという意味でのプロジェクトのようなリニアなものだと勘違いされるかもしれない。しかし、「湘南プロジェクト」は、決してリニアに進んでいったプロジェクトではなく、もっとごちゃごちゃしたものであった。このごちゃつきをそのまま書き残すのは至難の業だと思うが、執筆のための「止まり木」として、「湘南プロジェクト」の大まかなイメージを、述べておくことにする。</p>
<p><em>　</em>「湘南プロジェクト」のイメージは、一言でいえば「吹き溜まり」のようなイメージだ。それは、枯葉の吹き溜まりなのではなく、青々とした緑の葉が、大雨や風でやむなく落ちてしまい、吹き溜まりとなり、ところどころは水にぬれていたり、一部は腐ったりしてもいる。葉っぱは重なり合い、反発するものもあれば、空気など含んで落ち着いているものもあり、淀みながらもまだ「生きて」いる。団地にて、数多くの人が出会い、影響しあい、ぶつかり合い、かかわり合いを持った、そのイメージは、中心から波紋のように広がっていくような集団のイメージでは表現しきれない。中心がいくつもあり、その時々で、小集団が作られ次の瞬間には違う編成をしているような、大変、流動的で可変的な集団である。しかし、その動きは完全にバラバラなわけではなく、いつもどこかで重なりあっていて支えあい、一定のまとまりをもっていた。</p>
<p><em>　</em>生きた「吹き溜まり」というイメージのごとく、「湘南プロジェクト」は、一言では表現しきれない複数の顔を持った活動だ。それは、このプロジェクトが、一つの名前で呼ばれなかったことからも、読み取ることができるだろう。通常、何かの企画や計画は、たとえそれが愛称であったとしても、共通の名前を持っているものだ。しかし「湘南プロジェクト」は、それぞれの立場や意識、それぞれの想いから、プロジェクトをそれぞれの呼び名で呼ぶこととなった。大学や社会福祉協議会などに関係する公的な場では、「湘南プロジェクト」という総称を使っていたが、市外から湘南団地に通う者たちは、いつも「湘南」という地名で呼んでいた。一方、湘南団地に住んでいる自治会の人々や外国人たちは、「湘南プロジェクト」を「日本語教室」と呼ぶのだった。団地の日本語教室で働いた日本語教師たちは「湘南の日本語」と呼んでいたし、市内の行政の人たちやボランティアの人たちは「団地の外国人支援」とか「団地の日本語教室」と呼んでいた。外国人の若者や子どもたちは、単に「教室」とか「集会所」と言っていた。集会所とは、団地の自治会が管理する集会室のことで、「湘南プロジェクト」が活動の拠点にしていた場所である。日本語で表現するのが面倒だという外国人の住民たちは、いつも「あそこ」と、親指を横にしたポーズで団地の集会所を指差した。誰も同じ呼び名で呼んではいなかったが、一つの場所、一つの事柄をさしていた。しかし、一つの場所、事柄をさしたものであっても、異なった呼び名の通りに、その意味内容は少しずつ違っていた。そして、その呼び名が同一ではないことに、誰も違和を感じていなかったところが、このプロジェクトの特徴だった。</p>
<p><em>　</em>その呼び名一つとってみても、大いに混乱気味なプロジェクトではあったが、その生っぽさを殺さず、生きた「吹き溜まり」のイメージを念頭に、「湘南プロジェクト」のたどったプロセスを綴ってゆきたいと思う。アブラゼミの声と油の匂いも、時々雑音のように、思い起こしながら。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>［© Kanae Nakazato］</p>
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		<item>
		<title>第3回　アブラゼミと団地祭（3）</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/nakazato-kanae/1581/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 04 Nov 2022 02:12:29 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[中里佳苗]]></category>
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					<description><![CDATA[３．始まりのひとひら――「在住外国人生活支援活動研究委員会」 　1998年夏、彼は、2ピースのスーツ姿だった。ジリジリとアブラゼミが鳴く午後3時に、湘南団地の自治会長は、スーツ姿で会議室に座っていた。会議とは、先に紹介し&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/nakazato-kanae/1581/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第3回　アブラゼミと団地祭（3）</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><strong>３．始まりのひとひら――「在住外国人生活支援活動研究委員会」</strong></p>
<p><em>　</em>1998年夏、彼は、2ピースのスーツ姿だった。ジリジリとアブラゼミが鳴く午後3時に、湘南団地の自治会長は、スーツ姿で会議室に座っていた。会議とは、先に紹介した、湘南市社協主催の外国人支援に関する委員会のこと。県社協から市社協に主体が移動したのち、第1回「在住外国人生活支援活動研究委員会」が1998年7月13日に行われた。正確に言うと、「在住外国人生活支援活動研究委員会」は、県社協が主体で動いていた時期の1997年8月から持たれており、1998年7月13日の会議は通算で第6回となる。この1998年7月13日を境に、県社協の担当者は、事務局からオブザーバーへと役割を変えた。そのような経緯があるので、「第1回」とはいっても、集った委員たちはみな顔なじみである。</p>
<p><em>　</em>会議には、事務局の市社協の職員と座長の新原先生、湘南市の国際室や児童福祉課の職員、国際交流協会の職員とボランティア、小中学校の教諭、湘南保育園の園長、湘南地区の民生委員、主任児童委員、湘南団地の自治会長、事務局長、団地の住民（外国人代表）、アドバイザーとして神奈川県内各地で外国人支援をしているボランティア、そしてオブザーバーの県社協の職員と学生が集った。会議に集う人々のドレスコードはなく、男性はポロシャツやYシャツにパンツスタイルが主だったが、ジーンズにTシャツという人もいた。女性は、涼しげなカットソーの人もいれば、エスニック柄のスカートにラフなシャツといった出で立ちの人も多かった。そんな中、2ピースのスーツ姿で座っている湘南団地の自治会長は、明らかに、浮いていた。そんな光景が、「湘南プロジェクト」の始まりのひとひらとして、私の中に記憶されている。</p>
<p><em>　</em>私はその当時、大学生だった。縁あって新原ゼミナールに所属することになり、先生からの誘いを受け、この第1回「在住外国人生活支援活動研究委員会」にオブザーバー参加した。委員会についての主だった情報も、またその先の計画も聞かされないまま、突然その場所に行った。当時、大学院生であった学生にも、数名声がかけられていた。院生にはもっと詳しいことが事前に話されていたのかもしれないけれど、私は「外国人支援の会議に行く」ことしか知らされていなかった。今思えば、下調べくらいはすべきだったが。しかし、「外国人の支援をする人々は皆、国際意識の高い人々であり、勉強になるに違いない」、そのような予感と先々の可能性に、とてもワクワクしていたのを覚えている。</p>
<p><em>　</em>委員会の会場は、市社協の福祉会館にある会議室だった。市社協の担当者がワゴン車で、新原先生と学生らを、最寄り駅まで迎えにきてくれた。出迎えてくれたのは、委員会の事務局を務める国武さんだ。国武さんは、40代半ばくらいの男性で、笑顔が優しく、メガネをかけていた。優しい表情とは裏腹に、いわゆる「はげ頭」とは異なり、明らかに毎日剃っているようなスキンヘッドでもあったので、第一印象は謎の人であった。後に、歴史のあるお寺の住職さんであることが分かり、ホッとした。</p>
<p><em>　</em>会議室につくと、側面は大き目の窓であり、とても明るかった。明るい会議室に入り、綺麗に並べられた各委員の名札と500ｍlのお茶をみると、緊張から少し胸が高鳴った。会議なので、コの字型かなと思っていたが、座長である新原先生とアドバイザーとして参加している委員、そして社協職員が前に座り、他の委員たちと対面する形のスクール型だった。私のようなオブザーバーには、座長たちの席の横、入り口付近の席が用意されていた。今考えると、委員の表情など全体が見える位置であったことはありがたいことだが、何もわからない学生が、委員たちに対面して座ることには、少なからず居心地の悪さを覚えた。どのような顔をしてその場にいればいいのかわからず、席に着くなり、メモ用のノートとペンを準備するふりをして下を向いたことを覚えている。</p>
<p><em>　</em>ただ、このような居心地の悪さは、私だけではなく、その場を支配していたようにも感じた。会議の始まる前の数分間、新原先生と国武さんらは小声で打ち合わせなどをしていたが、他の委員たちは、ほとんど雑談をすることもなく、会議の開始を待っていた。委員たちはみな、顔なじみであるはずなのに、全員が静かに前を向いて座っている。明るい会議室が、静まり返っている。なんとなく、その雰囲気は異様で、緊張感が漂っていた。おずおずと顔を上げて、委員たちを眺めると、小・中学校の先生や市役所の職員は40代、50代に見えたが、他の委員は、還暦あたりの年齢かもう少し上かなと感じた。</p>
<p><em>　</em>定刻になると、市社協の国武さんが、司会として口を開いた。各委員の自己紹介から始まる。当時は気づけなかったが、昨年から通算6回も会議が持たれているのに、わざわざ自己紹介とは不思議な流れだ。資料を見返すと、この日は、県社協の前任者と後任の職員が来ており、担当の交代の挨拶と、今後の県社協の計画などが、冒頭で話されていた。自己紹介は、県の担当者に向けてのものであった。市社協での会議とはいえ、あくまでも、県社協の事業計画の一端であることがうかがえる。ただ、この後「湘南プロジェクト」の主軸は市社協となり、中でも、この時の事務局であった国武さんが、2022年現在まで20年以上も「湘南プロジェクト」の背骨の役割を果たしていくのだが、このことはまた後に書きたい。</p>
<p><em>　</em>自己紹介が終わると、座長である新原先生が、「今後の進め方」として話を始めた。</p>
<p>「この委員会の昨年度の最後に出てきたことですが、とりわけ子どもの問題に焦点を当てようという視点が見えてきました。それに伴い、今年度は、子どもの育っていく過程、プロセスから問題を考えていきたいと思います。湘南市の特徴として、湘南団地で子どもが生まれ育っていき、湘南保育園、湘南小学校、湘南中学校へと進んでいきます。子どもが育っていく過程で、それぞれの場所での取り組みがあります。この湘南団地という場所を中心に、学校・地域・職場など、それぞれの場所での話を聞いていく。またそれをまとめ、湘南団地以外の地域にも成果として伝えていければと思います。今日、大学院生を連れてきましたのは、聞き取り調査などの調査を行う時に活躍してもらおうと考えたからです」</p>
<p><em>　</em>これを聞き、学生である自分がここに連れてこられた理由が分かり、のっけから、とても驚いた。湘南市の湘南団地という地区で、これから、外国人に関する調査を行うようだ。自分もその調査に参加できるかもしれないと思うと、とてもドキドキした。とはいえ、その後10年も団地に通うことになるとは、想像すらしなかったが。</p>
<p><em>　</em>すると、団地の自治会長が立ち上がった。清水会長といい、少し猫背ではあるが、長身ですらっとした初老の男性である。会場の中で一人スーツ姿だったので、とても印象に残っている。</p>
<p>「調査を行うとなると、どのような調査を行うかが大きな問題となります。外国人を対象にして調査しようということだと思います。しかし、その人たちを調査して、何かの手を差し伸べてあげるといった状況から、現在は、ちょっと進んだのではないでしょうか？　少なくとも、生活の基盤といったところでは、そのように感じます」</p>
<p><em>　</em>湘南団地を中心に調査をするという計画が話されたとたん、団地住民である自治会長からは疑問の声があがった。そして、清水会長は続ける。</p>
<p>「言葉の問題がこの委員会でもとりあげられていますが、団地では、今年度から、団地の取り決めなどについての文書の翻訳をやめました。去年までは、4か国語に翻訳していましたが、今年からはフリガナをふる形にかえました。というのも、新しく入ってくる外国人は、多くて月に5～6家族くらいで、流入のピークは過ぎたと思うからです。それで、あえて文書も翻訳しないということにしたのです。多くの外国人住民が、生活の基盤を作れているように思います」</p>
<p><em>　</em>この言葉に反応し、湘南団地が学区である湘南中学校の教員、保育園の園長らが口をそろえて訴えた。</p>
<p>「私の学校の子どもたちが、学校に持ってくるものの中に、公的文書があります。例えば、税の払い方とか保険料の払い方といったものですが、親がわからないので、学校に持ってきて相談するケースが多発しています。また、病院に通訳としてつれて行くので、子どもの学校を休ませる親も多いです。親は普段の生活はできるものの、それ以上については対応できないのが現状です」</p>
<p>「そういったことは保育園でも同じです。小学校へ入学する手続きに、母親と一緒に学校へ行き、名前や住所など、書けない部分を手伝うようにしています。日本語は流暢に話せても、もらってきた文書が重要なのかどうか判断できず、捨ててしまう親もいます。フリガナがふってあって、仮に読めたとしても、意味がわからないということも多々あるようです」</p>
<p><em>　</em>さらに、湘南団地に住む「当事者」として参加していた西田さんが口を開いた。西田さんは、30代後半のカンボジア人男性だ。難民として日本に移住した。</p>
<p>「私もそうなのですが、会社で働きながら、役所や保育園、駐車場のことなどのいろいろな文書を書いたりするのは大変です。どういう書き方、読み方をすればよいのかを、少しずつ覚えました。今では皆に教えていますが、会話だったら「どこへ行きますか」といったもので十分ですが、文書はそうはいきません」</p>
<p><em>　</em>日本では、西田さんのようなインドシナ難民が各地域での暮らしを始める際、定住促進センターという施設を経由することになっている。難民の人々は全員、このセンターで、3か月間150時間の日本語教育を受けることが義務付けられていた。定住促進センターとは、アジア福祉教育財団の難民事業本部が国からの委託により行った事業で、来日直後の衣食住を保証し、定住に向けての準備を行う施設である。日本語教育の他、職業訓練や就労斡旋などが行われた。1979年の国際人権規約批准と1981年の難民条約加入を背景に、1979年に兵庫県姫路市と1980年に神奈川県大和市に定住促進センターが開所され、1995年にその役割を終えた。神奈川県に住む難民は、大和市のセンターを経由してきた人々が多い。西田さんもその一人であった。</p>
<p><em>　</em>ただ、西田さんによると、定住促進センターでの日本語学習では到底足りず、センターを出てからも、ボランティアに日本語の学習をサポートしてもらったという。当時、湘南団地の近くでは、団地から歩いて10分程度の公民館で、ボランティアによる日本語教室が行われていたし、駅前や市役所の付近でも教室が開かれていた。西田さんのようなインドシナ難民だけでなく、このようなボランティアの日本語教室を利用していた外国人は多い。とはいえ、基本的に言葉の習得は、外国人たちの自主性に任されてもいた。西田さんは、仕事をしながら遊ぶ時間も惜しんで日本語を勉強し、大変難しい「プラスチック成形技能士」資格の1級を取得したり、会社でのプロジェクトチームの班長を任されるなど、大変な努力家だった。</p>
<p><em>　</em>しかし、多くの人々は、慣れない土地での就労や生活に追われ、日本語の学習にかける余力が残っていなかった。言葉の習得によって多くの課題が解決できることもわかってはいるが、西田さんのように個人的な努力で困難を乗り越えてきたケースは稀であった。会議に参加していたどの委員もみな、このような外国人の現状を知っていた。そのため、清水会長の「生活の基盤は作られた」という発言に対して、未だに解決はしていない「文書に関する問題」の事例をあげながら、委員たちはやんわりと反証を行ったのだ。しかし、清水会長は、大きな声でぴしゃりと言い切る。</p>
<p>「父親の世代で、日本語を覚えようとしない方々は、今後も覚えようとはしません。覚えたくないといった方が多いようです。日本の生活に慣れ、隣人とあえて話さなくても生活ができるようになった。会社に行って収入が得られ、買い物さえできればよくなってきてしまいました。日本の生活に慣れ、トラブルが少なくなるなどよくなってきた反面、そのような弊害が生じてきています。だから、調査を行うにしても、いずれ世代交代をしていくという長い目でみて、子どもの現状に限ってやる形の方がよいと思います」</p>
<p><em>　</em>言葉はとても丁寧ではあったが、外国人に対する厳しさがあり、語尾に憤りが漂っていた。そのような言い方を受けて、他の委員たちは皆、口を閉じてしまった。すかさず、新原座長が話をまとめて、今後の調査の原案をさらりと述べると、少しホッとした空気が流れた。だが、最後に、清水会長がこのように会議をしめたのだった。</p>
<p>「湘南団地は生活の場であり、外国人のことも、湘南の人民として扱ってほしいです。調査をするとしても、興味本位や、助けなければという発想はやめていただきたい」</p>
<p><em>　</em>何が起こったのか、正直、学生の私には理解ができなかった。清水会長の言葉で、場の空気が一瞬ピリッとし、気まずい雰囲気が漂った。私は居心地の悪さを感じながらも、今日の会議で立ち上がって話をしていたのは、湘南団地の清水会長だけだったなと、ボンヤリと思った。また、委員の中で少々「浮いて」しまうほど、服装に気合が入っていたのも、清水会長だった。私には、清水会長が、最も熱心にこの委員会に参加しているように思えた。そのような人が、なぜ、終始どこか苛立っており、場を気まずい雰囲気にさせていたのか、私には理解ができなかった。ただ、会議が始まる前、顔なじみであるはずの委員たちが、ほとんど雑談などはせずにシンとしていた理由だけは、なんとなく想像ができたのだった。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>４．理想と、最低限の手段と</strong></p>
<p><em>　</em>最初の会議で感じた、いたたまれない感覚がまだ残る中、清水会長や他の委員のこれまでの様子が知りたくて、社協の事務局が作成していた会議記録を読んだ。記録からは、清水会長を含む団地の自治会に関わっている委員たちと、その他の委員のやりとりが、いつも対立しているような印象を受けた。中でも特に、日本語を外国人に教えるボランティアをしている小野寺さんと、団地自治会の人々とのやりとりが、印象的だった。小野寺さんは、いつもエスニック調のスカートに色鮮やかなスカーフなどを巻いていて、華やかな印象の女性である。彼女は当時、駅前にある市民活動センターにて、ボランティアによる日本語教室を運営していた。この教室に集う人々は、ボランティアといっても、湘南市が主催する「日本語教育ボランティア養成講座」などで教授法に関するトレーニングを受けており、中には独学で「日本語教育能力検定試験」に合格したという勉強熱心な人もいた。海外への興味関心が強く、国際化ということへの意識を常に持っている人々だったと思う。小野寺さんは、その中でも代表的なポジションにいる人だった。以下は、私が委員会にオブザーバー参加する1年前、1997年9月18日に行われた第2回委員会の記録である。</p>
<p><em>　</em>話の発端は、他市にて、外国人へのサポートを行っている委員からの事例報告だった。地域に住んでいる外国人の子どもを対象としたお祭りや母語教室を開くことにより、外国人の親同士のネットワークができ、子どもの将来について一緒に考えていくきっかけとなっているという内容であった。それに関して、小野寺委員が発言する。</p>
<p>「湘南市でもブラジルの方たちはけっこう交流があります。レストランアモーレの主催で、3か月ほど前、100人以上集まり、医療問題についての相談会を行っています。それから、つい先日、ブラジル領事館の方が出張してきて、商工会議所で120人以上の人たちの相談にのっていました。ブラジルの人たちは絶対数が多いので、ネットワークが見えます。しかし、小数の在住外国人の人たちがネットワークを作っているという話はあまり聞きません。日本語教室にいらっしゃる方たちは口コミで次々きており、それなりのネットワークはあるようですが」</p>
<p><em>　</em>ちなみに、神奈川県国際課の『外国人登録者市（区）町村別主要国籍別人員調査表』を参照すると、1997年の湘南市の外国籍登録者は約3500人で、出身国でみるとブラジルが1200人で最も多く、韓国・中国・フィリピンに次いで、ペルーが200人程度。南米出身者が多いことが分かるが、カンボジアも約200人、ベトナム80人とインドシナ難民も比較的多く暮らしていた。ラオス人については、1997年のデータは無いが、1998年には約170人となっている。湘南団地が学区である中学の教員は、次のように続ける。</p>
<p>「カンボジアやラオス国籍の子は、学校からネットワークにつながっていったわけではなく、地域の集まりに入っていってネットワークができたようです。ただ、一定以上は大きくならないようで、地域にポツンポツンとネットワークがあるようです。単に、沢山住んでいるから、横のつながりがしっかりしているというものではないようです。ただ、ブラジルは旅行社もきちんとあって、旅行社主催でブラジルの人だけ集めて、行楽に行ったりしています。以前はペルーもありましたが、最近は活動がとまっています」</p>
<p><em>　</em>このような地域の状況の報告が行われた後、清水会長が、団地の様子と自治会の考えを伝える。</p>
<p>「団地周辺の地域では、同じ国々の方たちの集まりはある程度あります。国の文化、例えばお正月をやるとか、スポーツ大会をやるとか、私たち自治会が協力したこともあります。しかし、地域の生活にもなじんでもらわないといけないので、あまり向こうの文化に埋没させるわけにもいかないわけです。日本の生活になじんでもらうためには、早く向こうのことを切り捨ててほしい。習慣だろうとなんだろうと切り捨てて、こちらサイドへ向かってほしいという願望の方が、地域の住民の中では強いのです。昨年までは、ラオス・カンボジアという個々の集団で行事を持っていましたが、今年から少し方向をかえなければという声があがっています。というのは、ベトナムを中心として背中合わせの状態が続いているからです。在日のベトナム人は、ラオスやカンボジアの人たちをいじめてきた人たちと思われている。ベトナムは内戦など、トラブルの中心だったからです。ベトナムでトラブルがあったから、自分たちはここに来たのだという考え方から抜け出せない、ラオスやカンボジアの人たちがいます。しかし、実際には、ベトナム難民には反体制の方々の方が多いのだから、もうそろそろ水に流して同じテーブルについてくださいというのが、去年の終わりごろから私たちが少しずつ取り組んでいるものです。また、あまりに個別に外国人を集めた行事をやることによって、日本人との交流にかえって隔たりがでてきたのもあります」</p>
<p><em>　</em>これを受けて、小野寺委員は、日本文化や習慣に適応することが、出身国の文化を捨てて日本に同化することと同じではないと反論した。おそらく、はっきりと物を言う小野寺委員のことだ、口調も少し強めだったのではないかと想像する。</p>
<p>「国際人になる、あるいは湘南が国際都市になっていくためには、外国の人たちに『文化を捨てなさい』ということは前提にないわけです。生まれた国の文化、あるいは言葉を大切にしながら日本社会に溶け込んでほしいという姿勢で取り組んでいただきたいと思います」</p>
<p><em>　</em>そして、清水会長と小野寺委員のやりとりが続く。</p>
<p>「私は九州からきたのですが、湘南では私の方言を笑われました」</p>
<p><em>　</em>と、清水会長。</p>
<p>「その時、笑わない人たちをつくっていくのが国際化で、そのようになっていくステップが大切ではないでしょうか」</p>
<p><em>　</em>すると、清水会長が、団地という生活の場のひっ迫感を伝える。</p>
<p>「それはあまりに理想論です。明日、明後日の生活の中で、どう溶け込ませて、どう生活してくのかという問題とはちょっとずれがあるように思います。『あなたの国や文化を忘れないでください、いつまでも持っていてください』というよりも、あまり過去を引きずらないでほしいと思います」</p>
<p><em>　</em>それでも引かない、小野寺さん。</p>
<p>「こちらが、今の生活の中で、仲良く楽しく喧嘩もないようにコミュニティを作っていきましょうねという時に、『あなたの文化を忘れてはいけませんよ』とこちらからいう必要はありません。生活の場であっても同じことです」</p>
<p><em>　</em>このやりとりを読み、どちらかというと、清水会長よりも小野寺委員の主張の方が、その頃の私には「正しい」ように思えた。当時はグローバリゼーションについての議論が盛んに行われ、「国際化とは同化政策ではない」という主義主張なども、新聞や雑誌などでよく目にしたものだった。そのような時代の風潮とは真逆のことを、清水会長は言っているように思えたのだ。小野寺さんの主張に加勢するように、他の委員も、他地域での試みをあげつつ、清水会長をやんわりと牽制するのだった。</p>
<p>「横浜区（仮名）の地域振興課から財源を出してもらい、『琉球文化のつどい』をやりました。横浜区民が地域に住んでいる沖縄人たちのことを全然知らず、どういう苦労をして生活をしていたかも知らなかったため、横浜区民に沖縄の人たちの想いや文化を知ってもらおうということで開催したものです。その次の年が『コリア文化のつどい』です。在日韓国朝鮮人の人たちが横浜区で生きてきたことを学ぼうというものです。そして、今年が『中国文化のつどい』です。ニューカマーの中国人が横浜区だけでも800人ほどおります。横浜区では25人に1人が外国人という地域なので、外国人の想いを学ぼうということです。その結果、地域に住んでいる人たちのことについて、理解できるようになりました」</p>
<p><em>　</em>それでも、清水会長は、同じ主張を繰り返していた。</p>
<p>「このようなイベントを行ったことにより、それなりに、来日した人たちの安ど感を生むのに役立ったかもしれないけれど、もうそれだけではだめです。私たちが北海道から来た人に対して、文化を忘れなさいといわなくてもなじんでいきます。そのような感覚を、在住外国人の人たちにも持ってもらいたいのです」</p>
<p><em>　</em>続けて、湘南団地の民生委員である播戸さんが、発言をした。播戸さんは、当時まだ仕事をしていたから、引退前くらいの年齢で、小柄だが体格のいい男性である。清水会長と同じく、団地が完成して間もなく湘南団地にやってきた。神戸出身、ガラガラ声で関西弁を話す。標準語でも、関西なまりがあった。指が一本無かったが、食品関係の職場で失ったと聞いた覚えがある。</p>
<p>「湘南団地は大きく分けて4つくらいの民族がおります。ラオス、カンボジア、ベトナム、中国です。例えば、昔からいた中国の人は、中国人で集まるエリアがあるのです。それに対して、ベトナム人たちが入ってきたのは最近で、彼らも集まりますが、同じ民族同士でも、出身地等でトラブルがあるわけです。なので、清水会長のやっていることは、最高の方法ではなく、最低限の手段なわけです」</p>
<p><em>　</em>この播戸さんの「清水会長のやっていることは、最高の方法ではなく、最低限の手段なわけです」という発言を読んだとき、私ははっとした。播戸さんの「最低限の手段」という言葉が、なぜか、棘のように記憶に刺さった。清水会長よりも、小野寺委員らの考えの方が「正しい」ように思っていた私に、どこか釈然としない感覚が残った。「最低限の手段」をとらねばならない理由やその状況を、当時の私にはほとんど想像できなかったが、こうした記録を読み、ますます、清水会長や播戸さんといった団地の人々に興味をもったことは覚えている。</p>
<p><em>　</em>後日、新原先生から「次の委員会にも来ますか？」とたずねられた。オブザーバー参加は強制ではなく、学生たちの自由参加だった。一緒に参加した院生たちも、残った人と残らなかった人がいた。私は迷うことなく、「お願いします」と答えていたのだった。</p>
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<p>［© Kanae Nakazato］</p>
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			</item>
		<item>
		<title>第4回　「ごちゃごちゃ言ってもしかたない」と「あきらめるな」のあいだ（1）</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/nakazato-kanae/1711/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 03 Feb 2023 00:19:52 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[中里佳苗]]></category>
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					<description><![CDATA[１．「行政」よ、団地に来い 　神奈川県湘南団地を足場に発足した「湘南プロジェクト」は、団地住民と外からやってきた有志が協力して作ったプロジェクトである。「協力して作った」と聞くと、柔和な協力関係をイメージする人も多いと思&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/nakazato-kanae/1711/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第4回　「ごちゃごちゃ言ってもしかたない」と「あきらめるな」のあいだ（1）</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><strong>１．「行政」よ、団地に来い</strong></p>
<p><em>　</em>神奈川県湘南団地を足場に発足した「湘南プロジェクト」は、団地住民と外からやってきた有志が協力して作ったプロジェクトである。「協力して作った」と聞くと、柔和な協力関係をイメージする人も多いと思うが、このプロジェクトは、異質な者同士の対立関係から出発している。その第一歩目は、団地住民らが、外の人々を「半ば強引に呼び込んだ」という記憶として、私の中に残っている。</p>
<p><em>　</em>1998年8月20日、第2回「在住外国人生活支援活動研究委員会」が開かれた。この委員会は「湘南プロジェクト」発足の契機となった委員会である（連載第3回参照）。この日の会議にも、外国人が集住する湘南団地から清水自治会長と民生委員の播戸さん、湘南市役所の職員や日本語教育のボランティアをしている小野寺さん、保育園や小・中学校の教員といった委員が12名集った。会場は、前回と同じ、湘南市社会福祉協議会（以下、社協）の会議室だった。</p>
<p><em>　</em>委員会の座長である新原先生が、前回の会議の続きとして、湘南団地を足場とした社会学的調査の構想を話した。オブザーバー参加していた私は、「今日の会議は調査の話などがメインになるのかな」と考えていた。しかし、小野寺さんの何気ない近況報告をきっかけに、話は思わぬ方向へ展開していく。</p>
<p><em>　</em>「国際交流協会や市の国際課の方でも、外国人相談窓口を作るためにはどうすればよいのかといった話をしている段階で、具体化に向けて一歩進んでおります」</p>
<p><em>　</em>この発言を、今見返してみても、取り立てて喰いつく要素は何も無い。ところが、これに間髪入れずに反応した人物がいた。湘南団地の自治会長、清水会長である。この日も、真夏の暑い中、かっちりしたジャケットを着て、声を張っていた。</p>
<p><em>　</em>「この委員会が発足してから2年経っておりますが、専門的な分野ごとの検討がなされておらず、総括的な話し合いにとどまっています。情報交換としての委員会は、もう限界であり、いらないのではないでしょうか。それよりも、専門的な立場から湘南団地に入ってきてほしいと思います。とにかく場所を作り、実際にその中に入ってもらえればと思います。行政側が月に1回、週に1回でもよいから相談場所をもうけ、積極的に中に入ってきてほしいと思います。行政の中でやらなければならない問題、住居の問題、手続きの問題、教育の問題など専門的な対応が必要です。総合的に解決しようとするのではなく、時には踏み込んでいって問題を解決することが必要ではないでしょうか。</p>
<p><em>　</em>生活の中での交流は、基盤ができています。あとは私どもができない、隣近所ができない、専門的な問題が残されています。なるべく早く、各国の代表、自治会の皆さんと話し合いをしていただき、その中から問題点を拾い上げ、踏み込んで解決を図ってほしいと考えています」</p>
<p><em>　</em>清水会長は、どこか苛立った様相で「行政」という言葉を連呼していた。その場が一瞬で、ピリピリした空気に変わった。「行政」が相談窓口をつくるというのなら、話し合いなどしていないで、一刻も早く湘南団地に入って相談場所を作るべきだという主張だ。「『行政』よ、団地に来い」ということである。</p>
<p><em>　</em>ここでの「行政」とは、狭義には、湘南市の国際室を指していた。この日はあいにく、国際室の職員は欠席していたため、「行政ボランティア」の小野寺さんが窓口の役割となっていた。「行政ボランティア」とは、「半官半民」で運営されているボランティア組織やそのメンバーを表現した造語である。小野寺さんは、湘南市の国際室が財政的な母体となっている国際交流協会を拠点に活動しており、典型的な「行政ボランティア」だった。</p>
<p><em>　</em>また、広義の「行政」として、この委員会を主催している県社協や市社協、そして社協の関りの中で今ここに集っている委員たち全員を指していたということも、学生の私でも感じ取れた。社会福祉協議会は本来、社会福祉法人で民間団体なのだが、その財源に税金が当てられていることから「行政」と認識している人も多いだろう。</p>
<p><em>　</em>清水会長の発言を受けて、隣の市で外国人支援をしているアドバイザー委員が、やんわりと、このように返した。</p>
<p><em>　</em>「本来は自分の住んでいるところで問題が解決できるのが望ましいことですが、専門的な問題については必ずしも近隣地域で相談にのる必要はないのではないかと思います。逆に近隣地域にあれば、相談に行きにくくなる場合もあります」</p>
<p><em>　</em>相談窓口を、湘南団地に直接つくることは、慎重に検討した方がよいという意見だった。しかし、清水会長は、主張をとめない。</p>
<p><em>　</em>「そうはいっても、行政の書類を子どもを通じて、小中学校の先生に相談している現状を忘れてはいけません。まず、在住外国人にある具体的な問題を知ることが大切です」</p>
<p><em>　</em>小野寺さんが口を開き、より現実的な方向で、話をまとめようとする。</p>
<p><em>　</em>「決して湘南団地の中に相談窓口をつくろうということを、否定するものではありません。まず第一歩として、国際交流協会で相談窓口をつくろうとしています。地元で相談窓口を開設すれば、全て解決できるかというと、そうはいかないでしょう。深刻な問題はなるべく誰も知らないところへ行ってそっと解決したいというのが人情です。とりあえず、距離をおいた国際交流協会から相談窓口をつくるというのはどうでしょうか」</p>
<p><em>　</em>それでも、清水会長は食い下がった。</p>
<p><em>　</em>「ただし、湘南は特別なところです。1000世帯の内、155世帯が外国籍という地域です。行政側としてもそれなりの対応をお願いしたいと思います。相談窓口を作る際、ぜひそこに住んでいる人達とも話し合いをしていただきたいと思います」</p>
<p><em>　</em>団地の中に「行政」が入っていくことを要望する清水会長に対し、湘南団地の学区である中学校の先生が以下のような提案をした。</p>
<p><em>　</em>「行政が湘南団地に入るときは、まず楽しいことから入るといいと思います。悩みごとや相談などから入ると、『あれやれ、これやれ』というものがどうしても多くなります。最初に、団地祭などから入っていけば、ある程度コンタクトが持てると思います。そして社協は、行政と住民の両者のクッションとしての役割になるといいと思います」</p>
<p><em>　</em>中学の教員も、アドバイザー委員も、小野寺さんも、言葉は違っても、実質的には同じことを話していた。要するに、「行政」が、限定された1つの地域に出向き、課題解決に向けて直接介入するのは「いかがなものか」ということだ。「行政」は、問題を抱える当事者と「適切な距離」を保ちながら、事業を行っていくのが望ましいという考え方である。清水会長は、そのような考え方に真っ向から対立し、団地住民の現状を訴え続けた。</p>
<p><em>　</em>「情報というのは、ふところに入れば集まりやすいものです。私よりも、困りごとを一件、一件尋ね歩いている『国際部』の方々の方が、より良い情報が集まるでしょう」</p>
<p><em>　</em>「一件、一件尋ね歩いて」という言葉は、「適切な距離」を保とうとする姿勢に対しての、辛辣な批判だろう。清水会長の言う「国際部」とは、湘南団地の自治会組織の1つである。外国人の流入が激しくなってきた10年前に創設され、言葉や生活習慣の違いに対応してきた。各国から1～2名ずつ「外国人のリーダー」が選出され、現在11名が「国際部」として活動をしている。このような「国際部」への接触を、横内地区民生委員の播戸さんも、語尾を強くして求めるのだった。</p>
<p><em>　</em>「湘南団地は、まだまだ貧しい家が多いのが現状です。楽しい交流は、それはそれであっても良いと思いますが、それよりも大切なものがあるかと思います。まず、11人の『国際部』の方々に、困っていることなどを聞いてほしいと思います」</p>
<p><em>　</em>私は、このような団地の人々の発言を聞きながら「なんて強引なんだろう」と感じていた。他の委員たちは皆、口を揃えて「行政」の直接的な介入をNGと言っているのに、団地自治会長や民生委員は、なにがなんでも「行政」を団地に呼び込もうと息巻いている。その意気込みに、一種の執着と頑なな強引さを感じていた。頑なな姿勢の背後にある、団地の人々のおかれている状況に対し、当時の私は、あまりにも無知であった。</p>
<p><em>　</em>「『行政』よ、団地へ来い」という団地自治会長らの強要に対し、どのような結論が出されるのかと、私は息をのんで様子をうかがっていた。最後に新原先生が、とても冷静な口調でその場を締めた。</p>
<p><em>　</em>「お話を総括しますと、清水会長のおっしゃるように、この委員会の『出張委員会』といった形で、11人の『国際部』のリーダーさんとお会いしたいと思います」</p>
<p><em>　</em>私は唖然とした。その場に集ったほとんどの委員が、「行政」が団地に直接入っていくことへの反対意見を述べていたというのに、結論は、拍子抜けするほど、あっさりと真逆になった。これまで団地サイドの意見に対立していた委員たちも、「『出張委員会』をするにしても、最初は新原先生だけで訪問してほしい」という反応にとどまり、反対する者はいなかった。</p>
<p><em>　</em>もとより、この市社協の委員会では、外国人を対象としたヒアリング調査を行うために、湘南団地へ長期的にかかわっていくという方向性が話されていた（連載第3回参照）。そのため、「いずれ」湘南団地を赴くことになると、委員の誰もが承知していたとは思う。しかし、それが「いずれ」ではなく、急遽「今」となり、さらに、こんな風に団地の人たちの強引な要求に応える形で、というのは想定外だったのではないだろうか。</p>
<p><em>　</em>新原先生の「今」という判断は、決して団地の人々の押しに負けたからではなく、県社協と外国人支援の事業を始めた1996年からの積み重ねによる英断だったのだろうが、当時の私には、団地の自治会の人々が外から人を「半ば強引に呼び込んだ」という記憶となった。</p>
<p><em>　</em>新原先生の返答を受け、清水会長が、今まで見たことのない安堵に近い表情で、このように述べた。</p>
<p><em>　</em>「今まで団地の『国際部』は、他の防災部などの部と違って、行政と結びついていませんでした。行政側がからんでくるとなると非常に国際部長も喜ぶことと思います」</p>
<p><em>　</em>団地に行くのは「行政」ではないのにな、と私は心の中でつぶやいた。</p>
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<p>［© Kanae Nakazato］</p>
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		<item>
		<title>第5回　「ごちゃごちゃ言ってもしかたない」と「あきらめるな」のあいだ（2）</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/nakazato-kanae/1713/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 03 Feb 2023 00:20:05 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[中里佳苗]]></category>
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					<description><![CDATA[２．「県」や「市」、湘南団地へ 　「『行政』よ、団地へ来い」という呼びかけに応え、委員会は「出張委員会」という形で、湘南団地を訪問することとなる。1998年9月14日、団地における「現地打ち合わせ会」が行われた。メンバー&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/nakazato-kanae/1713/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第5回　「ごちゃごちゃ言ってもしかたない」と「あきらめるな」のあいだ（2）</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><strong>２．「県」や「市」、湘南団地へ</strong></p>
<p><em>　</em>「『行政』よ、団地へ来い」という呼びかけに応え、委員会は「出張委員会」という形で、湘南団地を訪問することとなる。1998年9月14日、団地における「現地打ち合わせ会」が行われた。メンバーは、湘南市社協職員、新原先生、アドバイザー委員1名、大学院生1名と私の5名。少人数での訪問となった。</p>
<p><em>　</em>団地住民たちとの「打ち合わせ会」は、月曜日の19時から予定されていた。市社協の国武さんが、車で駅まで迎えにきてくれる。ワゴン車にゆられ、約20分ほどのところに湘南団地はあった。18時半すぎに到着したのだが、まだ外は少し明るかった。小さな商店やスナック、郵便局などが並んでいる団地のメインストリートを、皆でゆっくりと散策した。八百屋に立ち寄ると、ズッキーニや日本では珍しい野菜がおかれている。八百屋の隣には、タイ料理のテイクアウトの店や昔ながらの和風スナック、少し奥まったところにはベトナム人が経営する食材店があった。その隣には駄菓子屋、そして、洋服や海外の缶詰などをおいている雑貨店が見えた。新原先生は「こうした生活の中に色々な文化がある」と話していて、珍しい食材など購入していた。</p>
<p><em>　</em>「現地打ち合わせ会」の開始時間が近づくと、社協の国武さんに誘導され、湘南団地の自治会集会所に向かう。もともとあった集会所はちょうど改装中ということで、メインストリートから少し外れた公園に、プレハブの仮設集会所が設けられていた。30畳くらいのホールと、12畳くらいの和室、8畳程度の清潔なキッチンと、自治会事務所が備わっている。プレハブ造りといっても、とても新しく綺麗な内装であった。</p>
<p><em>　</em>自治会長の清水さんや民生委員の播戸さんが出迎えてくれ、和室に通される。横内地区の児童福祉委員をしている女性が、急須でお茶を入れてくれる。しばらくすると、ガテン系の作業服を着た小柄な男性がやってきて、「国際部長です。4年目になります」と挨拶をした。歳は50代半ばくらいに見えた。名前を、上野さんという。上野さんによると、「国際部」の「外国人のリーダー」たちも参加するとのことだった。しばらく待っていると、仕事帰りの外国人たちが、徐々に和室に集まってきた。この日は、訪問者を含め18名が一堂に会した。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-1718" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/02/第１回「現地打ち合わせ会」の席順.png" alt="" width="1663" height="719" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/02/第１回「現地打ち合わせ会」の席順.png 1663w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/02/第１回「現地打ち合わせ会」の席順-300x130.png 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/02/第１回「現地打ち合わせ会」の席順-1024x443.png 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/02/第１回「現地打ち合わせ会」の席順-768x332.png 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/02/第１回「現地打ち合わせ会」の席順-1536x664.png 1536w" sizes="(max-width: 1663px) 100vw, 1663px" /></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>始まりは、こうだった。</p>
<p><em>　</em>「『外国人のリーダー』にいろいろと協力を要請してきたが、日本人は未だに外国人に対して不満を持っています。外国人を日本人同様に扱いたいと思ってやってきたが、コミュニケーションがうまくゆかないこともあって、外国の人は日本では遠慮しちゃうところもある。なかなか理想通りには進まない。こういう状況に対して、今日は、県と市がどう考えているのか、態度や意見を聞きたい」</p>
<p><em>　</em>私は、一瞬、あっけにとられた。国際部長の上野さんが唐突に、「県」や「市」の代表として何か発言せよ、と迫ってきたのだ。声をあらげてはいなかったが、どことなく早口で、語尾に怒りが感じられた。</p>
<p><em>　</em>しかし、指をさされた者たちは、大学の教員とその学生、地域のボランティアと社協職員だ。誰一人として、「県」や「市」の人間ではなかった。この矛先を間違えた「とんちんかん」な投げかけに、私は「どうしよう」と戸惑っていた。「県」や「市」の人間ではないと、あえて訂正する空気でもなく、なんと答えたらいいのかと、頭が真っ白になった。今振り返ると、学生の私には、誰も発言は求めてはいなかったはずなので、何重にも「とんちんかん」な状況が繰り広げられていた。</p>
<p><em>　</em>上野さんからの問いかけから一呼吸おいて、新原先生が「行政の施策につなげる必要のある事柄と、今すぐに対応していけることを、整理しながら皆さんの話を聞きたい」と返した。新原先生の一言で、場所の緊張感が少しだけ緩んだ。私も、大きく安堵した。「外国人のリーダー」たちも、堰を切ったように発言し始めた。</p>
<p><em>　</em>まず、ラオスのリーダーがこんな話を切り出す。</p>
<p><em>　</em>「小学校の近くにある公民館では日本語教室をひらいているが、もっと近くの場所に、勉強できる場所があるといいと思います」</p>
<p><em>　</em>続いて、ベトナムのリーダー。</p>
<p><em>　</em>「国レベルのことは、個人的にはわからないです。けれど、外国人の子どもをみてうるさいという日本人がいます。日本人の子どもも、外国人の子どもを見下しています。こういうことを、どこに相談したらいいかわからない」</p>
<p><em>　</em>「仕事場で半年間いじめられました。言葉の暴力がひどかったです。外国人はなにもわからないと思っているようだが、心はわかる。頭だってきちんとしている。ベトナムに帰りたいけれど、ベトナムは社会主義、一度脱国すると帰れません」</p>
<p><em>　</em>その場にいる「外国人のリーダー」全員が、いじめについて経験しなかった者はいないと話しを続けた。そして、ラオスのリーダーが言う。</p>
<p><em>　</em>「子どもの教科書を買いませんか、という詐欺にあった人がいる。子どもに勉強させたいと思っているのは、みな同じです。だけれど、親が日本語ができないので、詐欺にあう。また、親は日本語がわからないので、子どもに勉強を教えることができない。通訳もおらず、勉強する環境もなく、困っている。やっぱり、言葉が問題と思います。あと、子どもを塾に行かせたいが、金がない外国人は多い。勉強をさせられず、大学に入ることができません」</p>
<p><em>　</em>このような話を受けて、新原先生が「皆さんにお聞きしたいのですが、勉強するとしたら、この集会所で勉強するのがいいですか？」と問うと、「外国人のリーダー」が口を揃えて「そうです」と答えた。新原先生が、子どもには勉強の補習の場、大人には実質上必要な日本語を教えてくれる場を、団地の中に作っていくというアイデアを述べた。国際部長の上野さんが、間髪入れずに口を開いた。</p>
<p><em>　</em>「外国人の世帯が155もあるのだから、相談の窓口くらい団地にあってもいいのではないか。そうしないと自治会が、外国人の面倒を見続けないといけない。市が、相談所や日本語教室をつくるべき」</p>
<p><em>　</em>清水会長がたたみかける。</p>
<p><em>　</em>「アメリカでは難民に対して言語の教育を徹底しているようだが、日本はボランティアに頼りすぎているのではないか。また、ボランティアも公的施設で活動することにこだわっている。湘南団地にたくさんの外国人が住んでいるのだから、生活相談をしかもこの団地で実施してもらえないだろうか」</p>
<p><em>　</em>新原先生が、返答をした。</p>
<p><em>　</em>「行政の施策につなげるには時間はかかると思うが、今後も交流をもち、よく話を聴いてそれを行政側に伝えていくことを地道に行えば、動きがあるかもしれない。なので、もっと団地の人たちの話を聴きたいと思います。集会所の場所は確保できますか？」</p>
<p><em>　</em>「場所の確保はできます。なんなら、国別に話し合いの機会をもったらどうでしょうか」</p>
<p><em>　</em>清水会長の提案により、次回からは、出身国別の住民に集ってもらい、それぞれの話を聞く会をもつことになる。この日の「打ち合わせ会」が終了したのは、21時10分。仕事帰り、夕飯を食べずに集っていた人たちも多かったことと思う。終始一貫して緊張感が漂う会に、ただ座っていただけの私ですら、疲れを感じた。のっけから「県や市、意見を述べよ！」と詰問された「現地打ち合わせ会」。次回もまた「県」や「市」の人間として座っていなければならないのだろうかと、どこか重たい気持ちで帰路についた。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>3．「ごちゃごちゃ言っても始まらない」と「あきらめるな」のあいだ</strong></p>
<p><em>　</em>第2回「現地打ち合わせ会」は、２週間後の1998年9月28日にもたれた。ラオス出身の住民が16名ほど集まった。30、40代くらいの成人男性が主だった。自治会の人が声をかけたようで、湘南団地の学区である小学校の校長先生も着席していた。そして、今回もまた、国際部長上野さんの一言から始まった。</p>
<p><em>　</em>「団地自治会もしくは県・市政に対して、また、小学校校長への不満、質問を言ってください」</p>
<p><em>　</em>「県」や「市」という設定は、相変わらずであった。やはり今回も、「県」や「市」の人間として座っていなければならないようだ。しかし、前回とは少し様子が異なり、ラオスの人々が不満に思っていることを聞こうという。その対象は、自治会や小学校も含まれていた。</p>
<p><em>　</em>話題は、日常的な困りごとから、海外に住む家族の「呼び寄せ」に関すること、子どもの教育に関して、日本語教育に関して、通訳制度、仕事のトラブルに関してなど、多岐にわたった。やり取りはこのような感じである。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>ラオス人　「近所づきあい、昼間、うるさいと言われる。遊びに来た友達の車を空いている駐車場に置きたいが、おかせてもらえない。日本人はいいのに。差別ではないのか」</p>
<p><em>　</em>国際部長　「棟の会長の許可をもらうこと。それでもダメな場合、自治会に電話してください。夜9時までやってます。そもそも駐車場は一家に1台と決められている。もし、自治会の規則を守っていれば、そんなに苦情はこないのでは？」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>ラオス人　「自転車が盗まれて困ってます」</p>
<p><em>　</em>国際部長　「それは警察に行ってください。ここじゃないでしょ」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>ラオス人　「給食費を免除してほしい。（免除基準など）日本人と同じにしてほしくない。貧乏の国から金持ちの国にきたのだから。ゼロから始めたのだから」</p>
<p><em>　</em>民生委員　「日本人の貧乏の方がおとなしい人が多い。つつましいし、補助が出るとわかっていても申請しない人もいるのに。外国人の方がもらえるものはもらおう、とする。遠慮が無い」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>ラオスの人々と自治会のやりとりは、外国人の話を日本人がピシャリと封じるような形で、どこか険悪な雰囲気だった。私には、慣れない日本語で一生懸命話しているラオスの人々を、頭ごなしにやりこめる自治会の人々、という構図に見えた。じっと聞いていると、自治会の人々が「外国人はがめつい」「ルールを守らないくせに要求ばかりしてくる」「日本人の方が小さくなっていて、逆差別だ」という意見を口にする場面もあり、外国人への偏見と思える発言も多く聞こえてくるのだった。</p>
<p><em>　</em>このようなやりとりが続き、場が少し騒がしくなってくる。私の記録メモには「只今8時15分、ザワザワしてくる」とあり、1時間強、上のような日常の困りごとに対する問答が続けられていたことが分かる。内容の煩雑さに、嫌気がさしたのだろうか。自治会長の清水さんが、突如、吐き捨てるようにこう言った。</p>
<p><em>　</em>「小さなことをごちゃごちゃいってもはじまらない」</p>
<p><em>　</em>私はその発言を耳にして、憤りを覚えた。そもそも、今回の会議は、自治会や小学校、「県」や「市」が、外国人の生の声を「聴く」という、大前提があったはず。「聴く」とは、「傾聴」し、話の内容を理解して他者に寄り添うことだと、大学などで知識として学んでいた。だから、こうした場でも、「小さなこと」を「聴く」姿勢が大切なのではないかと、「もっともらしい正義」が、私の中に沸いたのだ。しかし、私の中に沸いた正義感と憤りは解消されぬまま、第2回「現地打ち合わせ会」は、時間切れのような形で終了となった。</p>
<p><em>　</em>第3回「現地打ち合わせ会」は1998年10月19日。気づけばもう、肌寒い秋となっていた。この日は、ラオス、カンボジア、ベトナム、中国、ブラジルの「外国人のリーダー」たち7名が集った。「現地打ち合わせ会」も3回目となり、「外国人のリーダー達」の倦怠感というか、少し億劫さが見え隠れする雰囲気で、会議は始まる。</p>
<p><em>　</em>国際部長からの「中国のお父さん、何かありませんか？」というふりに対し、中国の男性が「あとで」と答えた。その瞬間、自治会長の清水さんが、「2，3分いただく」と言って、急に大きな声で話し出した。</p>
<p><em>　</em>「『何回やっても同じじゃないか』とみんな思っても、前回の声は県や市のほうへいっている。だから何回やってもダメだと思うな。何回でもいいから、声に出して言わないとダメ。当事者のあなたたちの声が一番重たい。必要である！！」</p>
<p><em>　</em>清水会長が言い終えると、堰を切ったように、プレハブの和室に拍手が響いた。外国人も日本人も、その場にいる全員が拍手していた。私も圧倒されて拍手をしてしまったが、その拍手の意味が、実はよく理解できていなかった。</p>
<p><em>　</em>拍手の意味が分からないというよりは、清水会長の矛盾した態度に、私は当惑していたのだ。外国人が懸命に日常の困りごとを話しているその場で、「小さなことをごちゃごちゃ言ってもはじまらない」と吐き捨てた清水会長。その人が、目の前で、誰よりも熱っぽく「あきらめるな」「何回でもいいから、声に出して言わないとダメ」と外国人を叱咤激励しているのだ。どっちが本当の清水会長なのかと、頭の中はクエスチョンだらけだった。</p>
<p><em>　</em>しかし、当時の記録を読み返してみると、「小さなこと」を誰よりも「聴い」ていたのは、清水会長だったのだろうと感じる。「現地打ち合わせ会」の記録メモには、こんな場面も残されていた。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>ボランティア　「今から日本とラオス語ができる子どもを育ててゆけば、よい通訳になれると思う」</p>
<p><em>　</em>ラオス人　「そうは思うが、無理。子どもは日本語しかわからない」</p>
<p><em>　</em>新原先生　「大人になってからラオス語の勉強をするという方法もある。専門性の高い言葉を学んで、通訳になってゆけるかもしれない。もし希望があれば、そのような場はつくれると思う」</p>
<p><em>　</em>清水会長　「通訳とはいっても、本当に仕事の基盤はあるのか。ボランティアなら、来ないよ」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>ラオス人　「仕事の差別がある。10年前はよかったのに、市の職安にラオス人が多い。今ここにきている仲間でも、3～4人失業している。ラオス人はもういらないと言われる」</p>
<p><em>　</em>国際部長　「ラオスのリーダー、ラオス42世帯の中で、何人失業しているのか調べてください。もし、多いなら、団地の草刈りなどやらせて、協力したい。いいよね、会長？」</p>
<p><em>　</em>清水会長　「自治会ができることは協力する。だが、自治会ができないこともあり、仕事の差別に対するフォローは全体の課題だ」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>このような記録を振り返ってみると、清水会長は「小さなこと」に対して、細かく現実的に対応してきた人だということが分かる。清水会長は、「通訳」を育てるといった夢のあるアイデアに対して、仕事としての基盤を作らねば「絵に描いた餅」であると言った。失業者には、自治会で草刈りという仕事を設けて、金銭的な援助をすることを、迷うことなく了承した。一方で、就労に関する人種差別に対しては、社会全体に対する問題提起を忘れずにいる。そして、チャンスがあればいつでも、外に向けて、そのような現状を声を大きくして訴え続けていた。こうした姿勢が、本来の意味での「聴く」ということではないか。</p>
<p><em>　</em>「ごちゃごちゃ言ってもはじまらない」と「あきらめるな」のあいだには、1000世帯を束ねる団地自治会長として活動してきた清水会長の足跡が、沢山つまっていたのだ。そのことに気づいた時、それまで私が抱いていた、清水会長への反感や「もっともらしい正義」は、こなごなに砕け散ったのだった。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>［© Kanae Nakazato］</p>
<p>&nbsp;</p>
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			</item>
		<item>
		<title>第6回　「ごちゃごちゃ言ってもしかたない」と「あきらめるな」のあいだ（3）</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/nakazato-kanae/1715/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 03 Feb 2023 00:20:17 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[中里佳苗]]></category>
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					<description><![CDATA[4．団地の人々の語る歴史 　「ごちゃごちゃ言ってもはじまらない」と「あきらめるな」のあいだには、清水自治会長のみならず、湘南団地の自治会の人々や外国人、日本人の住民たちの歴史がある。 　湘南団地は、今から50年ほど前に、&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/nakazato-kanae/1715/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第6回　「ごちゃごちゃ言ってもしかたない」と「あきらめるな」のあいだ（3）</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><strong>4．団地の人々の語る歴史</strong></p>
<p><em>　</em>「ごちゃごちゃ言ってもはじまらない」と「あきらめるな」のあいだには、清水自治会長のみならず、湘南団地の自治会の人々や外国人、日本人の住民たちの歴史がある。</p>
<p><em>　</em>湘南団地は、今から50年ほど前に、低所得者層向けのマンモス団地として設立された。団地のある地区は二つの川に挟まれ、昔から「水の出やすい」土地であり、河川敷は火葬場や屠場などがあり、湘南市の中で、どこか辺境に位置づけられる土地柄だった。一方で、1970年代には、団地住民同士のトラブルで傷害事件なども起こり、顔の見えにくい居住形態やプライバシー侵害など、同時代の抱える問題のメルクマールとしても存在してきた。その直後、80年代からは、難民となったインドシナの外国人、90年代からは日系ペルー・ブラジル人などの大量流入の時代がやってきた。</p>
<p><em>　</em>湘南団地がインドシナ難民の受け入れ居住地となる際、「県」や「国」の説明としては、「日本語や日本のルールは勉強してきているので、大丈夫」ということだったという。ところが、蓋を開けてみれば、日本語がほとんど分からない人が多く、生活習慣の違いから起こるトラブルが頻発し、自治会のみならず、団地の住民全体がストレスを抱え込むことになった。「匂いなどの外国文化にとけこめず、引っ越した人6人」と自治会の人が話していたように、流入してきた各国の文化に馴染めず、転居を余儀なくさせられた日本人世帯も数件あったという。</p>
<p><em>　</em>団地の外の住民からは「治安が悪い」「外国人がいっぱいいて危ない」「近寄らない方がいい」場所として冷たい視線を浴びてきた。また同時に、歴史的に社会の「忌み嫌われるもの」を引き受けてきた土地柄でもあったことから、「見なくてもよい」とされる場所であった。日常的に「見なくてもよい」場所は、それについて語らねばならない時には、奇異の目線から語られる。湘南団地は、そんな場所だった。</p>
<p><em>　</em>たまたま流れて住み着いた場所に、たまたま外国人たちが流れて来た。湘南団地以外に住んでいる湘南市の市民は、外国人を無視することを選択できるけれど、そのために作られた場所に住まざるをえない人々は、どうしたらよいのだろう。湘南団地の人々はこう感じていたという。「自分たちは選択できない。そして、差別され、見捨てられている」と。</p>
<p><em>　</em>それでも団地の住民たちは、団地住民同士の交流会をしたり、見回りの活動などを取り入れ、自分たちの生活の場所を守ってきた。自治会は全て、無償のボランティア活動だった。外国人の大量流入という事態へも、「国際部」という自治組織で対応するよう努力してきた。しかし、現実の日常は、自治会活動の限界をあっさりと越えてしまう。問題が多岐にわたり、解決する術もほとんど持ち合わせていなかった。彼らは、地域社会の中で「見なくてもよい」とされている場所から、せめて「県」や「市」といった公から支援をしてもらえるよう要請をした。しかし、「県」や「市」からは、何の回答も得られなかった。</p>
<p><em>　</em>地域社会のシステムの一部として、意図をもって作られた「掃きだめ」団地。「安心安全な」市民社会を維持するために「見なくてもよい」場所として作られ、汚物処理の機能を団地の人々に担わせてきた「市」や「県」の公組織。「市」や「県」から「なぜ、回答をもらえないのか」「このまま放置され続けるのか」、そうした不安が、孤島の地で団地の「自治」を強いられてきた自治会の、焦りや怒りとなって、団地の中に積もっていった。</p>
<p><em>　</em>自治会の人々が語る団地の歴史は、大体このような内容だった。これらは、記録にこそ残っていないが、折にふれ、私が団地の中で繰り返し聞いていた物語である。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>５．「本物」が団地にやってきた</strong></p>
<p><em>　</em>こうした自治会の人々が語っていた歴史は、決して誇張された物語ではない。実際に「本物」の「県」と「市」の役人が団地にやってきた時の様子は、この物語を「真実」として生々しく肉付けるものであった。</p>
<p><em>　</em>それは、1999年1月11日のこと。この日は、第4回目の「現地打ち合わせ会」として団地へ出向いたのだが、集会所にはすでに「県」や「市」の職員が数名着席していた。訪問した我々には、「県」や「市」が来ることを聞かされてはいなかった。しかし、誰がどのような経緯で、この役人たちを団地まで連れてきたのか、問う者もいなかった。「県」や「市」に対する自治会の人々の険しい顔を見て、全てを了解したからだ。以下のような役人メンバーが、席についていた。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-2093" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/02/「「本物」が団地にやってきた」の席順.png" alt="" width="1630" height="1377" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/02/「「本物」が団地にやってきた」の席順.png 1630w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/02/「「本物」が団地にやってきた」の席順-300x253.png 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/02/「「本物」が団地にやってきた」の席順-1024x865.png 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/02/「「本物」が団地にやってきた」の席順-768x649.png 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/02/「「本物」が団地にやってきた」の席順-1536x1298.png 1536w" sizes="(max-width: 1630px) 100vw, 1630px" /></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>団地自治会の国際部長上野さんが、以下のように質問を投げかけた。</p>
<p><em>　</em>「日本人は、話のできない外国人が、道端に集まっているのが怖いと思っている。そのことで、日本人から苦情がくるんです。本当は、怖くなんかないし、日本人だって外国にいったら集って行動しているのに、それが分からない人たちがいる。それで、日本人の一番の関心は、この団地に、外国人はまだ増えますか？ ってこと」</p>
<p><em>　</em>県公営住宅管理課が、このように応えた。</p>
<p><em>　</em>「公営住宅の入居基準として、一定の収入以下というのが設けられていまして、それに見合う人で在住資格があれば、基本的に無制限です。そこは、日本人と平等です」</p>
<p><em>　</em>すると、これまでの会議では、ほとんど口を開かなかった団地自治会の事務局長が、「県」や「市」に向かって、強い口調で詰め寄った。事務局長は安斉さんといい、60代くらいの小柄な男性で、場所のセッティングをしたり資料を作ったり、いつも裏方で動いている物腰の柔らかい人であった。</p>
<p><em>　</em>「団地には、とにかく外国人がいっぱい入ってくる。今後も、外国人の入居率の制限はないというんですか。だったら、県と市に、この団地の現状を知ってもらいたい。私たちは、仲間として外人をみているが、その仲間へのケアを、県も市も、何もしていないじゃないですか。仲間たちが困っていることが、いっぱいあるんですよ」</p>
<p><em>　</em>これに対し県公営住宅管理課は、</p>
<p><em>　</em>「湘南団地は、他の団地よりも、外国人の入居率は高いでしょう。彼らの就職先などが近くにあるという立地条件と、団地に入った外国人たちが仲間を集めようとすることが、相乗効果となって湘南団地に来る。しかし、外国人の入居を制限することは、差別なので、制限はできません。ケアについては考えています。保全協会に、相談窓口を設けていますので」</p>
<p><em>　</em>上野国際部長が、怒った。</p>
<p><em>　</em>「団地自治会だけでは解決できない問題を、相談窓口に言うと、あんたがたは、『県の方へ問い合わせて下さい』と、たらい回しにするじゃないか！」</p>
<p><em>　</em>保全協会の役人が「その件は、保全協会の職員に、注意しておきました」と返答をした。上野さんが、訴え続ける。</p>
<p><em>　</em>「自治会では、各棟の会議を開いているが、その時の恒例として、日本人が外人を嫌い、差別的な発言をする。いつも、外人をかばわなきゃならないのは、自治会の国際部長と事務局長だ。こういうのを、４、5年繰り返してきた」</p>
<p><em>　</em>民生委員の播戸さんが、関西弁でまくし立てた。</p>
<p><em>　</em>「民生委員として、2年半かけて、何百回もおたくらに、なんとかしてくれとわしは言うてきた。実際に、団地に外人がくるとトラブルが出てくる。毎日、４、5回苦情の電話がくるの、そういう地域の問題を、おたくら知らんでしょ？ ノイローゼになりそうだった、朝も夜も関係なくくるから。外人差別するないうても、団地に住んでる年寄は、そうはいかんのですよ。それに、県に電話すれば、『何の権限があって電話してきたか』と聞かれる。やってられんのですよ」</p>
<p><em>　</em>事務局長の安斉さんが、発言を続けた。</p>
<p><em>　</em>「自治会も民生委員も、みんなボランティアだ。ボランティアの人々が一生懸命やって、県や市を動かそうと思ってやっているんです。県や市から、反応がほしい、対応がほしい。それに、我々は、湘南市にいながら、県の建物の中にいるという、中間の位置にいる。だから、どちらでもいいから、どこかが何か対応して欲しい。なんでそれができないのか」</p>
<p><em>　</em>民生委員の播戸さんが、加勢する。</p>
<p><em>　</em>「ここの会計、おたくら知ってるか？ 住民から自治会費を集めて、全部で年間120万。この中で、外人に使う金は、12％～25％。これじゃあ、困っている老人に使いたくったって、使えない。優遇されているのは、外人。そういうのに文句たれる住民もいっぱいおる。自治会長と国際部長の配慮があって、かろうじて今、外人に金を回せとる。でも、逆差別みたいになっとるとわしは思うとるし、そういう反発も住民から出てるのも事実あるんですよ」</p>
<p><em>　</em>一呼吸おいて、播戸さんが吠えた。</p>
<p><em>　</em>「なんとかならんのか、市！！」</p>
<p><em>　</em>これまで「県」の陰に隠れていた湘南市の役人に、とうとう、ボールが投げられた。ちょっと下向き加減に、国際室の室長がこのように答えた。</p>
<p><em>　</em>「助成金は、市全体の中であります。例えば、中央のボランティア団体にはお金は出ていますが。特定の地域に個別的に入ってゆくことはできません。平等など考えると…」</p>
<p><em>　</em>私は思った。自治会の人たちは、こんな風に、ずっと団地から外に向けて訴えてきたのだろう。そして、ことごとく、上のような役人たちの「生ぬるい」返答で、やりすごされて、無視され続けてきたのだろう。</p>
<p><em>　</em>20年前から外国人が沢山流入してきて、自分たちでなんとかしようとしてきた団地の人たちは、それでも出来ないことを「県」や「市」に訴えてきた。ある時は、自分たちの負担を軽くしてほしいと、またある時は、この外国人の困りごとをなんとかしてやってほしいと。でも、何にも変わらなかった。団地内部で起こった問題は全て、自分たちの自治会で対応しなければならなかった。</p>
<p><em>　</em>私は、ようやく理解した。私たちが団地へ赴く際、「県」や「市」の人間でなければならなかった理由を。「出張委員会」として、数名の委員が団地に赴くことが決まった時、清水自治会長が嬉しそうな表情で言った言葉を思い返す。「今まで国際部長は、行政と結びついていませんでした。行政側がからんでくるとなると非常に国際部長も喜ぶことと思います」。</p>
<p><em>　</em>自治会の人々だって、本当は、「出張委員会」が「本物」の「県」や「市」の職員ではないことは分かっていただろう。けれども、それでもよかったのだ。ずっと、外部から疎外されてきた団地自治会にとっては、たとえ厳密な「県」や「市」ではなく、「行政らしきもの」「公のようなもの」であっても、貴重な外へのパイプを意味していた。なんにでも喰らいついていくという気概が、彼らの中にはあった。それが、「出張委員会」が団地を訪問した初日、国際部長上野さんの第一声、「今日は、県と市がどう考えているのか、態度や意見を聞きたい」という、激しい挑戦となって表れたのであろう。</p>
<p><em>　</em>「ごちゃごちゃ言っても始まらない」と「あきらめるな」のあいだに、私は団地住民の疎外されてきた歴史と、その中でもよりよく生きようとする住民たちの日々の奮闘、そして、その自治を担う人々の一歩も引かない「抵抗」の姿勢を見たのだった。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>［© Kanae Nakazato］</p>
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			</item>
		<item>
		<title>第7回　「湘南プロジェクト」の「始まり」（1）</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/nakazato-kanae/2062/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 08 May 2023 08:00:01 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[中里佳苗]]></category>
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					<description><![CDATA[１．「湘南プロジェクト」の「始まり」 　外国人住民の流入に対し「何の支援も受けられなかった」と怒りの声を上げる湘南団地を舞台に、「湘南プロジェクト」が発足することになるのは、1998年10月19日のことだ。その経緯は公的&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/nakazato-kanae/2062/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第7回　「湘南プロジェクト」の「始まり」（1）</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><strong>１．「湘南プロジェクト」の「始まり」</strong></p>
<p><em>　</em>外国人住民の流入に対し「何の支援も受けられなかった」と怒りの声を上げる湘南団地を舞台に、「湘南プロジェクト」が発足することになるのは、1998年10月19日のことだ。その経緯は公的な記録に残されていないから、殴り書きのメモをたよりに、私がそう印をつけた「始まり」である。</p>
<p><em>　</em>「湘南プロジェクト」という名前はまだ無かったが、団地でなにがしかの活動を「やる」と決めた日を、「始まり」とした。ただ、その「始まり」は、意気揚々とした華々しいスタートではなく、「苦虫を噛みつぶしたよう」な感触の出発だった。</p>
<p><em>　</em>これまで会議室で議論をしてきた委員たちは、湘南団地への「出張委員会」として現地へ赴いた（第4～5回参照）。そこでは、仕事や教育に関する喫緊の悩みから日常の些細な困りごとまで、ごちゃまぜに訴え続ける外国人住民と、彼らに昼夜問わず寄り添っている自治会の人々と出会った。</p>
<p><em>　</em>「出張委員会」は、この「出会い」を、10月19日の在住外国人支援活動研究委員会に持ち帰った。報告がなされた後、団地自治会の清水会長がこのように述べた。</p>
<p><em>　</em>「湘南団地の外国人は見返りを要求してきます。すでに、自治会の国際部長に、『あれだけ言ったことへのリアクションはあるのか』と、外国人が言って来ている。この委員会は、彼らに会った。会ったということは、その人たちへの責任を負うことだ。責任をもって対処していかねばならないということです。これができないと、むしろ、外国人との距離が大きくなってしまうかもしれません」</p>
<p><em>　</em>これを受け、「出張委員会」に同行したアドバイザー委員が応えた。</p>
<p><em>　</em>「やはり日本語教室を次回から始めてほしいという要望が出されていました。日本語教室は、日本語を教えるだけでなく、日本の生活習慣などのわからないことも聞けるといった、生活上の問題等を相談できる場になればいいと思います」</p>
<p><em>　</em>いよいよ、湘南団地に日本語教室を作る話になるのかなと、私は少しワクワクした。すると、日本語ボランティアの小野寺さんが、割り込むようにこう発言した。</p>
<p><em>　</em>「湘南団地近くの公民館では、日本語教室をしているボランティア団体がある。そちらの方が、私たちよりもよく団地のことを知っていると思う。ただでさえ、私たちの国際交流協会の日本語教室は、ボランティアの手が足りていません。手伝えるとしても、湘南公民館までで、手一杯です」</p>
<p><em>　</em>湘南団地の近くにある公民館は、団地の子どもたちが通っている小学校からほど近く、距離で表すと1㎞、徒歩で15分くらいの場所にある。小野寺さんは、近くに日本教室があるのに、湘南団地にも教室を作るというのはどうかと批判しつつ、「手伝いは難しい」と先手をうった。のっけから、ストレートな拒否反応を示す小野寺委員に対し、清水会長がピシャリと言い返した。</p>
<p><em>　</em>「団地の話をしているのに、なぜ、またもや公民館の話が出てくるのか？　制度からはみだせないで、ボランティアをやってゆくという姿勢をどうにかしていただきたい」</p>
<p><em>　</em>小野寺さんと清水会長のこうした応酬には、もはや「慣れっこ」になっていた。委員会にオブザーバー参加するのは、私もこれで3度目だ。毎回、「ハブとマングース」と揶揄されるほどの対決が繰り広げられており、この時も、正直「またか…」と聞き流していた。</p>
<p><em>　</em>しかし、それは大きな油断だった。団地に日本語教室を作るという議論が、少し脱線し始めた時だ。藪から棒に、清水会長が立ち上がり、ある人物を指さして、こう叫んだ。</p>
<p><em>　</em>「やるのかやらないのか、はっきりしてほしいと言ってるんだ。私はさっきから、あんたに何ができるかと聞いている！！　できないならできないと、はっきり言え！！！」</p>
<p><em>　</em>ものすごい剣幕だった。清水会長が「あんた」と指をさしたのは、新原先生だった。</p>
<p><em>　</em>私は、とっさに「なぜ？」と思った。新原先生は会議の冒頭から、「日本語教室の機能をもった相談の場を作っていく」「今後も団地に隔週でなら通える」「行政や団地の外に働きかけると同時に、内側へ深くかかわるために一つの外国人家族を長期的に調査する」といった方向性を示しており、他の委員らも、そうした姿勢に感化されていた。小野寺さんの先ほどの発言でさえ、「湘南団地に日本語教室を作る」という指針がでたからこそ、引き出された反応なのだ。新原先生は「やる」と言っていた。それなのに、なぜ？</p>
<p><em>　</em>清水会長の怒号は、明らかにおかしかった。しかし、新原先生は大変冷静に、またいつもより強い口調でこのように返した。</p>
<p><em>　</em>「そんなことを言って。せっかくここまでやってきたのに、本当にこれで誰も行かなくなってしまいますよ、それでいいんですか？　確かに僕は、何もできないかもしれない。けれども、何もできなくとも、湘南団地のみなさんに、『来るな』といわれるまで、僕は行き続けます。何年でも、何十年でもです」</p>
<p><em>　</em>清水会長は、聞き取れない声で何か口ごもってから、静かに椅子に座った。何を思っていたのか、表情からは読み取れなかった。その場はシーンと静まりかえり、清水会長の反応を待っているような、妙な沈黙が続いた。</p>
<p><em>　</em>会議に参加していた湘南保育園の園長が、ゆっくりと口を開いた。</p>
<p><em>　</em>「日本語教室を、まずつくりましょう。外国人の方々には、個別対応してゆくような形で、口コミで信頼を勝ち取ってゆけばよいのではないでしょうか。団地の集会所が駄目なら、保育園を使ってください」</p>
<p><em>　</em>湘南保育園は、団地の敷地内ではないものの、隣に位置していた。その施設を「使ってください」と身を投じる言葉が、その場の重苦しい沈黙を破った。園長の姿勢に感謝を述べながらも、新原先生は「日本語教室は、湘南団地の中でやらねばならない」とはっきり答え、このように続けた。</p>
<p><em>　</em>「湘南団地の集会所は、月曜日が空いているとのことです。皆さんのご都合もあるでしょうから、毎週か1週間おきくらいの間隔で、場所をお借りして、とにかく日本語を勉強する場を始めたいと思います。みなさん、いかがでしょうか」</p>
<p><em>　</em>反対する委員は、いなかった。だが、場は静まり返っていた。これから新しく活動をスタートさせていこうという時なのに、「旗揚げ」時の高揚感は無く、委員たちは静かに各々うなずくだけであった。そして、最後に、清水会長がこう発言した。</p>
<p><em>　</em>「それは良いことだと思います。それができるなら、始められればと思います」</p>
<p><em>　</em>あれだけ「湘南団地に相談所を！　日本語教室を！」と声を大にして吠え続けていた清水会長にしては、拍子抜けするほど、あっさりした反応だった。喜んでいるような声でもなく、心がここに無いような、どこか他人事へ感想を述べているような、そんなトーンだった。清水会長の方へ視線を向けると、背中を丸めた会長の肩を、隣の委員が、慰めるかのようにポンポンと叩いているのが見えた。</p>
<p><em>　</em>今でも、あの時の清水会長の怒号と張り詰めた空気感、そして重苦しい沈黙が蘇ってくる。願いは叶ったはずなのに、なぜか、うなだれて肩を落とす自治会長の姿は、忘れることができない。思い返すたびに、どこか苦みを感じる記憶である。</p>
<p><em>　</em>しかし、あの日のあのやり取りで、湘南団地で何かを「やる」ことが決まったのだ。これが、「湘南プロジェクト」の「始まり」だった。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>［© Kanae Nakazato］</p>
<p>&nbsp;</p>
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]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>第8回　「湘南プロジェクト」の「始まり」（2）</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/nakazato-kanae/2064/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 08 May 2023 08:00:12 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[中里佳苗]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://suiheisen2017.com/?p=2064</guid>

					<description><![CDATA[２．団地自治会の「灰汁（あく）の強さ」 　「やる」と言っている人を捕まえて、「やるのかやらないのかはっきりしろ！」と突然怒鳴りつけたかと思えば、要望が通ったら通ったで、なぜか沈んだ表情で肩をおとす。こうして文字にしてみる&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/nakazato-kanae/2064/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第8回　「湘南プロジェクト」の「始まり」（2）</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><strong>２．団地自治会の「灰汁（あく）の強さ」</strong></p>
<p><em>　</em>「やる」と言っている人を捕まえて、「やるのかやらないのかはっきりしろ！」と突然怒鳴りつけたかと思えば、要望が通ったら通ったで、なぜか沈んだ表情で肩をおとす。こうして文字にしてみると、清水会長は、かなり不可解で迷惑な人物だ。一言で言うなら、「灰汁が強」い人だと思う。</p>
<p><em>　</em>しかし、この団地自治会長の「灰汁の強さ」は、彼固有のものというよりは、湘南団地自治会の「色」だったのだと思う。また、こうした「色」が、湘南団地が外からの支援に結びつかなかった原因の一つと言われてもいた。</p>
<p><em>　</em>団地がおかれた苦境に対して、これまで一切、地域住民からの手助けがなかったかといったら、そこには嘘が残る。過去に一度、湘南団地の中に、ボランティア団体が日本語教室を作ったことがあった。そのボランティア団体というのは、先ほど話題にあがった、近くの公民館で教室を開いている「湘南日本語の会」だ。</p>
<p><em>　</em>「湘南日本語の会」は、難民事業本部からの助成金を受けて運営されており、湘南市国際交流協会が運営する日本語教室とは毛色が異なっていた。湘南市には他にも、日本赤十字（JRC）のボランティアが運営する教室があったが、「湘南日本語の会」だけが、湘南団地に直接支援にいった唯一の団体であった。しかし、その試みは、短期間で終わったという。その理由の一つに、団地自治会の「灰汁の強さ」があった。</p>
<p><em>　</em>湘南団地に日本語教室を作ることが決まってから、新原先生と社協の国武さん（そして、「記録係」としての院生と私）は、その年の年末にかけて、関連する行政機関やボランティア団体を訪問した。諸団体の関係性を把握したり、根気強く協力を働きかけていくための「挨拶まわり」である。その一環で、「湘南日本語の会」とも、12月4日と12月14日の2回にわたり対面をした。</p>
<p><em>　</em>ミーティングの場所は、湘南団地の集会所だった。「湘南日本語の会」からは代表と日本語ボランティア3名、そして団地の「外国人のリーダー」が1名参加した。新原先生が、日本語教室への手伝いが可能かどうかとたずねると、「湘南日本語の会」のボランティアが、何の前置きもなしにこのように話した。</p>
<p><em>　</em>「湘南団地は『島』だと思います。地つきの人からも差別されてきた場所です。ここで暮らしてゆく意味について、考えてしまいます」</p>
<p><em>　</em>「島」という言葉で伝えたかったのは、その「閉鎖性」、地域から排除されてきたという歴史と、団地住民の持つ排他的な性質についてであろう。この発言にかぶせるようにして、「湘南日本語の会」の代表がこう続けた。</p>
<p><em>　</em>「湘南団地に日本語教室を作るということですが、少し問題があると思います。10年前に、日本語教室を湘南団地で行った際、自治会の人々が『集会所で日本語教室をやります』という放送をしてしまった。外国人ということを隠したい人もいるのに。外国人の中には、湘南団地に住む外国人と意識されたくない人もいるんです」</p>
<p><em>　</em>団地自治会の人たちが、外から来たボランティアによる「日本語教室」に喜び勇んで、大音量で放送を流す様子が目に浮かぶ。かつて、「湘南プロジェクト」の日本語教室が開かれる時はいつも、自治会長が「今日は日本語教室の日です。日本語の先生が来てくれています。外国人の皆さん、声をかけあってみんなで勉強をしに来てください」と放送していたのを思い出す。放送は、感謝の表れであったに違いない。しかし、両者の間に何があったのか、自治会の「善意」は、むしろ横暴な行為として語られた。</p>
<p><em>　</em>「湘南日本語の会」の代表は、参加していた「外国人のリーダー」に、何かの確認をとるように、こう質問した。</p>
<p><em>　</em>「集会所で何かをするのは、抵抗ないですか？」</p>
<p><em>　</em>「外国人のリーダー」は、間髪いれずに返した。</p>
<p><em>　</em>「別にないですね。みんなに聞いて、みんな勉強したいと言ってましたから。週2、3回はやって欲しいです。やはり、近くだとみんな行きます」</p>
<p><em>　</em>本当は、代表が「集会所」という言葉で表現したかったのは、集会所という「箱」ではなく、集会所にいる「人」のことだっただろう。つまり、団地自治会の人々のことを指していて、「あのような横柄な人たちの管理の下で何かをするのは嫌ではないか」と聞いたのだ。</p>
<p><em>　</em>しかし、そのような「含み」は伝わらず、外国人からは素直な返事が返ってきた。少し慌てた代表は、「はじめて日本に来た人にとっては、団地の外はどんなに近くても『外国』だものね」と、どこか、ちぐはぐなまとめ方をした。</p>
<p><em>　</em>2回目のミーティングでは、代表からこのような話があった。</p>
<p><em>　</em>「日本語教室を10年続けてきました。最初は団地で教室を始めました。団地に住む友人の外国人も多いです。いろんな想いでやってきました。本来は集会所でやりたいですが、自治会とのトラブルがあって、公民館に移転しました。自治会の人たちは、外国人だけがルール違反をしているようなことを言ったりもするので、考え方が違うし、上手くいかない。そのような過去があるのに、また集会所で、『湘南日本語の会』が日本語教室をやってほしいと言われているのかと誤解し、私たちも慌てました」</p>
<p><em>　</em>「10年」前といえば、当時の湘南団地自治会の役員は、清水会長の先代か、先々代の役員だったはずだ。「湘南日本語の会」の人々が見せる強い警戒心から、当時の自治会との関係が、一筋縄ではいかなかったことがうかがえる。団地自治会の「灰汁の強さ」は、歴代の会長や役員達が持っている「色」だったのだろう。</p>
<p><em>　</em>結局、団地に作ろうとしている日本語教室は「責任の所在がはっきりしない」ということで、それ以降、「湘南日本語の会」が団地を再訪することは無かった。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>３．行政とボランティア</strong></p>
<p><em>　</em>「湘南日本語の会」のボランティアが話していたように、自治会の「灰汁の強」い体質が、外からの支援を遠ざけていたという言説は、他の場所でも耳にすることがあった。</p>
<p><em>　</em>湘南市の国際室に出向いた時のことだ。「出張委員会」は1998年11月12日に、「挨拶まわり」で国際室を訪ねた。国際室は、湘南市役所の分庁舎にあった。分庁舎は、かつて市営保育園であった建物をそのまま再利用していることもあり、ゲタ箱やドアの背丈が低く、椅子や机、トイレのサイズも幼児用であった。海外との国際交流も推進していく部署であるのに、どこか周辺的な匂いのする場所でもあった。</p>
<p><em>　</em>分庁舎では、国際室の室長と、委員の小野寺さんが待機していた。小野寺さんは、国際交流協会の日本語ボランティア代表として呼ばれていたようだ。席につくと、「外国籍市民相談窓口」と書かれた資料が配られる。国際室の室長が、1999年度から行われる予定の事業説明をした。団地の人々が、「どうせ作るなら、湘南団地に作れ！」と声を荒げていた「それ」のことだ。しかし、室長は、団地については一切触れなかった。</p>
<p><em>　</em>次いで、市社協の国武さんが、市社協の事業と湘南団地を訪問した経緯を説明。新原先生が、「団地の中で日本語教室を作ることになった場合、モデル地区として、市役所からも協力を得たいと考えている」と切り込む。すると、小野寺さんが口を開いた。</p>
<p><em>　</em>「私たちも、日本語ボランティアとして、団地で何かせねばと思ってはきたんだけれど、なかなかそこまで手が回らなかったというのが本音です。湘南団地の外国人の人々を支援したいのだけれど、その前に、団地の自治会との対話が難しいんですよ。なんというか、自治会の考え方は少し古いところがあるというか、外国人を管理しようとする部分が強いし、自治会長の体質も硬いっていうか、でしょ？ なかなかコミュニケーションがうまくとれないところがあって、それが壁になっているという感じもしてます」</p>
<p><em>　</em>その場にいる誰もが、自治会長の「灰汁の強さ」は知っていた。「外国人を管理しようとする」「体質も硬い」「なかなかコミュニケーションがうまくとれない」…　その通りだと思う。もっと言えば、「突然怒り出す」「急に怒鳴りつける」も、加えられるだろう。しかし、なぜだろうか。私はこの時、小野寺さんの話を聞いていて、正直、不愉快だった。</p>
<p><em>　</em>小野寺さんは、話を続けた。</p>
<p><em>　</em>「それに、国際交流協会と『湘南日本語の会』は、協力してやってくことが難しいように思う。『湘南日本語の会』は、『行政として何もしてくれない』と、国際交流協会に幻滅しているところがある。だから、国際交流協会の日本語ボランティアが協力するにしても、『湘南日本語の会』とは、期間を区切って、2年間交代で団地にかかわるなどの方法を考えて欲しいなと思っています。あと、『湘南日本語の会』に話に行く時は、自治会を通してじゃなくて、外国人に協力してもらって協力を求める方が上手く行くでしょうね」</p>
<p><em>　</em>地域の日本語ボランティア同士も距離をとりあっている様子だった。しかし、その中でも、団地自治会とのかかわりを避けようとする意志は、特別に強いものに感じられた。小野寺さんに限らず、「湘南日本語の会」のボランティアも、前述した通りである。「外国人の支援はしたいが、団地自治会とはかかわりたくない」のだ。</p>
<p><em>　</em>なんとも言えない不快感に襲われていると、国際室の室長が、矢継ぎ早にこのように発言した。</p>
<p><em>　</em>「行政もこれまで、湘南団地には関与してこなかったというのが、反省すべき点だと思っております。しかし、行政の事業は、公的サービスを提供するのが目的でありますので、なかなか特定の地域だけに関与するということは難しいというのが現状です。特に、湘南団地という場所は、湘南市域においても、少し特殊な場所であるといいますか、もともと団地入居者は階層が低いというイメージがありますし、また、在住外国人や、インドシナ難民が多く住んでいるということで、他の地区とは少し異なるという感覚もございます。ですので、そこだけにサービスを集中させるということになりますと、正直、湘南市民たちの抵抗があるという事情もございます」</p>
<p><em>　</em>とても丁寧な口調だったが、発言の内容はどこか差別的に聞こえた。湘南団地以外で暮らしている外国人住民に対しても、満遍なく支援が行き渡るようにすることが行政の役割だということは理解できた。しかし、そのように、広く均一的に支援を行き渡らせるのと「同時」に、外国人が集住する地域に特化したサービスを展開したとしても、おかしくはないだろう。</p>
<p><em>　</em>それができない理由として、もともと他の地域からは疎んじられていた場所に、特別な支援が入ると、市民たちから「平等ではない」と苦情がくるということをあげていた。そのような「市民たちの抵抗」と表現されたものに対し、差別のような匂いを感じたのだ。団地を忌避する住民意識を理由に、行政が「中立」を装いつつ、無関与を続けるならば、団地はますます孤立していくばかりだと思った。</p>
<p><em>　</em>室長は、ダメ押しをするかのように、急いでこう付け加えた。</p>
<p><em>　</em>「直接、湘南団地の方へ行政が顔を出すのは避けたいと思っています。ボランティアを支援するような形で、下地を作ることには、ご協力したいと考えております」</p>
<p><em>　</em>「あんなにも、自治会の人々は、行政からの支援を求めているのに」と、腹立たしい気持ちが沸きあがった。湘南団地を訪問した時の、自治会の人々の顔を思い出した。我々のような「行政らしきもの」に対しても、厳しい表情ながらも丁重に歓迎してくれた自治会。そして、「この機会を絶対に無駄にはしない」と、鬼気迫りながら団地の危機的状況を訴えていた人々の顔は、忘れることができない（第4～6回参照）。</p>
<p><em>　</em>新原先生は、すかさず、このように返した。</p>
<p><em>　</em>「湘南団地の方々は、この機会に、行政がかかわってくれるだろうと強い期待を持っています。ですので、2年くらいの期間は、僕たちが国際室の方へ顔を出すようにいたします」</p>
<p><em>　</em>「顔を出さない」と宣言した相手に対して、「完全には逃げきれないようにする。そのためには労を惜しまない」と言ったのだ。しかし、国際室室長は、困った表情をしながら、「はい… 　はい…」と、あいづちを打つだけだった。</p>
<p><em>　</em>なんとも生ぬるい反応を見ながら、心がざらついた。そして、「顔を出すのは避けたい」と言った行政よりも、「外国人の支援はしたいが、自治会とはかかわりたくない」と言っていたボランティアの方が、「まだまし」のように思った。</p>
<p><em>　</em>小野寺さんらボランティアの発言には、多少なりともその背後に、外国人や「灰汁の強」い自治会の人々の顔が見えるような気がした。一方で、室長の発言からは、自治会の「灰汁の強さ」さえも捨象され、無関与の姿勢が強くにじみ出ているように感じたからだ。</p>
<p><em>　</em>このようなやりとりを目にして、行政が直接的に関与するのは無理だとしても、日本語ボランティアならば、「もしかすると団地に協力してくれるかもしれない」と期待するようになった。同時に、「自治会の人々がもう少し態度を改めてくれさえすれば」と思った。そして、その後、小野寺さんらが運営している日本語教室に足を運び、実際にボランティアの手伝いをしながら、彼らが団地に来てくれることを密かに願うのだった。</p>
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<p>【団地をとりまく組織の相関図（1998年７月～1999年1月）】</p>
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<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-2075" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/05/団地をとりまく組織の相関図（1998年７月～1999年1月）.png" alt="" width="2374" height="2373" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/05/団地をとりまく組織の相関図（1998年７月～1999年1月）.png 2374w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/05/団地をとりまく組織の相関図（1998年７月～1999年1月）-300x300.png 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/05/団地をとりまく組織の相関図（1998年７月～1999年1月）-1024x1024.png 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/05/団地をとりまく組織の相関図（1998年７月～1999年1月）-150x150.png 150w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/05/団地をとりまく組織の相関図（1998年７月～1999年1月）-768x768.png 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/05/団地をとりまく組織の相関図（1998年７月～1999年1月）-1536x1536.png 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/05/団地をとりまく組織の相関図（1998年７月～1999年1月）-2048x2048.png 2048w" sizes="(max-width: 2374px) 100vw, 2374px" /></p>
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<p>［© Kanae Nakazato］</p>
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<p>※アプリ「編集室 水平線」をインストールすると、更新情報をプッシュ通知で受けとることができます。</p>
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			</item>
		<item>
		<title>第9回　「湘南プロジェクト」の「始まり」（3）</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/nakazato-kanae/2067/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 08 May 2023 08:00:23 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[中里佳苗]]></category>
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					<description><![CDATA[４．団地自治会の「道」 　「外国人の支援はしたいが、自治会とかかわりたくない」と言って、団地には近寄らずにいた小野寺さんも、とうとう団地にやってきた。団地に日本語教室が開設された直後の、1999年1月29日のことだ。また&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/nakazato-kanae/2067/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第9回　「湘南プロジェクト」の「始まり」（3）</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><strong>４．団地自治会の「道」</strong></p>
<p><em>　</em>「外国人の支援はしたいが、自治会とかかわりたくない」と言って、団地には近寄らずにいた小野寺さんも、とうとう団地にやってきた。団地に日本語教室が開設された直後の、1999年1月29日のことだ。また、日を別にして、小野寺さんと一緒に国際交流協会でボランティア活動をしていた人々も、団地の教室を数回訪れている。</p>
<p><em>　</em>団地に新設された日本語教室には、当時、日本語教育の資格と経験を持った「プロ」の教師が携わっており、ボランティアはその教師の授業を見学していた。小野寺さんは見学後、自身の日本語教室にて、「自分たちもあそこまでできなくてもいいから、テキストを進めるだけじゃなく、色々な試みをして、面白い日本語教室にしていこう」と提案していた。持ち帰った知的な刺激を、自分たちの活動に活かしていたようである。</p>
<p><em>　</em>しかし、いずれの来訪も、「見学」にとどまった。彼らが、このような「見学」ではなく、団地の日本語教室にかかわる「ボランティア」として教室を訪れることは、一度もなかった。そして、小野寺さんは、顔を合わす度に、「湘南団地は遠いから行けない。他にやりたいこともあるし。もっと遠くから来ている新原先生たちには悪いけど」と言うのだった。</p>
<p><em>　</em>「もしかしたら協力してくれるかもしれない」と期待していた私であったが、徐々に、「湘南市の日本語ボランティアが団地に来ることは難しい」と、肌で感じるようになった。また、行政よりは「まだまし」と思った彼らもまた、行政と同じように、団地と距離を置きたい意識を固持しているのではないかと考えるようにもなった。</p>
<p><em>　</em>これは、私の中の「ボランティア」、すなわち、ボランティアに同調し、実際にボランティアとして活動していた自身の態度や思考を振り返っての、自罰的感情の吐露にすぎないのかもしれない。しかし、以下のような清水会長とのやりとりから、私が考えたことをここにまとめておきたいと思う。</p>
<p><em>　</em>それは、団地に開設された日本語教室で行われた、外国人中心のパーティでのことだ。カンボジア料理、ベトナム料理といった外国の料理がテーブルに並び、各国のダンスや音楽で盛り上がっていた。清水自治会長が遅れてやってきたので、私は外国の料理を皿に盛り付け、差し出した。その皿を見て、会長はおもむろに、こんな話をしたのだった。</p>
<p><em>　</em>「今まであらゆる場所で、『外国人との共生』とかについて話をしてきたけれど、自分は外国人の作る料理に一切口をつけたことがない。ご馳走されても、食べたことがないのだよ。美味しいのか、不味いのかも分からない。口をつけたことがないのだから。たいがい、こういう活動をやっている人は、外国が好きなのかもしれないが、私にはどうしようもない限界がある。偏見だとか言われても、仕方ない。だからといって、外国人のために何もしないというわけにはいかなかった。対外的には、一生懸命に彼らのために話そうと思って、駆けずり回ってやってきた。私の言うこと、分かるかな？」</p>
<p><em>　</em>ちょっと意地悪な口調だったが、優しい表情をしていた。清水会長は、そんな話をしたことなど、さらさら覚えていないだろう。しかし、その内容が、いつまでも心に残って、私の中の「ボランティア」を揺さぶり続けた。</p>
<p><em>　</em>「外国人のために」「外国が好き」「外国人を支援したい」と言っている「ボランティア」は、「外国の料理を喜んで食べる」と思う。外国の文化を尊重し、好意的な態度で外国人に接するだろう。だが、その一方で、「ボランティア」は、「遠いから」と団地に行かないこともできるし、「コミュニケーションが難しいから」と、そりの合わない人や厄介な出来事と距離をとることもできる。</p>
<p><em>　</em>対して、清水会長をはじめとする自治会の人々は、「遠いから」と団地に行かないことはできないし、「好きではない」と言って、隣に住む外国人が抱えている問題を無視するわけにもいかなかった。自治会は、ありとあらゆる問題を持ち込んでくる外国人の話を、辛抱強く聴き続けてきた（第4～6回参照）。</p>
<p><em>　</em>彼らが接してきた外国人のなかには、自らも騙されて詐欺まがいのことをしかけてくる人や、金を借りたまま返さない人、酔いつぶれて喧嘩を繰り返す人たちもいた。実際に、湘南団地の日本語教室にも、「明後日までに家賃を振り込まないと追い出される」といって金の無心をする人や、不法就労して収監された親族を助けたいといった相談を持ち込んでくる人もいた。正直、「灰汁の強さ」で言ったら、自治会の人々以上かもしれない。そのような外国人とのかかわりを真正面から引き受けていたのが、団地の自治会だった。</p>
<p><em>　</em>「寄り添う」という言葉には、どこか優しいイメージがあるが、団地自治会の「寄り添」い方は、時には厳しく叱ったり、あちこちで起こる喧嘩を、身体をはって止めに行くなど、激しさのあるものだった。言葉も通じない、主張の強い外国人との付き合いでは、「強さ」が無いと負けてしまう。外国人を好きにはなれず、偏見を抱いていたとしても、「同じ住民だから放ってはおけない」と言って手を貸し続けることも、「寄り添う」ということだ。たとえそれが、傍から見たら、「灰汁が強」く、不器用で粗暴な「流儀」であったとしても。</p>
<p><em>　</em>そのような自治会の人々を前にして、「体質が硬い」「考え方が古い」「管理的」「差別的」「コミュニケーションが難しい」と言ったボランティアは、一体、何を見ていたのだろう。また、「外国人は支援したいけれど、自治会とはかかわりたくない」と言った時の「外国人」とは、自治会が日々顔を突き合わせてきた外国人と、同じ人々を想像できていたのだろうか。彼らの支援したい「外国人」とは、厄介ごとは持ち込まないで、日本語を教えるだけで感謝してくれる「都合のいい何か」ではなかったか。</p>
<p><em>　</em>様々なボランティアが、自治会の「灰汁の強さ」を理由に、湘南団地にかかわることができなかったと話していた。しかし、団地を孤立させた原因は、ボランティア側にもあったのではないかと思う。</p>
<p><em>　</em>団地を「島」と表現していたように、もともと地域の中に存在していた、団地と距離を置こうとする意識に、ボランティアは囚われていたように思う。そのことに無自覚であったが故に、団地自治会と外国人との独特な関係を理解する前に、自治会への表面的な批判に傾いてしまった。あと一歩踏み込んで、自治会の人々がしてきた「寄り添」い方を理解しようとしていたならば、同じ方向を向いて、外国人支援を行えたのではないだろうか。「自治会の人々がもう少し態度を改めてくれたら」と思っていた私も、なんと盲目的だったのだろう。</p>
<p><em>　</em>ここでもう一度、湘南プロジェクトの「始まり」を思い返してみたい。清水会長は、団地に日本語教室を作ることが決まった瞬間、うなだれて、肩をおとした。背中を丸める会長の様子が、私には意味不明だった。だが、今なら少し分かる。あの時、清水会長は、好きでもない「他者のため」に、何かをまた一つ、背負ったのだ。</p>
<p><em>　</em>外国人の作った料理を口にしたことが無く、日本語ボランティアからは「差別的」と言われた団地自治会長が、最も、差別から離れた「道」を歩んでいた。少なくとも、自分が持っている差別や偏見に、清水会長は自覚的であった。自覚をした上で、外国人たちを、自分たちなりのやり方で、真正面から受け容れ、支え、代弁し続けた。その自治会の人々の一つひとつの選択は、差別から、最も遠く離れたものだった。</p>
<p><em>　</em>「湘南プロジェクト」は、このような自治会の人々が歩んできた「道」を理解し、また理解しようとして、その「道」に引き込まれ、惹きつけられた人たちによって作られた。その「始まり」は、今も思い返すたびに苦々しい感触が蘇ってくる。しかし、それは、確かな重みのある、忘れ難い一歩だった。</p>
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<p>［© Kanae Nakazato］</p>
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<p>※アプリ「編集室 水平線」をインストールすると、更新情報をプッシュ通知で受けとることができます。</p>
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]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>第10回　「生きた吹き溜まり」――日本語教室が産まれた土壌（1）</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/nakazato-kanae/2266/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 03 Aug 2023 06:06:31 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[中里佳苗]]></category>
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					<description><![CDATA[1．新章への「立役者」 　「始める」ことが宣言された後の「湘南プロジェクト」は、周囲を少しずつ巻き込み、その「渦」を拡げ、周囲の人間関係に変化をもたらしながら、湘南団地に深く足を踏み入れていくことになる。それは、「旋風を&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/nakazato-kanae/2266/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第10回　「生きた吹き溜まり」――日本語教室が産まれた土壌（1）</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><strong>1．新章への「立役者」</strong></p>
<p><em>　</em>「始める」ことが宣言された後の「湘南プロジェクト」は、周囲を少しずつ巻き込み、その「渦」を拡げ、周囲の人間関係に変化をもたらしながら、湘南団地に深く足を踏み入れていくことになる。それは、「旋風を巻き起こす」といったイメージとは少し異なり、小さなつむじ風によって、煽られ、はぎ取られ、舞い上げられた葉っぱが、「でこぼこ」とした道端にひっかかり、翻りながら「吹き溜まって」いく様子に似ていた。</p>
<p><em>　</em>「渦」の中心には、これまで見てきたように、「在住外国人生活支援活動研究委員会」（以下、「委員会」）を主動してきた新原先生や社協の国武さん、団地自治会の清水会長らの尽力があったが、そのような動きを重要な場面で「後押し」し、加速化させた人物がいた。北条さんという、女性である。</p>
<p><em>　</em>私が北条さんと初めて会ったのは、1998年10月19日の「委員会」だった。この日はちょうど、団地自治会長による怒号が印象深い、「湘南プロジェクト」の「始まり」となった日でもある（第7回参照）。振り返ってみると、こうした「始まり」の場に、北条さんが初登場したということが、「新章」の訪れを暗示していたように思える。</p>
<p><em>　</em>この日の自分のメモには、北条さんの名前の横に、「アジア福祉教育財団・難民事業本部」と記してある。北条さんは、県社協の「在住外国人支援フォーラム研究委員会」のメンバーであり（第3回参照）、そのつながりから湘南市に招かれた。</p>
<p><em>　</em>北条さんは、腰まである真っ黒な黒髪を「おさげ」にして、デニムのワンピースにエスニック調の上着やバックをあわせていた。難民事業本部の職員にしては、ラフな出で立ちだったので、「本当に職員なのかな？」と疑問に思いつつも、彼女の話に耳を傾けた。</p>
<p><em>　</em>北条さんは、その日の議題であった「湘南団地に日本語教室を作る」という話に関連付けて、最初にこのような発言をした。</p>
<p><em>　</em>「湘南市についてですが、難民事業本部のコミュニティ活動として、昨年度、湘南団地の方に集まっていただき、相談会をしております。その時、相談員ということで、本部の職員や通訳も来ているはずです。また、カンボジアのお正月を行うなど、そういったコミュニティ活動もしています。</p>
<p><em>　</em>ただ、難民事業本部は、日本に最初に定住した時のケアを基本としています。アフターケアがない定住政策はないはずですが… 定住先の行政と難民事業本部がなかなか結びついていかないという課題があります。</p>
<p><em>　</em>しかし、難民事業本部の日本語事業としても、例えば、当事者からの要求があって、日本語教室を開催するためのボランティアを育成する、そして、県社協とこの委員会、また湘南市と市社協との合体で事業化するのであれば、具体的に考えてみたいと言っています。行政がきちっと入っていて、そこを拠点にして教室を作るといった形にできればいいのではないかと思います。」</p>
<p><em>　</em>北条さんが難民事業本部についての詳しい話をしていたので、「この方はやはり、難民事業本部の職員なのだろうな」と思った。北条さんの話を受けて、新原先生が返した。</p>
<p><em>　</em>「今の北条さんの話ですが、湘南市と市社協が、難民事業本部の方と相談して、湘南団地で何か具体的なことができないかということを詰めようと考えております。」</p>
<p><em>　</em>北条さんは、とてもよく通る声で続けた。</p>
<p><em>　</em>「それから、難民事業本部の担当者からの話で、『湘南日本語の会』の方たちが、団地から近い公民館で日本語教室をやっているとの話がありました。しかし、今回は団地の中での活動を希望していることと、行政の方からバックアップできるような形のものを展開できないか考えていること、そして、それが当事者の希望だということを、お伝えしておきました。今までとは違った形で、具体的に取り組めたらいいのではないかと思います。」</p>
<p><em>　</em>難民事業本部としては、団地の近隣で行っている日本語教室に、既に助成を行っているので、できればそちらと連携して欲しいというのが本音だったようだ。しかし、「湘南日本語の会」と協力関係を結ぶのは、実際には難しいものがあった（第8回参照）。そうした状況を踏まえて、北条さんは、湘南団地の中で教室を独自に進めたいという希望を、事業本部の担当者に伝えたのだという。</p>
<p><em>　</em>会議に先立ち、事業本部の担当者にあらかじめ話を通していた北条さんに、頼もしさを感じた。また、彼女の発言は、難民事業本部の事業のみならず、難民や外国人に関連する法律、そして自治体の制度に関して造詣が深く、高い「専門性」を、ひしひしと感じさせるものだった。湘南団地に「場」を作っていくにあたって、具現化のためのアクションを「後押し」してくれる存在だと思った。</p>
<p><em>　</em>改めて当時の記録を見返すと、湘南市社協の会議での北条さんは、「オブザーバー」という立場となっている。下を向いてメモをとっているだけの私と、同じ立場だ。しかし、彼女は、単なる「オブザーバー」にとどまらず、すでに新たな局面へのスタートダッシュをきる「湘南プロジェクト」の「立役者」となっていた。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>2．現場に知恵を与え、励ます</strong></p>
<p><em>　</em>北条さんが初めて「委員会」に参加した日、「出張委員会」は彼女を連れて、湘南団地を訪問した。この日は、「現地打ち合わせ会」の3回目であり、団地自治会長が外国人に向けて、「何度言っても何も変わらないと、あきらめるな！！ 　あなたたちの声が一番重たい」と叱咤激励した日でもある（第5回参照）。</p>
<p><em>　</em>会議は20時から始まった。ラオス・カンボジア・ベトナム・ブラジル・中国から7名の「外国人のリーダー」が集い、団地自治会長、事務局長、民生委員の面々が、ミーティングの場を準備してくれた。</p>
<p><em>　</em>北条さんを、外国人や自治会の人々に紹介する際、新原先生が「前回の約束通り、専門的な相談ができる方に来ていただきました。国のことや法律にも詳しいです。生活で困っている人は話してください」と言った。私も「難民事業本部の職員さんだから、とても心強い」と思いながら、ミーティングの場に座っていた。</p>
<p><em>　</em>北条さんが話し始めるや否や、「外国人のリーダー」や自治会の人々の反応が、大きく変わったことが印象に残っている。北条さんと外国人との間では、以下のようなやりとりが続いた。</p>
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<p><em>　</em>ラオスのリーダー：ラオスにいる家族を呼びたいが、どうすればいいですか？</p>
<p><em>　</em>北条さん：ベトナム人ならば、家族を呼ぶことはできるけど、カンボジア、ラオスの場合は、奥さんや夫、それから子ども…　20歳より下の人だけです。他の家族は、3ヶ月のビザだけ。そういう法律があります。呼び寄せた後は、品川にある救援センターで3ヶ月～4ヶ月暮らせます。センターでは、ただで日本語を学べます。後で、書類のコピーをあげます。</p>
<p><em>　</em>ラオスのリーダー：兄弟はだめですか？</p>
<p><em>　</em>北条さん：だめです。観光ビザのみです。</p>
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<p><em>　</em>この文字化された質疑応用では、北条さんの「専門性」はうまく伝わらないかもしれない。しかし、北条さんの返答をみて、その場にいた「外国人のリーダー」たちが、次々と、「喰い気味」に質問をし始めたことは、印象深く記憶に残っている。</p>
<p><em>　</em>北条さんは、豊富な知識を持っている上に、言葉のコントロールにも、非常に長けていたのだと思う。例えば、上のやりとりも、ベトナム人に対する1980年から2004年までのODP（合法出国計画）と、その他の国の難民に対する制度の違いを述べているが、外国人が理解しやすい言葉を選んで説明している。</p>
<p><em>　</em>とても的確で具体的な北条さんの返答は、外国人のみならず、その場にいた団地自治会の人々の気持ちも、少なからず動かすものだった。「出張委員会」に対し、いつも喧嘩腰で、疑心暗鬼な態度をみせていた自治会の人々も、北条さんと「外国人のリーダー」とのやりとりを横で聞きながら、徐々に態度が柔らかくなっていった。</p>
<p><em>　</em>例えば、このような場面だ。カンボジアのリーダーが、北条さんにこんな質問を投げかけた。</p>
<p><em>　</em>「専門学校とか大学で勉強をして、仕事をしたい。自分自身で勉強したいけれど、援助金は出ますか？」</p>
<p><em>　</em>この発言を聞くなり、民生委員の播戸さんが、「えらい！」と言って拍手をした。自治会の人々も、「うんうん」と頷いているのが見えた。ラオス人のリーダーが、その話に続いた。</p>
<p><em>　</em>「同じ気持ちです。小学校4年生しか出てないので、日本で会社入っても、労働ばかり。技術を身に着けたい。通訳とか、整備とか。」</p>
<p><em>　</em>北条さんの返答はこうだった。</p>
<p><em>　</em>「日本政府は、難民が日本に来た時、日本語と仕事の世話だけ。あとの援助はないです。インドシナ難民への奨学金はあるが、政府じゃないから、実際難しい。だから、私たちが声をあげていかないとね。」</p>
<p><em>　</em>カンボジアのリーダーが、「どこか納得できない」という表情で続ける。</p>
<p><em>　</em>「アルバイトしながらでも、勉強したいです。日本人は外国人を、日本語が分からないだけで、何も分からないと思っている。アメリカでは、政府から金がもらえて、勉強できる。県や日本の政府、そういうのがないのか？　なんでないの、とても残念。」</p>
<p><em>　</em>民生委員の播戸さんが、カンボジア人のリーダーの悔しい気持ちを汲み取るように、こう続けた。</p>
<p><em>　</em>「団地で隣に住んでいる外国人の少年が、夜間でもいいから勉強したいと言っている。本当のことだと思う。」</p>
<p><em>　</em>自治会の国際部長上野さんが、口を挟んだ。</p>
<p><em>　</em>「こういう意見をまとめて、県や国に出して、そうして動いていくことが必要ということだね。」</p>
<p><em>　</em>播戸さんが大きく頷きながらも、こう返答をする。</p>
<p><em>　</em>「でもね、小規模でもいいから、勉強したいと言っている人たちに、まずは教育の場を与えたいのよ。」</p>
<p><em>　</em>いつもは、皆の話を黙って聞いている清水自治会長も、珍しく、口を挟んだ。</p>
<p><em>　</em>「夜間学校の制度は、外国人は使えるのですか？」</p>
<p><em>　</em>北条さんが返事をする。</p>
<p><em>　</em>「使えます。湘南市には、商業高校に夜間学校があります。こういう情報を伝えるために、地域の学校の先生に協力してもらい、教育ガイダンスというものを開いています。団地にも来てもらえますよ。」</p>
<p><em>　</em>これを受けて、清水会長がこう答えた。</p>
<p><em>　</em>「団地では、日本語教室のような勉強する場所と、進学のための教育ガイダンスなどを提供できるといいのかなと考えています。」</p>
<p><em>　</em>清水会長は、自治会がやろうと思っていることを述べた。これまで、訪問時はいつも「あなたたちに何ができるか？」と詰問されるばかりだったので、自治会の考えを聞いたのは、これが初めてだったかもしれない。北条さんの返答一つ一つが、現場に知恵を与え、前向きに動けるように、励ます力を持っていたのだと思う。</p>
<p><em>　</em>私はそんな北条さんに魅了され、今後も湘南団地にかかわってくれたらと願った。しかし、「難民事業本部の職員だから、頻繁には来られないだろう」という残念な気持ちで、北条さんと団地の人々のやりとりを聞いていた。</p>
<p><em>　</em>ところが、この日の帰り道、この残念な気持ちは「いい意味」で覆された。北条さんは、難民事業本部の職員ではなかったのだ。団地からの帰り道、雑談中に北条さんが、「私もボランティアだから、偉そうなことはいえないけど」と言った。一瞬、耳を疑ったが、彼女は外国人支援にたずさわるボランティアであった。勘違いしていた自分を恥ずかしく思うと同時に、「専門性」の高い話をしていた彼女が「ボランティア」であるということに、一人密かに、衝撃を受けた。</p>
<p><em>　</em>北条さんは、長年、外国人の集住地域でボランティア活動を行いながら、神奈川県全域の支援ネットワーク作りを推進してきた活動家だった。「行政を巻き込まなきゃだめよ」と口癖のように言っていた彼女は、難民事業本部のみならず、自治体や市の関連諸機関ともつながりが深い人物であった。</p>
<p><em>　</em>とはいえ、先に見たように、会議に先立って難民事業本部の担当者にかけあうことなどは、通常のボランティアでは、なかなかできないことでもある。現場から声をあげて社会を変えていこうという姿勢を、彼女はずっと貫いていた。</p>
<p><em>　</em>そんな彼女が、今後もしばらく「湘南プロジェクト」に関わってくれることが分かり、私はとてもホッとした。実際にその後、北条さんは、自身の地域活動を一時期休止して、「湘南プロジェクト」に力を注いだ。彼女が湘南団地に足を運べた期間は、さほど長くはない。記録を見返すと、1998年10月から1999年12月までの1年強だ。だが、湘南を去った後も、いつも「湘南プロジェクト」を陰ながら支え、助言をし、見守ってくれていた、そんな存在だった。</p>
<p><em>　</em>送迎車が湘南の駅に着くと、北条さんは「ここから1時間半かかるわよ。ちょっとした旅よね」と苦笑いしながら、21時半すぎの電車で帰っていった。</p>
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<p>［© Kanae Nakazato］</p>
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