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	<title>西尾　漠 &#8211; 編集室水平線のオンラインマガジン　雨晴（あまはらし）</title>
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	<title>西尾　漠 &#8211; 編集室水平線のオンラインマガジン　雨晴（あまはらし）</title>
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	<item>
		<title>第1回　「まえがき」「IAEA」</title>
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		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 28 Oct 2022 04:00:01 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[西尾　漠]]></category>
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					<description><![CDATA[&#160; まえがき &#160; 　「極私的原子力用語辞典」を連載開始します。本業は反原発運動全国連絡会が発行する『はんげんぱつ新聞』の編集者です。1978年の創刊以来、編集の実務を担当しています。初代の故・高木仁三&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/nishio-baku/1376/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第1回　「まえがき」「IAEA」</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>まえがき</strong></span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>「極私的原子力用語辞典」を連載開始します。本業は反原発運動全国連絡会が発行する『はんげんぱつ新聞』の編集者です。1978年の創刊以来、編集の実務を担当しています。初代の故・高木仁三郎さんから引き継いだ編集長は2022年5月、末田一秀さんにバトンを渡しましたが、いまも編集に携わっています。脱原発のシンクタンクとも言うべき原子力資料情報室の共同代表も務めています。</p>
<p><em>　</em>原子力問題にかかわることになったのが『はんげんぱつ新聞』創刊の5年くらい前、テレビコマーシャルはおろか新聞広告も扱っていない、輸出向けの英文パンフレットづくりがメインの極小広告制作会社に勤めていたときです。反広告会議というグループに加わり、原発PRの批判をいずれも廃刊となった『新地平』や『市民』といった雑誌に書いたことから、反原発運動とつながりができました。</p>
<p><em>　</em>「原子力用語辞典」を最初につくろうとしたのは、1979年頃だったでしょうか。78年、79年と現代書館から『反原発事典』シリーズⅠ「［反］原子力発電・篇」・Ⅱ「［反］原子力文明・篇」を、反広告会議の仲間だった評論家の故・津村喬さん、現代書館の編集者で今はフリーで活躍している太田雅子さんといっしょに編集委員会を名乗って上梓し、シリーズⅢを「資料篇（ことばの事典を含めた資料集）」にしようと準備をしていました。高木仁三郎さんはもとより故・久米三四郎さん、故・水戸巌さんといったそうそうたる方々に第1稿を書いていただきながら刊行できなかったのは申し訳なく、慙愧に耐えません。</p>
<p><em>　</em>実は、シリーズⅢについては、高木さんに監修をお願いしていました。高木さんは、「自分が監修するなら、きちんとしたものを」と生真面目にすべての原稿を読み、手を入れ、何とか統一的で間違いのないものをと骨を折ってくれたのですが、けっきょくは挫折しました。私は何度か、「これくらいでよいのでは」と妥協を申し入れたものの、叱られて拒否されました。</p>
<p><em>　</em>その後、2001年に原子力資料情報室で小冊子『原子力キーワードガイド』を事実上の著者として作成、14年からは『現代用語の基礎知識』（自由国民社）で「原子力・原発」の項を担当しています。</p>
<p><em>　</em>今回は、そうした辞典に加えて事典風の余談を盛った「読む辞典」にしたいと編集室水平線の西浩孝さんには無理をお願いしました。後世に残る論文には載ることのない、インターネットで検索しても出てこないような「スクラップ情報」を、それでも残しておきたいというのが動機です。扱う「用語」も、その名にふさわしくないものが多くなりそうですが、あらかじめご寛恕をお願いしておきます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>＊発言者の肩書は、いずれも発言時のものです。</p>
<p>＊旧字・旧かなは新字・新かなに変えました。</p>
<p>＊［　］内は筆者の註です。</p>
<p><strong> </strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>◉IAEA</strong><strong>（あいえいいいえい）</strong></span></p>
<p><em>　</em>International Atomic Energy Agencyの略。「国際原子力機関」と訳されるが、IAEAのほうが通りがいい。1957年、国際連合との連携協定に基づき自治権を有する国際機関のひとつとして設置されたもので、核分裂物質（核物質）の保有状況を監視して核拡散を防止する活動の一方、そもそも原子力利用を推進する目的で設けられた機関である。</p>
<p><em>　</em>紛らわしい組織名としてIEA（International Energy Agency、国際エネルギー機関）、NEA（Nuclear Energy Agency、原子力機関）がある。前者は国連とは無関係で旧西側諸国のみで構成されている。後者はOECD（Organisation for Economic Co-operation and Development、経済協力開発機構）に属する国際機関で、OECD-NEAと書かれることが多い。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>すったもんだがありまして</strong></p>
<p><em>　</em>IAEAのスタートは、1953年12月8日の「Atoms for Peace」演説とされる。第8回国際連合総会で演説したアメリカのアイゼンハワー大統領は、原子力平和利用の促進のため、各国が持つウラン等の核物質の一部を国連の下に設立する国際機関に供出し、同機関が保管・貯蔵・防護を行い、利用方法を工夫すること（「原子力国際プール」、「ウラン銀行」などと呼ばれる）を提案した。</p>
<p><em>　</em>しかし、当時のソビエト社会主義共和国連邦（ソ連）の反対にあう。供出されない大部分の核物質は従来通り核兵器の生産に向けられる、供出したウランを原子炉で利用することで生まれるプルトニウムが核開発に使われないという保障がない、としてソ連は、原水爆禁止協定を先に結ぶことが必要だと主張した。言うまでもなく米ソそれぞれにさまざまな思惑があってのことだ。いろいろ言われているけれど、ややこしいのでここではスルーする。ともかく紆余曲折の末、1956年10月23日、ニューヨークで国際原子力機関憲章の採択に至る。翌57年7月29日に発効、ここにIAEAは発足した。</p>
<p><em>　</em>国際原子力機関憲章第2条は、目的をこう記している。「機関は、全世界における平和、保健及び繁栄に対する原子力の貢献を促進し、及び増大するように努力しなければならない。機関は、できる限り、機関がみずから提供し、その要請により提供され、又はその監督下若しくは管理下において提供された援助がいずれかの軍事的目的を助長するような方法で利用されないことを確保しなければならない」。</p>
<p><em>　</em>1970年3月6日に発効したNPT（Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons、Non-proliferation Treaty、核不拡散条約、核拡散防止条約）がIAEAとの間で締結することを義務づけている協定に基づいて当該国の原子力活動について実施する査察を含む保障措置活動によって、IAEAの名は広く知られるようになった。そのぶん原子力利用推進の側面が隠されている気がしないでもない。イランの核開発疑惑、最近ではロシアのウクライナ侵攻など問題が山積していることはご存じの通り。福島原発事故で核燃料がメルトダウンし確認できなくなった核物質をどう管理できるのかも大きな問題の一つだ。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>話半分嘘半分</strong></p>
<p><em>　</em>2021年10月現在のIAEA加盟国は173ヵ国。理事会は、原子力に関する技術の最も進歩した国として毎年6月の理事会によって指定される13ヵ国及び総会で選出する22ヵ国の計35の理事国から構成される。その指定理事国に日本は設立当初から選ばれていてIAEAに貢献していると外務省などは誇っているが、当初は選ばれるかどうか大いに気をもんでいたらしい。『新論』1巻5号（1955年11月）所載の「原子力平和利用国際会議に出席して」で自由党の前田正男衆院議員が当時の通商産業省工業技術院の駒形作次院長と対談していて、前田議員は「なんとしても日本は理事国に割込まなければならぬ」と言い募っていた。前田議員は力説する。「ぜひ割込まなければならぬので、駐在日本在外公館にぜひそういうような努力をするようにひとつ運動をしろという話をしましてまた帰ってから早速外務省の方に、正式にその話をして、外務省から在外公館に訓令を出した」。当初から選ばれていると胸を張る話でもないよね。</p>
<p><em>　</em>1965年9月には本部所在地のウィーンを離れて初めての総会が、東京で開催された。「原子力の平和利用開発を積極的にすすめている世界で唯一つの原爆被災国であるわが国で開かれたことは十分異議深いことである」（下山俊次日本原子力発電社長室副主査――『ジュリスト』336号）そうだ。また、外務省総合外交政策局軍縮不拡散・科学部長などを経て2005年から在ウィーン国際機関日本政府代表部大使を務めた天野之弥（あまの ゆきや）が、2009年から19年まで事務局の長であるとともに機関の首席行政官である事務局長を務めている。</p>
<p><em>　</em>指定理事国選出の時とは比べものにならない壮絶な外交駆け引きが行われた事務局長選挙については『世界に続く道　天野之弥回想録』（かまくら春秋社）で当人が事細かに記録している。何度繰り返しても決着がつかず、事態の責任を取るため、外務省の総合外交政策局軍縮不拡散・科学部部長の佐野利男と大臣官房総括審議官の松富重夫が頭を剃り丸坊主となったとか。Wikipedia の「天野之弥」の項にあったが、脚注の「『日本経済新聞』44283号、14版、日本経済新聞社、2009年5月4日、1面」は、縮刷版では確認できなかった。</p>
<p><em>　</em>ようやく選出された天野事務局長は、2015年9月の国連サミットで加盟国の全会一致で採択された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」にSDGｓ（Sustainable Development Goals、持続可能な開発目標）が記載されると、それに飛びついて新たなAtoms for Peace「平和と開発のための原子力（Atoms for Peaceand Development）」を掲げ、保健・医療、食料・農業、環境、工業適用等幅広い分野で原子力を活用した開発協力を提唱した。さすが！　IAEAサイバースドルフ原子力応用研究所（オーストリア）には、業績を称え命名されたという「天野之弥研究棟」（The Yukiya Amano Laboratories）まであるんだって。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>天にも上る</strong></p>
<p><em>　</em>1956年10月23日の国際原子力機関憲章採択を受けて日本政府は26日の閣議で署名を決定、同日、国連本部での調印式に加瀬俊一国連大使が代表として参加、調印を行った。『原子力委員会月報』1956年11月号は、その意義をこう述べている。</p>
<p><em>　</em>「この国際原子力機関にわが国が加盟した意義を考えてみると、わが国は国際連合のエカッフェなどの専門機関には加入しているが、連合自体の機関には加入していない。原子力機関のような主要な国際機関にわが国が加盟し、しかも準備委員国として主要な位置を占め、また理事国となることも期待されているということは外交上重大な意義を有するものといえよう」。</p>
<p><em>　</em>7年後の1963年10月26日に日本原子力研究所の動力試験炉JPDRが日本初の原子力発電を行うと、毎年10月26日を「原子力の日」とすることが64年7月30日の事務次官会議を経て同月31日の閣議で了解された。『原子力委員会月報』1964年8月号に説明がある。ちょっと長くなるが引用。</p>
<p><em>　</em>「『原子力の日』を10月26日としたのは、この日が、昭和31年国際連合の関係機関である国際原子力機関への加盟のために、わが国が同機関憲章に署名した日であり、また、昭和38年日本原子力研究所が動力試験用原子炉（JPDR）によりわが国が初めて原子力による発電に成功した日であるからである。</p>
<p><em>　</em>したがって『原子力の日』においては、ひろく国民一般が原子力についての理解と認識を深めることを目的とした各種の行事が行なわれる。行事の実施には科学技術庁をはじめ日本原子力産業会議、科学技術振興財団、日本放送協会、日本原子力研究所、その他国公立機関民間諸団体等多くの関係団体が参画する」。</p>
<p><em>　</em>JPDRの初発電単独では「原子力の日」にできなかったのか。それだけ国際機関に初加盟したことがよほどうれしかったんだろうかね。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>［© Baku Nishio］</p>
<p>&nbsp;</p>
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<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>第2回　「Atoms for Peace」「安全性」</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/nishio-baku/1390/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 28 Oct 2022 04:00:02 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[西尾　漠]]></category>
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					<description><![CDATA[◉Atoms for Peace（アトムズ・フォー・ピース） 　ドワイト・D・アイゼンハワー米大統領が、1953年12月8日にニューヨークの国際連合総会で原子力の平和利用を提案した演説ないし演説で提案された考え。余談だが&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/nishio-baku/1390/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第2回　「Atoms for Peace」「安全性」</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>◉Atoms for Peace（アトムズ・フォー・ピース）</strong></span></p>
<p><em>　</em>ドワイト・D・アイゼンハワー米大統領が、1953年12月8日にニューヨークの国際連合総会で原子力の平和利用を提案した演説ないし演説で提案された考え。余談だが、2009年に結成されたロック・バンドAtoms For Peaceには、「アトムス・フォー・ピース」と濁音を使わない訳語が使われている。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>世界をだました男</strong></p>
<p><em>　</em>アイゼンハワー演説は、もともとは米国民向けに用意された演説だったが、演説中にある「新たな平和への道筋で、これまで十分には試されていないものが少なくとも1つ存在している。それは、現在国連総会で提示されている道筋である」という道筋に関してアメリカの考えを表明するために特に招かれて国連での演説になったという。</p>
<p><em>　</em>演説は、まず、アメリカの核能力を誇示し、破壊力の恐怖を強調する一方、「米国がいったんは、いわゆる『核の独占』を手にしていたとしても、そうした独占はすでに数年前に存在しなくなっている」と述べる。そのうえで「米国は、核による軍備増強という恐るべき流れを全く逆の方向に向かわせることができるならば、この最も破壊的な力が、すべての人類に恩恵をもたらす偉大な恵みとなり得ることを認識している」として、IAEA設立のもととなった提案を行う。「米国は、他の『主要関係国』と共に、核エネルギーのこうした平和利用を促進する計画策定に着手することは、何よりも喜ばしい限りであり、また誇らしく思うものである。こうした『主要関係国』には、当然、ソ連も含まなければならない」と。</p>
<p><em>　</em>外務省国際協力局第一課編『国際連合における原子力平和利用の問題』（外務省国際協力局刊）は、こう解説をしている。「アイゼンハウアーの提案は、軍備の公開、確証、原子力管理機関の設置という、従来西欧側が主張ししかも行詰って了った行き方とは別個の角度から、先ず原子力の平和的利用のため関係各国が協議する機会を作り、これが成功すれば、その後に原子力の軍事面の管理にも及ぼして行こうとするものであり、より実際的な提案として西欧諸国の絶大の支持をうけた」。もちろんソ連圏諸国からの反応は違っていたけれど。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>夢から覚めて</strong></p>
<p><em>　</em>この演説の背景、成立過程、意図などについては、核兵器のみならず「平和的利用」面でも独占が脅かされていた、核燃料を売ることで原発の輸出を狙った、国内原子力産業の育成、核に対する国内世論の醸成などなど、とても列記できない数の文献がある。難しい話は苦手だから、触れないことにしよう。</p>
<p><em>　</em>「Atoms for Peace」という演説の名称は米紙が付けたものだが、その後、政府の正式名称になったという。土屋由香「広報文化外交としての『原子力平和利用キャンペーン』と1950年代の日米関係」（竹内俊隆編『日米同盟論』ミネルヴァ書房）によると、「国連演説の直後から米国広報文化交流庁（USIA）は、世界各国の新聞にアイゼンハワー演説を配信したほか、17ヵ国語のパンフレット、1600万枚のポスターとブックレットを印刷した。またヴォイス・オブ・アメリカ（VOA）ラジオ放送を通して30ヵ国語で演説を放送し、さらに演説の録画フィルムを35カ国に配給した」と、これは加藤哲郎「日本における『原子力の平和利用』の出発」（加藤哲郎・井川充雄編『原子力と冷戦』花伝社）の註からの重引である。でも、原著にも目を通しましたよ。</p>
<p><em>　</em>それから50年後。『日本原子力学会誌』2004年12月号に早稲田大学大学院の伊藤菜穂子がこんなことを書いていた。「アイゼンハワー大統領のＡtoms for Peace（AFP）演説から半世紀、昨年は世界各地で記念シンポジウムが開催されていた。しかし、最も注目される国際会議（ローレンス・リバモア国立研究所主催）に出席していた知人によれば、AFPに対する米国人の評価とは、1950年代の賞賛に反し、『基本的に欠陥のあるコンセプトで、結局、失敗であった』との見方が大勢を占めたという」。それに対し伊藤は、AFPは「決して『間違いではなかった』といえよう」と言うのだ。なにせ『日本原子力学会誌』だものね、そう書かないと。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>◉安全性</strong></span></p>
<p><em>　</em>安全について定義している国際基本安全規格（ISO/ＩEC  GUIDE 51：2014)によれば、「安全とは許容できない危害が発生するリスクがないこと」とされる。リスクには適切な日本語訳がないが、原子力の安全性について考えるには「危険性」でよいかもしれない。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>リスクの壁</strong></p>
<p><em>　</em>問題は「許容できない」と誰が、何をもって判断するかだろう。原子力の安全性を、リスクを受ける人ではなく、リスクを与える可能性のある人が決めている現実がある。許容できないリスクを他の利益があるから受け入れよという考えだ。</p>
<p><em>　</em>『原子力委員会月報』1957年9月号に茅誠司原子力委員会参与の「随感」が載っていた。「誰にでもいえることは放射性の塵をまき散らすことは害はあって益はないことである。まき散らさないことを誰しも望むであろう。しかしこれは結局原子力によって得られる利益とこの放射性塵による害とのバランスの問題である」。そのバランスのとり方はどうか。「天然の放射能の土地や時間による変動よりも小さい放射能灰の影響を恐ろしいと思うことは、犬にかみつかれそうになって蚤を恐れるようなものである」。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>軽きこと鴻毛の如し</strong></p>
<p><em>　</em>第６次エネルギー基本計画に「エネルギー政策の基本的視点（Ｓ＋３Ｅ）の確認」とある。Ｓ＋３Ｅとは、「エネルギー政策を進める上の大原則としての、安全性（Safety）を前提とした上で、エネルギーの安定供給（Energy Security）を第一とし、経済効率性の向上（Economic Efficiency）による低コストでのエネルギー供給を実現し、同時に、環境への適合（Environment）を図る」ことを言うのだそうだ。</p>
<p><em>　</em>まったく同じ説明が第５次エネルギー基本計画にもあるが、そこでは順番が３Ｅ＋Ｓとなっていた。2021年９月３日付電気新聞で、第６次エネルギー基本計画案を見たエネルギーアナリストの大場紀章氏が言う。「Ｓ＋３Ｅは従前の３Ｅ＋Ｓから順番が入れ替わったが、こうした小手先ではなく根本の見直し時期に来ている」。電気事業連合会や経団連などでは以前からＳ＋３Ｅと言っており、経済産業省が追いついた形だ。もっとも、だから電気事業連合会などのほうが安全意識が高いということでもないだろうが。</p>
<p><em>　</em>そもそも福島原発事故前の第３次計画までは３ＥだけでＳは影も形もなかった。2021年８月31日付電気新聞では、日本エネルギー経済研究所の寺澤達也理事長がいわく「強く思うのは、経済成長の視点を忘れてはいけないということ。Ｓ＋３Ｅではなく、『Ｓ＋３Ｅ＋Ｇ』という観点から議論する必要がある」。</p>
<p><em>　</em>あらまあ、G＝Grouthまで。安全性は、中身も扱いもかくも軽い。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>昔の人は言いました</strong></p>
<p><em>　</em>内田秀雄前原子力安全委員会委員長が1993年５月10日付電気新聞で言う。「原子力委員の大先輩が私に、『当初は安全の問題など考えなかったからね』と述懐されたことがある」。日本原子力産業会議編集・発行『日本の原子力－15年のあゆみ』にはこう書かれていた。</p>
<p><em>　</em>「［一キロワット時当たりの発電単価が］二円五〇銭という経済性の問題からはじまったとき、コールダーホール炉［東海原発］の安全性ということは、多くの関係者のあたまのなかにあまり存在していなかった」。</p>
<p><em>　</em>「東海発電所を始めるときはどんな準備をしたか。正直に言って準備は不十分であった」と記しているのは一本松珠璣日本原子力発電会長。「超高圧火力発電位に思っていた。［中略］仕様書に火力と同じようなことを書き受注者も平気で引受けた」（日本原子力発電『敦賀発電所の建設』）。</p>
<p><em>　</em>そもそも当時の法制や行政機構に「安全」の文字はなかった、と加藤哲郎が「日本における『原子力の平和利用』の出発」（加藤哲郎・井川充雄編『原子力と冷戦』花伝社）で指摘している。1955年制定の原子力基本法の基本方針に「安全の確保を旨として」と加えられるのは、原子力船むつ放射線漏れ事故(1974年)を受けた1978年になってのことである。同年、科学技術庁原子力安全局、原子力安全委員会も原子力局、原子力委員会から独立して誕生した。</p>
<p><em>　</em>『科学・社会・人間』42号に1992年3月29日、物理学会第47回年会で行われた第16回「物理学者の社会的責任」シンポジウムでの伏見康治講演「敗戦後日本の原子核・原子力研究者の苦悩」が掲載されていて、質疑応答も載っている。そこで伏見は、加藤が前掲論文の註で「山崎正勝『日本の核開発』も紹介する日本学術会議の声明や基本方針、各種草案にも『安全』はないようで」と言うのを裏付けるかのように答えている。「申し訳ないことですが、その当時は安全性のことは重要視しておりませんでした」。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>神話の誕生</strong></p>
<p><em>　</em>もちろん、全く考えられていなかったということはない。日本学術会議は1958年3月19日、政府に「原子力施設の安全性」で要望書を提出したりしている。もっとも、要望書作成の中心人物だった坂田昌一は、『思想』1958年7月号でこうも記していた。「日本の科学者の中には原子炉の安全性の問題を単純に考え、こうすれば危険はないという安全基準が外国のハンドブックでも引けば簡単につくられるように思っている人が多い」。</p>
<p><em>　</em>「安全神話」の走りだろうか。</p>
<p><em>　</em>「安全神話」という言葉がいつ生まれたのかは寡聞にして承知していない。国会では1979年5月8日の衆議院決算委員会で質問に立った山原健二郎議員が「安全神話とさえ言われるこの原子力発電所問題」と、この言葉を使っている。73年8月29日の衆議院科学技術振興対策特別委員会では参考人として呼ばれた大阪大学の久米三四郎講師が「何か原発に対する迷信といいますか神話が、皆さん方も含めてあるのではないか」と発言していて、「安全神話」という言葉はまだ定着していなかったと見える。</p>
<p><em>　</em>原発について「安全神話」という語が新聞紙上、初めて用いられたのは、1979 年4 月1 日、スリーマイル島原発事故の3 日後、朝日新聞の見出し「『安全神話』お粗末防災」だと言われている（東京大学大学院情報学環「災害と情報」研究会著・発行　原子力安全基盤調査研究「日本人の安全観」（平成14 年度～16 年度）報告書）。</p>
<p><em>　</em>「“安全神話”は崩壊した」と記事のタイトルにあるのは、『技術と人間』1978年6月臨時増刊号「原子力と安全性論争」で、これが発祥かもしれない。西尾（筆者）は『新地平』75年10・11月合併号に「無謬神話と初歩的ミス」を載せ、「事故のたびに電力会社は、『初歩的なミスであって、原子炉の安全性とは関係ない』と“説明”する」ことを「無謬神話」と名付けた。</p>
<p><em>　</em>「安全神話」の崩壊を逆手に取ったのがゼロリスク神話だ。2000年版の『原子力安全白書』は「多くの原子力関係者が『原子力は絶対に安全』などという考えを実際には有していないにもかかわらず、こうした誤った『安全神話』がなぜ作られたのだろうか」と問い、答えの一つに「絶対的安全への願望」を挙げている。ゼロリスクを求めるから安全神話が生まれたとする見方である。</p>
<p><em>　</em>しかし、2014年5月29日の衆議院原子力問題調査特別委員会に参考人として呼ばれた諸葛宗男東京大学公共政策大学院非常勤講師は「事故で原子力にはこういうリスクがつきものだということがもう国民に知れ渡ったわけでございまして、事故前はできるだけこれを余り表に出さないという安全神話があったわけでございますが、今後はきちんとこのリスクに正面から向き合って、安全性の改善をしなければいけない」と「安全神話」が事業者側によって意図的に作られたことを証言している。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>ゼロリスクへの道</strong></p>
<p><em>　</em>かくて、以後は「許容できるリスク」が、被害者を単に理解させる対象として語られる。</p>
<p><em>　</em>1999年12月24日に発表された原子力安全委員会ウラン加工工場臨界事故調査委員会『報告』は言う。「いわゆる原子力の『安全神話』や観念的な『絶対安全』という標語は捨てられなければならない。そのことが、関係者の間はもとより、国民的にも理解される必要がある。このことは『絶対安全』から『リスクを基準とする安全の評価』への意識の転回を求めるものである」。</p>
<p><em>　</em>伊原義徳高輝度光科学研究センター理事長・元原子力委員長代理の表現のほうがわかりやすいか。いわく「いままでは、事故が起きることは悪いことで、あってはならない、事故が起きないように安全を確保しますと説明してきました。しかし人間は神様ではありません。間違うものです。そもそも国の安全審査は、事故が起きても大丈夫なことを確保するのが仕事です。従って、これからは『事故が起きても災害に発展せず、安全は確保されます』と説明する必要があります」（「この人に聞く」――『原子力eye』2000年4月号）。</p>
<p><em>　</em>それこそ新たな「安全神話」だろう。この新しい「安全神話」の下で福島原発事故は起きた。にもかかわらず「ゼロリスク神話」は生き残っている。しかし、ゼロリスクは本当にありえないのか。原発から撤退するというゼロリスクの道があるでしょ。</p>
<p><em>　</em>『東京消防』2022年５月号に、アジア防災センターの小川雄二郎理事長が「防災の視点から原子力発電所への攻撃を考える」として、自然現象・人為現象の外力に耐えるための選択を述べている。まずは建築基準法など「規則で決める選択」、次に大きな外力に耐えうるよう「特別に配慮して決める選択」、そして想定以上の外力には「逃げる選択」、さらにそれでも十分でない場合に危険な土地の宅地利用を規制するなど「使わない選択」。</p>
<p><em>　</em>避難計画の実効性や軍事攻撃を考慮して、原発は「防災の観点からは『使わない選択』をすべき段階に入った」。それが結論だ。ナットク。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>［© Baku Nishio］</p>
<p>&nbsp;</p>
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			</item>
		<item>
		<title>第3回　「SMR」「エネルギー基本計画」</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/nishio-baku/1566/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 28 Oct 2022 04:00:57 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[西尾　漠]]></category>
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					<description><![CDATA[◉SMR（えすえむあーる） 　小型モジュール炉（Small Modular Reactor）の略。モジュール炉とは、主要機器を工場で生産し、建設地に運んで組み立てるというものだ。とはいえSMRの定義は国や機関により様々で&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/nishio-baku/1566/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第3回　「SMR」「エネルギー基本計画」</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>◉SMR</strong><strong>（えすえむあーる）</strong></span></p>
<p><em>　</em>小型モジュール炉（Small Modular Reactor）の略。モジュール炉とは、主要機器を工場で生産し、建設地に運んで組み立てるというものだ。とはいえSMRの定義は国や機関により様々で、炉の設計も数多く多様である。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>黒歴史と人は言う</strong></p>
<p><em>　</em>はじめはモジュール炉ではなく、SMPR（Small and Medium Power Reactor）の名で1965年頃から国際原子力機関（IAEA）が「主として開発途上の加盟国が、早期に原子力発電を導入するのを援助することを目的として」中小型炉の開発を促してきた。しかし「結果的には、SMPRは1基も輸出されていない」まま20年が過ぎたと、IAEA/OECD・NEA「中小型炉：プロジェクト開始調査フェイズ1」（1985年）にある。新規導入国も中小型炉に特に関心は示さなかった。</p>
<p><em>　</em>1979年のスリーマイル島原発事故で新設計画が止まったアメリカで1980年代から90年代半ばにかけて盛んに小型炉の設計研究が行われた。日本の原子力開発利用長期計画（長計）に初めて「中小型軽水炉」が登場したのが1982年である。86年にチェルノブイリ原発事故が起きて、小型炉の安全性が強調されるようになる。87年の長計には「中小型安全炉」と記された。同年にはＩAEAなどの主催で中小型炉（Small and Medium-Sized Reactor）に関する第1回国際セミナーが開かれ、日本原子力産業会議が「中小型炉開発・利用に関する欧米調査団」を編成してセミナーにも参加している。</p>
<p><em>　</em>その後、国際的にも国内的にも中小型炉に対する関心は徐々に色あせ、長計から変わった2005年の原子力政策大綱では、「大型軽水炉を中心とする」とされた。次にブームとなるのは2011年の福島第一原発事故の後だ。長期にわたって開発が叫ばれながら実用化に至っていないことから「黒歴史」と呼ばれてきたSMR開発だが、事故が起こると息を吹き返すことからもそう呼ばれるにふさわしい。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>ご冗談でしょう、キシダさん</strong></p>
<p><em>　</em>2018年に改定された第5次エネルギー基本計画に「小型モジュール炉や溶融塩炉を含む革新的な原子炉開発を進める米国や欧州の取組も踏まえつつ」という表現で小形モジュール炉が初登場する。21年の第6次計画では「高速炉、小型モジュール炉、高温ガス炉等の革新的技術の研究開発を進めていく」とされた。</p>
<p><em>　</em>2022年8月24日の第２回ＧＸ（グリーン・トランスフォーメーション）実行会議で岸田文雄首相は「新たな安全メカニズムを組み込んだ次世代革新炉の開発・建設」などの検討加速を指示した。ところが、26日の電気新聞は「主体、資金いかに」の大見出し。「有識者は『電力会社から具体的な話が聞こえてこない』と指摘」と書いている。25日付エネルギーフォーラムオンラインコンテンツ「目安箱」も言う。「どのような型の原子炉を、どの企業が、どこに、どのような資金調達計画で、いつまでに作る――。これを決めるだけでも大変だ。どの電力会社も原子炉再稼働の遅れや電力自由化への対応で経営不振に直面しており、あらたに巨額の費用のかかる原子力発電所を作る余力はない」。</p>
<p><em>　</em>それが原子力村の現実的な受け止めらしい。SMRが売り物の一つとしている「安全性」についても、「SMRは一連の未試験の技術革新を導入しており、それがさらなる技術リスクにつながる可能性もある」とOECD-NEA『小型モジュール原子炉―課題と可能性』（2021年）は指摘する。「軽水炉で追求の限りを尽くしてから言え」と、2018年6月20日付電気新聞の匿名コラムには「革新炉」に反発の声があった。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>目覚めの時</strong></p>
<p><em>　</em>もう一つの売り物は経済性だが、小規模から始め、資金を回収しながら順次増設して大きな発電所にするといっても、同一の設計でそれぞれ100基、200基単位で建設されるなら、しかも都合よく順次注文が入るなら、コスト削減の可能性があるというのでは、電力会社も手を出しにくい。</p>
<p><em>　</em>「最初の1基が完成しないことには量産もできない以上、今は初号機の実現に注力するしかない。安全対策をどのように求めるかといった規制も手探りの中で踏み出すのだから、初号機は工程遅延やコスト・オーバーランも頻発する可能性が高い。そこで開発に嫌気がさして、それ以降の計画が中止されるようであれば、信念を持って実用化したいと考えていた顧客はいなかったことが証明されるであろう」と、日本エネルギー経済研究所の村上朋子原子力グループ研究主幹は『週刊エコノミスト』2022年8月23日号で述べていた。皮肉がキツイなあ。好きだけど。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>嘘にも種が要る</strong></p>
<p><em>　</em>それでは、なぜ進めるのか？</p>
<p><em>　</em>革新炉ワーキンググループの座長を務める京都大学複合原子力研究所の黒崎健教授は2022年５月16日付電気新聞で言う。「原子力はどうしても悪いニュースばかりが報道される。もっとポジティブなイメージが発信されることで若い人たちに原子力の世界に入ってきてほしい。ＳＭＲ開発は、そうしたキーワードの一つになるかもしれない」。</p>
<p><em>　</em>「現実には、国内で直ちに実用化できるほど関心を寄せる需要家が現れ、進展することはないであろう。しかし、開発者は原子力の姿を変えていく覚悟のメッセージにすべきであり、それに呼応して世の中の目や認識を柔軟にし、広げていく絶好の機会にできる」と『エネルギーレビュー』2019年8月号で書くのは原子力システム研究懇話会運営委員の柳澤務元日本原子力研究開発機構理事。外交評論家の金子熊夫エネルギー戦略研究会会長となると、もっと露骨だ。「小型炉（SMR）など『新しい原子力』の開発にもっと努力すべきだ。今や従来型の原子炉では国民もなかなか納得しないだろう。『手を変え、品を変え…』という積極的なやり方がもっと必要だ」（2020年2月3日付電気新聞）。</p>
<p><em>　</em>その行きつく先は？　2021年12月15日付電気新聞の匿名コラムではこう予言されている。「今日のSMRブームは、大型軽水炉建設プロジェクト数例の失敗にこりた先進国原子力関係者の『わらにもすがりたい』動機から発している。脱炭素やエネルギー価格高騰の解決策として太陽光や風力以上に消費者の支持を取り付けた結果ではない。SMRブームも『原子力ルネサンス』のデジャビュ（既視感）に思えるのは筆者だけだろうか」。</p>
<p><em>　</em>あなただけじゃありませんよ。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>◉エネルギー基本計画</strong></span></p>
<p><em>　</em>エネルギー政策の基本的な方向性を示すために政府が策定する計画。ほぼ３年ごとに見直されていて、最新の第６次計画は2021年に改定。</p>
<p><em>　</em>原子力については「2030年度におけるエネルギー需給の見通し」のなかで「ＣＯ２の排出削減に貢献する電源として、いかなる事情よりも安全性を全てに優先させ、国民の懸念の解消に全力を挙げる前提の下、原子力発電所の安全性については、原子力規制委員会の専門的な判断に委ね、原子力規制委員会により世界で最も厳しい水準の規制基準に適合すると認められた場合には、その判断を尊重し原子力発電所の再稼働を進め、国も前面に立ち、立地自治体等関係者の理解と協力を得るよう取り組み、電源構成ではこれまでのエネルギーミックスで示した20～22％程度を見込む」としている。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>看板に偽りあり</strong></p>
<p><em>　</em>エネルギー基本計画の策定は、エネルギー政策基本法第12条で定められている。エネルギー政策基本法は、自由民主党の甘利明、伊藤達也、亀井善之、公明党の河合正智、斉藤鉄夫、保守党の小池百合子各衆議院議員の提案による議員立法により2002年6月7日 に成立、同月14日公布 、施行された。</p>
<p><em>　</em>文部大臣政務官という立場から提案者に加わっていないものの実質的な中心にいた加納時男参議院議員は、その著『三つの橋を架ける　国政参画十二年の挑戦』（日本電気協会新聞部、2010年）で「世界初、エネ政策基本法を議員立法」と自慢している。アメリカのThe Energy Policy Act は1992年制定ではなかったかといったことはともかく、「国会議員が質問し、国会議員が自身の言葉を使って答弁する。すなわちエネルギー政策に関して、国民の代表者である国会議員同士による非常に価値のある議論が行われたのだ」そうな。</p>
<p><em>　</em>『エネルギーフォーラム』2001年12月号では、匿名の座談会でこう言われていた。</p>
<p>「Ｂ　エネルギー基本法案って当たり前のことを書きすぎて全く中身のない法律だね。</p>
<p><em>　</em>Ａ　それは、議員立法なのか。</p>
<p><em>　</em>Ｃ　そうだ。政府提案だと、中身がないため、内閣法制局が絶対にＯＫしないそうだ。</p>
<p><em>　</em>Ｂ　電力の自由化を阻止するというのが、目的の一つにある。なぜなら、安定供給、環境、経済という三つの価値があって、安定供給、環境の下に経済があるのは、自由化をするなということだ。もう一つは『地方自治体の責務』というのがあり、これは住民投票をするなという意味だ。つまり原発推進法なんだよ。</p>
<p><em>　</em>Ｃ　エネルギー基本法案自体には何の中身もないけど、精神法としては存在してしまう。それが、縛りをかけてくる危険はあるな。何だかんだと、電力業界の守旧派が文句を言いやすくなる」（Ａ＝国防アナリスト、Ｂ＝原子力アナリスト、Ｃ＝経済アナリスト）。</p>
<p><em>　</em>エネルギー政策基本法と名前はついているけれど、実は電力自由化阻止法であり、原発推進法だというのだ。さすがにそれだけでは格好がつかないので、まずは2条でエネルギー安定供給の確保、次に3条で環境への適合をうたった。そして第4条で「前二条の政策目的を十分に考慮しつつ」市場原理の活用をと定めている。安定供給、環境が段違いに上位（本音では安定供給が最上位）なのである。</p>
<p><em>　</em>2002年5月17日の衆議院経済産業委員会で提案者の一人である甘利明議員は、こう説明している。「基本法の中に三本の柱がございます。三本の柱の位置づけにつきまして、環境が大事、そしてセキュリティーが同列で大事、そしてその幅の中で経済合理性を追求するということで、若干の三つの位置づけが変化がございます。正三角形というよりは、どちらかというと二等辺三角形型だと思います」。</p>
<p><em>　</em>これが経済産業省のお好きな「3Ｅ」の嚆矢であり、「3Ｅ」が同等のＥではなく二等辺三角形型だということを明らかにしている。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>衣の下の鎧？</strong></p>
<p><em>　</em>この同じ委員会審議に関して「注目されるべきことは『エネルギー安全保障は軍事的側面を含む』という“世界の常識”が“日本の常識”になりつつあることだ」と喜んだのは『エネルギーフォーラム』2002年7月号の小峰純同誌編集部長の「記者の目」だ。「ここでの安全保障というのは、第一義的には、直接的には、中東諸国の過度の依存をなくすであるとか、供給が中断をした場合、その被害を最小限にとどめるというふうな概念でございますけれども、その延長線上に軍事的な側面も当然入ってくると思います」という、提案者の一人である斉藤鉄夫議員の言を引用している。</p>
<p><em>　</em>小峰は言う。</p>
<p><em>　</em>「有事関連3法案［武力攻撃事態対処法、改正自衛隊法、改正安全保障会議設置法、20 04年6月14日成立］も、原発などへのテロ攻撃も武力攻撃事態に加えるべきだ。エネルギー政策基本法を、本当のエネルギー安全保障の視点から担保するためにも、有事関連3法案を修正し、できるだけ早く成立させるべきだ。</p>
<p><em>　</em>その上で周辺事態法、有事法等を包括的に位置づける『国家安全保障基本法』（仮称）の制定、もちろん憲法改正が期待される」。</p>
<p><em>　</em>あらあら、そこまで言っちゃうの。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>［© Baku Nishio］</p>
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		<title>第4回　「核管理社会」「核セキュリティ」</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/nishio-baku/1619/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 14 Dec 2022 00:30:55 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[西尾　漠]]></category>
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					<description><![CDATA[◉核管理社会 　核セキュリティ対策のために人間に対する管理を厳しくする社会。 &#160; これぞまことの新人類 　最も早くから核管理社会の危険性を感じ、指摘していたのが高木仁三郎だと言ってよいだろう。1976年に刊行さ&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/nishio-baku/1619/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第4回　「核管理社会」「核セキュリティ」</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>◉核管理社会</strong></span></p>
<p><em>　</em>核セキュリティ対策のために人間に対する管理を厳しくする社会。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>これぞまことの新人類</strong></p>
<p><em>　</em>最も早くから核管理社会の危険性を感じ、指摘していたのが高木仁三郎だと言ってよいだろう。1976年に刊行された『プルートーンの火』（社会思想社教養文庫）の第５章「プルトニウムと社会」である。後の『市民科学者として生きる』（岩波新書、1999年）には、『プルートーンの火』の誕生の経緯が、こう書かれている。</p>
<p><em>　</em>「［プルトニウムの］ 『毒性の考察』と並行して、私は問題意識を共有する何人かの人たちと『プルトニウム研究会』を組織し、プルトニウムに関する多面的な問題（安全面、社会面、経済性、高速増殖炉計画など）を議論し始めた。</p>
<p><em>　</em>とくに私が関心をもったのは、プルトニウムが危険というだけでなく、核兵器材料として容易に利用しうること、従ってその大規模利用は、極端な管理社会化（英語ではそのような管理社会をplutonium economyと呼ぶが、私は “プルトニウム社会”と呼んだ）につながるという点だった。管理社会化とそれを先取りした研究者、技術者の自主規制というのは、会社にいた時からの私の実感であった。</p>
<p><em>　</em>この時のプルトニウム研究会のメンバーには、夭折した大場英樹（当時NHKディレクター）や西尾漠（「反原発新聞」編集者）などがいた。この頃の検討を基に、私は、原子力問題について生まれて初めて本を書いた」。</p>
<p><em>　</em>一言だけ断っておけば、西尾（筆者）は、原発の危険性というより推進キャンペーンや核管理社会のおぞましさから反原発の運動に入ったには違いないが、プルトニウム研究会では「名ばかり会員」で検討には貢献していない。</p>
<p><em>　</em>と余分なことは言わなくてよいか。</p>
<p><em>　</em>「最も早くから」と書いたが、むろん他にも同じような認識を持った人は多くいたと思う。もっと早く表明していた人もいておかしくない。高木より詳細に徹底して問題点を剔抉した著に1977年刊のロベルト・ユンク『DER ATOM STAAT』（山口祐弘訳『原子力帝国』、アンヴィエル、のち社会思想社教養文庫）がある。高木は『プルトニウムの恐怖』（岩波新書、1981年）の第6章の章題にユンクの造語である「ホモ・アトミクス」を借りた。「完全に予見可能で全面的に操作しうる、さらに確実に意のままにできる＜ホモ・アトミクス（原子力人間）＞」だ。</p>
<p><em>　</em>「福島第一原発過酷事故から4年しか経っていない」2015年、小児科医の山田真は、親鸞仏教センターが発行する『アンジャリ』第30号に「私たちが『ホモ・アトミクス』にならないために」を書き、「今、私たち日本に住む者は、一人一人がホモ・アトミクスにされようとしている」と訴えていた。「アメリカをはじめとする世界の原子力推進派の人たちは、一方で放射能による被害も隠蔽しつつ原子力の威力を大宣伝して、原子力に関しては自分たちの意のままに操ることのできる市民＝ホモ・アトミクスを大量に造り出してきたというのだ」と。</p>
<p><em>　</em>ここで話の向きを変えると、高木は一貫してplutonium economyを「極端な管理社会化」と同義に扱っているが、高木がプルトニウム問題に取り組むべく刺激を受けた「プルトニウム物語」（『Transuranium Elements』第1章）の著者グレン・シーボーグが1970 年10 月5日、米国原子力委員会委員長として「プルトニウムおよびその他のアクチニドに関する第4 回国際会議」で「Plutonium: Economy of the Future」と演説をしたのが出典とすると、むしろ「安価で豊富な原子力エネルギーという自然の贈り物」となる。ただ、この語は独り歩きして、高木のように使われたり、可能性とリスクの両面を含むものとして言及されたりもしている。「再処理価格やプルトニウム燃料加工費の高騰、高速増殖炉建設費低減の困難さ等、プルトニウム経済の成立に不利な条件が次々に明らかになってきた」（山地憲治電力中央研究所社会経済研究所主査研究員――『エネルギーフォーラム』1986年1月号）からだろうか。</p>
<p><em>　</em>山地によれば「プルトニウム経済は今はまだ夢」なのだそうな。核管理社会化のplutonium economy は進んだが、安価で豊富な原子力エネルギーのplutonium economy は夢のままだ。2023年の今もね。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;"><strong>ガラスの檻</strong></span></p>
<p><em>　</em>1979年４月４日付電気新聞の「焦点」欄が、こんなことを書いていた。「若い社員が原発勤務と聞いて、両親と水盃で別れてきたとか、正常な子供を将来残せるだろうか、などと真剣に悩むケースがあるという。また、社員教育を徹底的にやり、現場要員の技量アップを行っても、反原発の人々を『社内』から絶滅することは無理だろう」。</p>
<p><em>　</em>そこで、続けていわく「破壊を意図する者を告発できる人的システムと、破壊されないハードウェアを創造する以外手はない。でないと原子力は文字どおり『うたかた』のエネルギーに終わってしまう」。</p>
<p><em>　</em>「反原発（というよりむしろ多くは厭原発なのだが）＝破壊を意図する者」という乱暴なすりかえが行なわれているが、ともあれ、原発推進派にとってほんとうに恐ろしいのは「核ジャック」（核とハイジャックを結合した造語。最近はあまり聞くことのない言葉になった）などではなく、原発を推進すること自体が必然的に生み出さざるをえない労働者の動揺だという事実が理解されるだろう。</p>
<p><em>　</em>その動揺を抑え込むために、労働組合をも活用した人事管理と、厳重な警備体制による威圧感と、「過激派」という仮想敵を与えての思想教育とがフル動員され、労働者同士の相互スパイ網のフルイにかけて落とされた者には、徹底した差別と排除が用意される（詳しくは、電力公害研究会「職場の異分子排除と企業・国家意識の形成」－－『新地平』1977年7月号）。</p>
<p><em>　</em>核セキュリティ対策では、まさに「個人の信頼性確認制度」に直結する調査が、原子力施設従業員のみならず、核燃料物質を扱う施設周辺の住民や核燃料輸送の沿道住民、さらに全国民にまでひろげられる、とロベルト・ユンクは書いていた。1977年9月7日付日本経済新聞は、原子力関連の諸施設などに警察庁が「事前チェック制による見学者の規制」を申し入れたことを報じている。ということはすなわち、事前チェックができるだけの情報がすでに蓄積されていたということなんだよね。</p>
<p><em>　</em>45年経った今は？</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>◉核セキュリティ</strong></span></p>
<p><em>　</em>IAEAは「核物質、その他の放射性物質その関連施設およびその輸送を含む関連活動を対象にした犯罪行為又は故意の違反行為の防止、検知および対応」と、核セキュリティを定義している。</p>
<p><em>　</em>以前は「核物質防護」（PP：Physical Protection）という用語があった。今でも使われていないこともないのだが、ともかくそれが「2001年9月11日に米国内で航空機等を用いた4つのテロ事件が同時多発的に発生した。航空機が使用された史上最大規模のテロ事件であり、全世界に衝撃を与えた。この事件が契機となり、これまで使用されていた『核物質防護』から『核セキュリティ』という言葉が使用されるようになった」と、核物質管理センターのホームページで説明されている。</p>
<p><em>　</em>「核物質防護では、規制の対象が核物質であったが、核セキュリティにおいては、核物質のみならず放射性廃棄物も規制の対象である。例えば、テロリストによる原子力施設への妨害破壊行為や、放射性物質を封入した爆弾（ダーティボム；汚い爆弾）により放射能汚染といった飛散行為などへの関心が高まり、核セキュリティが広く使用されるようになった。ただし、核物質に着目した場合は、核物質防護という言葉が使用される」と。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>人を見たらテロリストと思え</strong></p>
<p><em>　</em>2012年3月26～27日に韓国のソウルで、10年4月に米ワシントンで開かれたのに次ぐ第2回の「核セキュリティ・サミット」が開催された。オバマ米大統領の提唱で始まったサミットの位置付けは、「核テロは国際社会にとって最大の脅威の一つであり、各国の強固な措置や国際協力が必要」というものである。</p>
<p><em>　</em>第2回で特に焦点となったのは、福島原発事故だ。同事故では、自然災害に対する原発の脆弱さが浮き彫りとなったが、自然災害を人為に置き換えれば安上がりに核テロが起こせることをテロリストに教えてしまった、と核セキュリティを問題にする人びとは言う。『警察学論集』2013年3月号の特別鼎談「核セキュリティ～原子力施設のテロ対策」で、今やこの分野の第一人者というか売れっ子の板橋功公共政策調査会第1研究室長の曰く「3.11以降、核兵器なんか持ち込む必要がないということがわかってしまったわけです」。</p>
<p><em>　</em>事故が、現場はもとより政府機関に社会にいかに大きな混乱をもたらすかが白日の下に曝された。福島第一原発で働いていた作業員の行方がわからなくなり、その数は2011年7月1日には1295人と発表された。「その後、徐々に所在が判明し、同年12月14日に東京電力は連絡が取れない13人の作業員名を公開した。すなわち、身元不明の人間が、事故後の福島第一原子力発電所に入っていたことになるわけである」（板橋功「核セキュリティの概念と関連事案」――『治安フォーラム』2013年1月号）。</p>
<p><em>　</em>そこで改めて問題にされたのが「内部脅威対策」だ。2013年1月に原子力規制庁他13省庁＋内閣官房で設置された「核セキュリティ関係省庁会議」でも重要視され、同年3月4日に原子力規制委員会の核セキュリティに関する検討会が初会合を開いた。検討会は15年10月19日に「個人の信頼性確認制度に関するワーキンググループ」のまとめを承認し、原子力施設に出入りする人の身元調査制度の導入について「詳細な検討を進めることが必要である」とした。ワーキンググループは2016年年３月８日に第7回を開き、「原子力施設における信頼性の確認の実施に係る運用ガイド（案）」などについて議論したというが、その後どうなったかは闇の中。核管理社会の怖さだね。</p>
<p><em>　</em>内部脅威については、前出の『警察学論集』の特別鼎談では日本放送協会報道局科学・文化部の大崎要一郎記者がこう抵抗していたんだけど。「アメリカのいろいろな調査研究などでも、テロリストを類型化してみると、信頼性確認で除外している人ほど実はテロリストになりやすいみたいなデータがあるとか、本当の意味でその実効性というものをどう考えるのか」。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>すべて世は事もなし</strong></p>
<p><em>　</em>2021年１月23日に、柏崎刈羽原発の所員が他人のＩＤカードで中央制御室に入室していたことが報じられて以来、立ち入り制限区域内への不正入域や侵入検知設備の損傷放置など数々の核セキュリティ問題が同原発をはじめとして次々と明るみに出た。同年４月14日には原子力規制員会が柏崎刈羽発電所に核燃料の移動を禁じる（実質的に再稼働禁止）に至っている。</p>
<p><em>　</em>東北電力は2020年10月14日の女川原発の９月分定期報告で、2号機の管理区域内に古いたばこの吸殻を発見したと明らかにした。仙台原子力問題研究グループは同月21日、「『吸殻1本』から見えた『テロ対策』の困難性」で「今回の『吸殻の主』を『テロリスト』に置き換えたら」と、「完全な『社員・作業員管理』（個人の信頼性確認）』＝『テロ対策』が実現不可能であることを示すものと考えるべき」ことを指摘した。それで問題なしと思っているのが日本らしい。</p>
<p><em>　</em>原発構内に山菜採りやタケノコ掘りの業者や住民がフェンスを越えて侵入する事件は、たびたび起きている。原子力関連施設が林立する茨城県東海村の松林はマツタケの宝庫なんだとか。</p>
<p><em>　</em>電力会社が核セキュリティを切実に考えていない長閑さも悪くないのかもと、ついつい思いそうになるなあ。不謹慎だって？　うっせえわ。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>［© Baku Nishio］</p>
<p>&nbsp;</p>
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			</item>
		<item>
		<title>第5回　「核燃料」「核燃料サイクル」</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/nishio-baku/1622/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 14 Dec 2022 00:33:19 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[西尾　漠]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://suiheisen2017.com/?p=1622</guid>

					<description><![CDATA[◉核燃料 　「原子力百科事典ATOMICA」には、次のように説明されている。「原子炉に入れたとき、核分裂反応を起こしエネルギーを発生する可能性のある物質をいう。具体的には、トリウム、ウランおよびプルトニウムの核分裂性核種&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/nishio-baku/1622/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第5回　「核燃料」「核燃料サイクル」</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>◉核燃料</strong></span></p>
<p><em>　</em>「原子力百科事典ATOMICA」には、次のように説明されている。「原子炉に入れたとき、核分裂反応を起こしエネルギーを発生する可能性のある物質をいう。具体的には、トリウム、ウランおよびプルトニウムの核分裂性核種を含む物質である」。日本などの原発に使われている軽水炉では、ウランを焼き固めて作ったペレットを燃料棒に詰め、燃料棒を束ねた燃料集合体として用いられる。</p>
<p><em>　</em>天然のウランにはいわゆる「燃えるウラン（核分裂しやすいウラン）」は0.7％しか含まれていない。そのまま核燃料にして用いる原子炉もあるが、軽水炉では「濃縮」して4～5％ほどにまで高めたものが燃料に加工され、原子炉で燃やされる。その熱で水を蒸気に変え、タービン・発電機を動かす。核分裂をしにくいウランの一部がプルトニウムに変わる。プルトニウムの約70％は核分裂をしやすいプルトニウムで、よく燃える。つまり原子炉の中では、はじめはウラン、後にはウランとプルトニウムが燃えることになる。</p>
<p><em>　</em>燃料中のウラン-235（いわゆる「燃えるウラン」）の原子核は92個の陽子と143個の中性子から成る。このウラン-235に中性子源というもので中性子をぶつけてやると核分裂反応が起きる。原子核は割れ、二つあるいはまれにそれ以上の別々の核種=「死の灰」となる。また、２、３個の中性子が飛び出す。それらを足し合わせても元のウラン-235にはわずかに足りず、そのわずかな差の質量が質量×光速度の二乗（E=Mc2）という巨大なエネルギーとなるらしい。不安定な死の灰は放射線を出して崩壊し、大きな熱を出す。</p>
<p><em>　</em>飛び出した中性子が次のウラン-235の原子核を分裂させ、連鎖反応が続いていくことで「燃料」の役割を果たすことになる。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>3つ数えろ</strong></p>
<p><em>　</em>って、こういう話は苦手だな。ともかく熱を出すので「燃料」と言うわけだ。</p>
<p><em>　</em>日本語だけでなく、各国の原子力用語でも「燃料」や「燃やす」「燃焼」といった言葉が使われている。そこで、「第三の火」といった言葉も生まれた。ゾロアスター教（拝火教）などにも第一、第二、第三の火という用語があるらしいが、それとは別の考えだ。とはいえ第一、第二の火の定義はいろいろまちまちで、第一の火とは、「太陽」「原始人が使い始めた火であり、木などが炎を上げて燃えること」「プロメテウスが人類にもたらした火」「石炭・石油による火」「燃料の空気中での燃焼による火」、第二の火は「電気」「電熱線の発熱などによる火」「蒸気機関」「ダイナマイト」と、こんな具合。ちょっと混乱してるよね。</p>
<p><em>　</em>さらに言えば、1957年8月27日に輸入研究炉JRR-1が臨界に達した際にラジオのアナウンサーは「我が国にも第二の火がともりました」と伝えたという。井手則雄は「第二の火　JRR-1　原子炉一号東海村にともる」を詩作した。いつ頃からか「第三の火」が原子力の火の主流になったものの、それまではもっぱら「第二の火」だったようだ。2000年代に入っても、下火とはいえ「第二の火」が散見される。</p>
<p><em>　</em>島桂次元NHK会長の著『電子の火―インターネットで世界はどう変わるか』（飛鳥新社）は、第二の火は「原子の火」、第三の火が「電子の火」と言う。核融合によるエネルギーのことを「第四の火」と呼ぶ向きもあるが、さすがにこれはいただけない。</p>
<p><em>　</em>そもそもこれらは日本独自の言い方なのか、浅学にしてわかりませーん。『森と火の環境史―近世・近代日本の焼畑と植生』（思文閣出版）で米家泰作京都大学准教授が火災史家スティーブン・パインの考えを紹介しているところによれば、第一の火は野火のような「野生の火」、第二の火は焼畑のような人間に「飼いならされた火」、第三の火は人間が火を完全に支配しようとする化石燃料以降の火となる――ずいぶん違うな。</p>
<p><em>　</em>『岸信介回顧録』（広済堂）に、こんな一文を見かけた。「原子の火を“第三の火”と呼ぶのは、第一の火が原始、人類が火を使用して人類と他の動物との区別を決定的にしたとき。第二が蒸気、内燃機関、電気の使用によって、人類の進歩に一大飛躍を画したとき、そして第三が原子力というのだそうである」。原典は不明。勢いで見てきたけれど、もともと「第三の火」に特別な思い入れがあるでなし、原典探しまではしなくていいや。</p>
<p><em>　</em>と書いたところで、日本原子力研究所の元研究者3人が共同執筆した茨城県東海村の研究用原子炉ＪＲRの回顧録中のエピソードを思い出した。『日本原子力学会誌』2015年12月号を引っ張り出して引用しよう。</p>
<p><em>　</em>「JRR-4のトピックスとしては、1974年に茨城県で国民体育大会が開かれたとき、茨城県ゆかりの場所から採火する検討が行われ、炬火として『第一の火』である筑波山頂で集光された太陽光、『第二の火』である鹿島神宮で長年燃え続けてきた灯明、そして原子力の村として発展してきた東海村で原子力エネルギーから『科学の火』の三つを合わせたいという要望が出され、工夫して採火した経験があった。このときは熱を取り出す工夫として炉心タンクの外側に熱電対素子を用いた採火装置を設置し、実験を重ねた後、無事に採火できたことはJRR-4ならでの特徴を生かした面白い経験であった」。</p>
<p><em>　</em>茨城県の『県だより』では、それぞれ「自然の火」「伝統の火」「科学の火」と説明されている。重ねた実験、ごくろうさま。でも、「年譜」にそれくらいしか書くことがなく研究炉としてさしたる成果もなしに2013年には廃止が決定したのは残念ですね。そういえば前掲『日本原子力学会誌』の回顧録では、「国産技術育成に貢献したJRR-3」と並べて、「遮蔽研究等を目指したJRR-4」と見出しに掲げていたっけ。「違いがわかる」でしょ。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>◉核燃料サイクル</strong></span></p>
<p><em>　</em>核燃料をつくったり発電に使った後の始末をしたりという工程の全体が「核燃料サイクル」で、燃料となるウランを採掘するところから始まる。鉱石からウランを抽出し、軽水炉では「核分裂しやすいウラン-235」を濃縮し、燃料に加工する。原子炉で燃やしたものが使用済み燃料で、使用済み燃料の中には、燃料としてまだつかえるウランの燃え残りと、燃料の中に新しく生まれたプルトニウムの燃え残りがふくまれている。このプルトニウムとウランを「死の灰」と分けて取り出すのが再処理である。</p>
<p><em>　</em>もっとも、世界的には再処理をせず、使用済み燃料をそのまま高レベルの放射性廃棄物とする「直接処分」のほうが主流だ。再処理をする場合は、「死の灰」はガラスと混ぜて容器に固めて高レベル放射性廃棄物となる。</p>
<p><em>　</em>再処理により取り出されたプルトニウム核燃料にして高速増殖炉で燃やすことで初めて核燃料サイクルの輪がつながる（「サイクルを閉じる」と言う）わけだが、「直接処分」のようにつながらないものも「核燃料サイクル」と呼んでいる。</p>
<p><em>　</em>核燃料サイクルのすべての工程からは、さまざまな放射性廃棄物が発生する。それらの後始末も含めて「核燃料サイクル」と呼ぶ。呼ぶべきである。</p>
<p><em>　</em>ともあれそんな核燃料サイクルが、「破綻した」の枕詞を冠されて久しい。それでもエネルギー基本計画などにしっかり「核燃料サイクルの確立」としっかり謳われている。「結局、誰も責任を取りたくない。核燃サイクルが『責任転嫁サイクル』と言われるゆえん」と、2004年11月24日付新潟日報に経済産業省幹部の嘆きが報じられていた。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>頭隠して尻隠さず</strong></p>
<p><em>　</em>核燃サイクル阻止1万人訴訟原告団などでは、「核燃サイクル」と略している（マスメディアでも、たまに見かけるけど）。厳密にいえば「核燃料サイクル施設設置阻止」だ。</p>
<p><em>　</em>1984年7月27日、青森県六ヶ所村への「核燃料サイクル施設」の立地が、電気事業連合会（電力会社の連合体）の小林庄一郎会長から青森県、六ヶ所村に要請された。否、小林会長によれば「原子燃料サイクル施設」だ。「原子力平和利用に対する正しい理解をいただくために」核兵器を連想させる言葉を追放したい、とどこかに書いてあった（どこか探したけど見つからない）。１ヵ月前に発足したばかりの「核燃料サイクル立地推進連絡会議」は名称を変更、電力各社も「核燃料部」などの衣替えを決めた。今も各社のプレスリリースなどでは「原子燃料」で、メディアは「核燃料」と言い換えて報じている。日本原子力産業会議発行の原子力産業新聞まで、「原子燃料サイクル施設」立地申し入れの時から「核燃料」に言い換えていた。電力派と原子力派で考えが違うのかな。</p>
<p><em>　</em>六ヶ所核燃料サイクル施設を運営する日本原燃の「原燃」は、むろん原子燃料の略である。同社は「再処理」の語感も嫌って「再生産」と言い換えていた（これも、どこでだったか）。</p>
<p><em>　</em>逆に、原子燃料を核燃料と言い換えたのが、かつての「どうねん」だ。前身は1956年設立の原子燃料公社。原子爆弾を想起させるとして1967年、「動力炉・核燃料開発事業団」と、「原子」を「核」に変えて発足した。</p>
<p><em>　</em>濃縮からは高濃縮ウランがつくれるし、再処理からはプルトニウムが取り出される。原子爆弾や核兵器とはしょせん腐れ縁だ。「軍事利用」を産みの親とする血筋は争えない。ことさらに「平和利用」と呼ばせるゆえんだろう。</p>
<p><em>　</em>英語でも「atomic fuel」と「nuclear fuel」がどちらも使われているが、それぞれどんな思いで使っているのかまでは調べられなかった。いや、英語は苦手なので調べなかったんだ。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>［© Baku Nishio］</p>
<p>&nbsp;</p>
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			</item>
		<item>
		<title>第6回　「核武装」「核融合」</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/nishio-baku/1624/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 14 Dec 2022 00:35:51 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[西尾　漠]]></category>
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					<description><![CDATA[◉核武装 　国家が核兵器を装備・配置すること。 &#160; 午の字は、頭を出すと牛になる 　日本は核武装しないことを「国是」としているとされる。いわゆる「非核三原則」だ。すなわち核兵器を「持たず、つくらず、持ち込ませず&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/nishio-baku/1624/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第6回　「核武装」「核融合」</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>◉核武装</strong></span></p>
<p><em>　</em>国家が核兵器を装備・配置すること。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>午の字は、頭を出すと牛になる</strong></p>
<p><em>　</em>日本は核武装しないことを「国是」としているとされる。いわゆる「非核三原則」だ。すなわち核兵器を「持たず、つくらず、持ち込ませず」の三原則で、1967年5月18日の参議院内閣委員会で増田甲子七防衛庁長官が「政府の方針として核兵器は製造せず、保有せず、持ち込まずというきびしい方針を岸内閣以来堅持しているわけでございます」と確認、12月11日の衆議院予算委員会で佐藤栄作首相によって「私どもは核の三原則、核を製造せず、核を持たない、持ち込みを許さない、これははっきり言っている」とも、順番を入れ変えて「持ち込まず」に言い換えて「持たない、製造しない、持ち込みもしない、この三原則を忠実に守るということでございます」とも表明された。もっとも「持ち込みを許さない」「持ち込まず」（後者はいかにもアメリカさんの立場みたいで変だな）については同月22日の衆議院沖縄問題等に関する特別委員会で、三木武夫外務大臣がこう答弁している。「アメリカとしてはそういうことをするはずはない。われわれは信頼をするわけでございます」。</p>
<p><em>　</em>「岸内閣以来」の岸信介首相は、1957年2月8日の衆議院予算委員会で「原子兵器を持つというつもりはわれわれ全然持っておりません」と答えている（このころは「原子兵器」から「核兵器」へ呼び方の移行期だったようだ。電気事業連合会流の言い換えとは関係ないんだろうけれど）。一方、4月30日の参議院外務委員会では、こう言う。「核兵器という名がつけば、いかに防御的な性質を持ってるものでもいけないのだ。こうすることはこの日本の自衛の装備を科学的進歩からとめてしまって、そうしていわばこれはちょうど兵器が発達してきたのに、いつまでも竹やりで装備しているのが、それが防衛の何だというわけにはいかぬと思うのです」。よくわからないところもあるが、国会会議録検索システムから引用ママ。5月7日の予算委員会では「憲法の解釈、純粋の憲法解釈論としては、私は抽象的ではありますけれども、自衛権を裏づけるに必要な最小限度の実力であれば、私はたとえ核兵器と名がつくものであっても持ち得るということを憲法解釈としては持っております」と。</p>
<p><em>　</em>以来、歴代政府は一貫して憲法上核兵器の保有は可能としてきた。</p>
<p><em>　</em>非核三原則については法制化の声のある一方、「持ち込ませず」は骨抜きになっているうえ、「三原則見直すべき」との声、「核武装すべき」の声も、北朝鮮の核実験やロシアによるウクライナ侵攻など、事あるたびに勢いづいている。核持ち込みの密約とか、非核三原則と核抑止力依存の関係、「核四政策」とかは、専門の方々の論考をどうぞ。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>いやな感じ</strong></p>
<p><em>　</em>2009年5月27日の原子力総合シンポジウムで原子力委員会の近藤駿介委員長はこう発言したという。曰く「米国の核の傘に入ることを明確にすることによって、核兵器国以外で濃縮・再処理を事業として行えている唯一の国にたどり着いている我が国」。</p>
<p><em>　</em>へえ、そうだったんや。知らんけど。</p>
<p><em>　</em>ひっきょう原子力の平和利用などというものはありえない。近藤発言は、改めてそれを教えてくれたと言えそうだ。原子力委員会では「どういう風にしたら原爆をつくれるか、というごく基礎的な研究ならやってもいいのではないかという話が再三ありました」と言うのは、1988年３月８日付朝日新聞夕刊「今日の問題」が紹介している、前日に亡くなった有澤廣巳・元原子力委員の言だ。石川欽也『原子力政策の検証とゆくえ』（エネルギーフォーラム、1991年）には「密かに政府から二回も原子力潜水艦の調査研究開始の打診があったが、いずれも蹴ったことを自ら漏らしてくれた」ともあった。</p>
<p><em>　</em>2011年11月30日の総合資源エネルギー調査会基本問題委員会には、地球環境産業技術研究機構の山地憲治理事・研究所長が「核（兵器とエネルギー）の文明史的意義は否定できない」として、「核兵器を保有せずに抑止力を持つことの重要性」を説く見解を提出、「別に私は再処理とか濃縮とか言うつもりはないのですが、原子力を持つということ自体、原子力技術を持っているということ、これはやはり核の時代において国際的に重要ではないでしょうか」と述べている。「核兵器を保有せずに」と言うが、いつでも核兵器がつくれるということである。</p>
<p><em>　</em>ただ、さしあたっては保有しないとするのが「正解」らしい。実際に核を持ってしまったら、外交上の切り札を失ってしまう――というわけだ。1969年9月に外務省内の外交政策企画委員会が「わが国の外交政策大綱」をまとめ、「核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持するとともにこれに対する掣肘をうけないよう配慮する」とした考えである。とはいえ、そうした考えも、核をもてあそぶことにおいて核武装論と変わりない。そうした政策が核武装論者の温床となっていて、さらに、他国の核開発をうながす役割も果たしているんだよね。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>◉核融合</strong></span></p>
<p><em>　</em>陽子・中性子の数が少ない「軽い原子核」同士を融合させること。古い文献では「核重合」と書かれている。融合だか重合だかの際に莫大なエネルギーが放出されることから、その熱で発電をすることが計画されている。未だ実験炉以前の段階で、国際熱核融合実験炉（ITER）が2025年の運転開始を目指して建設中。</p>
<p><em>　</em>核融合は原子核と原子核がぶつかって起こる。原子核の周りの電子が衝突の邪魔をしないように、原子核と電子がバラバラになって飛び回る超高温のプラズマ状態がつくられる必要がある。そのプラズマを閉じ込めるのに何百万度にも耐え得る耐火煉瓦はつくれないので、磁石を使って強い磁力線をつくり、その中に閉じこめる方法と、レーザーを使って燃料を圧縮し、燃料の中心から核融合を起こさせる方法がある（よくわからないけれど）。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>復活の日？</strong></p>
<p><em>　</em>総合資源エネルギー調査会原子力小委員会で議論されている「革新炉」に核融合が入っていると聞いて、耳を疑った。大いに驚いた。1958年9月1日から13日までジュネーブで開催された第2回原子力平和利用国際会議の議長を務めたインドのH.J.バーバ博士が20年以内に実現すると大見得を切って65年近くが経つ核融合である。</p>
<p><em>　</em>日本では1980年から10年間、以前に増して各大学の核融合研究に多額の国家予算がばらまかれ、高部英明大阪大学レーザー核融合研究センター教授のホームページ（2014年9月10日）には「激光XII号[大阪大学のレーザー核融合実験装置]が出来た頃の第2 次石油危機の時代は、政府主導のTop-down で当時の額で300 億円とも言われるレーザーと堅牢な建物の予算が阪大に投下された」とある。それは特別かなもと思うが、核融合科学研究所の浦本上進助教授の「退官に当たって」（「核融合科学研究所ニュース」1998年5月号）では、研究所の前身の旧名古屋大学プラズマ研究所に入所したころを「まさに、我が世の春でした」と浮かれていた。ブームが去って1989年、名古屋大学プラズマ研究所を改組、京都大学ヘリオトロン核融合研究センターおよび広島大学核融合理論研究センターの一部を統合することにより大学共同利用機関として核融合科学研究所が設立された、そんな核融合である。</p>
<p><em>　</em>どこが「革新炉」だ？</p>
<p><em>　</em>近頃では「民間核融合」なるものが流行りらしい。日本原子力学会誌では2022年10月号で「民間資金での核融合」を特集していた。とはいえこのブームもいつまで続くことやら。　浦本助教授は、「退官に当たり、ため息をつく次第です」と言う。「なぜなら、まず、トーラス状［プラズマを閉じ込めるドーナツ状の磁場］の核融合炉は三大障害に完全に行く手を阻まれている。つまり、（１）底知れぬ巨額のお金（今後、何兆円？）と気の遠くなる時間（約50年以上）、（２）巨大で複雑な装置（巨大なものは単純でなくては扱えない）、（３）炉壁の耐熱材料と耐放射化材料は地球上に存在しない、の障害である」。</p>
<p><em>　</em>お金のことでは原子力委員会ITER計画懇談会の報告書「国際熱核融合実験炉（ITER）計画の進め方について」がITERについてこう高言していた。「幅広い意味での環境負荷や大規模エネルギーとしての供給安定性、原理的な安全性の面などで優れる核融合エネルギー研究開発に対して行う投資は、あたかも人類の将来の自由度を保証するためのものであり、例えれば保険料のようなものであると見做すべきことになろう」。</p>
<p><em>　</em>時間に関しては50年以上の約半分が既に過ぎてしまった。気の利いた化け物ならとっくに足を洗って引っ込んでいるだろうに。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>鍋が釜を黒いという</strong></p>
<p><em>　</em>核融合を原子力発電と比べても仕方がないけれど、「核癒合はクリーン」だと言う人もいる。大きな事故のときに出てくる放射能で比べれば、原発より少ないことは確かだろう。ただし、日常的な放射能漏れは、原発を上回りそうだ。トリチウムはもちろん、放射性ガスも漏れやすい。核分裂より4倍も多くエネルギーも約7倍高い中性子が発生し、施設内の労働者、さらに周辺住民をも被曝させる。巨大で複雑な装置のため、遠隔操作技術だけでは解決できない。また、機器を強く放射化しすぐに脆化するので頻繁な交換に伴って大量の高汚染廃棄物が出る。</p>
<p><em>　</em>後に原子力委員長となる藤家洋一名古屋大学プラズマ研究所教授は、こう書いていた。「核分裂発電所と核融合発電所を同じ条件のサイトに建設したとすると、どちらが安全かと聞かれると答えに窮する。“良く分りません”と答えるしかない。全然分らないかと聞かれたら“事故時については核融合炉の方が楽かな、通常時については核分裂炉の方が楽かな”と小声で答えることになるだろう」（1980年8月7日に同研究所で開かれたシンポジウム「核融合炉設計と評価に関する研究」の報告集）。</p>
<p><em>　</em>1994年11月号の『原子力工業』で、当時の日本原子力研究所の平岡徹特別研究員はこう言う。「核分裂炉はいくつかの神の恩寵のおかげで、ごく自然に短期間で成立した。一方、核融合炉はいわば神に逆らった力づくの技術で、その開発に巨額の費用と長時間を要している」。</p>
<p><em>　</em>その後何らかの神の恩寵が見つかったという話は………聞かないなあ。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>［© Baku Nishio］</p>
<p>&nbsp;</p>
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]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>第7回　「規制の虜」「クリアランス」「計画被曝」</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/nishio-baku/1766/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 17 Feb 2023 00:22:04 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[西尾　漠]]></category>
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					<description><![CDATA[◉規制の虜 　規制機関が被規制側の勢力に実質的に支配されてしまうような状況。 &#160; お似合いの言葉が見つからないよ 　国会に設置された「東京電力福島原子力発電所事故調査委員会」の委員長を務めた黒川清医学博士が、そ&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/nishio-baku/1766/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第7回　「規制の虜」「クリアランス」「計画被曝」</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>◉規制の虜</strong></span></p>
<p><em>　</em>規制機関が被規制側の勢力に実質的に支配されてしまうような状況。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>お似合いの言葉が見つからないよ</strong></p>
<p><em>　</em>国会に設置された「東京電力福島原子力発電所事故調査委員会」の委員長を務めた黒川清医学博士が、その著『規制の虜』（講談社、2016年）で「歴代の原子力安全・保安院と東電との関係では、規制する立場と規制される立場の逆転現象が起きていた」ことを「規制の虜」と名付けるに至った時のことが、次のように書かれている。やや長い引用となる。</p>
<p><em>　</em>「このような状況を、どういうフレームワークで説明すればわかりやすいか、報告書の作成が佳境に入った2012年4月頃、私と宇田氏[宇田左近国会事故調調査統括]、調査統括チームの中心スタッフ、野村修也委員ら数人で議論した。『もたれ合い』『なれ合い』という言葉も浮かんだが、どうもしっくりこない。</p>
<p><em>　</em>そのうちに若いスタッフが、『これはRegulatory Capture（規制の虜）じゃないですか』と言い出したので、すぐウェブで調べてみた。</p>
<p><em>　</em>『規制の虜』とは、政府の規制機関が規制される側の勢力に取り込まれ、支配されてしまう状況を指す経済用語だ。シカゴ大学のジョージ・スティグラー博士が研究し、1982年にノーベル経済学賞を受賞した。</p>
<p><em>　</em>『規制の虜』は、政府の失敗であると定義されている。</p>
<p><em>　</em>政府は、国民を守るために必要な規制を産業界等に入れなければいけない。だが、規制機関が『規制の虜』になると、被規制産業の利益の最大化に傾注するよう、コントロールされてしまう。結果的にそれは、国民を守らなかった政府の失敗である。</p>
<p><em>　</em>ぴったりの言葉だ。何人かの日本の経済学者に電話をして確認をとると、東電と原子力安全・保安院の関係は、まさに『規制の虜』の典型例ということであった。</p>
<p><em>　</em>ただ、『規制の虜』は非常にインパクトのある言葉なので、言葉だけが独り歩きをしてしまう恐れもある。</p>
<p><em>　</em>そこで、報告書の本文では、東電が原子力安全・保安院を骨抜きにしていく過程を示した上で、『規制当局は電気事業者の「虜（とりこ）」となっていた。その結果、原子力安全についての監視・監督機能が崩壊していたと見ることができる』とし、このことは『規制の虜』によっても説明できる、と脚注をつけた（『国会事故調報告書』12ページ）」。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>そうなんやー</strong></p>
<p><em>　</em>当然ながら、以後、「規制の虜」は独り歩きを始め、原子力用語として定着した。</p>
<p><em>　</em>この言葉をめぐって、2017年10月7日に宮城県仙台市で開催された講演シンポジウム「県民が決める！　女川原発再稼働の是非」で、こんなやりとりがあった。田中三彦元国会事故調委員が「国会事故調の報告書の中に、『規制の虜』というのが書かれています。政府事故調も東京電力自身も報告書を出していますが、こんな言葉は使っていません。これは、国会事故調として非常に重要な指摘だったと僕は思っていますけども、『規制の虜』は、ただ訳語なんですよ。この訳語がいい訳語かどうかということになると、ちょっと誤解を生む訳語である」として、どういう意味かの解説をしたのに対して、半田正樹東北学院大学経済学部教授がこう補足をしている。</p>
<p><em>　</em>「これを提起した、経済学者スティグラーには、『だから、そもそも規制など撤廃して市場経済の合理性に全てを委ねたほうがいい』という後段の主張がありました。『規制の虜』というのは、そこまで含めておさえる必要があるのではないかと思います」。</p>
<p><em>　</em>ちなみにRegulatory Captureを自動翻訳にかけると「規制による捕獲」とか「規制の捕獲」「規制の獲得」「規制の掌握」とかで、なかなか「規制の虜」とは訳してくれない。ただし日本の文献では、古くから「規制の虜」とされていた。最初に訳語をそう決めたのは誰だったんだろうね。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>◉クリアランス</strong></span></p>
<p><em>　</em>あるレベル（クリアランスレベル）以下の濃度の放射性物質について、「放射性」としての規制を解除すること。再生利用や、産業廃棄物などとしての廃棄が可能となる。</p>
<p><em>　</em>俗に「すそ切り」と呼ぶ。ズボンのスソを足の長さに合わせて切るように、クリアランスレベルから下は切り捨ててしまうことからである。反原発派の造語と思われているが、そうではない。『原子力白書』などにも出てくるし、原子力ムラの出版物でも時折り見かける。「俗に」とはいえ、とりわけ化学物質の安全対策では立派なお役所用語である。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>へんてこへんてこ</strong></p>
<p><em>　</em>あるレベルは、放射線審議会基本部会（1987年12月）で、年間10マイクロシーベルトとされた。そこで、核種ごとに年間10マイクロシーベルトの被曝をもたらしうるクリアランスレベルが1グラム当たりのベクレル数として定められている。核種ごとの値を決めるには、たとえば鉄材がフライパンに再生利用される場合を考えるには、フライパンの面積や鉄の腐食速度、フライパンを使用した年間調理時間などのデータを集め、それぞれの核種についてどれくらいの放射能濃度ならレベル以下になるかを計算する。飲料の缶に使われる場合なら、飲料中の鉄の濃度や飲料の年間摂取量など、ベッドへの利用なら、上に寝る人間との距離、ベッドの年間使用時間など、埋設地が農地として利用されるケースでは、農耕作業時間、農作物の摂取量……といったぐあいである。</p>
<p><em>　</em>クリアランスの値がどう決められたのか、トリチウムについてみてみよう。以下、１グラム当たり何ベクレルという表記は略し、数値のみ記載する。</p>
<p><em>　</em>国際原子力機関（IAEA）が1996年1月に出した技術文書「TECDOC‐855」では、文献により1,000～10,000と幅があるとしたうえで、単一代表値を3,000とした。それを受けて日本では原子力安全委員会の放射性廃棄物安全基準専門部会が「日本における日常生活の態様、社会環境等を基に」独自に検討し、1999年3月、200と決定した。その過程では1998年4月の第24回部会で埋設処分地の井戸水を飲むことで71という数字が出てきたが、再検討の結果、11月の第26回部会では290に変わったりもした。他方、再検討前で最大だった「埋設地で収穫された農作物の摂取による被曝」が220から170に変わり、これをもとに200と決定されたのである。実は「TECDOC‐855」でも農作物の摂取による被曝が170と計算されたが保守的過ぎる経路として除外され、3,000になったという。</p>
<p><em>　</em>2004年8月になると、IAEAの安全指針「RS‐G‐1.7」が出て、いきなり100となった。それまでは成人を対象にしていた基準づくりに1～2歳児も対象とされたからだ。原子力安全委員会の放射性廃棄物安全基準専門部会でも1～2歳児を対象に再評価し、同年12月9日、60に変更された（やはり埋設地で収穫された農作物の摂取による被曝）。</p>
<p><em>　</em>ところがどっこい、「日本における日常生活の態様、社会環境等を基に独自に検討」はどこへやら、有意の差はないことと国際的整合性を理由にIAEA安全基準を適用することは適切と結論。4日後の総合資源エネルギー調査会原子力安全・保安部会廃棄物安全小委員会でIAEA安全基準の100とすることが決定される。</p>
<p><em>　</em>値が二転三転したのはトリチウムそのものの危険性の評価が大きな理由ではないかもね。それでも、仮に海洋投棄されたりすれば、どんな経路でどれだけの影響を与えるか、わからないとしか言えないことは確かだろう。クリアランスレベルを決めるために考えられた多数のシナリオに、もちろんトリチウム汚染水の海洋投棄はなかった。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>DA.YO.NE</strong></p>
<p><em>　</em>再生利用については、原発の廃炉から出た金属廃棄物の一部が、原発ＰＲ館のイスやテーブルの脚などに利用されたりしている。電気事業連合会は「クリアランス制度が社会に定着するまでの間、電力会社では、電力関連施設で再利用し、資源として有効に再利用しています」（電気事業連合会HP）としているが、第6次エネルギー基本計画では「廃止措置の円滑化や資源の有効活用の観点から、更なる再利用先の拡大を推進するとともに、今後のフリーリリースを見据え、クリアランス制度の社会定着に向けた取組を進める」ことを打ち出した。福井県は、「デコミッショニングビジネスの育成」をうたう「嶺南Ｅコースト計画」を2020年3月に策定。以降、クリアランスへの理解促進のためとして、県内の大学や高校などに次々と東海原発の廃止措置で発生した金属廃棄物の再生利用ベンチを設置している。</p>
<p><em>　</em>とはいえ、それで社会への定着が進むはずもない。フリーリリースができるよう、「定着した」と政府が強引に宣言したところで、同じことだ。「ストロンチウム-90入りの安眠ベッドがクリアランスセールでお安くなっています」と言われてもね。</p>
<p><em>　</em>『エネルギーフォーラム』2022年8月号が「廃炉時代への備えは万全か」を特集していた。そのなかで廃炉廃棄物の後始末の課題をめぐる座談会があり、紺谷修鹿島建設原子力部技師長は「サイト外では受け取ってもらいにくい」と言う。「結局、電力会社がサイト内の工事や将来のリプレースなどに使う以外に利用法がない」って、そりゃそうだよ。</p>
<p><em>　</em>再生利用が引き起こした悲劇としては台湾の「被曝マンション」が佐藤幸男監修／佐藤ニナ・松浦千秋著『総被曝者の時代―危ない金属リサイクル－』（海鳴社、1996年）に詳しい。</p>
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<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>◉計画被曝</strong></span></p>
<p><em>　</em>あらかじめ計画された被曝。</p>
<p><em>　</em>国際放射線防護委員会（ICRP）では放射線被曝の状況を計画被曝状況、既存の被曝状況、緊急被曝状況に分類している。計画被曝状況とは、放射線防護を事前に計画でき、被曝を合理的に予測できる状況とされ、線量の設定された一定期間の作業での労働者被曝や原子力施設などの近くの住民が平常時に受ける被曝、X 線、CT スキャン、放射線治療等の医療被曝を言う。既存の被曝状況は、宇宙放射線にさらされる航空機乗務員や宇宙飛行士の被曝など。緊急被曝状況は、事故時の労働者や住民の被曝。いずれも自然放射線による被曝は含まない。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>覚悟の上と人の言う</strong></p>
<p><em>　</em>1999年9月30日に茨城県東海村のウラン加工施設ＪＣＯで起きた臨界事故では、多くの人が被曝した。にもかかわらず当初の事故調査報告書では「被曝者は69人」とされていた。事故によって計画外の被曝をした人（正確には、被曝が確認された人）のみを「被曝者」と呼んだからである。臨界を止めるために水抜きの作業などを行なった24人の労働者は、「被曝者」の大多数より大きな被曝をしていても、数にふくめられず、その人たちの被曝は、「計画被曝」と名づけられていた。</p>
<p><em>　</em>1999年11月10日の衆議院科学技術委員会で、当時の佐藤一男原子力安全委員長は「計画に従ってその計画被ばく限度以内の被曝をした場合、これを計画被曝と呼んでおります。［中略］異常な事態を収束するためにそこへ行ってというのは、この計画被曝限度の範囲内で、これは言うなれば覚悟の上で、知っていて被曝するということでございます」と答弁をしている。事故が起こると、その対策のためにたくさんの労働者が「計画被曝」をすることになるわけだ。</p>
<p><em>　</em>ただしこの「計画被曝」という言葉はよほど評判が悪かったとみえて、最終報告書では計画外の被曝者との区別はなくなった。当然っすよね。被曝者の数は最終的に666人に増えたが、これは350メートル圏内の住民や、さまざまな仕事にあたった自治体関係者などもふくまれることになったからだ。</p>
<p><em>　</em>事故が起こらなくても、原発や関連施設では、数多くの労働者が「計画被曝」をしている。電力会社があらかじめ設定した計画を超えた被曝があったときのみ、被曝事故として発表されるのだ。その計画被曝の95％以上は電力会社の社員でない人々が引き受けている。原子力委員会の新長期計画策定会議に委員として参加していた電力総連の笹岡好和会長が2004年8月11日の会合に寄せた発言メモでは、計画線量について「労使協議により国の基準を大きく下回るものとしております」と自慢しているが、もとより社員外の被曝低減は労使協議の対象となっていない。</p>
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<p>［© Baku Nishio］</p>
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			</item>
		<item>
		<title>第8回　「原子力安全委員会」「原子力委員会」「原子力規制委員会」</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/nishio-baku/1768/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 17 Feb 2023 00:22:27 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[西尾　漠]]></category>
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					<description><![CDATA[◉原子力安全委員会 　原子力委員会が所管する原子力の研究、開発および利用に関する事項のうち、安全の確保に関する事項について企画し、審議し、および決定するため、1978年10月4日、同委員会から分離して発足した総理府（のち&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/nishio-baku/1768/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第8回　「原子力安全委員会」「原子力委員会」「原子力規制委員会」</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>◉原子力安全委員会</strong></span></p>
<p><em>　</em>原子力委員会が所管する原子力の研究、開発および利用に関する事項のうち、安全の確保に関する事項について企画し、審議し、および決定するため、1978年10月4日、同委員会から分離して発足した総理府（のち内閣府）の諮問機関。東京電力福島第一原発事故の翌2012年、より推進行政から独立した原子力規制委員会の発足に伴い、役割を終えた。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>災い転じて福となす</strong></p>
<p><em>　</em>原子力委員会と原子力安全委員会を分けるというのは、アメリカの原子力委員会（AEC）が1975年、推進側のエネルギー研究開発管理部（ERDA、のちエネルギー省＝DOE）と原子力規制委員会（NRC）に分けられたことの猿真似と言われる。しかし原子力安全委員会の分離を決めた原子力行政懇談会の有沢廣巳座長はその後の回想で、米原子力委員会が二つに分かれた時は「なんであんなことをする必要があるのかなと思っていた」と言う。「その当時の［日本の］原子力委員会にはすぐ分けるという気持はあまりなかったと、僕は思いますよ」と（『原子力工業』1980年4月号）。</p>
<p><em>　</em>ところが1974年9月1日に原子力船「むつ」の放射線漏れ事故が起こり、高まった原子力行政批判を受けて75年2月25日に原子力行政懇談会が発足、世論をなだめるべく12月29日に原子力安全委員会の設置を含む中間報告がまとめられることになる（最終報告は76年7月30日）。その中間報告の前々月、有沢座長は10月9日の懇談会の席上、「有沢私案」なるものを示した。どのような案か、森一久編著『原産半世紀のカレンダー』（日本原子力産業会議刊、2002年）で森が執筆している「秘話」にこう書かれている。</p>
<p><em>　</em>「そのころ世界的にも『安全規制と開発推進は切り離す』のが流行で、米国のNRC（原子力規制委員会）の設置がお手本になっていた。有沢氏はしかし、開発と規制は車の両輪で『何らかの繋ぎがなければ』という考えを行政懇の席上でも述べていたが、趣旨は判っても原子力に対する厳しい情勢に気をとられ、なかなか大勢とはならなかった。議論も出尽くしたころ、痺れを切らした同氏は『有沢私案』なるものを持ち出した。それは『従来の安全審査委員長が別格の原子力委員（または副委員長）として入る。同委員は安全問題に関する限り拒否権を持つ』という、いわゆる『大原子力委員会構想』であり、熟慮を重ねた上の極めてユニークなものだった。しかし、これも当時の流行の議論を説得できず、両委員会は『完全分離』された」。</p>
<p><em>　</em>その「有沢私案」をつぶしたのは、正規の会合と別に、いわば秘密会をもった行政懇委員の伏見康治、田島英三、科学技術庁原子力局長の生田豊朗だった、と2011年12月18日付の東京新聞が内訳を報じていた。伏見の日記が引用されている。「11月1日（土）晴れだが、曇りがち　生田局長の考えでは、有沢構想は元来非分離案であって、ただ世間の分割案に合わせるために、外見上分割案に見えるようにしただけなのだという」。</p>
<p><em>　</em>さて、原子力安全委員会ができてどうなったか。島村武久元原子力委員が主宰する「原子力政策研究会」では1992年の会合（日づけは不明）で、原子力行政懇談会の事務局を担当していた沖村憲樹科学技術庁研究開発局審議官のいわく「結果的に15年経ってみますと、原子力の反対も安全委員会が吸収して、原子力発電も、滞りながらスムーズにいってますんで、この体制もまあ結果的にはよかったんじゃないかというような気がしますけど」。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>◉原子力委員会</strong></span></p>
<p><em>　</em>総理府（のち内閣府）の諮問機関。原子力利用に関してかつては大きな権限を有していたが、現在は機能が縮小されている。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>いくつも時代は過ぎて</strong></p>
<p><em>　</em>2001年1月6日の中央省庁再編に伴い、原子力委員会の委員長は「科学技術庁長官たる国務大臣をもって充てる」とされていた同委員会設置法の条文が削除された。電力中央研究所の中村政雄顧問（元読売新聞論説委員）が、8月10日付の電気新聞で「原子力委員会不要論」を書いている。</p>
<p><em>　</em>「原子力委員会がないと、困ることがあるだろうか。20年前、私は当時の有沢廣巳原子力委員長代理に質問した。</p>
<p><em>　</em>『平和利用の番人ですよ』と有沢さんは答えた。『万一、日本政府が核武装したいと考えた時、原子力委員会は体を張って阻止する。そのために原子力委員長は国務大臣が就任する。閣議決定は閣僚全員の一致が必要だ。原子力委員会が反対すれば、原子力の軍事利用は防げる。役に立つのはそれくらいかな』</p>
<p><em>　</em>それだけでも存在価値はある、と思ってきた。政府の機構改革で、原子力委員長は国務大臣でなくなった。政府の諮問機関に過ぎない。有沢さんが答えた唯一の存在価値も消えた」。</p>
<p><em>　</em>ただ一人でも反対する気骨のある原子力委員長が実際にいたかしら。むしろ委員長から委員会に、原爆の研究や原子力潜水艦の導入検討とかの話がもちこまれたんじゃないの（「核武装」の項参照）。</p>
<p><em>　</em>ともあれ中央省庁再編に伴っての原子力委員会設置法改正では、委員会決定を内閣総理大臣が「十分に尊重しなければならない」旨の規定も削除され、原子力委員会の弱体化が一歩か何歩か進んだことは間違いないようだ。</p>
<p><em>　</em>んで。福島原発事故が起きた後で、原子力委員会をどうするか、存廃もふくめての検討がおこなわれた。あれこれごたごたの末、2013年2月10日に「原子力委員会の在り方見直しについて」がまとめられている。原子力委員は5人から3人に数を減らし、「今後は原子力利用の推進を担うのではなく、原子力に関する諸課題の管理、運営の視点から活動する」とされた。</p>
<p><em>　</em>原子力利用の推進は、経済産業省とその下部機関である資源エネルギー庁が掌握している。原子力委員会など不要だ、いっそ廃止せよと思わないでもない。とはいえ、なくてよいではすまないこともある。原発推進のブレーキは、安全規制だけでは足らないのだ。軍事転用の防止はもとより、経済性を含む合理性、民主性、倫理性といったブレーキも必要だろう。そうした役割を原子力委員会は、ほとんど果たしてこなかった。だからといって、原子力委員会をただ廃止すればよいわけではない。上述のブレーキをいかに保証するか、それにはどんな組織が要るのかも、考えなくてはならない問題だろう。なんちゃって、上から目線だったな。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>蛇の足</strong></p>
<p><em>　</em>まったくの余談。『原子力委員会月報』で別の記事を見ていた時に、委員会関係名簿に目が行った。1965年1月号である。驚いたのは委員長や委員、参与らの自宅と電話番号が堂々と載っていたことだ。組織に属している場合はその住所、電話番号を記している人が多いが、それでも自宅にしている例がある。自宅と勤務先の両方というていねいな人も少なからずいた。</p>
<p><em>　</em>いずれにしても今じゃ考えられないよね。原子力基本法の「公開の原則」に沿ったもの――なんてことはないか。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>◉原子力規制委員会</strong></span></p>
<p><em>　</em>環境省におかれた行政委員会。経済産業省からの原子力規制機関の独立などを目的として、2012年９月19日に発足した。原子力規制庁は、その事務局。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>看板に偽りあり</strong></p>
<p><em>　</em>原子力ムラからは原発再稼働のじゃまをする「日本のリスク源」（岡本孝司東京大学大学院教授、『エネルギーレビュー』2022年1月号）などと言われている原子力規制委員会だが、とりわけ2022年9月の山中伸介委員長就任以来「規制の虜」というか、その変形（進化系？）になりかかっていると見えなくもない。原子力規制委員会が「虜」になりかかっているのは、事業者の虜だけではない。山中委員長と交代した更田豊志前委員長は22年9月21日、最後の記者会見でこう述べていた。「規制委員会の役割で一番難しいのは、規制庁の追認機関にならないことなのですよ」。</p>
<p><em>　</em>その2022年の暮れ、さっそくの実例が起きている。原発の運転期間見直し問題について10月5日の定例委員会で資源エネルギー庁の説明を受けて初めて検討に入ったはずが、規制庁と資源エネルギー庁とで早くから法改正の具体的な検討を始めていたとの情報を内部通報者から入手した原子力資料情報室が、12月21日に緊急記者会見を開いて公表した。しかし同日の定例会見での山中委員長は、問題の重大さがわからず、呑気に記者質問に答えている。「少なくとも物事を決めていくのは原子力規制委員会そのものですので、その前段階で何か様々な検討を職員がされるということについては、私自身も承知はしておりませんし、どういう内容が検討されたのか分かりませんけれども、少なくとも何らかの準備、あるいは頭の体操をしていたというふうには想像いたします」。</p>
<p><em>　</em>原子力規制庁は、12月27日の定例ブリーフィングで「運転期間の見直しに係る資源エネルギー庁とのやり取りに関する経緯について」説明した。7 月27 日 の第１回GX 実行会議で岸田文雄首相から原発再稼働等の政治決断が必要な項目を示すよう指示があった翌28 日には、どちらが主導したのかの説明はないものの、第1回の資源エネルギー庁との面談に入っている。9月1日には、検討のための人事異動まで原子力規制庁長官の専決で発令していた</p>
<p><em>　</em>原子力規制委員会は12月28日の定例委員会で、ノーリターンルール（規制庁に異動した官僚が「原子力利用の推進に係る事務を所掌する行政組織」に戻ることを原則として禁止した規則。当然ながら？制定してすぐに形骸化している）に該当する省庁との面談は記録・公表するといったルール作りを原子力規制庁に指示したが小手先の対応で、本質を理解してのこととは思えないのが情けない。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>帰りたい帰れない</strong></p>
<p><em>　</em>1999年12月の原子力安全委員会ＪＣＯ臨界事故調査委員会の報告書を見ると､｢原子力の安全に係わる業務が開発推進と同等の重要性があることに対応して、安全の業務に携わる研究者、技術者、作業者の価値が尊重される社会でなければならない｣と言っていた。つまりそういう社会じゃないということだ。だから、かつて原子力安全委員会と科学技術庁原子力安全局を統合して規制組織を独立させる案（現在の原子力規制委員会と原子力規制庁に近い）があったのに対して科学技術庁の石田寛人事務次官は、こう否定した。「仕事を安全規制の範囲に限ることになり、職員の士気が下がる」（1997年５月２日付朝日新聞）。はて、原子力安全局って「仕事を安全規制の範囲に限」ってなかったのかしら。それはともあれ、原子力規制庁職員の士気やいかに。</p>
<p><em>　</em>原子力規制庁の職員には、経済産業省資源エネルギー庁原子力安全・保安院と原子力安全委員会事務局からほぼそっくり移ってきた。多くは「規制の虜」だった方々だ。『週刊朝日』2013年7月19日号の今西憲之+本誌取材班「東電幹部と経産省幹部が交わした原発再稼働驚愕&#x3299;メール」で明らかにされた東電幹部のメールの一節に、こんなものがあった。「規制委のメンバー［委員でなく規制庁職員のことだろう］、ずっと事業者と二人三脚でやってきた、歴史があります。ともすれば、我々の力があって、今の地位にいる」。</p>
<p><em>　</em>士気ばかりでなく、「我々の力」に頼れなくなりそうとあって、原子力安全・保安院の職員たちからは、「『原子力規制庁へ異動したくない』との声も少なからず聞かれ」と、2012年6月27日付の電気新聞は伝えていた。「職場内の雰囲気は『消沈している』」と。</p>
<p><em>　</em>もちろん、規制行政に意欲を持つ職員もきっといると信じてるけどね。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>［© Baku Nishio］</p>
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			</item>
		<item>
		<title>第9回　「原子力基本法」「原子力資料情報室」</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/nishio-baku/1772/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 17 Feb 2023 00:22:42 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[西尾　漠]]></category>
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					<description><![CDATA[◉原子力基本法 　1955年12月19日、中曽根康弘議員を委員長とする衆参両院の超党派の原子力合同委員会が、政府との調整、学会の意見聴取を経て提出した議員提案で成立した。「原子力の研究、開発及び利用を推進することによって&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/nishio-baku/1772/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第9回　「原子力基本法」「原子力資料情報室」</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>◉原子力基本法</strong></span></p>
<p><em>　</em>1955年12月19日、中曽根康弘議員を委員長とする衆参両院の超党派の原子力合同委員会が、政府との調整、学会の意見聴取を経て提出した議員提案で成立した。「原子力の研究、開発及び利用を推進することによって、将来におけるエネルギー資源を確保し、学術の進歩と産業の振興とを図り、もって人類社会の福祉と国民生活の水準向上とに寄与することを目的とする」と第1条にうたわれている。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>兵は神速を尊ぶ？</strong></p>
<p><em>　</em>原子力基本法案は、政府が提出した原子力委員会設置法、総理府設置法の一部改正案（原子力局設置）とともに「原子力３法案」と呼ばれ、1955年12月14日に衆議院、16日には参議院で可決、19日に公布というスピード制定だった。</p>
<p><em>　</em>どれだけの議員が原子力の何たるかをわかって３法案に賛成したかは大いに疑問で、鳩山一郎首相また然り。『原子力eye』2010年5月号で、当時は工業技術院調査課で「官庁技術者運動の若手幹事役として、科学技術庁設立のため、国会との連絡役の使い走りを務めた」という伊原義徳元原子力委員長代理が回顧している。「1955年に、正力松太郎読売新聞社主が衆議院議員に当選し、11月に第三次鳩山内閣に初入閣した。総理から防衛庁長官就任を打診されたが、『原子力担当大臣をやる』と主張した。『原子力って何だね？』と総理は怪訝な顔をした」。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>放っておくと、大変なことになりますよ</strong></p>
<p><em>　</em>現行の原子力基本法第2条は、基本方針をこう規定している。</p>
<p><em>　</em>「原子力利用は、平和の目的に限り、安全の確保を旨として、民主的な運営の下に、自主的にこれを行うものとし、その成果を公開し、進んで国際協力に資するものとする。</p>
<p><em>　</em>２　前項の安全の確保については、確立された国際的な基準を踏まえ、国民の生命、健康及び財産の保護、環境の保全並びに我が国の安全保障に資することを目的として、行うものとする」。</p>
<p><em>　</em>1955年の制定時には「原子力の研究、開発及び利用は、平和の目的に限り、民主的な運営の下に、自主的にこれを行うものとし、その成果を公開し、進んで国際協力に資するものとする」と、いわゆる「平和利用の三原則（民主・自主・公開）」を謳ったシンプルなものだった。第２項は存在しなかった。</p>
<p><em>　</em>もともとは「安全」についてすら、一言も書かれていなかったのだ。「安全の確保を旨として」と加えられたのは1978年6月5日に成立した法改正で、原子力安全委員会の原子力委員会からの分離と足並みをそろえたものである。</p>
<p><em>　</em>ところがこれにより「公開の原則は、現在では、平和利用の原則の他、安全確保の原則をも担保するものと解するのが適当であろうと考えられる」と理屈づけて見直し論が浮上した。日本原子力産業会議（現・日本原子力産業協会）に設けられた原子力基本法問題研究会が「公開問題に関する法的検討」（秘）と題した中間報告をまとめ、79年7月上旬、日本学術会議のメンバーに「外部に出さないでほしい」と非公式の検討を依頼した――と9月29日付朝日新聞が報じているものだ。『技術と人間』1979年12月号が、その中間報告を掲載し、市民エネルギー研究所の近藤和子が解説している。</p>
<p><em>　</em>中間報告は言う。「国際的に核不拡散の必要性が強く叫ばれ、ウラン濃縮技術等の公開は厳重に制限すべきものとされるようになった。又、核の乗っ取りや原子炉破壊行動の可能性が認識されるに従って、いわゆる核物質防護（Ｐ・Ｐ）のために一定範囲の情報はむしろ公開しない方がよい場合があると考えられるに至っている」。</p>
<p><em>　</em>なるほど。でも、それって情報を隠さないと原子力利用はできないってことだよね。日本でも1977年11月に東海再処理施設でプルトニウムが初抽出され、78年7月には人形峠ウラン濃縮建設所が設置されている。中間報告が言うように「原子力の利用は、大きな曲がり角にさしかかって」軍事と切り離せないことがいよいよはっきりしてきたということだろう。</p>
<p><em>　</em>第2条に第2項が追加されたのは、2012年6月20日に成立した原子力規制委員会設置法の目的及び原子力規制委員会の任務に「我が国の安全保障に資する」との文言が盛り込まれるとともに、同法附則において原子力基本法並びに核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律が改正されたことによる。</p>
<p><em>　</em>国会答弁で自民党の提案者は「あくまでも我々の思いは、軍事転用をしないという思いで入れさせていただきました」としているが、韓国では「日本、ついに核武装への道を開く」と報じられるなどしていたっけ。日本電気協会発行の電気新聞は、7月5日付の紙面に柴田鉄治元朝日新聞論説委員の「時評」を載せた。柴田は、こう訴えている。「原子力関係者を筆頭に、こぞって反対の声をあげ、まず、問題の文言を削除させよう。削除もできないというのなら、原発の再稼働どころか、いま直ちに一切の原子力開発をやめようではないか」。</p>
<p><em>　</em>残念ながら、そうした動きは起こらなかった。</p>
<p><em>　</em>さらに2023年（今年だよ）、岸田文雄政権は通常国会に提出する予定の原子力関連束ね法案の中に基本法改正をもぐり込ませ、「原子力利用の目的に新たに脱炭素、エネルギーの安定供給を加える一方で、廃炉や高レベル放射性廃棄物の最終処分などに国が責任を持つことを明記する」（1月11日付環境新聞）という。マジか。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>◉原子力資料情報室</strong></span></p>
<p><em>　</em>原子力に頼らない社会の実現を目指す活動的シンクタンク。1975年9月に発足したが、日付は不明なため「創立記念日」もない。高木仁三郎前代表の自伝である『市民科学者として生きる』（岩波新書、1999年）には、こう記述されている。「記録も記憶も定かでないが、1975年の夏までに何回か話し合いがあり、結局、武谷三男氏を代表とし、浪人的存在だった私が専従（ただし無給！）的役割（一応世話人という名称で）を担うことを了承して、その司町のビルの5階で、原子力資料情報室は9月にスタートすることになった」。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>今は昔</strong></p>
<p><em>　</em>「司町のビルの5階」とは、東京都千代田区司町の4階建てのビルの屋上に建てられた小部屋のこと。4階には原水爆禁止日本国民会議（原水禁）が入っていて、その資料室として確保されていたものだった。そのころ西尾（筆者）は「反広告会議・東京」を名乗って電力会社等の広告批判をもっぱらにしていて、そこに出入りはしていたのだが（白状すれば、原水禁のコピー機をただで使わせてもらうのが主目的だった）、やはり創立の経緯についての記憶はない。原子力資料情報室は科学者の集まりで、自分は違うという意識だったのだ。</p>
<p><em>　</em>そこで、原子力資料情報室が1995年に発行した『脱原発の20年』に井上啓（ひらく）元原水禁事務局次長が書かれたものを、長くなるのをいとわずに引用しよう。</p>
<p><em>　</em>「この時期に［原発立地］候補地の住民に原子力の問題点などの情報を送り、反対運動の火をつける役割を果たしたグループとしては、東大、京大、東北大などの若手研究者でつくった全国原子力科学技術者連合（全原連）があります。メンバーは現地住民と寝食を共にするような熱心な働きかけを繰り返し、その後の反原発運動発展への大きな役割を果たしました。また、各地の反原発住民運動を反核運動の中に紹介し、自らの運動として取り組み始めたのが原水爆禁止日本国民会議でした。</p>
<p><em>　</em>72年、敦賀で開かれた全国活動者会議では関係各県の原水禁と住民団体が参加し、『原発・再処理問題全国共闘会議』の結成と『資料情報センター』設立の方針がうちだされました。前後して、久米三四郎氏、水戸巌氏、市川定夫氏などが、全原連のメンバーとともに住民運動への専門的支援を活発化し、運動は飛躍的に広がりはじめました。</p>
<p><em>　</em>原水禁は各地の住民運動を主体に各県原水禁、労働組合などによる全国共闘会議をめざして、とりあえず『原発・再処理情報連絡センター』をスタートさせ、その情報紙として『原発斗争情報』を発行しはじめました。しかし、『資料センター』については、各専門家の間に考え方のギャップが大きいこと、『センター』とすると運動の中央司令部的になるおそれがあること、などが指摘され、多様な考え方を持つ専門家の『討論の交差点』、『共同作業の場』として運動とは独立してつくることが最良と判断されました。そして、実際の作業を担う世話人として高木仁三郎氏の了解が得られたことから、75年に武谷三男氏を代表とする『原子力資料情報室』として発足することになったのです」。</p>
<p><em>　</em>文中にある『原発斗争情報』は、1972年11月に「原発・再処理工場反対運動情報連絡センター」の発行で第1号を出し、第15号までは住所を「秋元ビル4階　原水禁気付」、第16号から「秋元ビル5階　原子力資料情報室」としている。1976年1月発行の第18号から「編集・発行　原子力資料情報室」となる。</p>
<p><em>　</em>井上啓は、池山重朗著『原爆・原発』（現代の理論社、1978年）が明石書店から再発行されたときの「解説」でも原子力資料情報室に触れて、武谷を推薦したのは池山だと記し、「高木さんを連れてきたのが久米三四郎さんで、久米さんを紹介したのが和田長久さんだった」と人脈の説明をしている</p>
<p><em>　</em>武谷代表だったのは1976年6月まで1年足らずのごくわずかな間で、高木、井上、藤本陽一、小泉好延の運営委員制に移行している。前掲『市民科学者として生きる』でちょっと有名になった武谷・高木の「時計とかな槌論争」が原因だったと高木は「武谷三男さんを悼む」（『原子力資料情報室通信』2000年5月号）で書いていた。「ただし先生が専門志向の理論家で、私が運動志向の活動家で、対立があった、というような性格のものではない」と。その同じ2000年の10月8日、高木は武谷の後を追うように逝った。</p>
<p><em>　</em>1987年3月、『原発斗争情報』を『原子力資料情報室通信』に改題。５月の総会で運営委員会を理事会に変え、高木仁三郎代表を選任した。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>まだやりかけの未来がある</strong></p>
<p><em>　</em>原子力資料情報室は1999年9月より特定非営利活動法人。法人格を得ようとした時期はもっと早い。と言いながらいつのことか例によって記憶があいまいなのだが、1995年の原子力資料情報室総会で議論があったことは記録があって確かだ。その少し前だったろう。当時は社団法人をめざして主務官庁となる科学技術庁と交渉していた。認可の条件となる「公益性」があるという主張だ。</p>
<p><em>　</em>当然、容易ではない。けっこうがんばってくれた役人がいたのも事実だが、1995年12月8日のもんじゅナトリウム漏れ火災事故で双方が忙しくなり、科学技術庁の担当者が替わったりして難航する。そうしているうちに特定非営利活動促進法が1998年3月に成立、12月には施行されたので99年1月に設立総会を開いて3月に申請、ようやく法人格を取得した。早い対応ができたのは、言うまでもなく、法人化に向けて準備が進んでいたからだ。2010年5月には、寄付をした人がその寄付の税控除ができる認定を受けた特定非営利活動法人団体になっている。</p>
<p><em>　</em>高木が法人格にこだわった理由は、自身が関われなくなった後も資料室が存続できるようにしたいと考えていたからである。高木の生存期間中の原子力資料情報室が多分に高木仁三郎事務所だったことは否定すべくもない。法人化前は事務所や電話などの契約を、なにもかも高木個人の名でするしかなかった。</p>
<p><em>　</em>それはそれとして、原発推進官庁だった科学技術庁の下で社団法人になることに成功しっていたら、それこそ「新時代だ」だった、かもね。</p>
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<p>［© Baku Nishio］</p>
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			</item>
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		<title>第10回　「原子力船「むつ」放射線漏れ」</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/nishio-baku/2017/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 21 Apr 2023 00:54:54 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[西尾　漠]]></category>
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					<description><![CDATA[◉原子力船「むつ」放射線漏れ 　1974年9月1日、太平洋上で試運転中の原子力船「むつ」で起きた事故。 &#160; おにぎり握りましょ 　前夜までの漁船団による猛抗議が嵐のため終息した1974年8月26日未明に青森県む&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/nishio-baku/2017/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第10回　「原子力船「むつ」放射線漏れ」</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>◉原子力船「むつ」放射線漏れ</strong></span></p>
<p><em>　</em>1974年9月1日、太平洋上で試運転中の原子力船「むつ」で起きた事故。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>おにぎり握りましょ</strong></p>
<p><em>　</em>前夜までの漁船団による猛抗議が嵐のため終息した1974年8月26日未明に青森県むつ市の大湊港を出港した日本原子力船開発事業団（当時。のち日本原子力研究所に併合、さらに同研究所と核燃料サイクル開発機構が統合されて日本原子力研究開発機構）の原子力船「むつ」は28日、下北半島尻屋沖800kmの実験海域に到着、午前9時の運転開始宣言で原子炉の制御棒を引き抜き始めた。予定していた4本まで抜いても臨界に達しなかったが、さらに4本引き抜いたところで午前11時34分、核分裂反応が始まった。はじめから計算を間違えていたんだって。やくたいもない。</p>
<p><em>　</em>それから4日後の9月1日午後5時17分、出力を0.7％から1.4％に徐々に上げていく途中で、原子炉室上部甲板の放射線エリアモニターが警報を発した。高速中性子は直進するのでしゃへい板で防げるという事業団や原子炉メーカーの三菱重工の予想に反して漏れは起きた。</p>
<p><em>　</em>そこで、にわかに船内で飯炊きが始まる。約40キロの米が炊かれ、中性子を吸収するホウ素を混ぜたおにぎり（握ったというよりつぶしたので「お餅」とも）をつくり、ナイロンストッキングに詰めて間隙をふさぐ作戦が行なわれた。ドイツの原子力船「オットーハーン」でも試運転段階で同じような漏れがあり、小麦粉とホウ素を水でこねた「パン作戦」がとられたのだという。</p>
<p><em>　</em>もっとも「おにぎり（お餅）作戦」は、さして効果を発揮はしなかったらしい。中性子が高速なので、うまく吸収できないのである。そこで鉛しゃへいの上に「米飯しゃへい層」を置くと、格納容器頂部の中性子線量率はかなり減少した。ただしガンマ線量率はほとんど減らなかった。</p>
<p><em>　</em>事故を起こした「むつ」には、マスコミ代表取材として、地元青森の東奥日報とデーリー東北の2社、それに共同通信からと計3人の記者が乗船していた。この記者たちが乗っていなかったら、事故は隠されていたかもしれない。という以前に、原子力ムラでは「むつ」の放射線漏れに「事故」という言葉は使っていない。単に「放射線漏れ」と言う。まあ、いつものことさ。</p>
<p><em>　</em>それはさておき、デーリー東北の吉田徳寿記者が『月刊きたおうう』（「北奥羽」の変換漏れじゃないよ）1974年11月号に載せた記事をもとに、朝日新聞「原発とメディア」取材班『原発とメディア2』（朝日新聞出版）で隈元信一記者が当時の様子を伝えている。</p>
<p><em>　</em>「事故が起きたのは、9月1日午後5時17分。共同通信の高間徹は、制御室で放射線モニターを見ていた。警報のブザーが鳴り、45度くらいの角度で上がっていく。</p>
<p><em>　</em>『大丈夫ですか？』『この警報は当たり前。1メートル向こうは原子炉なんですから』</p>
<p><em>　</em>その夜、高間は帰港後の連載のために、甲板で技術部長を取材した。線量計を持った部下の動きがあわただしい。</p>
<p><em>　</em>『何か起きたんですか？』『いや別に、放射線量を測っているだけです』</p>
<p><em>　</em>その部長が翌朝、緊張した表情で3人を集めた。『実は、放射線が漏れました』</p>
<p><em>　</em>吉田の記憶によれば、『何か漏れたみたいだ』と最初に気づいたのは、東奥日報の和島善男だった。</p>
<p><em>　</em>和島は乗船時から記者をいやがるような『隠蔽体質』を感じた。『何かあったら隠さないように。隠すと後でかえって大変なことになる』。3人でそう申し入れた。</p>
<p><em>　</em>和島は言う。『もし私たちが乗っていなかったら、あの事故は隠蔽され、何年か後に分かることになったかもしれません』。</p>
<p><em>　</em>吉田は、原因究明にきた調査団からこんな言葉を聞いた。『怖いのは、放射線漏れより情報漏れ』。そのとき『記者が乗船していて良かった』と痛感したという」。</p>
<p><em>　</em>ですね！ ですね！ ですね！</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>やっちまったなあ！</strong></p>
<p><em>　</em>「高間は」と名前が出てくる共同通信の高間徹記者も、『科学行政週報』1983年9月6日号でほぼ同じことを書いていた。</p>
<p><em>　</em>その話に続けて、高間記者が愚痴る。</p>
<p><em>　</em>「私も船上から『むつが放射線漏れ事故起こす』という原稿を送ったのだが、いくつかの新聞社が見出しで『むつ放射能漏れ事故』とやってしまった。“線”が“能”に変わって新聞社のデスクがこの違いを知らなかったのか。この教授［「某東大教授」だとさ。だーれだ？］はここぞとばかり、私を攻撃してきた。講演や雑誌に『むつに乗っている記者は原子力を全く知らない“無能記者”だ』と決めつけ、マスコミはこうした間違った報道をして原子力を危険なものにしている、と宣伝した」。</p>
<p><em>　</em>43年後の2017年11月27日付電気新聞に、原子力デコミッショニング研究会の石川迪夫会長が、いまだに間違いを書きつらねている。「むつは日本初の原子力船だ。試運転での不具合は当然ある。遮蔽欠陥から漏れ出た『放射線』を、『放射能』と特派員が間違えて報じたから大変だ。原子炉から放射性物質が漏れ出たと受け止めた地元はパニックに陥った。試運転での不具合は一転して事故となり、帰港を拒否されたむつは50日間の洋上漂流を強いられた」。</p>
<p><em>　</em>見出しに「放射能漏れ」と報じた新聞を確と見てみよう。他ならぬ電気新聞と読売新聞、それに日本経済新聞だ。面白いでしょ。この事実、消しゴムマジックじゃ消せないぜ。</p>
<p><em>　</em>いずれも本文では高間記者の原稿通りに「放射線漏れ」と書いている。「失敗知識データベース‐失敗百選」（https://www.shippai.org/fkd/lis/hyaku_lis.html）に入っている「原子力船むつの放射能漏れ」で東京大学大学院工学系研究科総合研究機構の中尾政之教授は「マスコミが『放射能漏れ』と報道したため『むつ』が『放射能を撒き散らす船』のような印象を与え、その後の開発プロジェクトの進捗に大きく影響を与えた」ともっともらしく述べているが、不見識も甚だしい。「失敗知識」とは、よくぞ言った。そんなものが、あたかも学問的成果のごとくに引用されたりしているんだから呆れ蛙の頬かむりだぜ。世も末ですな。</p>
<p><em>　</em>間違いも放射線安全フォーラムの加藤和明理事長に至っては、ホームページの「理事長コラム」で2011年6月13日、「『むつ』の“放射線漏れ事故”など、最初の1ヵ月、日本を代表する新聞でさえ『放射能漏れ事故』と言い続けていた」なんて、そんなことあるはずがないってわからないのかしら。不束者めが。</p>
<p><em>　</em>もちろん「原子炉から放射性物質が漏れ出たと受け止めた地元はパニックに陥った」りもしていない。洋上漂流を招いたのは、事故前の推進者たちの言動である。</p>
<p><em>　</em>日本原子力船開発事業団の西堀栄三郎理事は、1967年9月28日づけの東奥日報夕刊で「原子力の平和利用を恐ろしいものだ、危険なものだと思っている人は、文明から置きざりにされた原子アレルギー患者」「“原子”の字のついたものは何でも恐ろしいものだと宣伝しているのは火を恐れる野獣の類」と決めつけた。森山欣司科学技術庁長官も74年6月5日のむつ現地視察で「反対は科学に対する挑戦。原子力を恐れるのは火におびえる獣だ」となぞってみせていた。</p>
<p><em>　</em>青森県の竹内俊吉知事や、むつ市の菊池渙治市長が出港延期や中止を要請したのを振り切り、強行出航したとたんの事故だから、漁民をはじめとする青森県民の怒りが「むつ」の帰港を許さず洋上漂流させたのを「パニック」と呼ぶなんて、げろげろのげーだ。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>誇り高き男たち</strong></p>
<p><em>　</em>1974年10月14日、大湊入港後6ヵ月以内に新母港を決定し、2年半以内に撤去を完了することを目途として11月1日から大湊母港の撤去作業を開始するとの条件を政府が受け入れたことで国・県・市・県漁連の四者協定が締結される。翌15日に「むつ」は、ようやく45日間の“洋上漂流”を終えた。</p>
<p><em>　</em>「むつ」の荒稲蔵船長は、「国の強い指示とはいえ、強行出航せざるをえなかった。漁民にとってショックだったと思う」などと政府の姿勢に抗議の色をにじませつつ、辞意を表明した。強行出航の時は「同じ海の男として漁船を蹴散らして出るわけにいかない」と、そうしなくてよい時機を待っていたという。刺さるよね。</p>
<p><em>　</em>日本原子力船開発事業団の中で一人だけ強行出航に反対していた吉本利典むつ事業所海務部長も9月28日、「政府は現地の事態を無視してすべてを頭越しに決定、ゴリ押しする」と理事長に辞表を提出していた。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>ほんのちょこっとなんだけど</strong></p>
<p><em>　</em>原子力船「むつ」というが、正式に原子力船とされたのは進水式から22年が経った1991年2月14日のことだ。原子力問題情報センター発行の『原子力ニュース』108号（1990年4月）で、中島篤之助中央大学教授が「『むつ』は実は船ではない」という話を書いていた。</p>
<p><em>　</em>「当時の安全審査会の会長は、現在の原子力安全委員会の委員長である内田秀雄氏であったが、氏は、『原子炉の安全審査は基本設計についてのみ行なうものであって、原子力発電所などの場合には詳細設計に関する部分は通産省の発電技術顧問会で行なう。この場合安全審査会のメンバーと顧問会のメンバーが重複しているので、一貫した審査が行なえる体制になっているのだが、原子力船の場合にはそうなっていなかったのが放射線漏れの原因だ』と述べ、安全審査は正しかったのだと主張して責任をいわば運輸省に押しつけたのであった。この発言にかんかんに怒ったのが運輸省であって、そういうことを言うなら『むつ』は試運転に失敗したのだから、従って『むつ』には船舶証明を与えないということになって、『むつ』は船ではなくなってしまったのである」。</p>
<p><em>　</em>内田の言う「一貫した審査」のお手盛り賛美にもびっくりぽんや。でも、それは別の話。ともあれ1991年2月14日、科学技術庁から原子炉の使用前検査合格証、運輸省から船舶検査証書が交付される。20日に竣工式。25日から3月11日までの第1次実験航海以後、同年12月11日まで4次の実験航海を行ない、92年2月14日で実験終了が宣言された。</p>
<p><em>　</em>1993年5月から7月にかけて使用済み燃料を取り出し、95年6月22日には原子炉室が撤去されて、陸上の保管施設へと移される。翌23日付のデーリー東北は、「進水以来困難続きの26年間」の軌道を追い、「原子力実験船として歴史に幕を閉じた」と報じた。</p>
<p><em>　</em>進水からの航海日数は、1ヵ月半の“漂流”やら修理のための回航やらを含めて、わずか240日。うち原子力による航海は150日足らず、100％出力換算で95日にもならない。そんな実験航海がともかくも終わった91年12月11日、日本原子力研究所の下邨昭三理事長は「これで『むつ』の性能は見事に実証された。得られたデータは将来に大きく貢献するものと確信している」と述べ、聴く者をして大いにしらけさせた。</p>
<p><em>　</em>そうした「しらけた」コメントで責任を回避しようとすることこそが国家プロジェクトに共通した弊害で、計画を途中で変更も中止もできなかった――と、95年6月23日づけの東奥日報の社説は指摘している。</p>
<p><em>　</em>『原子力白書』を見ても、1994年版からは、もはや原子力船についての記述は消えている。さもありなん。総費用1200億円を150日で割り算して1日8億円也のコストをかけて得られたデータが貢献すべき先は、見当たらないのが実情だ。「原子力船時代」は、片鱗すら見せることはなかった。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>あとは野となれ、ごみ山となれ</strong></p>
<p><em>　</em>無用の長物どころではない。前掲の1995年6月23日付デーリー東北に「『核のゴミ』地元に置き去り」の記事がある。原子炉室の陸上保管施設は、96年7月20日、むつ科学技術館としてオープンした。原子炉を鉛ガラス越しに見学させている。「展示館は原子炉冷却のための一時保管施設、というわけだ。しかし、肝心のどこで解体し最終処分するのかは、まだ決まっていない」。</p>
<p><em>　</em>原子炉の運転に伴って発生した各種の放射性廃棄物は、科学技術館に隣接した施設で保管されている。最終処分の行方は何ら決まっていない。原子炉から取り出された使用済み燃料は、科学技術館から道路を隔てた建物に保管されていたが、2001年6月から11月にかけて茨城県東海村の日本原子力研究所ホット試験施設に運ばれた。核燃料サイクル開発機構の再処理施設で再処理するため、同施設の受け入れ条件に適合するよう解体・再組立てが行なわれたが、同施設は2017年に廃止が決まり、海外委託の可能性を探るという。日本原子力船開発事業団が紆余曲折の末に吸収された日本原子力研究開発機構の原子力科学研究所燃料試験施設にずっと保管されたままである。</p>
<p><em>　</em>原子炉室が撤去された「むつ」の船体のほうは、所有者を海洋科学技術センターに移して、関根浜港を母港とする海洋観測研究船「みらい」に改造された。1997年に前青森県副知事の山内善郎が佐藤秀樹の聞き手構成で出版した『回想　県政50年』（北の街社）は言う。「『むつ』に協力した青森県への見返りが『みらい』だった。正確には、国策に振り回された青森県側が土壇場でようやく国から勝ち取った“代償”だ」。</p>
<p><em>　</em>1985年4月に六ヶ所核燃料サイクル施設の受け入れを決めた当時の北村正哉青森県知事は、95年6月23日付のデーリー東北で「『むつ』によって下北半島が原子力開発のメッカとして狙われた感じがあるな」と無責任に述懐しているけど、残されたものは余りに大きい。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>ドグマチックが止まらない</strong></p>
<p><em>　</em>「むつ」の開発当事者らは、「むつ」は失敗でないと言い続けた。しかし世間では、だれもが「失敗」と見ている。何か失敗事例があるたびに「『むつ』の二の舞い」という言葉が用いられた。最も多い用例は、高速増殖原型炉「もんじゅ」に関してのものだ。そこで、「むつ」と「もんじゅ」をめぐっては、めっちゃ笑かす「論争」もあった。『原子村』という茨城県東海村の原子力関係者の同人誌の1996年春季号でのことだ。</p>
<p><em>　</em>日本原子力研究所（原研）から動力炉・核燃料開発事業団（動燃）に移り、高速増殖炉開発本部主任研究員、理事を経て退任した望月恵一が「正月、多くの方々から頂いた年賀状で、『もんじゅ』は『むつ』の『二の舞』の如きだと指摘された意見が有りました。確かに、ここまでの所はその様に思われても仕方ありません。しかし私の考えでは、『もんじゅ』は『むつ』と違って、わが国原子力開発の“根幹”に触れる問題と考えます」と書いたのに対して、掲載前の原稿を読んだ元原研理事の吉田節生が同じ号で噛み付く。</p>
<p><em>　</em>「大兄は、もしかしたら一部マスコミが未だに口にするように『むつ』は廃船になったと認識しておられるのではないでしょうか。だから『もんじゅの問題は、むつと違って……』と強調し、『もんじゅ』を廃炉にしてはならないとの考えに基づいて述べているようにもとれます。</p>
<p><em>　</em>若しそうなら、これは大変な誤解です。私は計らずも当時原研にいて修理を終えた『むつ』を組織ぐるみ引取る任務に携わっていました。</p>
<p><em>　</em>『むつ』は、自民党一党支配の時代に、党内の有力な廃船論に対し、原子力委員会始め関係者は辞表を懐に存続論を展開し、存続決定後は修理をし、8次にわたる［？］厳しい実験航海を終え、自主技術のみで所期の成果を挙げたのでした。その成果は、よりコンパクトで効率的な舶用炉の研究開発へと引き継がれ、解役（廃船ではなく）後の船体は今後海洋観測船としての活躍が期待されています。</p>
<p><em>　</em>だから『もんじゅ』の存続を願い、高速増殖炉の研究開発を継続すべきという立場をとるとしたら『むつと違って』などというべきではなく、『むつ同様に』とか、あるいは『それ以上に』というべきです。高速増殖炉といえば他の研究開発と異なって最優先、肩で風を切れるとの思い込みは、これも動燃の体質の中の積弊の一つです」。</p>
<p><em>　</em>その後の原子力船開発の末路を考えるなら、やはり「むつと違って」に分があると言えそうだ。しかし「もんじゅ」は、「むつ同様に」形ばかり動かし、「所期の成果を挙げた」と強弁して幕を閉じるという「二の舞い」すら舞えなかった。より惨めに「むつと違って」しまった。</p>
<p><em>　</em>残念！ でした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>長すぎる</strong></p>
<p><em>　</em>ルナールの「蛇」じゃないけれど、「むつ」についてだけ他とバランスの悪い記述になってしまった。それでも、まだまだ残しておきたいエピソードが山ほどある。拙著『原発事故！』（七つ森書館）で、もう少し長く書いている。興味のある方はどうぞ。</p>
<p>&nbsp;</p>
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<p>［© Baku Nishio］</p>
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