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	<title>新原道信 &#8211; 編集室水平線のオンラインマガジン　雨晴（あまはらし）</title>
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	<title>新原道信 &#8211; 編集室水平線のオンラインマガジン　雨晴（あまはらし）</title>
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		<title>第1回　“瓦礫”の予感（1）</title>
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		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 13 Apr 2023 00:04:58 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[新原道信]]></category>
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					<description><![CDATA[私たちの日常は過去と未来の“瓦礫”に満たされている。社会的大事件のみならず個人の病・死も含めて。 突然やって来る「それ」は、実はすでに客観的事実のなかに、いくつもの“兆し・兆候”として存在していた。わたしたちがただ、「そ&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/niihara-michinobu/1932/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第1回　“瓦礫”の予感（1）</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p style="padding-left: 40px;">私たちの日常は過去と未来の“瓦礫”に満たされている。社会的大事件のみならず個人の病・死も含めて。</p>
<p style="padding-left: 40px;">突然やって来る「それ」は、実はすでに客観的事実のなかに、いくつもの“兆し・兆候”として存在していた。わたしたちがただ、「それ」を見ようとしなかっただけだ。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>1．“瓦礫”の予感</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>1959年に静岡県の伊豆半島で生まれたわたしには、日本列島と朝鮮半島のあいだで、非対称の合わせ鏡のような境涯で育った同年代の友人がいる。友人の父親は、東京・深川で生まれ、1946年に「故郷」である済州島に「帰還」するも、1948年に済州島の四・三事件に遭遇し、親族で唯一の生き残りだった姉と二人、密航船で日本列島に辿り着いた。「故郷」では、村そのものの存在が根絶された。荒野と化した土地に埋まっている骨とそこに漂う想いを、なんとか次の世代に伝えようと格闘したが、2000年に倒れ、この世を去った。</p>
<p><em>　</em>わたしの父親は、薩摩半島から中国大陸・朝鮮半島へとわたった一族で、1926年9月11日に朝鮮半島・全羅北道・群山（クンサン）に移民三世として生まれた。幼少期・青年期を、白村江の古戦場近くのこの港町で過ごしたが、海軍に入隊するため1944年に海峡を渡り、長崎県・川棚で特攻隊の訓練を受け、出撃を待ちながら敗戦を迎えた。敗戦後は、「異境」の地である日本列島をさすらった。戦後しばらく働いていた東京・目黒で見た「戦災孤児の眼光が忘れられない」と話したことがあったが、その生の軌跡の多くを語らず、1999年に伊豆半島で生涯を閉じた。</p>
<p><em>　</em>わたしと友人は、朝鮮半島の港町を故郷とする「『外地』出身の引き揚げ者」と、「江戸っ子」の済州島人の息子として、日本列島で生まれ育ったことになる。</p>
<p><em>　</em>友人が大学生となったとき、父親が懇意にしていた政治学者のもとに通うようになり、1927年生まれのその学者は、神田川沿いのビル街の「安楽」を遠望しながら、「この場所はかつて“瓦礫”の山だったんですよ。君たちには未来の“瓦礫”が見えますか」と言ったという。</p>
<p><em>　</em>わたしには、生涯の恩師となった1906年生まれの哲学者がいた。治安維持法で検挙され、敗戦後は瀬戸内の村に隠遁しようと思っていたところ、旧制一高の教授として東京に招かれ、焼け野原となった東京で暮らし始めた。恩師は、過去の体験を経験化しなければ、ふとした日常の小さな変化から、未来の焼け野原への暗転、「ペリペティア（突然、生身の現実に出会う瞬間）」が始まるという話をされた。体験とはただ生起したことがらが身体を通り抜ける（fahren）ことであるが、経験する（erfaren）とは、自らが体験したことがらを、痛みをともなう形で（「自己」の解体に直面し）、自らを切り刻み（analysieren）、ことがらを刻み込み・埋め込み、切り離すという道行きである。</p>
<p><em>　</em>わたしの恩師や友人の恩師には、その生きられた学問から、未来の“瓦礫”を“予見する（prevedere, prevision）”ところがあった。それぞれの父親たちは、特攻や密航、“瓦礫”と化した東京が身体に染みつき離れない世代である。そこから、“予見”とはいかないまでも、うっすらとした“予感（presentiment, presentimenti, Vorahnungen）”、あるいは、なんらかの“災厄へのdoomedな（ただ安心とはいえない）予感”があったのだろう。そしてわたしや友人は、その“予感”を引き継ぎ、過去と未来の“瓦礫”のあいだを「たまたま」生きながらえているという「うしろめたさ」の身体感覚（sensus corporis, corporeal sensation）があったのかもしれない。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>2．子どもの“予感”</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>わたしの盟友であり師でもあったイタリアの社会学者アルベルト・メルッチ（1943-2001）は、「私たちは、子どもたちへ、人間とは異なる種へ、そして伝統的文化へと目を向けることから始めることができる」（『プレイング・セルフ――惑星社会における人間と意味』ハーベスト社、2008年、197頁）と言った。メルッチによれば、子どももまた時代の空気を察し、“予感”するのである。</p>
<p><em>　</em>都市化や産業化、技術革新への期待が大きかった「高度成長」の時代、夢想癖のある子どもの常なのだろうが、自分の死、人類の滅亡、宇宙の死を考え涙していた。死や終末、破局について、浅い眠りのなかで、くりかえし同じ夢を見た。</p>
<p><em>　</em>たとえば、家族で伊豆の海で遊んでいる。透明度が高く、少し泳げば深い海となっていく。緑がかった明るい青色の透明な海の底を眺めながら、ひたすら沖へと泳いでいく。すると、かなりの深さの海底に、朽ちかけた階段があり、その階段は、海の底のずっと奥深くまで続いているようだった。階段の奥は暗くて見えない。気がつくと、その階段に引き込まれ、身体をつかまれるようにして深く潜っていった。濁った海水に満たされた真っ暗の階段を、下へ下へと降りていくのだが、なぜか呼吸は出来ている。なにも見えずに手探りで、深海へと階段を降りていくと、海底にごぼっと穴があき、突然視界が開け、そこには海底都市が拡がっていた。海底内の巨大な空洞の天空の、薄ぼんやりとした明かりに照らされたその都市は、よく見ると、巨大な廃墟であった。砕け散った窓ガラスが降り注ぐ高層ビル街を見上げつつ歩いていると、瓦礫に足をとられた。そのとき、ふとわれにかえった。「ああ、ぼくは、自分がまだ生きていると思っていたけれど、実はもう死んでいるのだ。現代文明は壊滅し、人類は滅び、いまでは残骸だけが遺されている。大洪水で海に没してしまった都市の廃墟のなかに、ぼくの骸骨が横たわっている。もし誰かが発見するのだとすれば、それは人類ではなく別の生命体なのだ」と気づいたところで、いつも目が覚めた。</p>
<p><em>　</em>あるいは、温暖で雪が降ることなどまずなかった伊豆の実家が雪に埋もれている夢を見た。暖炉を求めて、実家の応接室に見知らぬ人々が集まっている。「オレはフランク・シ<ruby>ネ<rt>・</rt></ruby>トラだ。オレはえらいんだから、暖炉に一番近い場所をよこせ」と叫ぶ体格のいい男性がいた。凍えている母親や赤ん坊もいるのにと思い、「みんなたいへんなのに、なぜそんなことを言うんだ！えらいもなにもあるものか！」と叫んだ。わたしの隣で膝を折り曲げ座っていた痩身の老人が、「そんなことを言うのは、あなたもお父さんと同じで、この星の人間ではないんですね。あなたのお父さんは、別の星から来たのだけれども、いまこの地球の異常気象をつくりだした人たちと戦っているのですよ」と言って、窓の外を見るよう促した。吹雪でよく見えない外の景色に、閃光が走り、焼け焦げた父親の身体がもんどりうつのを見た。人肉が焦げる匂いがした。受け入れてもらえぬ社会の「捨て石」となって死んでいく父親をもった息子なのか、と思ったときに目がさめた。海底の廃墟へと降りていく夢、徹底して「よそ者」である自分を思い知らされる夢に何度も出会ったのは1967年頃から1972年頃にかけてのことだった。</p>
<p><em>　</em>社会は、「成長」のまっただ中で、誰もが真面目にひたむきに息を合わせて「拡大」へと邁進しているように見えた。全国総合開発計画の地図を眺め、わたしが暮らす伊豆の田舎町までもが都市化していって、地球上には都市しかなくなるのではないかと考え、恐怖した。その「清潔なる帝国」に自分の居場所はあるのだろうか。きっとその「進歩」や「発展」からは取り残され、落としこぼされ、何かのちょっとしたきっかけで、「捨て石」となり、「トカゲのシッポ」として切り捨てられるだろう。「魔女狩り」の対象となり根絶・排除されるのではないかという感覚があった。“終わりの予感（doomed premonition, premonizione dell&#8217;apocalisse）”、「あたりまえ」だと思っていた日常が、たやすく“瓦礫”へと急転するという“（うっすらとした）予感”、「いまの自分の生活はうたかたの夢物語だったのだ」と実感させられるときが当然来るという“悲運の予感”であった。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>［© Michinobu Niihara］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>※アプリ「編集室 水平線」をインストールすると、更新情報をプッシュ通知で受けとることができます。</p>
<p><a href="https://suiheisen2017.jp/appli/">https://suiheisen2017.jp/appli/</a></p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>第2回　“瓦礫”の予感（2）</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/niihara-michinobu/1937/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 13 Apr 2023 00:05:36 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[新原道信]]></category>
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					<description><![CDATA[3．“予感”の背景 &#160; 　子どもの頃の“予感”には、“背景（roots and routes）”がある。このオンラインマガジンの編集者である西浩孝さんに、『境界領域への旅――岬からの社会学的探求』（大月書店、2&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/niihara-michinobu/1937/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第2回　“瓦礫”の予感（2）</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><strong>3．“予感”の背景</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>子どもの頃の“予感”には、“背景（roots and routes）”がある。このオンラインマガジンの編集者である西浩孝さんに、『境界領域への旅――岬からの社会学的探求』（大月書店、2007年7月）という本をつくっていただいたことがある。同書の「過去と未来の『瓦礫』の間で」という一章で、東京大空襲のことを書かせてもらったのは、母親のことがあったからだ。わたしの母親は、1927年8月15日に東京で生まれ、1945年3月10日の東京大空襲で「たまたま」隅田川の遺体とならず、特攻隊の生き残りだった父と出会い、わたしを生んだ。</p>
<p><em>　</em>都市が「全面的」で「壊滅的」な攻撃の対象となり、「証人」が生き残ることのない「無差別」な攻撃は、効率的な破壊と殺傷のための「知」の結集の成果であった。計画した人間や1万メートル上空から爆撃した人間は、生き残る確率が高いが、だんだん近寄ってくる爆音を聞き、空を見上げた人間のほとんどは、即死か焼け死んでいる。母の小学校の同級生とその家族のほとんどが、瞬時にその生活、そのいのち、そこに生きていたという記憶もろともに一夜で消し去られた。</p>
<p><em>　</em>母が、生まれ育った浅草を、夫に付き添われ訪れたのは、「あの空襲の日」から60年以上も経た後のことだった。失われた「その街」を想いつつ、ふれないよう、考えないようにしていた。とまどい、逡巡し、どうにかやっと、それでも生きているうちに一度だけでも「帰ろう」と思い立ったときには、「あの日」をかろうじて生きのびた同級生たちは、すでに多くが亡くなっていた。</p>
<p><em>　</em>父がふたたび海峡を渡り、故郷の港町への帰還を果たしたのは、戦後40年ほど経た後のことだった。自分の祖父が建設にかかわった大講堂や市庁舎が、まだそのまま残っていたと喜んだ。しかし、あの頃の「その街」はそこにはなかった。日本帝国下につくられた日本人街や自分の父親が勤めた貿易会社は無かったものとなっていた。「8.9」の閃光を、長崎県・川棚の特攻隊訓練基地で目撃した父は、10月に体当たり攻撃をするはずが日本帝国の瓦解によって「たまたま」生きのびた。亡くなるまでに、「そのこと」を語ったのは、一度きりのことだった。</p>
<p><em>　</em>そのせいだろうか。子どもの頃から、自分の存在の不確かさ、「たまたま」生まれ育っていることの偶然性、「寄る辺ない」「片居」のものという感覚をずっと持ち続けてきた。小学生の頃、はじめて父親に、「なぜ特攻隊員になったの。死ぬつもりだったの」と聞いたことがあった。父は何も言わず、書棚から、吉田満の『戦艦大和ノ最期』と、真珠湾攻撃の総隊長・淵田満津雄の証言についての本を渡してくれた。子どもにはひどく難しく、手をふれればバラバラになってしまいそうな古い本だったが、なぜか心ひかれ、本のなかに吸い込まれるように頁をめくった。</p>
<p><em>　</em>「敗戦への道」と「華々しい開戦」。この“対位的（contrapuntal,  polyphonic, disphonic and displaced）”な贈り物は、ずっと謎かけとしてこころに残った。特殊潜行艇で真珠湾にむかい沈没してしまった兵士とたまたま助かり救助されてしまった兵士の写真、戦艦大和の沈没の後、重油の海で米軍機からの機銃掃射で、一人また一人と徳之島沖の海底に沈んでいく少年兵、その慚愧と慟哭が心を離れなかった。</p>
<p><em>　</em>父親はなぜ朝鮮半島で生まれたのか、その意味を考えることが、自分にとっては、人間と社会の意味を考えることだということを、『ホモ・モーベンス――旅する社会学』（窓社、1997年4月）という本で書いた。それを読んだ父は、なにも言わずに朝鮮半島からともに引き揚げた旧友の詩人・大野新さんに本を送った。しばらくして、父宛の手紙が届いた。父はまた、なにも言わず、その手紙をわたしに見せた。これがいつもの父との会話なき対話のかたちだった。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p style="padding-left: 40px;">・・・・・・道信氏のお仕事は、私などにとっては、考えも、実行する勇気ももたない学問（実行して体験するしかない学問）なので、ひたすら感嘆しました。特に84ページ（自分自身の“根”について）をよんだ時には、どきっとしました。貴兄はこんな息子をもって幸福なのか不幸なのか、私だったら引き揚げ以来潜在的に感じている、存在の傲慢さのような意識を、身体を張って償っているな、という思いで、一寸いたたまれなくなる思いです。「根」をさぐるということを、地球規模の、言葉としても単一ではないところでたしかめてくるようなことなど、病弱な胃腸の弱い私などは、想像するだけでたちすくんでしまいます。交通事故をおこして入院したり、「内なる異文化」をかかえて相互に流動化していくきっかけを感じるなど、生きた社会学そのものですが、これが自分からの流れだと思うと、ぴりっとさせられませんか。文のなかには谷川俊太郎の引用もありました。私のような逼塞者は、ご子息の対談者とはなりえませんね。でもこういう無謀な行動を思いたち実行するのは、新原君の血族でしょう。でも、戦争に負けてよかったのは、世界をおそれない人たちがでてきたことですね。自分の書いたものを読みかえしてみると、セマイ！セマイ！と思わざるをえません。貴兄も脳のゼンカ者ですが、お互い、飲みながら死にべたでいましょう。私のことを道信氏にあまりセンデンしないようにして下さい。　大野新」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>4．ふれる重さ</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>これは、『境界領域への旅』の「あとがき――社会学以前の不随意筋と髄液について」でも紹介させていただいたお手紙である。大野さんがおっしゃる「身体を張って償っている」は、父親の世代が語れず／語らずにいたことがらの扉をこじ開けることでもあった。ふれることがそのことがらにかかわるすべてのものの魂を汚すこともかもしれないと識りつつ、自らの手を汚すという“良心の呵責／罪責の感覚”である。</p>
<p><em>　</em>そのことに気づいたのは、『複数の沖縄――ディアスポラから希望へ』（西成彦・原毅彦編、人文書院、2003年3月）というアンソロジーに参加させていただいた後、編集者のOさんに下記のようなお手紙を書くなかでのことだった。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p style="padding-left: 40px;">ごぶさたしております。お返事を書こうと思いながらなかなかそれもできずに昨日、イタリアより帰国してやっといま、時差ぼけ？のせいか夜半に目を覚ましてこのお手紙を書き始めました。・・・・・・ふれる（介入する）ということでいつも想起することがらがあります。大学3年生の時に、心身のバランスを崩し、伊豆で禅寺に通いながら「養生」していた時、朝鮮半島の群山という町で生まれ育った父親の旧制中学時代の友人が、韓国医師会の仕事だということで日本にやってきました。日本帝国のもと、旧制群山中学からソウル大学医学部に進学し、医師会の会長などを務め、全羅北道の「輝ける星」となった同級生でした。いまはなき日本帝国のもとに存在していた日本人街のあった故郷の港町からの来訪者であった韓国人夫妻を、父親にとっては「異郷・異境」の地である伊豆半島で出会った元教え子に運転手を頼み、箱根を案内しました。芦ノ湖の遊覧船に乗り、韓国人医師夫妻と私だけになった時、唐突に、おずおずと、しどろもどろな日本語で、「私は父親の一族もまた、あの戦争に加担したという想いを持っています。私はどのように償えばよいのでしょうか」と暴力的な言葉をなげかけました。</p>
<p style="padding-left: 40px;">夫妻は遊覧船の最後尾で、強い風にあおられながら、「もう、むずかしい日本語はしゃべれないけれど」と前置きした後に、「あなたのお父さんはよい友だちです」とだけ答えました。そして、別の同級生、いまでは、地元の校長会のまとめ役となっている友人と父親が再会した時、「二人は言葉もなく、ただ抱きあって泣いたのですよ」という話をしてくれました。二人は日本人と朝鮮人双方の喧嘩の総大将だったのだということでした。これは当時の私にとって、加害の物語でもカタルシスにも回収されない不可解な応答でした。</p>
<p style="padding-left: 40px;">その時、気づいたことは、父親が朝鮮半島で生まれ育ったということ、これは両親たちの世代の問題なのではない。わたしの世代がどう生きるかの問題なのだ。遮蔽しようと思えば、閉じたままでいようとすればいられる問題に、扉をこじ開け、介入し、周囲の人間を巻き込み、ズタズタにして、敗北するしかない隘路へと身を投げ出すか否かという問いかけなのだということに気づきました。</p>
<p style="padding-left: 40px;">それは、「自分」の“背景”に在る“根本問題（fundamental problem）”を切り出すこと、身を切ることで自分もかかわったひとも血を流すことになるような「無謀な行動」、問題意識のインヴェンションです。このあきらかなる介入（intervento）の暴力を自覚し、罪責感とともに“識る”ことの「業」を引き受ける（übernehmen/assumere）こと、遮蔽しようと思えば出来ないことはないと思われることがら、ふれることの重さをあえて境界を越えて選び取る（die Verantwortung nehmen/ assumersi la resposabilità）ことなのだと、それ以来思うようになりました。・・・・・・</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>5．“瓦礫”の出現の前で</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>「9.11」の後、“未発の瓦礫（rovine nascenti,　nascent ruins）”を意識しながら書いた『境界領域への旅』では、2005年5月9日の「ヨーロッパの戦勝記念日」への「ひっかかり」を書いた。「ベルリンを解放した」ロシアの「対独戦勝記念式典」に、アメリカ、フランスなどの「戦勝国」の首相・大統領のみならず、ドイツ、日本、イタリアといった「敗戦国」の指導者が列席し、「自由のために戦った兵士」を「追悼」し、「自由を愛するものたちの勝利」を祝福した。この大同団結の「祝福」の背後に在る“特定の場と時間に生起したことがらを忘却する性向（amnesia）”がもたらすかもしれない新たな災厄への“予感”があったからだ。“予感”“予見”を書いたつもりの作品だった。</p>
<p><em>　</em>2010年4月から2011年3月まで家族をつれて、「第二の故郷」サルデーニャに滞在したが、滞在生活の最後に「3.11」が起こった。迷い抜いた末、急遽3月14日に帰国した。その後しばらくは、親たちから引き継いだ過去の“瓦礫”の情景がよみがえり、くずおれてしまっていた。</p>
<p><em>　</em>“瓦礫の出現（rovine emergenti, emerging ruins）”に直面し、“予感”し“予見”していたことに対してなにもなし得なかったことを後悔した。本当に遅ればせながら、いま直面している人間と社会そのものの“内面崩壊／亀裂（degenerazione umana/spaccatura antropologica）”を考え、“書き／描き遺す”ことをしなければと考えた。</p>
<p><em>　</em>鈍く、なかなかうごかないこころと身体のまま、西さんに叱咤激励され、なんとかチェルノブイリの日にむけて、「死者とともにあるということ・肉声を聴くこと――2011年3月の震災によせて」メールマガジン「大月書店通信」第28号（2011.4.26）」という文章を書いた（http://www.otsukishoten.co.jp/news/n2274.html）。そしてやっと、近しい日本のひとたちに、以下のようなメールを送った。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p style="padding-left: 40px;">イタリアを発つ前に、信頼できる複数のひとたちと原発の状況について話をしました。チェルノブイリ以降の状況から多くを学び、イタリアの４基の原発の廃止運動とかかわった友人たちは、「少なくとも奥さんと娘はイタリアに残せ」と言いました。その理由は、チェルノブイリの事故の後、雨が降ったコルシカやサルデーニャの村で、しばらくしてガンや白血病で亡くなったひとが出たこと、十年二十年経て、因果関係は証明できないが、あまりにも多くの知人・友人が、悪性腫瘍で亡くなっていることがあったようです。</p>
<p style="padding-left: 40px;">ヨーロッパのひとたちのすべてとはいいませんがそれなりの数のひとたちはチェルノブイリの記憶がのこっているはずです（イタリアの新聞のほとんどは、世界終局を描いたヨハネ黙示録を意味する言葉を用いて「日本の破局（L&#8217;Apocalisse del Giappone）」という表現をしていました）。すでにかなりの数の外国人の友人は、大使館のすすめで新潟や名古屋から日本を「脱出」しました。</p>
<p style="padding-left: 40px;">ほとんどの人間が息をあわせて「『安楽』の全体主義」（藤田省三）へと向かい始めた1980年代の流れをなんとか少しでも抑止することに力をこめようと考え行動してきたつもりでした。にもかかわらず、「わたしたちはまだ（放射能に）汚染されてはいません。同じ国の人間です」という悲痛の声を生み出したことに、地域社会の現実から学ぶべき者として、忸怩たる想いでいます。</p>
<p style="padding-left: 40px;">盟友・メルッチが言っていたように、この惑星と人間そのものの未来に責任をもたねばなりません。あらためてそう強く感じています。いまは亡きメルッチの奥さんのアンナ夫人ともメールにて頻繁にやりとりをしました。メルッチなら、「いまこの場で、惑星そのものの命運を考え、具体的に懸命に行動しなさい」というでしょう。</p>
<p style="padding-left: 40px;">わたしが、チェルノブイリ原発事故の少し後にサルデーニャに行ったのは、グラムシの故郷ということもありましたが、それだけではありませんでした。サルデーニャに行く前、沖縄の現実にふれる機会をいただいたわたしは、サルデーニャもまた、ヨーロッパ有数のリゾート地とNATO の演習場が隣接し、北東部に位置するラ・マッダレーナ群島には原潜を修理する基地があり、放射能による海域の汚染が危惧されている――その不条理がとても気になったからです。</p>
<p style="padding-left: 40px;">チェルノブイリ原発の事故後、「イタリアは安全だ。ただちに健康の問題はないが、子どもはなるべく外出しないほうがいい」というマスコミ報道が流され、他方で、事故直後に販売が禁止されていた生鮮野菜や牛乳に対する恐怖感とともに、「先日の雨や、いま食べているパスタから放射能が検出された」という情報が、研究者や環境保護団体などから届いていました。わたしが暮らした街サッサリには、イタリアの原発廃止運動を主導した若手知識人たちがいて、彼らの世話になり行動をともにさせてもらいました。帰国後しばらくは、日本では反原発の市民運動と歩調をあわせていました。だからなおさら、地震にともなう原発の事故を生み出してしまう社会の構築に加担してきたことに強い罪責感を感じています。</p>
<p style="padding-left: 40px;">あきらかなる介入の暴力を自覚し、罪責感とともにその自らの業を引き受けるしかないと思います。当初の問題意識をとりもどし、ふたたびうごかねばと強く感じています。そしていまこの社会／文明が直面している“劇的な収支決算（un bilancio drammatico）” の意味を、ごいっしょに考える機会が得られたらと切に思います。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>6．“瓦礫”のあいだを生きる</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>“劇的な収支決算”という言葉は、2001年9月12日に白血病で夭逝したメルッチの言葉だ。亡くなる一年前、骨髄移植手術後をとらえて来日したメルッチは、身体から絞り出すように以下の言葉を遺してくれた。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p style="padding-left: 40px;">いまやカタストロフは、単に自然の問題ではない。単に核の問題でもなく、人間という種そのものが直面する、生体そして関係そのもののカタストロフとなっている。いわゆる「先進社会」のより先端部分で暮らすひとたちの半分が「悪性新生物（腫瘍）」という異物によって死ぬ。さらにその半分は、心疾患で死ぬ。これはまさに、現代社会のシステムがそこに暮らすほとんど四分の三の人々の生体に社会的な病をもたらすという“劇的な収支決算”となっている。この個々の生体のカタストロフという面から現代社会をとらえなおさねばならないと私は確信している。まだ多くのひとによっては語られていないことなのかもしれないが、この“生体的関係的カタストロフ（la catastrofe biologica e relazionale della specie umana）”は、まさにより深く根本的なものだ。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>このときメルッチは、“内にして外／外にして内（endo/esogeno, endo/exogenous ）”なる“瓦礫”に直面し続ける社会の行く末を、自らの“身実（身体をはって証立てる真実）”として捉えていたのだろう。</p>
<p><em>　</em>1986年と2001年、そして2011年、それからずっと、“内にして外／外にして内”なる“瓦礫”のあいだを生きているような感覚が生々しく続いている。2007年に『境界領域への旅』で“未発の瓦礫”への“予感”を書いた4年後、｢3.11｣に直面した。そしていま、地球規模の「経済危機」「気候変動」「災害」「パンデミック」「国際紛争」「核戦争」「遺伝子操作」のみならず、「心身の病」「虐待」「自傷」「他責・他罰」「ヘイト」「差別・抑圧」等々――“地球規模の諸問題（global issues）”と個々人の“深層／深淵（obscurity,oscurità/abyss,abisso）”に生起する“社会的痛苦／痛み（doloris ex societas, pain on society）”によって、日常生活者はたやすく“受難者／受難民（hominespatientes）”へと変異する。</p>
<p><em>　</em>“瓦礫”は、直接的には破片や屑（detriti）、倒壊した建物の残骸（macerie）であるが、遠景から見れば崩壊の跡の廃墟（rovine）である。ラテン語のruere［＝precipitare］から派生した「崩壊、破滅（rovina）」には、「虐殺」の含意もあり、「衰退、没落、衰亡、道徳的荒廃、壊疽、壊死（sfacelo）」がともなう。</p>
<p><em>　</em>ついさきほどまで、ふつうの日常的な営みがなされていた都市や地域に、なにかの「事件」が起こって「廃墟」となる。その「廃墟」は、“ひとごと（not my cause, misfortune of someone else）”から、すばやく“わがこと、わたしのことがら（cause, causa, meine Sache）”となる惑星地球規模の社会をわたしたちは生きている。</p>
<p><em>　</em>ほんの少し前までは、それはほのかでかすかな“兆し・兆候（segni, signs）”として立ち現れ、“未発の瓦礫”の“（かすかな声を聴く力としての）傷つきやすさ／攻撃されやすさ（vulnerability）”を必要とした。しかしいま、わたしたちは多発的な“瓦礫の出現（rovine emergenti, emerging ruins）”に直面し、“無関心（exterior-esse / fuori-esse/ indifferenza / fremd, not in my cause/lack of caring）”と“没思考／没精神（Gedankenlosigkeit/Geistlosigkeit）”、“没参加（dissociate/disengage oneself）”と“忘我・自失（raptus）”によって、固く閉じ、我身を守ろうとする。</p>
<p><em>　</em>「日常生活」を生きるものにとって、「想定外の」災害や事故、「予期せぬ」病気など、いわば“見知らぬ明日（unfathomed future, domani sconosciuto）”は、閉じたいと思っていた目をこじ開けるようにして「まったく突然に」やって来る。やって来る（avvenire）ものとして知覚される“事件（avvenimenti, events）”は、実はすでにそれに先立つ客観的現実の中に存在していたのであって、ただ私たちが、眼前の“兆し・兆候”に対して“選択的盲目（selective blindness, cecita selettiva）”を通していたにすぎない。</p>
<p><em>　</em>しかし、どこかで変な胸騒ぎや、ちょっとしたひっかかりとして、うっすらと感じるということがあるはずだ。知覚としては、「未だ発現していない」ものではあるが、“予見［的認識を］する”とはいかないまでも、やって来る“事件”の“兆し・兆候”を“うっすらと感じる（ahnen）”ことはあるのではないか。自分でも十分な「自覚」や「意識」をもたなかったとしても、非意識的に、“心身／身心現象（fenomeno dell&#8217;oscurità antropologica）”としては、かすかな“うごき（becomings, metamorfosi）”を起こしてしまっているのではないか。身体感覚としては、“感知し（percieving/sensing/becoming aware, percependo/intuendo/ diventando consapevole）”、“感応している（responding/sympathizing/resonating, rispondendo / simpatizzando / risonando）”のではないか。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>［© Michinobu Niihara］</p>
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			</item>
		<item>
		<title>第3回　“瓦礫”の予感（3）</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/niihara-michinobu/1940/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 13 Apr 2023 00:05:53 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[新原道信]]></category>
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					<description><![CDATA[7．いまなすべきことは &#160; 　ではいまなすべきことはなにか。生物としての生身の人間が、いかなる知性にとっても対応困難な現実に直面している。その一方で、組織化された人間がつくる社会の最先端にある組織は、そのまま自&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/niihara-michinobu/1940/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第3回　“瓦礫”の予感（3）</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><strong>7．いまなすべきことは</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>ではいまなすべきことはなにか。生物としての生身の人間が、いかなる知性にとっても対応困難な現実に直面している。その一方で、組織化された人間がつくる社会の最先端にある組織は、そのまま自己増殖し続ける。組織化／システム化／端末化した人間の身体が悲鳴をあげている。</p>
<p><em>　</em>『戦艦大和ノ最期』を書いた後、沈黙を保っていた吉田満が再び声を発したのは、日本の社会が臆面もない自己中心、自己満足、他者への徹底した無関心へと向かうことへの危惧からだったという。淵田満津雄は、世界の破局（apocalisse）を予言するイエスの「夏は近い」とタイトルで自伝を書いていた。</p>
<p><em>　</em>とるものもとりあえず、やむにやまれず、我が身を投じて声を発した二人は、ことに臨むにあたって“思行（思い、志し、想いを馳せ、言葉にして、考えると同時に身体がうごいてしまっているという投企）”のひとだったのだろう。</p>
<p><em>　</em>中村雄二郎は，近代科学と現実とのずれに対して、「本来は『主人公』であるはずの〈現実〉に即した臨床の知とは何か」という“問いかけ（interrogazione, ask questions）”の冒頭で、メルッチの考え方には、自らの「〈臨床の知〉に通じる考え方がある」（中村雄二郎『臨床の知とは何か』岩波書店、1992年、2-4頁）としている。わたしたちは、どのように、時代の〈現実〉に応答する“臨場・臨床の智（cumscientia ex klinikós, composite wisdom to facing and being with raw reality）”を紡ぎ出し、“織り合わせる（intrecciare insieme, weave together）”のか？</p>
<p><em>　</em>わたしたちが日々の暮らしを営む都市や地域が、いながらにして“異郷／異教／異境（terra estranea/pagania/confini estranei, foreign land/pagandom/ extraneous borders）”となりゆくなかで、“予感／予見（doomed premonition, premonizione dell&#8217;apocalisse/previsione, prevision）”しつつも無力で在り続けた自分に問いかけることがある――いま、この“未発の状態（stato nascente, nascent state）”のなかで、「これをやろうとしないでは死ねない(!!)」という“使命（professione, Beruf, calling, vocation ）”はなにか。なにを思い、志し、想いを馳せ、言葉にして、考えると同時に身体がうごいてしまっているという投企をする（pro-gettare）のか。生身の身体から発せられた声はどう聴きとどけられるのか。どのように自らの身体の声に気付くのかと。</p>
<p><em>　</em>大野新さんの「存在の傲慢さ」という言葉は、「ホモ･サピエンス」を自称する人間という「種」の傲慢さへの“問いかけ”として理解できる。文明は、欲望を全開にすることで自らの墓穴を掘る（「成長の限界」ではなく「成長」という限界である）。人間の「知（scienza）」の傲慢さについて、梅棹忠夫は、科学は「業」であり「罪」でもあることを自覚してコントロールする必要があると言った。梅棹は、「知」による「競争」「消滅」「破滅」を論理の必然として予見していた。文明は自分自身の存在を掘り崩すシステムだ。たとえば、感染症の拡大。資源の枯渇。人間は、その文明との間で、生存を賭けた競争のなかに投げ込まれている。「安全」「安心」の考え方自体が、人間の想定によってつくられているという限界を持つ。</p>
<p><em>　</em>安倍公房は、16世紀フランドルの画家ブリューゲルの「盲人に連れられて歩く盲人の群れ」から、人間もまた、鯨のように浅瀬に乗り上げ集団自殺してしまうのではないかと、人間と社会の未来を想像した（cf.『死に急ぐ鯨たち』新潮社、1986年）。</p>
<p><em>　</em>プログラムを生み出すプログラムを創出した人間は、社会というシステムを発明し、生物としての自らの閉じた定常系のシステムを破壊し革新するというアンビヴァレンス（ambivalence）を抱えることになった。脳のなかで再構成された「フィクション」であったはずの社会システム（たとえば資本や情報）は、独自の法則で運動を展開していく。生物としての人間は「例外」や「変異」によって進化するが、社会は「例外」を排除する。拡大された身体としての国家は機械化（官僚制化）していき、システム化された社会は、大量で高エントロピーの“造り出された廃棄物（invented refuse）”を生み出す。権力(パワー)は、自らの「統治性の限界（the Limits of Governmentality）」を認めず、その原因を「統治不能なもの（the ungovernable）」の側に求め、“異物（corpi estranei）”の根絶・排除へと向かう。では「ホモ・サピエンス」と自ら名のる存在はどこへ向かうのか？</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>8．これからの道行き</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>「想像をこえること」が生起・継起し続ける時代を私たちは生きている。「コロナ危機」のもとで、コロニアリズム／オリエンタリズムによる構造的差別（黒人差別、アジア人差別、医療者差別、感染者差別、「夜の町」差別、等々）が増殖している。</p>
<p><em>　</em>このままのパターン（制度と装置）でやっていけないことに気付かされたのに、いまなお、同じパターンで社会を続けていこうとしてしまう。マキャベリは「既存の秩序に支持者はいるが新しい秩序は支持されない」、ヤスパースは「人間というものは自己に加えられる非難に対しては、その非難が理由のあるものであろうとなかろうと、それを拒もうとしたがるものである」と言った。</p>
<p><em>　</em>梅棹は、「人文的な素人（humanistic amateur）」の「（理性ではなく）英智」に希望を託そうとした。“知慧（sapienza）”に対する“智恵（saperi）”と“智慧（saggezza）”、すなわち、“知慧（sapienza）”は“智恵（saperi）”にかなわないという感覚とともにある“智慧（saggezza）”への敬意である。フィールドワーカー梅棹もまた、“臨場・臨床の智”のひとだった。</p>
<p><em>　</em>異質性・多様性の「出会いの場」であったはずの都市が、地球規模の複雑／複合社会化によって、混沌・動揺、全方位的な流動化と同時に、異端・異物を排除・根絶する力を強め、“「壁」の増殖（proliferation of &#8216;barrier&#8217;）”の場となっている（新原道信「出会いの場」としての都市」『都市科学事典』春風社、2021年）。</p>
<p><em>　</em>このオンラインマガジンの“場（place, space, place, site, case, circumstance, moment, condition, situation ）”においては、過去と未来のあいだの、“内にして外／外にして内”なる“瓦礫”という観点から、わたしたちの日常生活の“場”である都市や地域の内実を目視していくつもりだ。とりわけ、徹底して他者を犠牲にする「超（スーパー）システム」（cf.多田富雄『生命の意味論』新潮社、1997年）としての都市、「20世紀末」後の都市が全方位的に展開する“見かけ倒しの拙速社会（società fittizia e rapida, fictitious and rapid society）”を捉えかえそうと思う。近代文明が地球規模の破局をもたらし、瓦礫が出現することの必然性について考えたい（たとえば、生後1、2年で死ぬチェルノブイリの犬たち、早逝するツバメたち、中野好夫『人は獣に及ばず』みすず書房、1982年などに即して）。</p>
<p><em>　</em>明治以降、そして敗戦後の戦後社会も、「超システム」への総動員のなかに位置づけられ組み込まれていれば「安心」を確保できるという「幻想」が存在し機能していた。それが“見かけ倒し”であったことを体感できるようになったとしても、わたしたちは過去の思考態度（mind-set）に縛られ、なんとか窮地をやり過ごそうと、身をよじらせ、過去の「模範解答」にしがみつき、切り離せる「シッポ」を見つけようとする。これまで蓄積してきた「知（scienza）」は、「切り離す」対象の“線引き（invention of boundary）”の理由を説明するための「狡知の知」として「活用」される。</p>
<p><em>　</em>全体システムの変動により、十分な防波堤とはならなくなった「シェルター」もしくは「温室」のなかで、よりよいポジションを確保するための努力にエネルギーが注ぎ込まれ、人間と社会の〈現実〉に対して、“故意の近視眼（intentional myopia, miopia intenzionale 意図的に目を閉ざし生身の現実に対して心に壁をつくる性向）”と“選択的盲目（現実から目をそらす性向）”を選択する。</p>
<p><em>　</em>窓の外に迫り来る暴風も濁流も、“没思行（inclination toward unreflecting, imprudent and inconsiderate carefreeness）”によって無き／亡きものとする。これもまた“線引き”である。しかし生身の身体は、暴風と濁流のなかで生命活動／精神活動を停止させ悲鳴をあげる。システムの痛み、システムがもたらす“心身／身心現象の境界領域（liminality、betwixst and between）”の“痛み／傷み／悼み（patientiae, doloris ex societas）”である。</p>
<p><em>　</em>ここでの“使命”は、特権への非意識的な「安住」（「安心立命」）、「『安楽』への全体主義」（藤田省三）によってもたらされる差別・抑圧、“痛み／傷み／悼み”の縮減（市井三郎）である。</p>
<p><em>　</em>メルッチは、子どものみならず、「人間とは異なる種」、そして（人間が自らの身体の「内なる惑星」を感じ地球環境に溶け込んでいるような）「伝統的文化」へと目を向ける」と言っていた。わたしもまたここを“基点／起点（anchor points, punti d&#8217;appoggio）”として、地球の、他の生き物の、他の人間の悲鳴を、“感知”し、“感応”する“臨場・臨床の智”を次回以降、考えていきたい。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p style="padding-left: 40px;">人間みなチョボチョボ、われもひとなりかれもひとなり、われもいきものかれもいきものなり、われもかれも、ものよりいで、ものにかえるものなり</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>［© Michinobu Niihara］</p>
<p>&nbsp;</p>
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			</item>
		<item>
		<title>第4回　“廃棄物の反逆”（1）</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/niihara-michinobu/2379/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 11 Sep 2023 21:23:25 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[新原道信]]></category>
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					<description><![CDATA[いかなる事実にも、いかなる出来事の新しさにも、あたかも絶縁体でしかないようなファナティシズムを別とすれば、八・六と八・一五は目本のファシスト的戦争劇における最大のペリペティアであった。主人公たちの頭と心のなかで「無知から&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/niihara-michinobu/2379/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第4回　“廃棄物の反逆”（1）</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p style="padding-left: 40px;">いかなる事実にも、いかなる出来事の新しさにも、あたかも絶縁体でしかないようなファナティシズムを別とすれば、八・六と八・一五は目本のファシスト的戦争劇における最大のペリペティアであった。主人公たちの頭と心のなかで「無知から知への急転」がそこで生じねばならないはずの「認識の場」であり、ドラマの窮極の意味が「そうであったのか！」というかたちで了解されるべきラスト・シーンであった。もとギリシャ語のペリペテイアは、ことに、悪しき状態への、人間的災禍への急変という意味をもつものであるが、八・六と八・一五のパニック、自己をも含めてこの国民の最大の災禍をかかるものとして率直にみとめ、つづいて、「最後に」このような「結果としてあらわれ」たものが「客観的現実のなかにすでにとっくに存在」していたことを承認し、この確認にもとづいてあの「本質」をたぐりだし、その「本質」への自己のかかわり合いを明らかにしようとすること、このことが責任性の問題一般が生じうる必須の条件なのである。</p>
<p style="text-align: right;">（真下信一「思想者とファシズム」『真下信一著作集　第２巻』青木書店, 1979年，165ページより）</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>1．2023年8月「8.24」の「処理水放出」と「3.11」のペリペティア</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>「そうであったのか！」――いまこの原稿を書いている2023年8月24日、東京電力福島第一原発からの「処理水の放出」が始まったとのニュースが流れている。8月25日には、海水のトリチウム濃度を調べた結果、「放出に伴う異常な値は出ていない」との説明がなされた。これから少なくとも「30年程度は続ける」とされる「放出」の瞬間を、「身が切られる」思いでただ見つめるひとがいることに、想いを寄せざるを得ない。</p>
<p><em>　</em>「わたしたちは、いま、そしてずっと、“未発の瓦礫（rovine nascenti）”“破局へと至る瓦礫（andare in rovina）”のなかにいるのだ。この“瓦礫や廃墟の切れっ端（rovinaccio）”、“瓦礫の出現（rovine emergenti, emerging ruins）”を“感知／感応”し、身体とこころを揺りうごかしているのか？」――そう問われている気がして、いてもたってもいられない気持ちでいる。</p>
<p><em>　</em>わたしの生涯の師である真下信一先生は、太平洋戦争での日本人と日本社会の体験を、「ペリペティア（悪しき状態、人間的災禍への急変）」という言葉で表し出した。太平洋戦争の「ペリペティア」から78年、「3.11」から12年半、この間にわたしたちの眼前には、いくつもの「ペリペティア」が立ち現れ、呆然と、あるいは身をよじり、目を背けようとしてきた。真下先生はさらに、こう述べる。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p style="padding-left: 40px;">「八・一五」をわれわれは見た。それは事柄の事実的経過のなかで「うわべのまやかし」が一枚一枚と剥ぎとられてゆくそのとどのつまりに、むき出しの「本質」としてあらがいがたく目前に横たわったものであった。それを各自が見たと思ったそのイメージを保ちながら、あの歴史的経過を逆にたどれば、数々の「うわべのまやかし」が、あたかもフィルムの逆回転のなかでのように、一枚一枚と各自のもつ「本質」のイメージの上へ戻されてゆく。</p>
<p style="padding-left: 40px; text-align: right;">（同書, 166ページより）</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>「ついに始まったか！」――相馬や浪江で、海とともに暮らしてきたひとたちには、「放出」への“予感／予見（doomed premonition, premonizione dell&#8217;apocalisse）”があった。人生のほとんどの日々を海で過ごしていた。津波で船を失い、避難生活を送ったが、それでも借金をして船を買い直した。試験操業がやっとのことで解除され、さあこれからというときに、「処理水の放出」が決まった。「関係者の理解なしには」行わないはずだったが、その「約束」は果たされず、「ついに始まった」ということなのか。しかしこの「転回」は、福島第一原発に汚染水を蓄えるタンクが造られたときから実は始まり蓄積され、臨界量に達した。つまりは、これこそが「とどのつまり」の「本質」だったのだ！</p>
<p><em>　</em>「3.11」は、「8.6」や「8.15」と同じく「悪しき状態」「受難」への「ペリペティア（悲劇的急転）」であったが、「8.24」は、｢3.11｣の「むき出しの『本質』」として「ついに」立ち現れた。その「本質」とは、「棄民」「廃棄(された民や生き物や土地)」、「3.11」以前にも、実は「客観的現実のなかにすでにとっくに存在」していた問題である。</p>
<p><em>　</em>石牟礼道子は、『苦海浄土』の「あとがき」で、「今日この国の棄民政策の刻印を受けて潜在スクラップ化している部分を持たない都市、農漁村があるであろうか」と問いかけた。日本列島には、「自分の背骨が折られていく」思いで、そこから／そこで「出郷」したひとたちが、こころの声を押し殺しつつ暮らしている。地域社会は根こそぎに破壊され、ひとや生き物、自然とのつながり、過去の記憶や遺産（レガシー）、生業や暮らしからの「出郷」を余儀なくされ、切り離されていく。「被災地」や「基地」や「廃棄物処分場」では、「保障」をめぐって境界線が引かれ、分断され、除外される。</p>
<p><em>　</em>すでにつくりだされ循環し滞留してしまっている放射性物質や各種の化合物などの「発明品」は、「廃棄物」となった後も、大気圏に、大地に、水系に、“異物（corpi estranei, foreign bodies）”として居残り続ける。生態系の循環のもとで、風に運ばれ、雨や雪に付着して、わたしたちのもと、大地のもとにやって来る。天然の鮎やヤマメ、日本の農山村を豊かな恵みで満たした川や土は、別物の「受け皿」へと姿を変え、“異物”はわたしたちの身体にも蓄積されていき、予測困難な「劇的な収支決算」（メルッチ）を、これから生まれ来る世代にもたらしつづける（注1）。</p>
<p><em>　</em>伊豆の祖父母の田舎で育った身の上から、里山と里海がつながり、つらなり、循環し、そのなかに人間や他の生き物も生き、生かされているという身体感覚がある。そこでは、山の上には入会地と共同墓地があり、山から水が流れ、田畑と民家、集落の境には神社がある。家の近くの坂を下ると川が水をたたえ、魚や水生昆虫が暮らしている。川の水で果物や野菜を洗い、魚をとる。流れた米粒は、魚が食べる。狩野川水系の水は駿河湾へと流れ行き、海から生まれた雲が天城山に雨を降らせる（祖母から学んだ「エコロジー」だ）。その生態系、閉じない循環のなかに、「処理水」という人間の「発明」による“異物”が闖入し、生態系が断裂していく。</p>
<p><em>　</em>「汚染水を蓄え」続けるには、廃棄物の「置き場」となるべき「外部」が必要となる。しかし、グローバリゼーションによって「外部」（あるいは（「植民」の対象となるはずの）「荒野」）は消失し、いまやわたしたちは、思っていたほど広くも無限でもない「惑星地球」に暮らしている。ひとたびこの土地の許容範囲を超えた汚染や環境破壊が起これば、たやすく社会そのものが「自家中毒」を起こし、“生存”の基盤が脅かされる。こうして惑星地球規模となった現代社会は、すべてがローカルな運命共同体、逃げていく場所のない地域（テリトリー）として存立している。</p>
<p><em>　</em>2001年に白血病で夭逝したメルッチが、もし「3.11以降の惑星社会」に居合わせたとしたら、いかなる着眼と問題への応答をしていくのだろうかと考えた。おそらく彼なら、以下のような問いかけをするのではないかと思った（注2）。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p style="padding-left: 40px;">いまもなお、これからもずっと、放射能を含んだ水が流されつづけているこの時代に、</p>
<p style="padding-left: 40px;">なぜわたしたちは、自分の身体の問題でもある“惑星社会の諸問題”を意識できないのか？</p>
<p style="padding-left: 40px;">受難、死、喪失、社会的痛苦を「おわったこと、なかったこと」にする力に取り囲まれ、</p>
<p style="padding-left: 40px;">一般市民同士の、風水土や他の生物との、未来とのはてしなき相克、闘争が予感されるなかで、</p>
<p style="padding-left: 40px;">“見知らぬ明日”に対して、人間には、学問には、いかなる使命があるのか？</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>2．「棄てるゴミ」のむこうにひとが居る、生物がいのちをつなぎ、風水土、地域、惑星が在る</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>「汚染水」は「処理された」後に「廃棄」される。しかし、ここでの「廃棄物（rifiuti）」そして“廃棄（dump[ing]）” とはどういうことなのだろうか。</p>
<p><em>　</em>わたしが暮らしていた地中海第二の島サルデーニャは、四国よりも大きく、北海道程度の人口密度で、イタリア本土から見れば、広大な「荒野」が拡がっていた。その「荒野」は、フェニキア・カルタゴ、ローマ帝国から近代イタリアまで、都市への食料や資源の供給基地であり、第二次大戦後のイタリアの全国総合開発計画による「拠点開発」では、巨大な石油化学プラントが建設され、牧夫や漁民の生活に大きな影響を与えた。</p>
<p><em>　</em>サルデーニャ島北東沖のラ・マッダレーナ群島にあるサント・ステファノ島に米軍直轄の原潜基地が建設され、2003年には、アメリカ海軍のロサンゼルス級原子力潜水艦のハートフォードが座礁し、放射能汚染が問題となった。放射性廃棄物のみならず、サルデーニャの巨大石油化学プラントには、膨大な汚染物質と廃棄物が放置されたままであり、それに加えて、いまでは外部の産業廃棄物の処分場となり、シチリアのタラントから廃棄物が陸揚げされている（注3）。</p>
<p><em>　</em>サルデーニャの境遇は、1985年から1987年にかけて広島での調査でお世話になった木原省治さんから教えていただいた山口県上関町の状況と重なってみえる。上関町では、「3.11」で原子力発電所建設準備工事が中断された後、使用済み核燃料の「中間処理施設」を建設するための調査をする方針が、この8月に固められた。飯舘村などではすでに、除染廃棄物の「仮設焼却施設」が造られている。「廃棄物」は、特定の土地とひとのもとへと集められ、遺棄される。</p>
<p><em>　</em>前出の「棄民」「廃棄(された民や生き物や土地)」とのかかわりで、特定のひとや土地に身の上に起こっている“廃棄（dump[ing]）” の意味を考えてみよう。</p>
<p><em>　</em>中期オランダ語dompenの「沈める」「埋める」、スウェーデン放言dompaの「ドスンと落とす」などに由来するdump[ing]は、ゴミを捨てる・投棄する、人を見捨てる・見限る・放り出す・首にする、ひとに押しつける、移民を外国に送り出す、責任を投げ出す・転嫁する、考え・政策などを棄てる・やめる、過剰商品を投げ売りする、汚物や核廃棄物を海や陸に棄てる、ひとをだます・弱みにつけこむ・けなす・こきおろす・やつあたりする・破滅させる・殺す、吐く・もどす、患者をたらい回しにする、などの意味を持つ。患者の廃棄、外国人の廃棄、地方の廃棄、不採算部門の廃棄、価値の廃棄（民主主義とか、内面の自由とか、平和とか平等とか思想とか、そのような人間的価値の廃棄など）、自然、地域、願望、大切な記憶、“良心（の呵責）／罪責の感覚”、何よりも人間そのものの“廃棄” の問題が含まれている。</p>
<p><em>　</em>こうした「ゴミ」「瓦礫」「廃棄物」と「役に立たないもの／ひと」「不要品／有用な人材でないひと」、「毒物／（社会の）害虫（とされるひと）」「廃材／廃人」なども含めた “廃棄物の発明（invention of refuse）”は、めぐりめぐって“廃棄物の反逆（rivolta dei rifiuti, revolt of refuse）”を、社会に／環境に／生命に／人間に引き起こす。</p>
<p><em>　</em>存在を拒否（refuse）されたものとしての廃棄物は、同時に生命体を拒絶（refuse）する。海深くもぐる鯨や南の島のウミガメやアホウドリが、子どもたちのために命をかけて必死に集めてきたエサにはプラスチックを始めとした“異物”が混入している。いのちをつなぐ必死の努力が子どもの命を奪うことになる。山野河海に暮らす生物の問題と、生まれ来る人間の子どもたちの脳や生殖器官、精子などへの影響は、「網の目」状につながった惑星規模の（切れ目のない）ひとつの問題を形成している。「大洋」の奥深く、遠き果てに暮らす生物と、わたしたち人間の子育てが、ひとしく、偏差をもって、“廃棄物の反逆”に曝されている。</p>
<p><em>　</em>“廃棄物の反逆”は、わたしたちの「日常生活」さらには“生存の在り方”が厳しく問いただす。「超（スーパー）システム」（多田富雄）としての巨大都市（メガシティ）の「日常生活」は、〈生産のための資源調達－加工－流通－利用－利用後（フロントエンドとバックエンド）〉の全過程で、膨大な「廃棄物」を生み出し続けている。惑星の隅々まで及ぶ開発の力によって、人や物資のみならず、資本も情報も含めた巨大なシステム・ネットワークとなった惑星規模の都市社会は、惑星地球という小船に乗っている。都市住民がゴミを捨てるための「荒野」はもはや存在しない。自分（たち）の「外部」に捨て去ることはできず、“反逆”に直面し続けることになる。</p>
<p><em>　</em>エネルギー資源が確実に枯渇していく一方で、“造り出された廃棄物（invented refuse）”からは逃れられない。つらなるいのちの行方に決定的な影響を与える“異物”は、「処理」も「解毒」も「除染」も出来ず、満杯になれば、なし崩し的に「遺棄」や「投棄」をするしかない。すでに人類によって“造り出された廃棄物”に対して、NIMBY（「迷惑施設」を遠ざけたい）は成立しない。それがどんなに「遠方」であっても、確実にその影響は自分のところに（不条理な「偏差」をともないつつ）やって来る。「処分」できないもの／してこなかったものは、放射性物質だけではない。プラスチック、合成化学物質、様々な化合物、フロンガス、二酸化炭素・窒素・・・・・すでに造られてしまった“廃棄物”は、この先もずっと、人類滅亡後も確実に地球上に残っていく。</p>
<p><em>　</em>もはや、小さな地球の「物理的限界」を無視した対処法――「放水」はもちろんこと、廃棄物処理場が満杯になったからといって新たな候補地を探したり、オイルシェールやメタンハイドレートといった新たな地下資源を採掘したりといったやり方――では、ただ“問題を先送りにする（rimandare i problemi al futuro, procrastinating problems）”だけだ。</p>
<p><em>　</em>「我がなき後に洪水は来たれ（Après moi le déluge!）」と言い放って「仕方がない（思考停止）」としないのであれば、「わたしたちの時代（人新世）」の「負債」に対する“責任／応答力（responsibility）”が必要となる。たとえば、放射性廃棄物への“責任／応答力”としては、むこう10万年の（現在の言葉や考えなど伝わらないかもしれない）「他者（ひと以外のいきもの／モノ／地）」を見据えたうえで、「いま」を生きる自分に問いかける必要がある（注4）。「棄てるゴミ」のむこうにひとが居る、生物がいのちをつなぎ、風水土、地域、惑星が在るのだ。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>【注】</p>
<p>1）　新原道信「“受難の深みからの対話”に向かって――3.11以降の惑星社会の諸問題に応答するために（2）」 『中央大学社会科学研究所年報』19, 2015年, 66-68ページより。</p>
<p>2）　新原道信「“境界領域”のフィールドワーク”から“惑星社会の諸問題”を考える」新原道信編『“境界領域”のフィールドワーク――惑星社会の諸問題に応答するために』中央大学出版部, 2014年, 2-3ページより。</p>
<p>3）　新原道信『境界領域への旅――岬からの社会学的探求』大月書店, 2007年と、新原道信「“惑星社会の諸問題”に応答するための“探究／探求型社会調査”――『3.11以降』の持続可能な社会の構築に向けて」『中央大学文学部紀要』社会学・社会情報学23号（通巻248号）, 2013年3月, 61-62ページより。</p>
<p>4）　新原道信「A. メルッチの『限界を受け容れる自由』とともに――3.11以降の惑星社会の諸問題への社会学的探求（1）」『中央大学文学部紀要』社会学・社会情報学24号（通巻253号）, 2014年3月, pp.48-51。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>［© Michinobu Niihara］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>※アプリ「編集室 水平線」をインストールすると、更新情報をプッシュ通知で受けとることができます。</p>
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<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>第5回　“廃棄物の反逆”（2）</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/niihara-michinobu/2381/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 11 Sep 2023 21:23:34 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[新原道信]]></category>
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					<description><![CDATA[3．自分の背骨が折られていく &#160; 　「放水」への“予感／予見”はわたしにもあった。しかしそれは、「8.24」のペリペティアを前にして、「この12年間、自分はなにをしていたのか」という問いかけへとつながることも自&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/niihara-michinobu/2381/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第5回　“廃棄物の反逆”（2）</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><strong>3．自分の背骨が折られていく</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>「放水」への“予感／予見”はわたしにもあった。しかしそれは、「8.24」のペリペティアを前にして、「この12年間、自分はなにをしていたのか」という問いかけへとつながることも自覚させるものだった。こころが荒野をかけめぐるとき、気がつくと真下先生やメルッチが夢枕に立ち、対話をしている。</p>
<p><em>　</em>2023年の「8.24」に先立つ2021年、ミラノで、メルッチの没後20年の追悼シンポジウム「未来は今――いまアルベルト･メルッチと対話する（IL FUTURO È ADESSO: Dialogando oggi con Alberto Melucci）」があった。「新型コロナウイルス感染症（COVID-19）」の影響で渡航は実現せず、オンラインで参加し、およそ以下のような話をした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p style="text-align: center;">&#x2733;︎　&#x2733;︎　&#x2733;︎</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>この20年間、2001年9月12日にアルベルトが亡くなってからもずっと、アルベルトと対話を続けてきました。いまでも、危機的な瞬間、苦悩、悲しみ、怒り、鈍い徒労感のなかにあるとき、アルベルトの言葉、表情やしぐさ、声音が、こころに鮮やかに、浮かび上がります。</p>
<p><em>　</em>｢9.11｣から10年後の2011年3月11日、日本は、大きな地震に見舞われ、原子力発電所の炉心溶融が起こり、FUKUSHIMAは世界的に有名となってしまいました。わたしのもとには、福島の飯舘村出身の両親を持つ学生がいました。飯舘村は、「原発の恩恵を受けて」いなかったけれども、メルトダウンが起こった日に放射能の風が吹いたのです。それで、彼女の親戚も含めて全村民が牛や畑を残して出ていかねばなりませんでした。彼女の安否を心配していた2011年5月、最初の連絡が入りました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p style="padding-left: 40px;">ご無沙汰しております。お変わりありませんでしょうか。私は元気です。けれどこの2ヶ月の間に、私の故郷を取り巻く環境が大きく変わってしまい、そのことが少なからず自分に影響を与えているようです。自分は今後どういうつもりで東京に暮らし、故郷を思い、原発のあり方を考えなければいけないのか、考えるきっかけにしたく、メール致しました。自宅は福島と宮城の県境にある海沿いの町のため、津波の被害が甚大でした。海から1キロほど離れていますが、数十センチ浸水しました。両親は無事でしたが、同級生を含む、地元の方100人以上が亡くなったそうです。GWに地元に一度帰ったのですが、自宅から見えていた景色からは、人々の生活が消え失せていました。<strong>部屋の一階からは波しぶきがはっきりと確認できる程、何もありません</strong>。線路や駅も流されました。しかしあまり取り乱すものではないのですね。行く前は、きっと泣き喚いたりするんだろうな・・・と思っていたのですが、テレビで見ていたような光景を実際に目にすると、ただ呆然とするだけでした。以前どんな風景だったか思い出せる物は、影も形も残っていなかったからかもしれませんが。さらに、自宅から50キロほど離れた原発の事故により、まず自宅のことを一番に心配しましたが、今は飯舘村のことがとても心配です。このような形で全国的に有名な村になるとは思っていませんでした。原発による恩恵は何も受けていないのに、こんな時だけなぜ・・・と思う日々です。両親共に飯舘村出身ですが、その親戚たちは今バラバラの場所に避難しているということです。<strong>牛を、田んぼを、先祖の墓を置いて、見えない恐怖から逃げ出さなければならない心情を考えるとゆっくりと自分の背骨が折られていくような気がします。</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>これは、「日常性」がこわれて、わたしたちが当たり前と思っていたことが、もはや機能しなくなった瞬間です。その瞬間、「その意味は何か？」という疑問が生じます。私にとってそれが何を意味するのか、そしてそれが他の人にとってどのような意味を持っているのか、私が自分自身を見つける文脈にとってそれはどのような意味を持っているのか、FUKUSIMAの意味とは何かと続けていく「答えなき問い」です。</p>
<p><em>　</em>そこからさらに10年が経ちました。2021年9月、わたしたちは、「新型コロナウイルス感染症（COVID-19, Coronavirus Disease 2019）」という制御不可能な「他者」とともに生きています。「コロナウイルス」の意味とは何でしょうか。特別なウイルスなのではありません。人間も含めたすべての多細胞生物とともに、微細な構造体であるウイルスは存在し続けました。「コロナウイルス」によって、「すでにとっくに存在」していた「想定外」に対する現代文明の脆弱さが、試されているだけなのです。</p>
<p><em>　</em>わたしたちは、生身の他者と出会う「あたりまえ」の暮らしを喪失しつつあります(今日もイタリア以外の報告者はオンラインで「参加」していますね)。親しいひとに対面することも、ふれることも出来ない、この不条理な日常のなかで、何をするのか？　いかにことに臨む（臨場する）のか？　いかに“痛み／傷み／悼み”を分かち合う（臨床する）のか？　“見かけ倒しの拙速社会（società fittizia e rapida）”において、逃げる場所もなく、どのように「答えなき問い」に応答するのか？――“問いかけ（interrogazione, ask questions）” は果てしなく続いていきます。</p>
<p><em>　</em>わたしたちは、惑星社会から逃げ出すことも出来ず、かといって「問題解決」のあてもなく、それでも何らかの“責任／応答力（responsibility）”を発揮しようともがいています。ごくふつうのひととして、「亡命」も「脱走」もできない閉じられた惑星社会のなかで、“見知らぬ明日（unfathomed future, domani sconosciuto）”と出会い、この“転変・流動の時代（epoca di passaggio）”の意味を、様々な「他者（ひと／いきもの／モノ／地）」とともに考え続けるしかないのでしょう。</p>
<p><em>　</em>わたしが知る「生身の」メルッチさんは、ゆっくりと、やわらかく、深く、耳をすましてきき、勇気をもって（lentius, suavius, profundius, audire, audere, adiuvare）、現実にふれ、“低きより（humility,humble,umiltà,humilisをもって、高みから裁くのでなく、地上から、廃墟から）”、身心のすべてを揺りうごかしたひとでした。</p>
<p><em>　</em>わたしたちが、彼の“身実（みずから身体をはって証立てる真実）”から学び、どのように生存の場をつくり直していくのか――岐路に立ち、悩みつつ、それでも身体とこころを揺りうごかしている（playing&amp;challenging）間は、メルッチさんと出会い続けているはずです。</p>
<p><em>　</em>“出会い（incontrare l&#8217;altro, encountering the other）”は意味を生み出してくれます。ではどのように出会うのか？　パッショーネとともに、わたしたちの存在のすべて、全身全霊、すべてを賭けて、具体的な生身の他者と出会い続けるしかありません。わたしはこの20年、メルッチさんの「パッショーネとともに（con passione）」を人生の道標（みちしるべ）として生きてきました。日本での日々を“ともに（共に／伴って／友として）”にした2000年5月、通訳をしながら、「これは彼の最期の言葉であり、遺言なのだ。ずっとこの言葉を抱きしめていくことになるのだ」と予感していました。だから、この言葉をみなさんと共有したいと思います。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p style="padding-left: 40px;">･･････さて、いよいよ本日の話の最後となりますが、パッショーネとともに（con passione）という言葉で締めくくりたいと思います。passioneという言葉は、英語であれ、フランス語であれ、ほとんどすべてのヨーロッパ言語で使われている言葉で、ラテン語のpatireを語源としています。patireとは、痛みや苦しみを受ける、こうむるという意味をまずは持っています。しかし、この言葉には、それと同時に、参加をする、わたしたちがなにごとかをなすとき、自らの情動や力のすべてをふりしぼっての、内からわきあがる熱意という意味もあります。喜び、高揚、痛み、苦しみを受けとめるには、同じく膨大なエネルギーを必要とします。みなさんもまた、パッショーネとともに、膨大なエネルギーを費やす形で、社会を認識するという責務へとむかっていただけたらなによりです。</p>
<p style="text-align: right;">アルベルト・メルッチ　2000年5月　日本での講演にて</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>4</strong><strong>．人間の「里山・里海」のために</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>わたしが、以上のような報告をした後、ベルギー、フランス、イギリス、チリ、イタリアなど、世界各国の若手の研究者がメルッチの著書からの刺激を語り、最後は、アンナ夫人、そしてメルッチの「竹馬の友」にして「痛みの哲学」の泰斗の報告があり、その後に、2000年5月日本での講演で、メルッチが話す姿が放映された。会場では、アンナ夫人やふたりの娘アレッサンドラ、マルタや旧知のイタリアの友人たちが泣いているのを見てわたしも泣いた。参加者の多くが泣くという学術シンポジウムらしくない「饗宴（simposio）」の場だった。翌日のアンナからのメールによれば、わたしの報告は、「とても愛された（è stato molto amato ）」のだという。ここには何かの“エピファニー（epifania, epiphany、理解のひらめき）”があったのではないかと思っている。</p>
<p><em>　</em>映像にてメルッチの横顔を見ることを“ともに（共に／伴って／友として）”したわたしたちは、ミラノでの参加者を除けば、世界の各地で「たったひとり」のpatire（参加する）という状況・条件だった。しかしなぜか、この“場（place, space, place, site, case, circumstance, moment, condition, situation ）”が、惑星の各所でつながり／つらなるかたちで現れる（emerging）「里山・里海」のようだと、身体で感じた。だからこの孤立も孤絶も、きっと大丈夫だと一瞬思えた。</p>
<p><em>　</em>前述の元ゼミ生の話にはつづきがある。その後もやりとりが続いたが、そのなかには「悲しいです。今後、自分が福島県出身であることを隠そうとすること、3月11日は東京にいたと必死に説明することなど、自分はやりかねないと思うのです」という言葉もあった。そこには、他者の“無関心（exterior-esse / fuori-esse）”――存在（esse）の内側に（inter）入っていかない断絶・切断・隔絶・乖離・亀裂――に対する恐怖があった。たとえば、「企業や原発が来たことで利益を享受したひとたちが、後から不平不満を言うのはフェアではない。受益したひとが受難するのは当然だ」といった声に対しての絶望である。しかし、彼女は、両親と「ふるさと」とのつらなりから、想い直し、背骨を伸ばした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p style="padding-left: 40px;">飯舘村で生まれ育った両親は、私よりもずっと辛い思いをしているはずです。</p>
<p style="padding-left: 40px;">友人や親戚たちを全国のニュースで見ることになるとは思っていなかったと父は先日言っていました。</p>
<p style="padding-left: 40px;">それでも私たち家族はこの震災に関して、どこか距離を置いて見ていたような気がします。本当に被害の大きかった人たちに比べればたいしたことないから、避難しなくちゃいけないわけじゃないから・・・・・・帰省した時に感じた空気です。あえて口にしない。私もその空気に呑まれていました。</p>
<p style="padding-left: 40px;">しかし私はこの事態について、みっともなくてもいいから誰かと関わりを作って行く必要があるのだと思います。</p>
<p style="padding-left: 40px;">飯舘には、昨年の秋に祖母の葬式で行って以来です。その日は福島まで父が迎えに来てくれて、村に着くまでの車中ではいつものように話をしていました。なぜその話になったかは覚えていませんが、父がふと八木重吉の詩を教えてくれました。以降、私もよく口ずさむようになった詩です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p style="padding-left: 40px;">「こころの暗い日にふるさとは　祭りのようにあかるんでおもわれる」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p style="padding-left: 40px;">金銭的な事情で高校卒業後に上京せざるを得なかった父は、この詩を写真立てに置いて、仕事をしていたと言いました。人よりも牛の方が多いような村であっても、父にとっては何よりも賑やかで温かい場所なのだと、その時改めて感じたことを覚えています。飯舘を故郷に持つ両親が、平気でいるはずがありませんよね。</p>
<p style="padding-left: 40px;">泣きながら、もっとかかわり合いを持ってみようと思います。家族とも、友人とも。</p>
<p style="padding-left: 40px;">この事態を冷静に遠くから眺めているなんて、やっぱり無理です。両親や、親戚、それに関わる人たちのルーツのために、私も当事者としてこの事態に正面から向き合ってみようと思います。本当にありがとうございました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>これはきっと、不条理な“社会的痛苦に翻弄され、多くを語らずに死んでいった人間や生き物、山野河海の軌跡と痕跡、果たされなかった想いを抱きしめ、受けとめることなのだろう。ある日突然誰かがわたしたちの代わりに「心情の出郷／居ながらの出郷」者となることで成り立つ構造について、石牟礼道子は、「水俣にはいま私たちが直面している地球全体の問題の核がある」と言った。“瓦礫の出現（rovine emergenti, emerging ruins）”のなかで、自分ではない他者のために怒り、声をあげるひとたちがいる。「出奔した切ない未来」（石牟礼道子）に想いを寄せ、“受難者／受難民（homines patientes）”の」<ruby>名代<rp>(</rp><rt>みょうだい</rt><rp>)</rp></ruby>になろうとしているひとたちの「草の根のどよめき」（いまひとりの恩師・古在由重先生の言葉だ）と<ruby>契<rp>(</rp><rt>ちぎ</rt><rp>)</rp></ruby>りを結ぶ（かかわりをつくる／つなげる／つらねる）ことしか、いまは思い浮かばない。</p>
<p><em>　</em>この惑星の各所に出現しつつある“廃棄物の反逆”を前にして、あらためて気付かされている。放射能を含んだ水は地球上を循環し、わたしたちの身体に蓄積され、とりわけ生まれ来る子どもたちに影響を与え続ける。これまでも、人間が生み出した多くの有害物質を、森や海は、やわらかく受けとめ、やわらげてくれた。わたしたちは、この物質や生命の関係性の「網の目」のなかで、その「間（liminality, betwixst and between）」で、“生存”を確保している。膨大な時間をかけて創られてきた生命系・生態系、物質循環の「網の目」の構造とその意味を理解し尊重すること。森や土や河や海が生きていれば、汚染された物質を浄化し、地下水流を生み出してくれるはずだった。しかしいま、山野河海もまた、悲鳴をあげ、「地球の限界（Planetary boundary）」に直面している。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p style="padding-left: 40px;">地球の、他の生き物の、他の人間の悲鳴を、感知し、感応するような“臨場・臨床の智”をいかにして可能とするのか。そのためにはいかなる条件があるのか？</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>「自分の背骨が折られていくような」心情を抱え、ファビング（phubbing、眼前の生身の人間への冷遇と無関心） に曝され、それでもなんとか、いたらぬ存在として、「パッショーネとともに（con passione）やっていこう」と思う。そう思えるのは、「誠者天之道也、誠之者人之道也（誠は天の道なり、これを誠にするはひとの道なり）」（『中庸』）――「我が身を持って証立て（sich betätigen）」（ヘーゲル）ようとしたひとたちの“思行（思い、志し、言葉にして、考えると同時に身体を動かす投企）”を見せてもらったからだ。</p>
<p><em>　</em>死者や遠くのひと、若いひとたちに背中を押されつつ、身体とこころを揺りうごかし、想いをつないでいく。各世代の“つなぎ役（riempitivo, fill-in）”が、「（我が）身を投ずる」（上野英信）ことを試み、一個人では応答しきることはなど出来ない困難と痛苦をやわらげようとする。汚染水が流れ続けるという「統治性の限界（the Limits of Governmentality）」のなかで、それでも、社会そのものが生み出す“痛み／傷み／悼み（patientiae, doloris ex societas）”を被った土地に寄りそい、ひとにこころを寄せる人間の「里山・里海」を創ろうとし続ける。それが、「ひとの道」なのだろう。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>【注】</p>
<p>1）　Michinobu Niihara, &#8220;Il dialogo continua con Alberto Melucci: Il senso ci è dato nell&#8217;incontro&#8221;,　Seminario internazionale IL FUTURO È ADESSO: Dialogando oggi con Alberto Melucci, in Casa della cultura, Milano, il 25 settembre 2021．（＝「アルベルト・メルッチとの対話――意味は出会いのなかで与えられる」国際セミナー『未来はいま：いままたメルッチと対話し続ける』ミラノ文化会館、2021年9月25日）　https://www.albertomelucci.it/eventi/il-futuro-e-adesso/</p>
<p>2）　似田貝香門・吉原直樹編『震災と市民２　支援とケア』東京大学出版会, 2015年9月という共著本で「“交感／交換／交歓”のゆくえ」という章でこの話を書いた。書き進めるなかで、彼女と飯舘村のことを書かずにはいられなくなり、当初の構想とはまったく異なる内容となった。</p>
<p>3）　新原道信編著『人間と社会のうごきをとらえるフィールドワーク入門』ミネルヴァ書房, 2022年。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>［© Michinobu Niihara］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>※アプリ「編集室 水平線」をインストールすると、更新情報をプッシュ通知で受けとることができます。</p>
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]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>第6回　“受難”と“痛み／傷み／悼み”（1）</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/niihara-michinobu/2605/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 01 Dec 2023 03:07:29 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[新原道信]]></category>
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					<description><![CDATA[各種の日本地図を見ますと、種子、屋久までは書き入れてありますが、その南の方はたいてい省略しています。それは地図の紙面がないということだけではないようです。われわれの意識の底にそこははずしてもいいというような感覚がのこって&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/niihara-michinobu/2605/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第6回　“受難”と“痛み／傷み／悼み”（1）</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p style="padding-left: 40px;">各種の日本地図を見ますと、種子、屋久までは書き入れてありますが、その南の方はたいてい省略しています。それは地図の紙面がないということだけではないようです。われわれの意識の底にそこははずしてもいいというような感覚がのこっているのです。たとえば奄美の地図を書く時に、徳之島の西の方の鳥島を落としていても平気だという気持ちをなくしたいのです。　（島尾敏雄「私の見た奄美」『島尾敏雄全集　第16巻』晶文社、1982年、pp.228-29; 鹿野政直『「鳥島」は入っているか――歴史意識の現在と歴史学』岩波書店、1988年、pp.10-11）</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>1．ランペドゥーザは入っているか</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>「地中海で難民船沈没 死者多数」「島民の倍近い難民が上陸」「イタリアへの移民・難民をアルバニアに移送」――画面上を流れていく無機質な「ニュース」のなかで、突如、その単調な流れを断ち切り、色彩、匂い、情景をともなう突然の呼びかけに接する瞬間がある。</p>
<p><em>　</em>2023年の夏から秋にかけて、「遠き」地中海の島ランペドゥーザで起こっている「事件」が、国際報道系の番組で、数分のニュースとして紹介された。アルベルト・メルレル（Alberto Merler）、鈴木鉄忠とともに、ランペドゥーザを訪れたのは2018年3月、第一印象は、「風の強い島」だった。</p>
<p><em>　</em>収容人員をはるかに超える女性や子どもたちを乗せた小船やゴムボートが、強い風で荒れた地中海を彷徨い、救助の可能性に身を投ずる。映画監督ジャンフランコ・ロージ（Gianfranco Rosi）は、イタリアの旧植民地エリトリアで生まれ育ち、エリトリア独立戦争の最中、イタリアに難民の子どもとしてやってきた。その彼がつくったのが、アフリカからランペドゥーザ島へ、さらにそこからヨーロッパをめざす移民・難民と島民の日常を描いたドキュメンタリー映画『海は燃えている（FuocoAmmare）』（2016年、イタリア）だった。この作品に続いて、『旅するローマ教皇』（2022年、イタリア）を製作、2023年10月より日本でも公開されている。第266代ローマ教皇フランチェスコの「旅のなかで（In viaggio）」という原題を持つこの映画は、ランペドゥーサでの教皇の語りかけ――グローバル化のなかでの他者への無関心が、泣くこと、苦を共にする体験を奪った――から始まっている。［地図①］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img fetchpriority="high" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-2630" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/図①ランペドゥーザの位置.png" alt="" width="1396" height="1148" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/図①ランペドゥーザの位置.png 1396w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/図①ランペドゥーザの位置-300x247.png 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/図①ランペドゥーザの位置-1024x842.png 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/図①ランペドゥーザの位置-768x632.png 768w" sizes="(max-width: 1396px) 100vw, 1396px" /></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>地図で見てもらうと、ランペドゥーザは、チュニジアの首都チュニスよりも南のborderlandに位置する島である。</p>
<p><em>　</em>borderland（frontier/liminal territories, terra di frontiera/territorio limitrofo）という言葉には、「国境地域、境界地、紛争地、奥地、僻地」などの意味が混在している。「境界地、紛争地」は、国家間関係の「中心」から見た場合に覇権が衝突する場所となるが、他方で、「奥地、僻地」などは、中心的な都市から見て社会文化的に劣位の土地という含意も持つ。そしてまた「どっちつかずの領域・状態」「境界線」「境界領域」という含意のなかには、「管理」された社会の中心部と比して「明晰・判明さ」を欠く「薄暗さ・曖昧さ（obscurity）」を持つ場（zone, zona）という視線が組み込まれている。</p>
<p><em>　</em>そこには、鹿野政直が島尾敏雄の言葉から「鳥島は入っているか」と問いかけたように、“端／果て（punta estrema/finis mundi、 terra of the end of world ）”――中心的な視野からは選択的に「はずされ」「見落とされて」いる「外部」という含意が組み込まれている。他方で、こうした場所あるいは人々は、グローバルな資本や情報のうごきに翻弄され続けている。そしてひとたび、“瓦礫の出現（rovine emergenti, emerging ruins）”――気候変動、環境汚染、森林破壊、貧困・格差、飢餓、感染症、民族紛争――の「現場（ scene, scena）」となった場合は、にわかに注目を集め、「発見」される。</p>
<p><em>　</em>ランペドゥーザもまた、地中海の他の島々（あるいはアジア・太平洋の「南の島々」と同様に）、通常は「はずしてもいい」「落としていても平気」な土地や人々とされるが、時として、ある日突然、さらなる領土と領海獲得をめざす大陸の中心部から見て、国家戦略的・商業的・軍事的・文化的な前哨基地や橋頭堡として確保されるべきとなったときに「発見」される。</p>
<p><em>　</em>「外敵」の上陸に備えて作られたトーチカ［掩体壕］（casamatta）が散見されるランペドゥーザは、軍事戦略上の「橋頭堡」として、基地・軍事施設が置かれてきたことを除けば、イタリア人・ヨーロッパ人の視野の外に置かれていた。ところが、1986年4月、ランペドゥーザの基地が、アメリカ軍によるリビア爆撃に対するリビアの報復攻撃の対象となったことで「注目」され、以後、（皮肉なことに）マス･ツーリズムの開発がすすめられていった。さらに、近年、アフリカからヨーロッパへの移民・難民の「玄関口」として「発見」されることとなった【注1】。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>2．旅するローマ教皇――世界の痛みを引き受ける島と人々</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>1950～1980年代のランペドゥーザは、シチリアに出稼ぎ移民として出て行くという状況だったが、観光地として「注目」されて以降は、夏の観光シーズンにシチリアなどから働きに来る人々が流入してきている（夏の人口は、通常の5500人ほどから、何倍にも膨れあがる）。そしていま、面積20.2 km²（沖縄の伊江島22.66 km²に相当する）のイタリア最南端の島に、サハラ砂漠以南のアフリカ（Africa subsahariana, Sub-Saharan Africa）などからリビアへとやって来た難民が大量に流入し、さらにはチュニジアからの渡航者が押し寄せている。</p>
<p><em>　</em>エリトリア人やソマリア人、シリア人など、紛争や圧政から逃れようとして、長く危険な旅の果てに、北アフリカのリビアにたどり着いたものの、拘留センターでの虐待、（性的）暴力、人身売買に晒され、沈没、遭難、水死の危険を覚悟で密航船に乗り込む。そして、切り立った断崖に囲まれたこの島の北西部（Faglione Sacramento）に漂着するか、洋上で救助されるか、海で遭難するかの運命に人生を、子どもの未来を賭ける。</p>
<p><em>　</em>ランペドゥーザ島の中心部、インブリアコーレ渓谷（Vallone Imbriacole）には、「難民を歓迎して受け入れる（accogliere）」という名前が付けられた「難民歓迎センター（il centro accoglienza）」が設置され、ロージ監督の映画『海は燃えている』でも主要な登場人物となっているピエトロ・バルトロ医師（Pietro Bartolo、2019年からイタリア島嶼選挙区選出のヨーロッパ議会議員）たちが、難民のケアに奔走して来た。［地図②］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-2631" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/図②ランペドゥーザ島の地図.png" alt="" width="1600" height="1162" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/図②ランペドゥーザ島の地図.png 1600w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/図②ランペドゥーザ島の地図-300x218.png 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/図②ランペドゥーザ島の地図-1024x744.png 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/図②ランペドゥーザ島の地図-768x558.png 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/図②ランペドゥーザ島の地図-1536x1116.png 1536w" sizes="(max-width: 1600px) 100vw, 1600px" /></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>ランペドゥーザに到着した後、難民を乗せたボートや小船が港に押し寄せてきている情景を思い浮かべ、耕作が放棄された農耕地を横目に見ながら、2013年に教皇が来訪しミサを行った新港沿いを歩いていった。そこには、アラビア語で船名の書かれた船の残骸、“瓦礫”となった難民船の「墓場」があり、強い異臭を放っていた。「ヨーロッパの門」の近くには、トーチカがあり、アラビア語の旗がうち捨てられている。市街から少し離れた湾口には、高級リゾート地が築かれ、夏にやって来る「北の住人」（ローマやミラノ、ヴェネト地方など）のために別荘の修理をしている。さらに市街地を離れると、「難民センター」、イタリア空軍基地や旧NATO（米軍）基地が置かれている。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-2632" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真①難民たちが乗ってきた船の残骸-scaled.jpg" alt="" width="2560" height="1920" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真①難民たちが乗ってきた船の残骸-scaled.jpg 2560w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真①難民たちが乗ってきた船の残骸-300x225.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真①難民たちが乗ってきた船の残骸-1024x768.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真①難民たちが乗ってきた船の残骸-768x576.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真①難民たちが乗ってきた船の残骸-1536x1152.jpg 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真①難民たちが乗ってきた船の残骸-2048x1536.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2560px) 100vw, 2560px" /></p>
<p>［写真①：難民たちが乗ってきた船の残骸］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-2633" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真②難民漂着のモニュメント-scaled.jpg" alt="" width="2560" height="1920" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真②難民漂着のモニュメント-scaled.jpg 2560w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真②難民漂着のモニュメント-300x225.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真②難民漂着のモニュメント-1024x768.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真②難民漂着のモニュメント-768x576.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真②難民漂着のモニュメント-1536x1152.jpg 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真②難民漂着のモニュメント-2048x1536.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2560px) 100vw, 2560px" /></p>
<p>［写真②：難民漂着のモニュメント］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-2634" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真③ヨーロッパの門-scaled.jpg" alt="" width="2560" height="1920" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真③ヨーロッパの門-scaled.jpg 2560w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真③ヨーロッパの門-300x225.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真③ヨーロッパの門-1024x768.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真③ヨーロッパの門-768x576.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真③ヨーロッパの門-1536x1152.jpg 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真③ヨーロッパの門-2048x1536.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2560px) 100vw, 2560px" /></p>
<p>［写真③：ヨーロッパの門］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-2635" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真④トーチカ跡-scaled.jpg" alt="" width="2560" height="1920" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真④トーチカ跡-scaled.jpg 2560w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真④トーチカ跡-300x225.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真④トーチカ跡-1024x768.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真④トーチカ跡-768x576.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真④トーチカ跡-1536x1152.jpg 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真④トーチカ跡-2048x1536.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2560px) 100vw, 2560px" /></p>
<p>［写真④：ヨーロッパの門近くのトーチカ跡］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-2636" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑤アラビア語の布切れ-scaled.jpg" alt="" width="2560" height="1920" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑤アラビア語の布切れ-scaled.jpg 2560w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑤アラビア語の布切れ-300x225.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑤アラビア語の布切れ-1024x768.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑤アラビア語の布切れ-768x576.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑤アラビア語の布切れ-1536x1152.jpg 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑤アラビア語の布切れ-2048x1536.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2560px) 100vw, 2560px" /></p>
<p>［写真⑤：うち捨てられていたアラビア語の旗］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-2637" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑥別荘-scaled.jpg" alt="" width="2560" height="1920" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑥別荘-scaled.jpg 2560w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑥別荘-300x225.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑥別荘-1024x768.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑥別荘-768x576.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑥別荘-1536x1152.jpg 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑥別荘-2048x1536.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2560px) 100vw, 2560px" /></p>
<p>［写真⑥：高級リゾート地の別荘］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-2638" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑦難民センター-scaled.jpg" alt="" width="2560" height="1920" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑦難民センター-scaled.jpg 2560w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑦難民センター-300x225.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑦難民センター-1024x768.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑦難民センター-768x576.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑦難民センター-1536x1152.jpg 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑦難民センター-2048x1536.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2560px) 100vw, 2560px" /></p>
<p>［写真⑦：難民センター］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-2639" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑧旧NATO（米軍）基地-scaled.jpg" alt="" width="2560" height="1920" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑧旧NATO（米軍）基地-scaled.jpg 2560w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑧旧NATO（米軍）基地-300x225.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑧旧NATO（米軍）基地-1024x768.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑧旧NATO（米軍）基地-768x576.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑧旧NATO（米軍）基地-1536x1152.jpg 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑧旧NATO（米軍）基地-2048x1536.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2560px) 100vw, 2560px" /></p>
<p>［写真⑧：旧NATO（米軍）基地］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>19世紀半ばに「流刑地」としてその歴史が始まった島は、厳しい自然環境と「離島苦」を抱える土地とされてきた。その土地をめざして、さらなる困難を抱えた“受難者／受難民（homines patientes）”が、ヨーロッパへの門をくぐるため、荒浪に漕ぎ出す。そのランペドゥーザには、目の前の人々に対して“無関心（exogenous cause, not my cause, misfortune of someone else）”でやり過ごそうとすることはできない人々がいた。「はずされ」「見落とされて」いた「小さな島」の個人が、世界の痛みを引き受けるという状況に立たされたのだ。</p>
<p><em>　</em>2013年3月に教皇となったフランチェスコが最初の訪問地として選んだのが、そのランペドゥーザだった。教皇は、それから世界各地を旅し、この世界の痛みと想いに出会い、惑星の悲鳴を受けとめ、それでも、恐れずに「夢をもちなさい（sognare）」と語りかけた。いまも「旅のなか（In viaggio）」にあり、その関心は、カトリック教会の抱える根本的な問題にも向けられていることから考えると、ランペドゥーザでの無関心への批判は、まさに身を削っての投企だった。</p>
<p><em>　</em>ローマ教皇やランペドゥーザの人々だけではない。いま私たちは、グローバル社会で生起する地球規模の諸問題（global issues）の背後にある原問題（underlying problem）を、“ひとごと（not my cause, misfortune of someone else）”でなく、“わがこと（cause, causa, meine Sache）”と感じる必要に迫られている。</p>
<p><em>　</em>見たくもない、考えたくもない、あるいは、そうしていたことにすら気付かずに、“端／果て”へと押しやっていた土地や人の背景とその意味を考える個々人には、“無関心”から始まる“未発の瓦礫（rovine nascenti）”、さらには“破局へと至る瓦礫（andare in rovina）”への“予感（doomed premonition, premonizione dell&#8217;apocalisse）”がある。この世界の深刻さの重みを引き受けることの、固有の“痛み／傷み／悼み（patientiae）”――しかし、それは“想像／創造”的な痛みであるはずだ。</p>
<p><em>　</em>わたしは、ランペドゥーザで、世界の矛盾を遮蔽しようと思えば出来ないことはないと思われることがら、識ることの恐れを抱くことがらをあえて境界を越えて選び取り、あきらかなる介入（intervento）の暴力を自覚し罪責感とともにその自らの業を引き受ける個人、“痛む／傷む／悼むひと（homines patientes）”の“想像／創造の力（immaginativa/creatività）”に出会った。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>【注】</p>
<p>1）　ヨーロッパ・地中海において「周辺」とされた土地や人を理解することについては、新原道信「移動民の側から世界を見る――「周辺」としていた土地や人を理解するためのフィールドワーク」中坂恵美子・池田賢市編『人の移動とエスニシティ』明石書店、2021年、33-50ページにて論じている。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>［© Michinobu Niihara］</p>
<p>&nbsp;</p>
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]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>第7回　“受難”と“痛み／傷み／悼み”（2）</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/niihara-michinobu/2607/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 01 Dec 2023 03:07:37 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[新原道信]]></category>
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					<description><![CDATA[3．前市長の願望と企図【注1】 &#160; 　前市長ニコリーニに会ってもらったのは、市長としてたたかい、傷つき、表舞台から退場してまだそれほど時を経ていない頃のことだった。エコロジスト（Lega per Ambient&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/niihara-michinobu/2607/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第7回　“受難”と“痛み／傷み／悼み”（2）</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><strong>3．前市長の願望と企図</strong>【注1】</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>前市長ニコリーニに会ってもらったのは、市長としてたたかい、傷つき、表舞台から退場してまだそれほど時を経ていない頃のことだった。エコロジスト（Lega per Ambiente）で、ランペドゥーザにおける農耕の復活と、難民・移民の受け入れに尽力してきた彼女は、大型のシェパード犬を連れ立って、中心街のカフェに現れた。私たちの投宿先が、現市長の一族が経営するホテルであったことから、会うべき重要人物としては紹介されなかったが、メルレルが前日のうちに連絡をとり、会って話すことを承諾してもらっていた。</p>
<p><em>　</em>着席するとすぐに、「グローバリズムの勝利」による地域の疲弊、国境地域にあることの困難さについて、きわめて率直かつ的確にクリティークをしていくひとだった。市長在任中の5年間（2012年5月8日～2017年6月11日）、ずっとたたかい続けた。なんとか畑地の整備などの緑化プロジェクト博物館や図書館、民俗資料のアーカイブ化などを企画したが、ツーリズムにすべてが呑み込まれていった。放棄された耕地、渇水の問題は深刻だ。持続可能な土地をつくることと、開拓・移住の歴史、伝統文化の意味を島民が理解するための基盤作りに、出来る限りの努力をした（しかし、十分に理解されることもない、苦闘が続いていたのだろう）。小さな試みだったが、なんとか少しずつすすもうとはしていた。しかしながら、市長在任中に、難民の流入が大きな問題として立ちはだかった。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-2641" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑨前市長の畑地-scaled.jpg" alt="" width="2560" height="1920" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑨前市長の畑地-scaled.jpg 2560w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑨前市長の畑地-300x225.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑨前市長の畑地-1024x768.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑨前市長の畑地-768x576.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑨前市長の畑地-1536x1152.jpg 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑨前市長の畑地-2048x1536.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2560px) 100vw, 2560px" /></p>
<p>［写真⑨：前市長が整備した市中心部の空き地を利用した畑地］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p style="padding-left: 40px;">「いまもまだ移民・難民の流れは止まっていないことから、住民の反応も当初の（比較的好意的な）理解から変わってきている。とりわけチュニジアの海岸から直接やってくる『不遜なチュニジア人の青年たち（baldo di tunesi）』の問題は深刻だ。その多くがランペドゥーザから出て行ったが、いまは行く場所がなく、島にのこっている。難民たちと直接話すのは、きわめて困難だが、難民センターで働く心理療法士のカテリーナ（仮名）は、信頼できる人物だ。」</p>
<p style="padding-left: 40px;">「環境的にも社会経済的にも小宇宙のような小さな土地が、グローバルな難民・移民の人権の問題のジレンマに直面している。いまは観光開発に押し流され、夏用の滞在型別荘の建設だけが活況だ。しかし、幸いなことに、大きな空港も港もないから、大量の観光客はやって来ない。それよりは、自足的な農業による持続可能な経済、過去の遺産を生かし直すことだと私は考えていた。実際、レンズ豆やケーパーは、本当に質のいいものが生産可能だ。残念ながら、家畜の飼育の伝統は消えてしまった。水、電気の問題も考えねばならない。1986年4月のカダフィによるミサイル攻撃未遂事件で、ランペドゥーザのNATO米軍基地問題が意識されるようになった。・・・・・・」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>市長在任中にローマ教皇を迎え入れた前市長は、ランペドゥーザの内発的発展を願望し、そのために“企図する（progettare）”ことの労苦を惜しまなかった。“わがこと”ではなかった難民問題に「（我が）身を投ずる」（上野英信）ことに躊躇しなかった。しかしながら、観光開発の推進勢力と難民を受け入れることを批判する声からの圧力で市長を退任することとなった。それでもなお、言葉を紡ぎ、「信頼出来るから」と心理療法士のカテリーナと会えるように手配をしてくれた。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>4．ケアするものの“痛み／傷み／悼み”</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>軽食の後、中心街の別のカフェに向かい、難民センターでケアの仕事をする心理療法士のカテリーナと話をした。彼女は、ランペドゥーザについての詩や文章も書いており、ミラノ出身の著作家・詩人アルダ・メリーニ（Alda Merini）の名を冠した文学賞を受賞している。メルレルが、私たちの“社会文化的な島々（isole socio-culturali）”の概念について説明すると、きわめて強い関心を示し、こころを開いてくれた。</p>
<p><em>　</em>前市長とも親交があり、リビアからの渡航費用を売春等で支払うかたちでやってきた難民たちとチュニジアから移入者という異なる状況・条件の間に立って「調整役」を果たしている。ケアしているのは、たとえばこのような人たち――ナイジェリアからリビアへ、リビアでの性的暴行により、船中で妊娠・出産した。決して故郷へはもどれないし、なかなか子どもと一緒に暮らしていくという考えを持てないでいるという女性だ。</p>
<p><em>　</em>カテリーナは、難民の女性たちが、言葉にならない情動を“描き遺す”ことをすすめている。その絵を見せてもらった。絵に自分の人生（roots and routes）を描いていく。鉄格子が描かれた絵の最後には、I&#8217;ve never forgot Lampedusaと書かれている。妻を殺そうとする夫から逃亡した女性の絵には、The bitter experienceと書かれている。120人が乗ったボートから手足がはみ出した絵や、8歳のシリアの子どもがピストルを持ち、戦車に向かっている絵なども見せてもらった。沈没前に助けられた女性は、「ランペドゥーザは第二の人生」だと言う。リビアから母親なしにやって来た子どもの絵には母親も描かれている。</p>
<p><em>　</em>「絵というかたちで解釈された“生の現実”を解釈し直すのが私の役目だと思っている。難民たちの絵を出版したいといま考えているの、だからまだ撮影はしないで」と言われた。彼女はまた、過去の不安を手放し、未来を考えるために、すべての「不安」を入れる袋と、すべての「善きこと」を入れる袋という療法を考案した。「難民女性たちの痛みがひどく私のこころに刺さるのは、この島が抱える痛み――アフリカとおなじ風土病があるランペドゥーザで病を発症した父親が、イタリ本土のボローニャまで治療に通っていることの痛み、もし父親が亡くなってしまったら天涯孤独となるのではという不安と無縁ではないと思うの」と言う。難民のケアに奔走することを、島民の誰もが理解してくれるわけはない。</p>
<p><em>　</em>その後、彼女の工房に案内してもらい、さらにその他の作品も見せてもらう。</p>
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<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-2642" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑩工房の写真-scaled.jpg" alt="" width="2560" height="1920" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑩工房の写真-scaled.jpg 2560w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑩工房の写真-300x225.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑩工房の写真-1024x768.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑩工房の写真-768x576.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑩工房の写真-1536x1152.jpg 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/12/写真⑩工房の写真-2048x1536.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2560px) 100vw, 2560px" /></p>
<p>［写真⑩：カテリーナの工房（撮影を許可してもらった）］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>宿舎にもどる頃、メルレルのところに、「深い孤独、怒り、悲しみのなかで出会った、あなたがたの理解と共感に深く感謝しています」というしらせが届く。</p>
<p><em>　</em>宿舎にもどり、メルレル、鈴木、新原でリフレクションをおこない、前市長やカテリーナたちが引き受けた「調整役」の意味を考えた。戦争でやって来たひとたちは、自国での人権の危機を抱えている。他方で、チュニジアからの若者は、自分の判断で入国している。イタリアとチュニジアの協定（Accordo）により帰国せねばならないのだが、宗教、同性愛などの個人的条件により人権が保障されない危険性があると申告した場合は、イタリアに留まることが法的にも可能となる（pratica di protezione internazionale）。これを知らない若者は、自国に送還されるが、ふたたび船に乗ってやって来ることを繰り返す。しかしもし、国際的な人権保障を選択した場合は、母国にもどることは出来なくなる。</p>
<p><em>　</em>サハラ以南のアフリカ（Africa subsahariana）からの難民は、自国にもどされることはないが、難民センターには、1、2週間しか滞在できず、退所後は、イタリアさらには、ヨーロッパの各地に移動していくしかない。サハラ以南のアフリカ難民が、自分の処遇が決まるのを待っているのに対して、チュニジアの若者は、自分の身体を傷つけることや、何か問題を起こすことでで送還を回避しようとする。</p>
<p><em>　</em>ランペドゥーザの住民は、感覚的に、「黒い肌の難民（Africani neri）」に対しては好意的である。他方で、チュニジアの若者に対しては、3年以上刑務所にいた人間は解放されるという法律によって出所したものが多く含まれることもあって、「彼らは盗みを働く」「ただで食事が提供されている」という理解をしている。</p>
<p><em>　</em>リビアの収容所からやって来たひとたち（ナイジェリア、シリア、サハラ以南のアフリカなど）は、ほとんどが滞在中に性的暴行を受けている。遭難して助けられたひとびとは、シチリア、カラブリア、カリアリ（サルデーニャ）、ミラノなどに移送される。初期（まだ、海難救助のシステムが確立していない時期）には、リビアやアルジェリアから直接ランペドゥーザまで船が来ていた。2018年現在、難民センターに滞在しているのは100から150人だが、数年前までは800人がいた。現在の法律では、自分の意志で難民センターから外出できる。兵士は、難民の出入りについては責任をもたず、逃亡した場合に対応することになっている･･････。</p>
<p><em>　</em>このようなかたちで、本日の話をふりかえった後、メルレルのところに、カテリーナから連絡が入った。「難民センター」で火災が起こったという。原因は「チュニジアの若者の放火だ」と言われている。この火事のために、市内および空港の消防士も動員され、憲兵も駆けつけたということらしい。空港は、この火事で消防士などの保安要員がいなくなったため、鎮火までの時間、閉鎖となった。そのため、10時頃に私たちのホテルに到着予定だった現市長との懇談は中止となった。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>5．むすびにかえて――“痛み／傷み／悼み”の“想像／創造力”</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>“無関心”をこえる“出会い（incontrare l&#8217;altro, encountering the other）”の条件とはどのようなものなのだろうか？　　2018年3月の時点ではまだ総合診療所（Poliambulatorio）に勤務していたバルトロ医師にも会ってもらっている。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p style="padding-left: 40px;">「2013年に身体が麻痺して倒れたとき、難民たちの人間性にふれた。このとき自分の使命（dovere）を自覚した。それは、ふつうのことであり、たまたま私に課されたお役目（professione）だ。・・・・・・だって、そこに死にかけたひとがいるのだよ。彼らは、瀕死の私に気持ち（いのち）をくれた。ショアーを繰り返してはならないのだ。」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>出会ったひとたち（前市長、心理療法士のカテリーナ、バルトロ医師たち）のことをいま想い起こす。彼女ら／彼らは、「ランペドゥーザ人（Lampedusani）」であり、「難民支援のため」に、この地にやって来た人々ではない。自分たちのことを「ごくふつうのひと（la gente,uomo della strada）」だと言い、それぞれの言葉の発し方は違っても共通していたのは、「だって、そこに死にかけたひとがいる」「自分は出会ってしまったのだ」という感覚だった。</p>
<p><em>　</em>“痛み／傷み／悼み”の「共通感覚（sensus communis ）」（中村雄二郎）――語られない、発せられない声が、聴くともなく聞こえてきて、いてもたってもいられなくなり、気がつくと身体がうごいていた。その「選択」が、自分の利害にとっては決してプラスにはならないとわかっていても、相手の“受難（patientes）”と、自分の“痛み／傷み／悼み”が“感応（responding/sympathizing/resonating, rispondendo / simpatizzando / risonando）”してしまった。</p>
<p><em>　</em>実はこのとき、メルレルは、くも膜下出血で亡くなった前妻に続いて、癌で闘病した後妻に旅立たれたばかりで、カテリーナの父上の話の後、突発的に号泣していた。“受難”と“痛み／傷み／悼み”が感応する相手との間での相互的・相補的な“感知／感応”が起こっていたのだろう。この文章を書いているわたしも、いまの自分が置かれた状況から、前市長の索漠と 「諦念（森鴎外のResignation, rassegnazione）」、成し得べきことを遣り遂げようとしたいう感覚を、より近しく感じている。そしてもしかしたら、いまもう一度前市長と再会し、話せたならば、さらに深く“感応する（responding/sympathizing/resonating, rispondendo / simpatizzando / risonando）”ことができるのではと思う。</p>
<p><em>　</em>恩師・真下信一先生が「信頼できる」と語っておられた哲学者・市井三郎先生の言葉が想起された。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p style="padding-left: 40px;">“不条理な”苦痛――つまり各人が、自分の責任を問われる必要のないことから負わされる苦痛――を減らさねばならない･･････人がそれぞれの生涯に生きる価値（生きがい）とは、各人がまったくコントロールしえない自らの出自という“運命”のもとで、各人がそれぞれ特有に負わされている“不条理な苦痛”――より実在する問題性――を、どう処理してゆくかということにかかわっている。･･････多くの人々は、自分一個の“不条理な苦痛”を処理することで、精一杯となる。それを責めるつもりはもうとうない。･･････自分ではなくて他の人間が、自分が負うているのと同様の“不条理な苦痛”を軽減しようとして、自分に連帯を求めにくることが必然となる･･････この自覚に到達したとすれば、《現在での<ruby>隔<rp>(</rp><rt>・</rt><rp>)</rp></ruby><ruby>差<rp>(</rp><rt>・</rt><rp>)</rp></ruby>のことなど、おれの知ったことか》という理屈だけですますことはできなくなるだろう。いや、おれはその理屈だけですませる、となおもいい張る人には、わたしは黙するしかない。われわれがすべてそういい張るなら、人間の運命はおしまいだね、とだけつけ加えながら・・・・・・。</p>
<p style="padding-left: 40px;">人間歴史の未来を創るのは、いうまでもなく人間である。多くの人間は過去、現在の惰性に押し流されるとしても・・・・・・。<ruby>不条理な苦痛<rp>(</rp><rt>・・・・・・</rt><rp>)</rp></ruby>を軽減するためには、みずから創造的苦痛をえらびとり、その苦痛をわが身にひき受ける人間の存在が不可欠なのである。  （市井三郎『歴史の進歩とはなにか』岩波書店、1971年、208-­211, 201, 148ページより）</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>冒頭のローマ教皇の語りかけ――“無関心”から“わがこと”への転換を図る道筋について、いま考えさせられている。世界は“痛み／傷み／悼み（patientiae, doloris ex societas）”に満たされている。「人間の運命はおしまいだね」とならないのだとすれば、個々人の“固有の生の軌跡（roots and route of the inner planet）”からくる「偏り」はあろうとも、ランペデューザで出会ったひとたちのように、“痛み／傷み／悼み”を介しての“想像／創造力”が出会い、つらなることしか、いまは思い浮かばない。しかし、その確かさについての“直観（intuizione composita, composite intuition ）”は在る。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>【注】</p>
<p>1）　以下の3の前市長と4の心理療法士のカテリーナ、5のバルトロ医師の語りについての記述は、新原道信「イタリアの“国境地域／境界領域”から惑星社会を見る――ランペドゥーザとサンタ・マリア・ディ・ピサの“臨場・臨床の智」新原道信編『“臨場・臨床の智”の工房――国境島嶼と都市公営団地のコミュニティ研究』（中央大学出版部、2019年3月、155-208ページ）、加えて、新原道信「願望のヨーロッパ・再考――「壁」の増殖に対峙する“共存・共在の智”にむけての探求型フィールドワーク」『横浜市立大学論叢 社会科学系列』71 巻2 号、2020年2月、 145-166ページなどですでに紹介している。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>［© Michinobu Niihara］</p>
<p>&nbsp;</p>
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			</item>
		<item>
		<title>第8回　宮古・石垣の「声」が聴こえるか（1）</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/niihara-michinobu/3023/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 20 May 2024 03:38:01 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[新原道信]]></category>
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					<description><![CDATA[　他の人、他の生き物、大地の「声」が聴こえるか。 　“端／果て”の“ひとごと”だと思っていたことが、ある日突然、“わがこと”となる。「些細なこと」として見過ごしていた。しかし、後になって、「ああ、そういうことだったのか！&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/niihara-michinobu/3023/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第8回　宮古・石垣の「声」が聴こえるか（1）</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><em>　</em>他の人、他の生き物、大地の「声」が聴こえるか。</p>
<p><em>　</em>“端／果て”の“ひとごと”だと思っていたことが、ある日突然、“わがこと”となる。「些細なこと」として見過ごしていた。しかし、後になって、「ああ、そういうことだったのか！」という「舞台の転換（ペリペティア）」が起こる。</p>
<p><em>　</em>自らの眼前に立ち現れている“生身の現実”への無関心が“瓦礫”を生み出すことなど想像することもなく、時代を揺るがす出来事をただ傍観するだけなのか。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>1．ずっとこころにのこっている</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>わたしのなかで、「ずっとこころにのこっている」ことがらがある。それは、2018年の宮古、2017年の石垣への旅で出会った「声」だ【注1】。サルデーニャと沖縄の比較研究から調査研究者の道を歩み始めたわたしにとって、宮古・石垣などの先島諸島（宮古列島と八重山列島）は、琉球弧のなかでもとりわけ「気になる」場所であった。その「先島」に、2016年1月の与那国駐屯地につづいて、宮古島駐屯地が2019年3月、石垣島駐屯地が2023年3月に開設された。「南西諸島の奄美大島、宮古島、石垣島にミサイル部隊が配備され、これで軍事的『空白』がなくなった」のだという。</p>
<p><em>　</em>「南（西諸）島」はいま、日本の「生命線」を守るための「前線基地（橋頭堡）」として「発見」されている。厚木基地から岩国基地への戦闘機の移転、佐世保の強襲揚陸艦と水陸機動団、馬毛島への空母艦載機離着陸訓練の移転、宮古・石垣でのミサイル基地建設、北大東島へのレーダー配備――基地は、地域に急速な変化をもたらしている。</p>
<p><em>　</em>〈基地（base, camp, installation）〉とは、国際関係や国策によってもたらされる巨大な施設(拠点)のメタファーだ。軍事施設のみならず、核施設、空港、清掃工場・最終処分場、下水処理場、石油備蓄基地など、「迷惑施設（NIMBY）」と称されるものが多い。ある日、ある土地は、大きな力によって「発見」され、翻弄される。気がついたときには、限られた「選択肢」の枠内でしか考えることが出来ない状況に追い込まれていく。</p>
<p><em>　</em>いったい誰の「生命線」なのか。かつては、東南アジアや南洋を「生命線」とした。いまではホルムズ海峡が「生命線」だと言われる。「日本を守らないといけない」「南西諸島はミサイルがあるなしにかかわらず標的になる場所なんだから、なんで配備に反対するのか」といった意見が報道される。「標的」の役割は、「守る」べき「自分」の「外部」に割り振られる。</p>
<p><em>　</em>しかし、前線の「標的」として「発見」された土地にも、ごくふつうの人々の暮らしがある。土地を切り開き、農地を耕し続けた人々がいる。静かな暮らしのために移住してきた人々がいる。大きな力にただ翻弄されるだけなく、はめ込まれた「枠」からぶれてはみ出し、声を発し、想いを伝えようとする人々の「声」と想いが在る。</p>
<p><em>　</em>いまあらためて、土地と人の奥深く、発せられていた聴かれるべき「声」、その背後の想いの重さを受けとめたい。少しだけでも、宮古と石垣で出会った人々の「草の根のどよめき」【注2】の一端を伝えられれば幸いである。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>2．2018年の伊良部・下地・宮古島への旅</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>「辺境」とされる島々は、いまを生きる人間や社会の内なる「ひずみ」や「ゆがみ」、“痛み／傷み／悼み”を引き受けている――そう考え、島々を歩いてきた。2018年3月には、ドキュメンタリー制作者や市民活動家の人たちを手助けしているSさんのご助力により、「宮古の現在」を訪ね歩いた。</p>
<p><em>　</em>このときは、二日にわたって、伊良部島、下地島、宮古島を一周する機会をいただいた。久松地区から久貝を抜け、2015年1月に開通した巨大な建造物である伊良部大橋を渡った。段差のない「珍しい橋（軍用車両向けか？）」をわたり、伊良部島に入ると、海岸部の開発が進んでいる。</p>
<p><em>　</em>伊良部島の長山港は、海上保安庁の新たな拠点港となり、「尖閣対応のため」、12隻の艦船の配備が予定されていた。渡口の浜は、米軍の水陸機動団が訓練をした海岸である。宮古の地図を踏みながら作戦の立案をしている写真が注目を集めたが、それはSさんたちが海兵隊員のSNSから発見したものだった。［写真①］［写真②］［写真③］［写真④］［写真⑤］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-3041" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02603［写真①：伊良部大橋］-scaled.jpg" alt="" width="2560" height="1920" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02603［写真①：伊良部大橋］-scaled.jpg 2560w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02603［写真①：伊良部大橋］-300x225.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02603［写真①：伊良部大橋］-1024x768.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02603［写真①：伊良部大橋］-768x576.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02603［写真①：伊良部大橋］-1536x1152.jpg 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02603［写真①：伊良部大橋］-2048x1536.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2560px) 100vw, 2560px" /></p>
<p>［写真①：伊良部大橋］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-3042" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02578［写真②：伊良部島・下地島の地図］-scaled.jpg" alt="" width="2560" height="1920" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02578［写真②：伊良部島・下地島の地図］-scaled.jpg 2560w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02578［写真②：伊良部島・下地島の地図］-300x225.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02578［写真②：伊良部島・下地島の地図］-1024x768.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02578［写真②：伊良部島・下地島の地図］-768x576.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02578［写真②：伊良部島・下地島の地図］-1536x1152.jpg 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02578［写真②：伊良部島・下地島の地図］-2048x1536.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2560px) 100vw, 2560px" /></p>
<p>［写真②：伊良部島・下地島の地図］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-3043" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02530［写真③：長山港］-scaled.jpg" alt="" width="2560" height="1920" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02530［写真③：長山港］-scaled.jpg 2560w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02530［写真③：長山港］-300x225.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02530［写真③：長山港］-1024x768.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02530［写真③：長山港］-768x576.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02530［写真③：長山港］-1536x1152.jpg 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02530［写真③：長山港］-2048x1536.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2560px) 100vw, 2560px" /></p>
<p>［写真③：長山港］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-3044" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02536［写真④：渡口の浜］-scaled.jpg" alt="" width="2560" height="1920" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02536［写真④：渡口の浜］-scaled.jpg 2560w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02536［写真④：渡口の浜］-300x225.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02536［写真④：渡口の浜］-1024x768.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02536［写真④：渡口の浜］-768x576.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02536［写真④：渡口の浜］-1536x1152.jpg 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02536［写真④：渡口の浜］-2048x1536.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2560px) 100vw, 2560px" /></p>
<p>［写真④：渡口の浜］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-3045" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02575［写真⑤：下地島空港管制塔］-scaled.jpg" alt="" width="2560" height="1920" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02575［写真⑤：下地島空港管制塔］-scaled.jpg 2560w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02575［写真⑤：下地島空港管制塔］-300x225.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02575［写真⑤：下地島空港管制塔］-1024x768.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02575［写真⑤：下地島空港管制塔］-768x576.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02575［写真⑤：下地島空港管制塔］-1536x1152.jpg 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02575［写真⑤：下地島空港管制塔］-2048x1536.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2560px) 100vw, 2560px" /></p>
<p>［写真⑤：下地島空港管制塔］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>橋をわたり、下地島に入ると島の半分近くを占める巨大な滑走路をもつ下地島空港滑走路と下地島空港管制塔が視野に入ってくる。ここには、高性能の管制塔がある。現在はほとんど使われていないが、それでも、地元資本の大米（だいよね）建設（平良市の元市長の下地米一が創業し、長男が会長兼社長、弟が衆議院議員）が工事を続けており、米軍の輸送機とヘリコプターが来て給油をしていく。伊良部島にある高校は、統廃合で揺れている。下地敏彦市長は学校の統廃合で生まれる工事を推進しようとしている。</p>
<p><em>　</em>伊良部島の東海岸を通って帰路に着く。佐良浜漁港では、伊良部大橋建設以前にはフェリーが着岸し追い込み漁もやられていたが、大橋の開通後は「開発」から取り残されている。</p>
<p><em>　</em>宮古島は、以前にも〈基地〉の島とされていた。陸上自衛隊の駐屯地建設現場に近い野原(のばる)岳周辺には3万人規模の将兵を抱える第28師団の司令部、1400mと1700mの滑走路をもつ陸軍中飛行場などの軍事施設があった。その場所がそのままに、 航空自衛隊宮古島分屯基地となっている。分屯基地の正門の前に立つと、通信を傍受するため設置された巨大な施設の電磁波が身体に突き刺さるような感覚を覚える（ヨーロッパでは0.1µW/ｃ㎡［平方センチメートルあたりのマイクロワット数］だが、ここでは200µW/ｃ㎡以上となっている ）。電磁波の影響は、頭痛やめまい、動悸など、個々人の「ちょっとした不具合（minor ailments）」として「処理」される。［写真⑥］</p>
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<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-3047" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02704［写真⑥：航空自衛隊宮古島分屯基地］-scaled.jpg" alt="" width="2560" height="1920" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02704［写真⑥：航空自衛隊宮古島分屯基地］-scaled.jpg 2560w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02704［写真⑥：航空自衛隊宮古島分屯基地］-300x225.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02704［写真⑥：航空自衛隊宮古島分屯基地］-1024x768.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02704［写真⑥：航空自衛隊宮古島分屯基地］-768x576.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02704［写真⑥：航空自衛隊宮古島分屯基地］-1536x1152.jpg 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02704［写真⑥：航空自衛隊宮古島分屯基地］-2048x1536.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2560px) 100vw, 2560px" /></p>
<p>［写真⑥：航空自衛隊宮古島分屯基地］</p>
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<p><em>　</em>日本陸軍は、中飛行場以外にも西飛行場をもっていて、これら以外に海軍にも飛行場があった（現在の宮古島空港である）。1944年7月のサイパン陥落後、急速に進められた三つの飛行場の建設にあたっては、女性子ども老人も借り出され、土地を強制的に接収された人々の多くは、移住先で飢餓とマラリアに苦しんだ。将兵の食糧確保のため、女性子ども老人の台湾への「疎開」が国策として行われたが、敗戦後の「引き揚げ」も米軍占領下で進まなかった。</p>
<p><em>　</em>基地は、地域の住民そして「外地」から連行された人々の「生」に大きな影響を与えた。旧陸軍飛行場跡地のほぼ真ん中に位置するアリランの碑は、2007年に建立にされたものだった。Sさんによれば、与那覇さんという地元の方は、子どもの頃に出会った「慰安所」の女性たちの存在が何を意味するかを後からしることとなった。与那覇さんとSさんたちは、「慰安婦問題を考える宮古の会」を立ちあげ、韓国・日本・沖縄の調査団が来て、島内各地に多くの慰安所があったことが判明した。朝鮮半島などの「外地」から連れてこられた女性たちだった。［写真⑦］</p>
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<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-3049" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02681［写真⑦：アリランの碑］-scaled.jpg" alt="" width="2560" height="1920" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02681［写真⑦：アリランの碑］-scaled.jpg 2560w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02681［写真⑦：アリランの碑］-300x225.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02681［写真⑦：アリランの碑］-1024x768.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02681［写真⑦：アリランの碑］-768x576.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02681［写真⑦：アリランの碑］-1536x1152.jpg 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02681［写真⑦：アリランの碑］-2048x1536.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2560px) 100vw, 2560px" /></p>
<p>［写真⑦：アリランの碑］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>この碑の隣には、衛生兵として招集され宮古に移駐した高澤義人さんによる「補充兵われも飢えつつ餓死兵の骸焼きし宮古（しま）よ八月は地獄」（2005年8月15日建立）という歌碑があった。［写真⑧］</p>
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<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-3050" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02693［写真⑧：高澤さんの歌碑］-scaled.jpg" alt="" width="2560" height="1920" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02693［写真⑧：高澤さんの歌碑］-scaled.jpg 2560w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02693［写真⑧：高澤さんの歌碑］-300x225.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02693［写真⑧：高澤さんの歌碑］-1024x768.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02693［写真⑧：高澤さんの歌碑］-768x576.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02693［写真⑧：高澤さんの歌碑］-1536x1152.jpg 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02693［写真⑧：高澤さんの歌碑］-2048x1536.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2560px) 100vw, 2560px" /></p>
<p>［写真⑧：高澤義人さんの歌碑］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>野原から島を南下すると、衛星システムの追跡管制局（準天頂衛星システム宮古島追跡管制局）を見ることが出来る。種子島、久米島、宮古島、石垣島、神戸、常陸太田に同様の施設があり、米軍のステルス機に位置情報を送るためにも活用されているという。［写真⑨］</p>
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<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-3051" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02710［写真⑨：衛星システムの追跡管制局］-scaled.jpg" alt="" width="2560" height="1920" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02710［写真⑨：衛星システムの追跡管制局］-scaled.jpg 2560w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02710［写真⑨：衛星システムの追跡管制局］-300x225.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02710［写真⑨：衛星システムの追跡管制局］-1024x768.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02710［写真⑨：衛星システムの追跡管制局］-768x576.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02710［写真⑨：衛星システムの追跡管制局］-1536x1152.jpg 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02710［写真⑨：衛星システムの追跡管制局］-2048x1536.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2560px) 100vw, 2560px" /></p>
<p>［写真⑨：衛星システムの追跡管制局］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>その少し先の海沿いには、ドイツの城を模した「うえのドイツぶんか村」の建物が並んでいる。リゾートマンション群がつづくが、丘の上の高級ホテルからビーチに行くためのリフトがつくられている、これだけの施設を維持するのは、並大抵のことではないだろう。それでも、この地域では、建設ラッシュがつづく。</p>
<p><em>　</em>宮古島の東端の透明度の高い海を眺望できる東平安名崎（ひがしへんなざき）の近くに保良（ぼら）という集落がある。この集落から見下ろすと、窪地となっている場所に、採石場の「保良鉱山」がある。住宅地からわずか200メートルほどの至近距離のこの場所が、陸上自衛隊の弾薬庫と射撃訓練場建設予定地となっており、そのすぐ近くには、海上保安庁の射撃訓練場の建設が予定されている。［写真⑩］［写真⑪］</p>
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<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-3052" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02765［写真⑩：保良鉱山から保良の集落を遠望する］-scaled.jpg" alt="" width="2560" height="1920" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02765［写真⑩：保良鉱山から保良の集落を遠望する］-scaled.jpg 2560w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02765［写真⑩：保良鉱山から保良の集落を遠望する］-300x225.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02765［写真⑩：保良鉱山から保良の集落を遠望する］-1024x768.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02765［写真⑩：保良鉱山から保良の集落を遠望する］-768x576.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02765［写真⑩：保良鉱山から保良の集落を遠望する］-1536x1152.jpg 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02765［写真⑩：保良鉱山から保良の集落を遠望する］-2048x1536.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2560px) 100vw, 2560px" /></p>
<p>［写真⑩：保良鉱山から保良の集落を遠望する］</p>
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<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-3053" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02773［写真⑪：海上保安庁の射撃訓練場建設予定地］-scaled.jpg" alt="" width="2560" height="1920" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02773［写真⑪：海上保安庁の射撃訓練場建設予定地］-scaled.jpg 2560w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02773［写真⑪：海上保安庁の射撃訓練場建設予定地］-300x225.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02773［写真⑪：海上保安庁の射撃訓練場建設予定地］-1024x768.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02773［写真⑪：海上保安庁の射撃訓練場建設予定地］-768x576.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02773［写真⑪：海上保安庁の射撃訓練場建設予定地］-1536x1152.jpg 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02773［写真⑪：海上保安庁の射撃訓練場建設予定地］-2048x1536.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2560px) 100vw, 2560px" /></p>
<p>［写真⑪：海上保安庁の射撃訓練場建設予定地］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>島東岸の高野漁港は、佐世保相浦の水陸機動団と米軍合同の上陸訓練の予定地となっている。北部に位置するハンセン病患者療養所の南静園は、空襲により壊滅的な被害を被った。1945年の9月頃まで洞窟にかくれていて、饑餓と伝染病で多くの人が亡くなったという。</p>
<p><em>　</em>宮古島を一周した後、寄宿先の近くの松原公園へと向かった。日本海軍の機関銃壕近くの松原公園では、公園の整備事業の看板が出ていたが、あと二日で終了する事業であるのに、その場の状況から作業の遅れが確認された。［写真⑫］［写真⑬］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-3055" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02989［写真⑫：機関銃壕跡］-scaled.jpg" alt="" width="2560" height="1920" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02989［写真⑫：機関銃壕跡］-scaled.jpg 2560w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02989［写真⑫：機関銃壕跡］-300x225.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02989［写真⑫：機関銃壕跡］-1024x768.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02989［写真⑫：機関銃壕跡］-768x576.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02989［写真⑫：機関銃壕跡］-1536x1152.jpg 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02989［写真⑫：機関銃壕跡］-2048x1536.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2560px) 100vw, 2560px" /></p>
<p>［写真⑫：機関銃壕跡］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-3056" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC03010［写真⑬：松原公園］-scaled.jpg" alt="" width="2560" height="1920" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC03010［写真⑬：松原公園］-scaled.jpg 2560w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC03010［写真⑬：松原公園］-300x225.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC03010［写真⑬：松原公園］-1024x768.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC03010［写真⑬：松原公園］-768x576.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC03010［写真⑬：松原公園］-1536x1152.jpg 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC03010［写真⑬：松原公園］-2048x1536.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2560px) 100vw, 2560px" /></p>
<p>［写真⑬：松原公園］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>宮古島（伊良部島、下地島）もまた、国家の力に翻弄される他の島々と同様、「基地と観光と土建」の渦中に在る。しかしそれでも、丹念に手が入った畑地もまた生命力を保っている。駐屯地の近くで農業を営むNさんの表情やしぐさ、「おかしいじゃないですか」という言葉を想い出す。［写真⑭］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-3057" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02657［写真⑭：耕作地とレーダー］-scaled.jpg" alt="" width="2560" height="1920" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02657［写真⑭：耕作地とレーダー］-scaled.jpg 2560w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02657［写真⑭：耕作地とレーダー］-300x225.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02657［写真⑭：耕作地とレーダー］-1024x768.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02657［写真⑭：耕作地とレーダー］-768x576.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02657［写真⑭：耕作地とレーダー］-1536x1152.jpg 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02657［写真⑭：耕作地とレーダー］-2048x1536.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2560px) 100vw, 2560px" /></p>
<p>［写真⑭：耕作地とレーダー］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>3．御嶽の森はどうなっていくのか</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>宮古島への旅で、もっとも「こころにのこる」瞬間があった。それは、Sさんの案内で、自衛隊駐屯地の建設現場である千代田カントリークラブ・ゴルフ場へとやって来たときのことだ。</p>
<p><em>　</em>トラックが出入りする入口近くで、基地建設に反対するプラカードなどを掲げて立つ人たちと、騒音と粉塵のなかでの時間をともにした。出入りするトラックを運転する人たちにも声をかける。目を背ける人、挨拶する人、手を振る人――様々な応答がなされている。地元採用の作業員と本土から来た人たちの間でかなりの賃金格差があることも耳にした。ここでの話は、日々の暮らしから政治の状況まで、縦横無尽で多岐にわたった。粉塵防止のマスクと日焼け止めについての話もまた、大切な話題となっている。「基地反対」も農業も祈りも、突然持ち込まれた非日常とは異なる「日々の営み」として、慎み深く、思慮深く行われている。</p>
<p><em>　</em>フェンス沿いにすすんでいくと、金網の向こう側、剥き出しとなった岩や石から舞い上がる粉塵の少し先に、かろうじて少しばかりの木々が残っていた。［写真⑮］その森は、沖縄の祈りの場である御嶽（うたき）の森（おそらく宮古では「すく」と呼ばれているのであろう）である。しかし、その森には、祭祀のためにつくられた道や階段がすでになかった。陸上自衛隊駐屯地の建設工事が始まってしばらくは、石屑が散乱する道路上に、天然記念物のウシガエルの大量の死骸が折り重なっていたという。森で暮らしていた他の生き物たち、天然記念物のリュウキュウキンバトなど、森の生き物たちは、いまはもう、影も形もない。「すごいことになっている（!!）」――Sさんは、変貌した姿に声をあげ、すぐさま森にむかって駆け出した。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-3058" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02651［写真⑮：削り取られた御嶽の森］-scaled.jpg" alt="" width="2560" height="1920" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02651［写真⑮：削り取られた御嶽の森］-scaled.jpg 2560w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02651［写真⑮：削り取られた御嶽の森］-300x225.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02651［写真⑮：削り取られた御嶽の森］-1024x768.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02651［写真⑮：削り取られた御嶽の森］-768x576.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02651［写真⑮：削り取られた御嶽の森］-1536x1152.jpg 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02651［写真⑮：削り取られた御嶽の森］-2048x1536.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2560px) 100vw, 2560px" /></p>
<p>［写真⑮：削り取られた御嶽の森］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>ゴルフ場の敷地内には、貴重な戦争遺跡である飛行場跡や地下壕があったが、それらもすべて、破砕された。戦跡の近くに昔の風習であった風葬の墓地もあったが、その上に宿舎が建設されつつある。負債を抱えたゴルフ場のクラブハウスでは、レストランの営業が続けられている（「宮古そば・カツ丼・牛丼各600円」の看板があった）。［写真⑯］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-3059" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02658［写真⑯：食堂の看板］-scaled.jpg" alt="" width="2560" height="1920" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02658［写真⑯：食堂の看板］-scaled.jpg 2560w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02658［写真⑯：食堂の看板］-300x225.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02658［写真⑯：食堂の看板］-1024x768.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02658［写真⑯：食堂の看板］-768x576.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02658［写真⑯：食堂の看板］-1536x1152.jpg 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02658［写真⑯：食堂の看板］-2048x1536.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2560px) 100vw, 2560px" /></p>
<p>［写真⑯：食堂の看板］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>広大な土地がくりぬかれ、掘り出された石がその場で破砕され、断層がくっきりと見えている。粉塵対策はほとんどなされていない。いま見ているのは「わずか140日間の変化だ（!!）」。御嶽の森の営みは、これからどうなっていくのだろうか。［写真⑰］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-3060" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02661［写真⑰：駐屯地建設工事現場］-scaled.jpg" alt="" width="2560" height="1920" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02661［写真⑰：駐屯地建設工事現場］-scaled.jpg 2560w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02661［写真⑰：駐屯地建設工事現場］-300x225.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02661［写真⑰：駐屯地建設工事現場］-1024x768.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02661［写真⑰：駐屯地建設工事現場］-768x576.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02661［写真⑰：駐屯地建設工事現場］-1536x1152.jpg 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC02661［写真⑰：駐屯地建設工事現場］-2048x1536.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2560px) 100vw, 2560px" /></p>
<p>［写真⑰：駐屯地建設工事現場］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>2018年の宮古は、ずっと「こころにのこって」いる。「景観」の背後に在る構造と情動（汗や想い）を掬い／救いとることを旨として旅をしてきた。「遠く」からだとしても、時折ニュースで伝えられる野原の駐屯地や保良の弾薬庫の変貌した情景を、2021年1月の選挙で敗北し5月に自衛隊駐屯地をめぐる収賄の容疑で逮捕された下地敏彦市長の表情に、生々しさを感じる。2023年4月6日に伊良部島付近で墜落した陸上自衛隊第8師団のヘリコプターのニュースが目に飛び込んだ。呼ぶ声が聞こえるような気がする。建設現場での口や鼻のざらついた感覚とともに。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>【注】</p>
<p><em>　</em>1）いずれも、東洋大学教員の鈴木鉄忠さんと宮古・石垣の方たちとの信頼関係により実現し、鈴木さんに同道いただいた旅であった。</p>
<p><em>　</em>2）この言葉は、恩師・古在由重先生（1901-1990）の著書『草の根はどよめく』（築地書館、1982年）からいただいている。</p>
<p>&nbsp;</p>
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<p>&nbsp;</p>
<p>［© Michinobu Niihara］</p>
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<p>※アプリ「編集室 水平線」をインストールすると、更新情報をプッシュ通知で受けとることができます。</p>
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]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>第9回　宮古・石垣の「声」が聴こえるか（2）</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/niihara-michinobu/3029/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 20 May 2024 03:38:11 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[新原道信]]></category>
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					<description><![CDATA[4．2017年の石垣島への旅――言葉・表情・声 &#160; 　2017年3月には、石垣島を再訪している。「再訪」と言ったのは、その前に、琉球新報の三木健さんのご助力で、西表島炭鉱跡と竹富島を訪れ、那覇の沖縄第一ホテルで&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/niihara-michinobu/3029/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第9回　宮古・石垣の「声」が聴こえるか（2）</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><strong>4．2017年の石垣島への旅――言葉・表情・声</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>2017年3月には、石垣島を再訪している。「再訪」と言ったのは、その前に、琉球新報の三木健さんのご助力で、西表島炭鉱跡と竹富島を訪れ、那覇の沖縄第一ホテルで記録作家・上野英信さんの話しを聞かせていただいていたからだ。そのときから、石垣の森に入植し、開拓していった人たちのことが気になっていた。2017年は、20年ほど前の石垣・西表・竹富島への旅で、「こころをのこした」土地との再会であった。</p>
<p><em>　</em>宮古島への旅に先立つ2017年、市民の会で活動するFさんたちの助力で、西表から合流してくれたYさん、東洋大学の鈴木鉄忠さんと旅をともにした。</p>
<p><em>　</em>自衛隊の基地候補地とされた平得大俣は、「日本の名山」として知られる於茂登岳のふもとにある。石垣島中央部に位置するこの地域の4つの集落（「部落」）である嵩田、開南、川原、於茂登（おもと）は、台湾、沖縄本島、石垣の宮良、与那国、戦後の計画移民で嘉手納基地となった北谷、与那国など、沖縄内外の各地から、開拓農民として入植した人たちが切り開いた土地であった。</p>
<p><em>　</em>Yさんの案内で、まずは石垣市街から、海上保安庁（合同庁舎）前を通って、港ターミナル通りをすすみ、港まで歩く。石垣港には、海上保安庁の巡視船と大型クルーズ船Superstar Aquariusが停泊している。今朝到着し夕方には那覇に向けて出港するようである。Yさんは、巡視船の数が増えていることに驚く。［写真⑱］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-3064" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05607［写真⑱：海上保安庁の巡視船と大型クルーズ船Superstar-Aquarius］.jpg" alt="" width="1920" height="1080" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05607［写真⑱：海上保安庁の巡視船と大型クルーズ船Superstar-Aquarius］.jpg 1920w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05607［写真⑱：海上保安庁の巡視船と大型クルーズ船Superstar-Aquarius］-300x169.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05607［写真⑱：海上保安庁の巡視船と大型クルーズ船Superstar-Aquarius］-1024x576.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05607［写真⑱：海上保安庁の巡視船と大型クルーズ船Superstar-Aquarius］-768x432.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05607［写真⑱：海上保安庁の巡視船と大型クルーズ船Superstar-Aquarius］-1536x864.jpg 1536w" sizes="(max-width: 1920px) 100vw, 1920px" /></p>
<p>［写真⑱：海上保安庁の巡視船と大型クルーズ船Superstar Aquarius］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>入国審査を終えて、台湾からの観光客が市街地に向けて歩き始めている。白タクを監視するためタクシー組合の人たちが立ち番をしている。その向こう側に、銃器にカバーをかけた海上保安庁の巡視船が停泊している。「軍備増強」と「観光客誘致」という矛盾が狭いエリアに同居している。</p>
<p><em>　</em>黄色いジャンパーをまとったタクシー組合の人たちが、親しげに話しかけてきた。来訪の理由を告げると、停泊地の門番をしている方に話しをしてくれて、クルーズ船の近くまで行けることとなった。客たちは、短時間で、大量の薬品や化粧品、魚介類や果物を買い占める。5万人程度の人口の島にとって、一隻の大型船の入港は、街の暮らしに大きな影響を与える。</p>
<p><em>　</em>竹富島役場、先島ガス、石垣島ヴィレッジを通り抜け、タクシーに乗り込み、旧飛行場跡に近くに位置するショッピング・センターをめざす。台湾から石垣に移住した人たちが観光バスガイドなどしている話、「イノー（サンゴが育つ健康な礁池）」の話、ヤドカリでのウミヘビつりの話、ハブを丸焼きにした話など、運転手さんの幼少期の話はとても興味深い。</p>
<p><em>　</em>観光客には、刺身とリンゴが人気というショッピング・センター店内を見てまわる。ここからヘリポートのある石垣消防署まで歩いて行く。広大な空間として残されている旧飛行場跡と新八重山病院を見てまわる。建設中の道路は「この島に似つかわしくない6車線」でつくられつつあるが、建設中の新八重山病院には、常駐する医師がいないと言う。［写真⑲］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-3065" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05657［写真⑲：工事現場の風景］.jpg" alt="" width="1920" height="1080" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05657［写真⑲：工事現場の風景］.jpg 1920w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05657［写真⑲：工事現場の風景］-300x169.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05657［写真⑲：工事現場の風景］-1024x576.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05657［写真⑲：工事現場の風景］-768x432.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05657［写真⑲：工事現場の風景］-1536x864.jpg 1536w" sizes="(max-width: 1920px) 100vw, 1920px" /></p>
<p>［写真⑲：工事現場の風景］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>自衛隊のミサイル「地対空誘導弾パトリオット（PAC3）」は、2012年4月、2016年の「北朝鮮ミサイル発射」時には、石垣港向かい側の広大な埋め立て地（八島埋め立て地）に配備された。同埋め立て地が、現在工事中であるという理由から、さらなる候補地として、石垣島旧空港、「サッカーパークあかんま」があがった。その他、新石垣空港北側、白保・宮良地区北側、崎枝集落南側、屋良部半島西側、そして、嵩田の東側から開南の西側地域が候補地としてあがっていた。</p>
<p><em>　</em>Fさんは、基地候補地と石垣の現在をしるためのルートを考えてくれていた。まずはバンナ岳の展望台から、さきほど見た石垣港側と基地候補地の平得大俣地区を眺望した。於茂登岳（526m）の手前には嵩田、その東には開南、北には於茂登の農業地帯が拡がる。［写真⑳］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-3066" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05692［写真⑳：バンナ岳からの眺望］.jpg" alt="" width="1920" height="1080" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05692［写真⑳：バンナ岳からの眺望］.jpg 1920w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05692［写真⑳：バンナ岳からの眺望］-300x169.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05692［写真⑳：バンナ岳からの眺望］-1024x576.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05692［写真⑳：バンナ岳からの眺望］-768x432.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05692［写真⑳：バンナ岳からの眺望］-1536x864.jpg 1536w" sizes="(max-width: 1920px) 100vw, 1920px" /></p>
<p>［写真⑳：バンナ岳からの眺望］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>高台から道を降りると、嵩田、開南、川原、於茂登の集落となり、サトウキビやマンゴー、パイナップルが栽培されている土地に、「自衛隊基地反対」の看板やのろしが目に入ってくる。土地はよく整備され、ここまで来るのにどれだけの努力があったかを想像する。</p>
<p><em>　</em>於(お)茂(も)登(と)集落の入口には、1982年建立の「開拓の碑」がある。「碑」の裏側には、1957年5月19日にやって来た初代の方たちのお名前が刻まれている。その横には、「島のどこにも自衛隊基地いらない！！」と書かれたのぼり旗がいくつもある。［写真㉑］［写真㉒］［写真㉓］［写真㉔］［写真㉕］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-3067" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05709［写真㉑：於茂登の集落］.jpg" alt="" width="1920" height="1080" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05709［写真㉑：於茂登の集落］.jpg 1920w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05709［写真㉑：於茂登の集落］-300x169.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05709［写真㉑：於茂登の集落］-1024x576.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05709［写真㉑：於茂登の集落］-768x432.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05709［写真㉑：於茂登の集落］-1536x864.jpg 1536w" sizes="(max-width: 1920px) 100vw, 1920px" /></p>
<p>［写真㉑：於茂登の集落］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-3068" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05702［写真㉒：開拓の碑正面］.jpg" alt="" width="1920" height="1080" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05702［写真㉒：開拓の碑正面］.jpg 1920w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05702［写真㉒：開拓の碑正面］-300x169.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05702［写真㉒：開拓の碑正面］-1024x576.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05702［写真㉒：開拓の碑正面］-768x432.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05702［写真㉒：開拓の碑正面］-1536x864.jpg 1536w" sizes="(max-width: 1920px) 100vw, 1920px" /></p>
<p>［写真㉒：開拓の碑（正面）］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-3069" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05704［写真㉓：開拓の碑裏面］.jpg" alt="" width="1920" height="1080" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05704［写真㉓：開拓の碑裏面］.jpg 1920w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05704［写真㉓：開拓の碑裏面］-300x169.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05704［写真㉓：開拓の碑裏面］-1024x576.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05704［写真㉓：開拓の碑裏面］-768x432.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05704［写真㉓：開拓の碑裏面］-1536x864.jpg 1536w" sizes="(max-width: 1920px) 100vw, 1920px" /></p>
<p>［写真㉓：開拓の碑（裏面）］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-3070" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05703［写真㉔：基地反対の旗］.jpg" alt="" width="1920" height="1080" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05703［写真㉔：基地反対の旗］.jpg 1920w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05703［写真㉔：基地反対の旗］-300x169.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05703［写真㉔：基地反対の旗］-1024x576.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05703［写真㉔：基地反対の旗］-768x432.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05703［写真㉔：基地反対の旗］-1536x864.jpg 1536w" sizes="(max-width: 1920px) 100vw, 1920px" /></p>
<p>［写真㉔：基地反対の旗］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-3071" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05716［写真㉕：サッカーパークあかんま］.jpg" alt="" width="1920" height="1080" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05716［写真㉕：サッカーパークあかんま］.jpg 1920w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05716［写真㉕：サッカーパークあかんま］-300x169.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05716［写真㉕：サッカーパークあかんま］-1024x576.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05716［写真㉕：サッカーパークあかんま］-768x432.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05716［写真㉕：サッカーパークあかんま］-1536x864.jpg 1536w" sizes="(max-width: 1920px) 100vw, 1920px" /></p>
<p>［写真㉕：サッカーパークあかんま］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>候補地のサッカーパークあかんまから、屋良部半島へ向かう。崎枝集落南側から、日露戦争時代の戦時体制の遺構である「電信家（元海底電線陸揚げ室）」跡地では、現在はクルーズ船でつながっている台湾の基隆（きーるん）港が、軍事目的の電線でもつながっていたことがわかる。［写真㉖］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-3072" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05731［写真㉖：電信家の石碑］.jpg" alt="" width="1920" height="1080" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05731［写真㉖：電信家の石碑］.jpg 1920w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05731［写真㉖：電信家の石碑］-300x169.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05731［写真㉖：電信家の石碑］-1024x576.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05731［写真㉖：電信家の石碑］-768x432.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05731［写真㉖：電信家の石碑］-1536x864.jpg 1536w" sizes="(max-width: 1920px) 100vw, 1920px" /></p>
<p>［写真㉖：電信家の石碑］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>ここからいまひとつの基地候補地である屋良部半島西側へと向かう。御神崎（おがんざき）灯台には、八重山丸遭難の碑がある。ここからさらに、屋良部半島の内陸部にひっそりと置かれている不発弾の格納庫へと向かう。警備員さんが出てきて、「中に何があるか言ってはいけないことになっているので、いや、何が入っているか知らないさあ」と言う。続いて、準天頂衛星システム石垣島追跡管制局を見学する。［写真㉗］［写真㉘］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-3073" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05757［写真㉗：不発弾の格納庫］.jpg" alt="" width="1920" height="1080" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05757［写真㉗：不発弾の格納庫］.jpg 1920w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05757［写真㉗：不発弾の格納庫］-300x169.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05757［写真㉗：不発弾の格納庫］-1024x576.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05757［写真㉗：不発弾の格納庫］-768x432.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05757［写真㉗：不発弾の格納庫］-1536x864.jpg 1536w" sizes="(max-width: 1920px) 100vw, 1920px" /></p>
<p>［写真㉗：不発弾の格納庫］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-3074" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05761［写真㉘：石垣の準天頂衛星システム］.jpg" alt="" width="1920" height="1080" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05761［写真㉘：石垣の準天頂衛星システム］.jpg 1920w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05761［写真㉘：石垣の準天頂衛星システム］-300x169.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05761［写真㉘：石垣の準天頂衛星システム］-1024x576.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05761［写真㉘：石垣の準天頂衛星システム］-768x432.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05761［写真㉘：石垣の準天頂衛星システム］-1536x864.jpg 1536w" sizes="(max-width: 1920px) 100vw, 1920px" /></p>
<p>［写真㉘：石垣の準天頂衛星システム］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>新栄公園の石垣周辺の地図を見ると、あらためて石垣が、東・東南アジアと日本に開かれた交流の拠点であることが可視的にわかる。他にも、台湾宜蘭県蘇澳鎮（すおうちん）との姉妹都市（1995年9月26日締結）の石碑などもあり、漁民の往来、戦時中の台湾疎開、蘇澳鎮の港からの引き揚げ、そして台湾から嵩田地区への集団移住により、パイナップルと水牛の導入が図られたことなどが書かれてある。［写真㉙］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-3075" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05783［写真㉙：石垣から見たアジアの地図］-rotated.jpg" alt="" width="1080" height="1920" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05783［写真㉙：石垣から見たアジアの地図］-rotated.jpg 1080w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05783［写真㉙：石垣から見たアジアの地図］-169x300.jpg 169w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05783［写真㉙：石垣から見たアジアの地図］-576x1024.jpg 576w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05783［写真㉙：石垣から見たアジアの地図］-768x1365.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05783［写真㉙：石垣から見たアジアの地図］-864x1536.jpg 864w" sizes="(max-width: 1080px) 100vw, 1080px" /></p>
<p>［写真㉙：石垣から見たアジアの地図］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>八島埋め立て地にある石垣島出身の特攻隊長「伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑」にも案内していただいた。石垣も宮古と同じく、旧日本海軍の二つの飛行場（平得と平喜名）と陸軍の石垣島飛行場（白保）が存在していた。平喜名に続く平得と白保の飛行場建設には住民が徴用され、台湾への疎開もすすめられた。1944年10月の初空襲から1945年にかけて度重なる空襲、艦砲射撃、6月住民の山地への強制避難、マラリアという悲劇が継起した。［写真㉚］</p>
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<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-3076" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05814［写真㉚：伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑］.jpg" alt="" width="1920" height="1080" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05814［写真㉚：伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑］.jpg 1920w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05814［写真㉚：伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑］-300x169.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05814［写真㉚：伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑］-1024x576.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05814［写真㉚：伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑］-768x432.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2024/05/DSC05814［写真㉚：伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑］-1536x864.jpg 1536w" sizes="(max-width: 1920px) 100vw, 1920px" /></p>
<p>［写真㉚：伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>こうして、Fさんたちの助けを借りて、島内を一周させていただいた。その次の日、市民連絡会の方々、候補地の方々との意見交換会を設定していただいたのだが、そのなかで、とりわけ「こころにのこって」いるのは、嵩田・開南・於茂登の方たちの言葉だった。</p>
<p><em>　</em>Fさんの運転で、於茂登集落へと夕闇のなかを走り、コンクリート造りの公民館に少し早めに到着する。もともとは開拓民のための合宿所だったらしい。現公民館長のKさんが解錠してくれて、館内の写真や旗などを見ることが出来た。</p>
<p><em>　</em>ふだんならば、農作業を終え、晩酌の時間であったろう。しかも、収穫期、とても忙しい時期に、それぞれの集落から集まってくださった。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong><em>　</em>「バンナ岳の斜面で農業をしています。静かな緑一面の土地に、取引先の人を案内すると『いい風景だね』と言ってくれます。この風景自体がブランドです。これで基地が来たら台無しですよ。」</strong></p>
<p><strong><em>　</em>「復帰後の土地改良の時期に、みなで話し合って、原風景を残すという選択をしました。土地改良をしないと農作業はたいへんだけれど、将来を考え、この風景を残したのです。」</strong></p>
<p><strong><em>　</em>「『外貨獲得』のための農業でマンゴー栽培をした。宮古からの自由移民で親戚は那覇に行った。マンゴー作りをしたいだけだ。突然のことでびっくりして、仲間と集まり、記者会見をして声明を出した。議会でも継続審議となり、各公民館に持ち帰って議論をして、みな反対となった。この土地は自分たちで開拓した土地だ。長い時間かけてやってきたんだ。」</strong></p>
<p><strong><em>　</em>「騒音は牛にとってたいへんなストレスとなる。土地を求めてやって来て苦労して開墾した場所に、またもや基地建設というのは絶対許せないという気持ちがある。農業をしていきたい人はみな反対している。」</strong></p>
<p><strong><em>　</em>「マンゴーのビニールハウスのすぐ近くが候補地となっている。与那国では基地問題で島内が対立し、自衛隊が来た。そうさせてしまう政治への怒りがある。」</strong></p>
<p><strong><em>　</em>「田舎がいやで那覇に出た。楽しかったけれど石垣とは空気が違う。しまの暮らしは時間がゆっくりと流れる。他にはない。これが牛飼いの気持ちだ。観光はいやだ。レンタカーが走っているだけでもいやだ。これじゃなんのためにもどってきたんだ。」</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>ただ「マンゴー作りをしたい」「牛にとってストレス」――マンゴーを栽培し、牛や土地と対話をしながら「しま」の時間を生きることのリアリズムがある。その暮らしは、初期に移住した開拓民の労苦によって築かれたものだという強い気持ちがある。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em><strong>「最後の計画移民だった。小1の時はジャングルだった。父たちが嘉手納から先遣隊としてやって来た。陸稲（おかぼ）を作ったがイノシシに食べられた。硬い地面に埋まっている石ころを掘り出し、畑をつくった。新しい土地を求めてやって来たのに、またか!!　小さな島はどうなってもいいのか!!　ここは石垣の真ん中で一番いい場所なんだ。」</strong></p>
<p><strong><em>　</em>「いままでの情景、静かな環境が変わってしまう。とにかく止める。絶対許さない。前の戦争の犠牲が残っている。父親たちの世代は、西表島に『疎開』してソテツを食べた。そしてマラリアを持ち帰った。土地が破壊されればこのときの二の舞となってしまう。またマラリア地獄だ。」</strong></p>
<p><strong><em>　</em>「母は日本軍に恨みが強い。自衛隊が来ればきっと米軍の基地にもなる。」</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>「父親母親たちの世代」への敬意とそこからの学びがある。やせた土地で石ころだらけの「ジャングル」を切り開いた。幸い、水は豊富で街に近かった。土地をくじ引きで分配し、みんなで植えつける。しかしそこからの収穫物は土地の主にあげる。先遣隊で開拓団規則をつくった。出身地のちがう部落民が団結し、一名の除名者も出さずに歩んできた。</p>
<p><em>　</em>こうした協業によってつくられた　「いい場所」は、ひとたび人の手を入れなくなれば、たやすく荒廃し、マラリアなどの伝染病が蔓延すると身体でわかっている。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong><em>　</em>「北谷で畑をやっていたが嘉手納の基地にとられた。かつての家は基地のなかにある。玉城から、与那国から、北谷からやって来て、いっしょに土地をつくった。まず先遣隊として父たちがやって来た。土地を開墾し、それから家族で入植した。</strong></p>
<p><strong><em>　</em>ツルハシで畑を耕した。そして、ようやく2世が育ってきたのに、基地ができたら本当に『二の舞』だ!!」</strong></p>
<p><strong><em>　</em>「昭和32年の計画移民で北谷からやって来た。みんなで力を合わせないと集落がつくれなかった。だからいまでも団結している。ここには於茂登岳からのきれいな水がある。高いところにタンクをつくり、自然な流れで農業が出来る。だからみんなダメだと言っている。」</strong></p>
<p><strong><em>　</em>「子どもの頃、土地改良前、虫や魚をとって遊んだ。野菜、花卉栽培、サトウキビで暮らせた。高校を出た後、いちど外に出てまた帰ってきた。静かな環境で農業をしたい。この静かな環境じゃないとダメなんだ。次世代にこのまま引き継ぎたい。八丈島でホテルの廃墟を見た。観光の危なさがある。自衛隊が来れば風評被害で農業もだめになる。」</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>大地の鳴動であるような言葉が次々と発せられ、公民館のなかで木霊していた。この土地に入植したのは、強制的に、あるいは出郷を余儀なくされた人々だ。耕すこと自体が困難な土地に、途方もない努力でいのちを根付かせ、 新たな風土と共存・共在する“智恵”を育み、「新しい土地」に新たな「しま」を創った。土地は、自分たちそのものであり、身体の奥底に、バンナ岳や於茂登岳、そこからの水、虫や魚や牛、花や野菜や果物が在る。土地と人の結びつきは分かちがたく、土地が壊されることは身が切られることだ。</p>
<p><em>　</em>話の後、前公民館長Mさんたちのご厚意で、あと10冊ほどしかのこってないという貴重な入植50周年の記念誌をいただいた。「最初に入植した人たち（父母の世代）は、嘉手納などから来てたいへんな苦労をしたこともあって、この土地への愛着が強いんで、生ぬるい反対運動やっていると怒られるんだよ」と言い、Mさんは、少し笑った。</p>
<p><em>　</em>公民館に集まってくれた人たちの言葉は、無駄な装飾がなく私心がない。身心を揺さぶる言霊と想念の余韻が刻み込まれた。話しの最中は、とても緊張していたため、気がつかなかったが、会場の公民館を出ると、虫の声がここちよく聞こえている。</p>
<p><em>　</em>この“贈りもの（dono）”の重みを感得し、記念誌に向き合うときは、こころを整え、正座する。「ジャングルの希望の一鍬」「先遣隊の思い出」「於茂登開拓者魂」――文章のひとつひとつ、写真の一枚一枚にこめられた想いを受けとめようと頁をめくる。</p>
<p><em>　</em>しかし、それだけではない。この集まりの前日には、於茂登の集落と「開拓の碑」を拝見している。バンナ岳の展望台から、そして道路脇から見た、よく手入れされた耕作地、夜半の公民館から漏れ出た灯りと虫の声――言葉・表情・声、それらすべてが次世代に“伝承・伝達”すべきものだ。</p>
<p><em>　</em>この「出会い」の後もずっと、こころを寄せていた。2022年12月から1月にかけて、Fさんたちが住民説明会の要望書を提出し、集会に来てくれていたHさんたちの尽力で基地賛成派が多い石垣市議会でミサイル配備に関する意見書が可決されたこと、石垣島への「島民が撃ったらいいと言ったら撃つわけではない」「危険なものができる土地に住む人の気持ちを理解しているのか」という声に耳をすましている。</p>
<p><em>　</em>「『空白』とか言うけれど、沖縄の2万5千年の歴史のなかで、尖閣が『軍事的空白』でなかったのは、第二次大戦末期の一時期だけですよ。このとき何が起こったか、まったく明白ですよ。」「運動にまきこまれたんだけれど（笑）、反対しないと人間としてまちがっていると思った」という2017年の言葉を想い起こしつつ。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>5．「コーズ」のつらなり</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>学者として“晩年の様式を生きる（living in late style, vivere in stile tardo）”ことを意識するようになった。若き日に、三木健さんからいただいた厚情に、少しだけでもお返しができればと思った。再び、宮古・八重山にかかわろうと考え、再開した旅だった。「新型コロナウイルス感染症」などで、その後の再訪の機会を失してしまっているが、筆者を「育てて」くれたサルデーニャと同じく、「いつもあなたとともにある（Sempre sarò con te）」という想いがある。</p>
<p><em>　</em>そしていま、あたかも70年以上前の「サイパン陥落」後のような性急さで、短期間に建設された〈基地〉を目の前にしている。これは、“瓦礫の出現”ではないか。宮古・石垣で出会った人たち、出会った土地に、なにができるのだろうか。</p>
<p><em>　</em>宮古と石垣を歩きながら想起していたのは、『南嶋探検』の著者・笹森儀助のことであった。1845年、青森・弘前藩に生まれた笹森義助は、地元の政治家も足を運ばぬ場所を手探りで探り、明治となっても先島諸島(宮古・八重山)だけに課された人頭税という不条理な税のため、他の島々から強制移住させられた人々に話しを聞き、『南嶋探検』で、宮古・八重山の“生身の現実”を伝え、世に問うことを試みた。「このような人たちを置き去りにして何が近代化か」と。</p>
<p><em>　</em>上から／外からの「観察」や「分析」ではなく、“ごくふつうの受難者／受難民”の“わがこと”として立ち現れる近代化の歪みを把握し、声を発し、「我が身を持って証立て（sich betätigen）」（ヘーゲル）ようとしたのだと思う。</p>
<p><em>　</em>「ずっとこころにのこっている」とはどういうことだろうか。なにごとか、誰かに「関心をもつ」とは、inter-esse、自らの内側、こころと身体の内奥に（inter）、誰かが入り込み、時として、その「呼び声」が聴こえる瞬間（momento）である。</p>
<p><em>　</em>日々の「喧噪」のなかで、身心に刻み込まれた記憶（Erinnerung）は水面下に沈んでいるかにみえる。しかし、「出会ってしまった」その存在（esse）は、時をとらえて、身体の奥底からほとばしり、こころをつかまえる。</p>
<p><em>　</em>「危機の瞬間にひらめくような記憶をつかむ」（W.ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」）ことは、実はその存在（esse）に「つかまれ」ることでもあるのだ。他者が内に入ってきて、“わがこと（cause）”の欠くべからざる「素（Element）」として、声を発し、道を指し示す。想いを馳せ、考えると同時に身体とこころがうごいてしまい、「（我が）身を投ずる」（上野英信）こととなる。</p>
<p><em>　</em>「こころにのこる」ものが自らの内なる“わがこと”となり、うごかざるをなくなってしまった人たちに揺りうごかされる。そして気がつくと自分もまたうごいていくという「コーズ」のつらなりによって、「パブリックのもの」がつくられていくことに「身を投ずる」しかないのだとあらためて想う。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p style="padding-left: 40px;">人間が思想を自分のものとしてもつとは、それによって生きることができるコーズcauseをもつことである。そのために精神の真底から笑い、喜び、怒り、憂え、悲しむことができるなにか普遍的なもの、なにかパブリックなものをもつことである。そのとき、歴史は精神の外側に己れを展開する眺めではなくなって、自己のうちなるコーズそのものにかかわる出来事となる。（真下信一「受難の深みより――思想と歴史のかかわり」〔1957年〕『真下信一著作集 5 歴史と証言』〔青木書店、1980年、pp.187-192〕）</p>
<p>&nbsp;</p>
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<p>［© Michinobu Niihara］</p>
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			</item>
		<item>
		<title>第10回　シコ・メンデスはなぜ殺されたのか？</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/niihara-michinobu/3569/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 28 Jul 2025 06:09:46 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[新原道信]]></category>
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					<description><![CDATA[　ずっと気になるひと、「このひとのことを忘れてはいけない」、そう想わさせてくれるひと。そのひとを想い、こころを寄せると、異なる時間、異なる場所で体験したことが、なぜかつながり、新たな意味を持つ。 　そうしたひとのひとりに&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/niihara-michinobu/3569/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第10回　シコ・メンデスはなぜ殺されたのか？</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><em>　</em>ずっと気になるひと、「このひとのことを忘れてはいけない」、そう想わさせてくれるひと。そのひとを想い、こころを寄せると、異なる時間、異なる場所で体験したことが、なぜかつながり、新たな意味を持つ。</p>
<p><em>　</em>そうしたひとのひとりに、ブラジル・アマゾンの熱帯雨林への入植者の末裔であるシコ・メンデス（1944-1988）がいる。シコ・メンデスは、アマゾンの熱帯雨林でゴムの樹液を採取する労働者（セリンゲイロ）の三代目として、1944年ブラジル北西部アクレ州の森に生まれた。父親から樹液を採取する仕事を教わり、9歳から20年ほど、ゴムの樹の森で働いた後、熱帯雨林の環境を守る運動に身を投じ、1988年に暗殺された。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>1．緒形拳の1992年の映像</strong></p>
<p><em>　</em>ずっと気になっていたのだが、突き詰めて考えてきたわけではなかった。ところが期せずして、2025年4月、NHKのBS放送で、1992年8月に放送された「緒形拳のアマゾン紀行　闘い、シコ・メンデス」の前後編が再放送された。画面に映し出された在りし日のシコ・メンデスと「再会」し、その姿を追いかけていった。</p>
<p><em>　</em>緒形拳（1937-2008）たち日本人取材班がブラジルを訪れたのは、1992年6月のことだった。この時期、リオデジャネイロでは、「環境と開発に関する国際連合会議（UNCED／地球サミット）」が開催されていた。21世紀に向け実行すべき行動計画（アジェンダ21）が採択された国際会議である。この会議と並行して、環境保護NGOのフォーラムが開かれ、シコ・メンデスの後継者である全国ゴム採集者協議会理事のオスマリーノ・ロドリゲスがシコ・メンデスの「夢」についての「遺書」を読み上げた。「世界社会主義革命が起こって100周年の記念日の2120年9月6日を生きる将来の若者たちへ」という内容だった。「苦しみと痛みと死の記憶はすべて過去のものとなる。現実ではないが夢見ることが出来て私は幸福だった」。この手紙を書いた20日後に、シコ・メンデスは殺された。</p>
<p><em>　</em>緒形たちは、まず最初に、リオデジャネイロの山腹の斜面に拡がる貧民街のファヴェーラ （favela）を訪ねる。リオデジャネイロやサンパウロのファヴェーラには、ブラジル北部の森林伐採で暮らしが立ちゆかなくなり、都市へと出てきた元・入植者や先住民が、多く暮らしているからだ。その後、リオからさらに北上し、北西部アマゾナス州の州都マナウスからアマゾン川を遡り、アクレ州リオ・ブランコへと入っていく。</p>
<p><em>　</em>1970年代、ブラジル政府は、「人間のいない土地に」というスローガンのもと、60万人以上の新たな入植者を、アマゾンの森に入植させた。1973年には、国道317号線がリオ・ブランコからシャプリまで延び、さらにクルゼイロ・ド・スルまで続く国道364号線（「アマゾン横断道路」と呼ばれる道路）が建設された。わずか15年間で、ロンドニア州の熱帯雨林の約半分は破壊された。</p>
<p><em>　</em>「アマゾンの密林破壊は単に一地方の問題ではない」。シコ・メンデスは、道路がもたらす破壊の脅威を予見していた。森や木や川は、たがいに助け合い共生している。そこには植物や魚や動物や人間がいる。アマゾンの先住民は、ゴムの樹を「泪を流す樹」と呼んだ。そのゴムの樹を慈しむセリンゲイロたちは、「私たちの生命」であるゴムの樹に、慎重に切り込みを入れ、樹液を採取する。</p>
<p><em>　</em>森を横断する道路が出来てから地価が高騰し、ゴム園は牧畜業者に売り渡されていく。木々が焼かれ、牛が放牧された。牧場の建設により、循環が断ち切られた森は死を待つしかない。入植二代目の父から仕事を教わり、9歳からゴム採集を始めたシコ・メンデスは、1975年に運動に我が身を投じた。彼はただ、自分が生まれ育ったゴム園であるセリンガル・カショイエラの67家族420人を守ろうとしただけだった。</p>
<p><em>　</em>国道364号線の建設には、アメリカのIDB（米州開発銀行）が出資していた。シコ・メンデスは、地元の教会でもらった背広を着て、1987年3月マイアミまで行き、森の保全を訴えた。「IDBに出資している日本、米国、英国の政府は、セリンゲイロの意見をぜひ聴いてほしい。私はセリンゲイロだ。私の仲間たちは130年間も森林の資源を活用し、それを破壊することなく生きてきた。アマゾンは世界でも有数の生物資源の宝庫だ」と。</p>
<p><em>　</em>シコ・メンデスは、アマゾンの森と生物多様性を守る運動のシンボリックな存在となった。環境に関する国際的な賞を次々と授賞し、IDBは舗装のための融資を中止した。これに対して、ゴム園経営者と牧場経営者は、セリンゲイロの運動家の暗殺リストを作成し、暗殺を予告した。この時期、ブラジルで起こった殺人事件には、土地紛争でセリンゲイロやアマゾン先住民が殺される事件が多く含まれていた。</p>
<p><em>　</em>シコ・メンデスたちは、セリンゲイロの「妻やその子どもたちが自分たちの身を盾にして森を守る」非暴力の運動を、展開した。この闘いの途上で、暗殺予告を受けていたシコ・メンデスは、死を予感していた。「誰も好んで死にはしない。誰も好んで倒れたりはしない。もっと生きがいのある生き方をしなければならない。」「このように労働者が死に続けることは許されない。私は死にたくない。」　家族や友人と食事をしながら「雨が降るぞ」と言ったシコ・メンデスは、美しい木々に囲まれた小さな家で殺された。</p>
<p><em>　</em>セリンゲイロたち入植者が来る前からの森の民だったグアラニー族の族長デラミニ（「かみなり」の意味）は、「『白人（森の外に暮らすひとの総称）』は我々の森を破壊してしまった。その結果としてこの世界も終わってしまう。2000年にすべてが終わってしまう。終末だ。助かるかどうか、それは神が決める」と言った。</p>
<p><em>　</em>シコ・メンデスは、なぜ殺されたのか？　「森が哭く」という現代文明への“問いかけ”を、私たちはどう受けとめてきたのか？</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>2．メルレルの1989年の授業と1996年のブラジルへの旅</strong></p>
<p><em>　</em>シコ・メンデスのことをはじめて知ったのは、1989年1月、留学先のイタリア・サルデーニャで、いまとなっては盟友となったアルベルト・メルレルの社会学の授業を受けていたときのことだった。授業は、1989年1月から5月にかけて、「開発・発展の諸問題」をテーマとして行なわれ、具体例として、アマゾンの森林破壊の問題が取り上げられた。</p>
<p><em>　</em>メルレルは、1988年12月のシコ・メンデス暗殺事件に即座に対応した。まだインターネットもなかった頃、定期的に取り寄せていたブラジルのニュース雑誌Vejaに載ったブラジル・ポルトガル語の記事を、イタリア語に訳しながら事件の詳細についての解説をした。その内容は、イタリアで報道されるニュースとは異なる角度からの、はるかに詳しいものだった。加えて、イタリアのテレビニュースで報道されたシコ・メンデスが死ぬ前になされたインタビューと、映画『ミッション』についても言及した。オゾン層破壊、大土地所有制と貧困、ブラジルの「進歩史観」による森林伐採、スペインの南米征服と、あらゆる方向へとダイナミックに展開していく授業だった。このとき、雑誌Vejaで見たシコ・メンデスの表情、イタリアの国営放送RAIで映し出された視線や声の調子が、ずっとこころに残っていた。</p>
<p><em>　</em>その「出会い」から少しの時を経た1996年、7月から8月にかけて、メルレルとブラジルへの旅をともにすることがかなった。ここで、シコ・メンデスが見た現実に少しだけふれる機会をもらった。</p>
<p><em>　</em>サンパウロでは、メルレルの父親の旧友のイタリア人神父が責任者をつとめる修道院に寄宿させてもらった。ローマカトリックの司祭ロドヴィコ・パヴォーニ（1784-1849）が設立した修道会で、サンパウロのモルンビ地区のファヴェーラで、診療所や学童保育や学習のための教室、遊技場など、様々な施設を作り、ひとびとを支えていた。</p>
<p><em>　</em>モルンビ地区は、いまは亡きF1ドライバーのアイルトン・セナが眠る墓地もある高級住宅街でもあった。ゲートで囲われ、入口には猟犬が待機し、防弾ガラスの車が出入りする高層住宅が屹立する一帯が在る。その一帯に隣接し、舗装されず土埃の舞う急勾配の土地にへばりつくように、ファヴェーラが形成されていた。</p>
<p><em>　</em>ふつうなら外部の人間は警戒され、入ることが出来ないこの土地に、修道院の神父たちが付き添ってくれることで、入ることを許された。住民の多くは、森林伐採などで暮らせなくなったブラジル北部の地域から流出してきたひとたちだという。斜面の土地に寄せ集めの材料で建てられた家々に、ひとびとは住む。下水のない路地は、雨の日になると、「天からの恵み」のはずの水が濁流となり、穴だらけの斜面の道を泥まみれにしてゴミを押し流し、造りの悪い家々を痛めつける。</p>
<p><em>　</em>両親は不定期な仕事を求めてサンパウロの中心街へと出ていく。乳幼児たちは、湿った日の当たらない部屋の中に残される。電気や水道をどうにか確保した後も、ここには託児所はなかった。一人の女性によって、私設の託児所が作られ、やがて他のひとの助けも得て、少しだけ自治体の援助金も受けるようになった。「シンガポールプロジェクト」という名前で、宿泊施設が建設されようとしていたが、ここに入ろうとする住民はほとんどいないか、一度入居してもすぐに出て行ってしまうのだという。託児所の裏手からは、川を隔てて、高層ビルと日本語の看板が見える。「誰もがここから出て行くことを夢見ている」街とはどんな街なのか？</p>
<p><em>　</em>サンパウロ大学では、メルレルの恩師で南米最高の社会学者であり、軍事政権下のブラジルでサンパウロ大学の職を追われたオクタヴィオ・イアンニ先生（1926-2004）に会っていただいた。机の上に座って足を組み、「イタリア語は隣の家に住んでいたイタリア系移民のひとと話をしながら覚えたものなので、あまりうまくありませんが」と前置きされた後、イタリア語で、ラテンアメリカ社会において、どのように土地が占拠され、固有の世界が「グローバル社会」に組み込まれていったのか、奔流のように、情熱的に、話をしてくださった。「いろいろな『言葉』が造り出す『空気』によって、社会の問題は見えないようにさせられてしまいますが、それを見えるようにするための『批判的精神』が大切です。簡単にだまされてしまわないためには、たとえそれが自分にとって危険なことであっても、“識ろう”とする勇気が必要なのです。」</p>
<p><em>　</em>リオデジャネイロからさらに北上し、エスピリットサント州で農村家族学校の国際大会に参加し、エスピリットサント州のコロニア（開拓地）のひとつで、19世紀にドイツ系とイタリア系移民が入植し切り開いた、ドミンゴス・マルティンスの森と農地を訪問した。</p>
<p><em>　</em>さらに、ここから、先住民の方たちの助けを借りて、ボートに分乗し、アマゾン川を遡っていった。数時間の後に着いた森の中に、朽ち果てた石柱が遺る場所へと連れていってもらった。先住民の若者は、「ここには、私たちの先祖がつくった街があったという言い伝えがある」と言った（そのとき、この旅をいっしょにしたイタリア人たちは、「修道院の跡だろう」と言っていたが、先住民たちの言い伝えが真実である可能性が、後に明らかになった）。</p>
<p><em>　</em>サンパウロのファヴェーラの住民と修道士、イアンニ先生、ヨーロッパからの入植者たち、ジャングルの遺跡へと案内してくれた先住民のひとたち、こうしたひとたちとの「出会い」を通して、シコ・メンデスが体感していた世界に想いを馳せていた。</p>
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<p><strong>3．シコ・メンデスになぜこころを寄せたのか</strong></p>
<p><em>　</em>メルレルは、なぜシコ・メンデスにこころを寄せたのだろうか？　メルレルは、イタリア北部の都市トレントで1942年に生まれ、第二次大戦後、ブラジルに移住した。貿易商の父親に連れられ、ヨーロッパもよく旅をしたこともあって、ブラジル社会を外から見る視点を持つことができた。そしてまた、ブラジル社会の諸相（メルレルに言わせるならブラジル社会の内なる“社会文化的な島々”）にふれる生き方をしたことからつくられた複合的な視点で、世界を見ることが出来るひとだった。</p>
<p><em>　</em>メルレルは、サンパウロで暮らした少年時代から学生時代､父親が経営する農園で、使用人たちといっしょに肉体労働をすることも多かった｡その中で、自然から､あるいは自然の中で働く人々から多くのことを学んだという｡先住民の部族の言葉であるトゥピ語やグアラニー語もよくしろうとした。「自分にとってはこれが､もうひとつの学校だった。」</p>
<p><em>　</em>サンパウロでの学校の同級生たちは､通常の都市ブルジョアで､ヨーロッパなど他の土地､ブラジルの中の農村や貧困といった他の世界をしらなかった｡それに対して自分の中には、都市ブルジョアの世界､入植者たちの農村の世界､先住民の世界、貧困層の世界､ヨーロッパでの体験など､様々な異質な要素が混じり合い、いっしょになっていた｡</p>
<p><em>　</em>ブラジルには、先住民、ヨーロッパ人、アフリカ人という三つの系譜があり、19世紀頃から「ともに生きること、ともに暮らすこと」が定着していった。その後、違った場所から大量の移民がブラジルへ流入する。世界の主要な大陸から人が移動して流入した。入植者たちは、新しい風土に慣れ新たな土地に住みつくことが出来るかが問われた。「ともに生きる（con-vivere）がブラジルで強く学んだことだった。」</p>
<p><em>　</em>そしてまた、以下のように語った。「国境の移動により、家族の運命が大きく左右されてきたことを自ら意識している。両親の出生の時期には、第一次大戦とその帰結としてのトレントのイタリアへの『回収』があった。幼少期には、第二次大戦とその帰結としてのイタリア東部領土喪失と冷戦による東西封鎖がある。国境地域に関する関心は、そうした個人的な歴史の再解釈からきている。しかし、そうした構造に翻弄させられるだけなのかといえば、そうでもない。境界領域を生きること、移動することにどのような意味があるのか、その意味を移動した者自らが証し立てるという課題を引き受けたい。」</p>
<p><em>　</em>メルレルは、ブラジルやヨーロッパの都市エリートとは異なる固有の体験を経験化することによって、移動したひとのみならず、動植物も含めて、「ともに生きる」という在り方が、ブラジル社会に固有の「複合的な発展」の道だと、恩師イアンニ先生ともども考えていたのだと思う。その彼からみて、シコ・メンデスは、ブラジル社会に根ざした“共存・共在の智”の体現者であったのだろう。</p>
<p><em>　</em>わたしはなぜシコ・メンデスが気になったのか？　気になるひとであったメルレルが気にしたひとであったことも理由のひとつであろう。しかし、シコ・メンデスは、「地球の裏側」で、違う時代、違う環境を生きたひとである。そうしたひとのことが、「地球規模の社会の問題を考えるときに重要だ」というような外在的な視点で、議論に「外挿」したかったわけではない。なぜか「感情移入」した。</p>
<p><em>　</em>わたしの場合は、伊豆半島での体験を介して、シコ・メンデスに「ひっかかり」を持ったのだ思う。子供の頃、引っ越した土地で、自分にとってどこか“異郷／異教／異境”の地でもあった里山に分け入り、森の木々の隙間から空を見上げ、風が鳴る音を聞き、リンドウの紺碧に目を奪われ、気がつくと識らない谷戸を降り立っていた。山の上には入会地と共同墓地があり、山から水が流れ、田畑と民家、集落の境には神社がある。家の近くの坂を下ると川が水をたたえ、魚や水生昆虫が暮らしている。その川の水で米を洗い、洗濯をする。流れた米粒を魚が食べるという循環がそこには在った。</p>
<p><em>　</em>幼い頃の一時期、暮らしをともにした祖母は、亡くなる直前、自らあまりかかわることのなかった農業への「こだわり」を強く示した。コツコツと貯めた全財産を投入して、荒れ果てた土地を整地し、その土地が田畑となることを願った。遺言は、「いまの文明は滅びへと向かうだろう。社会の常識や価値も変わるだろうが、唯一変わらないのは、自分の手や足で土や水にふれ、大地を育て、耕すことだ。そのための『地』を子孫に遺したい」というものだった。残念ながら、その「地」は、ひとの手が入らないまま、再び荒れ地となった。しかし、それからまたかなりの時を経て、大学を卒業し、故郷にもどってきたひ孫が、「その土地を耕したい」と申し出た。</p>
<p><em>　</em>わたしのなかで、祖母の背中と、シコ・メンデスの表情が、どこか重なった。無い袖はふれない。敏感になれることを通しての理解、「感情移入」が偏りを生み出すのだとしても、自分の“背景（roots and routes）”のなかにある「原風景」を介して、恐る恐る、そっと、“身実（みずから身体をはって証立てる真実）”にふれるしかないとも思う。</p>
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<p><strong>4．シコ・メンデスはなにを感知し、どう感応したのだろうか？</strong></p>
<p><em>　</em>1992年の映像をきっかけとして、かつての「ひっかかり」が呼び戻された。メルレルとわたしの偏りを通して理解されたシコ・メンデスとは、彼の生まれ育った「地」で、どう生きたひとだったのだろう。なぜこのように、「報われない」生き方／行き方を選んだのだろうか。なにを感知し、どのように感応したのだろうか？</p>
<p><em>　</em>熊野の森の木が切られることを自分の身心の痛みとして感知し感応した南方熊楠のように、森の悲鳴、森の慟哭を聴いたひとだった。リトアニア生まれのユダヤ人画家ベン・シャーンは、「地球はその上に住むあらゆるひとのものである」であると言ったが、シコ・メンデスは、きっと、植物、虫、鳥、魚、動物も含めた森のすべてが、結び合わされ、織り合わされた複合体であると体感していたのだろう。感知するには、身体感覚を通じた出会い、つまりは体感することが必要となる。感知はまた、大きくつかむこと、大観することでもある。</p>
<p><em>　</em>シコ・メンデスは、「地球全体がおかしくなった。その時代の核のようなものが水俣にある」と言った石牟礼道子のように、アマゾンの密林破壊が、単に一地方の問題ではなく、地球規模の問題だと大観していた。アマゾンの熱帯雨林は、地球をやさしく包み込み、呼吸をしてくれている。そのおかげで、地球の、生物の、人間の「肺」のなかにきれいな空気を運ばれてくる。そして、先住民から学んだセリンゲイロこそが、真の文明をつくってきたのだと体感／大観するかたちで感知していたのだろう。「真の文明は山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さざるべし」と言った田中正造のように。</p>
<p><em>　</em>ではどうして、感知すると同時に感応、すなわち身体がうごいてしまったのだろうか？　そもそもシコ・メンデスは、「深く掘れ。己の胸中の泉」といった伊波普猷のように、生まれ育ったセリンガル・カショイエラの「地」を、ただ愛するひとだった。東恩納寛惇が伊波普猷に送った言葉に託すかたちで言えば、「彼ほどアマゾンを識った人はいない／彼ほどアマゾンを愛した人はいない／彼ほどアマゾンを憂えた人はいない／彼は識った為に愛し､愛したために憂えた／彼は学者であり愛郷者であり予言者でもあった」ということになるのだろう。セリンガル・カショイエラという「小宇宙」は、「惑星地球」の呼吸を支える肺のような存在であり、生命活動の源である。もしその「肺」を傷つけてしまったならば、「惑星地球」という希有な生命体は、たやすく限界状況に直面すると予感／予見し、いてもたってもいられず、行動した。</p>
<p><em>　</em>「地を識るひと」であったシコ・メンデスは、「われもひとなりかれもひとなり、われもいきものかれもいきものなり、われもかれも、ものよりいで、ものにかえるものなり」という“智”が身体化していた。“渾身・心の力で”、ただ自分の森、自らの「地」のもっとも困難なとき、困難なことから逃げないで、その場に居合わせ、感応した。南方熊楠がそうであったように、自らの内なる“地-球（terra-Terra, ground/soil-the planet Earth）”の慟哭に感応するような身体（化された）智をもっていたのではないか。</p>
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<p><strong>5．シコ・メンデスが“問いかけ”たもの</strong></p>
<p><em>　</em>1988年に暗殺されたシコ・メンデスの生き方／行き方は、いま私たちになにを“問いかけ”ているのだろうか。近年の研究では、ヨーロッパから「白人」が到着する以前に、アマゾンの先住民たちが、ブラジル・ナッツやカシューナッツ、ゴムの樹を植樹して、「森を育てて」いた可能性が指摘されている。2024年には、エクアドルで古代都市の遺跡が発見された。さらには、植物はメッセージを発信し、コミュニケーションをとる能動的な存在であるという研究も出てきている。</p>
<p><em>　</em>ゴムの樹は、植物は、この世界を、人間を、どう見ているのか？　植物の能動性を考えたことがあるか？　植物の目や耳、鼻、脳という発想をもったことがあるか？　生命の大半は植物だ。植物は、「協力」し、「会話」する。たとえば、植物は、乾燥や山火事、葉を食べる青虫に対応するため、人間とよく似た情報伝達の仕組みが存在していることが明らかになってきている。音、温度、重力、化学物質のうごきを感知するセンサーを備え、虫が葉を囓る音や唾液の成分を分析し対応する。微量な物質の組み合わせが「信号」となり、植物と昆虫や鳥が「コミュニケーション」をとる。白亜紀に花が誕生し、昆虫が花粉を運ぶという共生関係、虫と植物双方の共進化がつくられていった。森には、人間が感知しない膨大な「コミュニケーション」が存在している。</p>
<p><em>　</em>森の地下には、菌糸の世界が拡がっている。菌糸のネットワークで森の木々がつながっている。人間の背後には、他の生物（動植物）、微生物、物質が相互扶助的に“共存・共在”する惑星地球のシステムが存在している。“生存の場としての「地（地域社会／地域／地球）」”は、モノ［風水土（物質圏＝大気圏・水圏・地圏）］、イキモノ［生命系（生物圏）］、ヒト［類的存在としての人類の文明（人間圏）］によって構成されている。</p>
<p><em>　</em>ブラジル社会には、オーギュスト・コントの影響による「進歩史観」があり、アマゾンの熱帯雨林の「開発」をもたらした。シコ・メンデスの運動は、「優秀な『人種』や『階級』が、受動的な存在であるセリンゲイロや先住民、森に働きかけ、開発する」という「神話」への「異議申し立て」であった。そしていま、脳化し文明化した人間が、圧倒的に能動的な主体として、客体としての「環境（自然や植物・動物）に働きかける」という「神話」が揺らいでいる。</p>
<p><em>　</em>1992年6月、国連の国際会議と環境保護NGOの集会の他にも、リオ郊外の山間部で、先住民の「抵抗の500年委員会」の集まりがあった。シコ・メンデスは、森の暮らしを学ばせてもらった先住民の“共存・共在の智”を尊重した。「森はかつては彼らのものだった。セリンゲイロや先住民は生存に森を必要として、森はセリンゲイロや先住民を必要とする。」</p>
<p><em>　</em>私たちはいま、人間の生産・消費・廃棄の活動の肥大化によって、1992年リオデジャネイロで「予見」されていた“惑星の限界／惑星システムに不可逆的な変化をもたらさない人間活動の境界線”の問題に直面している。しかし私たちは、「地球の裏側で、森や生物が死に瀕している」ことが、自分の生活、さらには生存に直接つながってくるような惑星地球規模の社会に生きているという実感はもてないでいる。</p>
<p><em>　</em>ではどうやって、地球の、他の生き物の、他の人間の悲鳴を、感知し、感応する“共存・共在の智”をわがものとするのか？　「優秀」だから生き残ったという「神話」にすがりつくことなく、他の生物（動植物、菌類・微生物）と同等の存在であるという地平から、人間の尊厳とはなにか、それでも人間であること、社会をつくることの意味は何かを、シコ・メンデスの生き方／行き方が問いかけている。ではシコ・メンデスの逝き方とは何だったのか？</p>
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<p><strong>6．なぜシコ・メンデスは逝かねばならなかったのか？</strong></p>
<p><em>　</em>シコ・メンデスの葬儀は、大雨のクリスマスの朝、1000人の会葬者で行われ、ニュースは全世界を駆け巡った。シコ・メンデスの死後、セリンガル・カショイエラは、特別保護区となった。アクレ州には、300万ヘクタール、18の保護地域が設定され、「一粒の麦もし死なずば」となった。</p>
<p><em>　</em>しかし、シコ・メンデスは、なぜ逝かねばならなかったのか？　他の道はなかったのか？　私たちは、まだこの先も、「私は死にたくない」という智者の犠牲（サクリファイス）を必要としてしまうのか？</p>
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<p>［© Michinobu Niihara］</p>
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