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脱暴力の思想

殺される《叫び》のために

中村 寛

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第2回 暴力概念の範疇(1)

    Ⅱ 暴力概念の範疇

     

     脱暴力の思想を語るにあたって、(2023年2月の東京から見た)暴力概念のスケッチをしておきたい。それが役立つのかどうか、もはや確信はないけれど、糸口くらいにはなるかもしれない。

     概念conceptの語源は、よく知られているように、ラテン語concipereにあり、これはconceive(考えつく、孕む)から来ているようである。他方で、ドイツ語で概念を意味するBegriffは、「捉える/把握する」の意味をもつ。

     私たちは日頃から、概念をつうじて、あるいは概念のなかで、ものごとを考え、想像する。逆にいうと、特定の概念を通じないと、あるいは特定の概念のなかでしか、よくとらえたり、想像したり、見たりできないことがらがある。さらにいえば、特定の概念が学習されると、それを通じて、あるいはそれのなかでしかものを見なくなる、ということもおきる。「社会」や「宗教」という概念がそうだろうし、「海」と「青」、「リンゴ」と「赤」という組み合わせの概念もそうだろう。

     だが、アーティストやデザイナーなら誰でも知っているように、「海」は「青」くないし、「リンゴ」は「赤」くない。じっさいには、いくつもの色が折り重なっており、解像度をあげれば、そこには「青」「赤」以外の色がまじっている。もしかすると、私たちが「社会」や「宗教」と呼んでいるものも、おなじように、「『社会』ではないもの」「『宗教』ではないもの」をふくんでいるかもしれない。

     現在、私たちが手にしている暴力概念で、なにが、どれくらい、見える(考えられる)のか。以下に、書き出してみたい。

     

    物理的暴力/非物理的暴力

     暴力を捉えるにあたって、最初にでてくる問題は、先に少し述べたように、すでに暴力という言葉が存在していて、それがある現象に焦点をあて、ある現象を覆い隠してしまっているという点である。

     日本語での「暴力」という言葉には、一定のイメージがある。ほとんどの場合それは、物理的暴力・身体的暴力を想起させる。

     殴る、蹴る、突く、(手や棍棒で)叩く、(銃やミサイルで)撃つ、(ナイフや包丁で)刺す、などがそれである。いずれも、物理的な力をともなう営みであり、対象となる身体に損傷や苦痛をあたえる。しかし、これを「暴力」と定義した場合、主にふたつの問題があらわれる。

     第一に、これらのあきらかに物理的な力がなくても、じゅうぶんに暴力を実行することが可能だという点。人が直接手をくださずに暴力をふるうことは、頻繁にある。

     物理的暴力を背景として、相手に指示をだす場合(教唆)や、相手の意図に反する行動をとらせる場合(脅迫・恐喝)が、そうだ。最高司令官から発せられる軍事命令などは、司令官自身は指一本うごかすことなく、大量殺戮を実行にうつすことができる。背けば殺されるかもしれないという状況下で、金や財産を譲らざるをえなかったり、不本意な要求に応じざるをえなかったりする場合もある。

     言葉そのものを暴力とする場合、たとえばある種の虐待やいじめ、嫌がらせ(ハラスメント)なども、非物理的暴力であることがある。クリフォード・ギアツがかつて、マックス・ウェーバーをひきながら述べたように、私たちが「意味の網の目の中にかかっている動物である」(注1)。だからこそ、私たちは自分たちの話す言葉によって、傷ついたり、泣いたり、怒ったり、励まされたり、癒やされたりするのかが説明できる。

     この場合、暴力の実行者は、言葉を道具として駆使し、相手のうちにある言葉をかき乱し、蹂躙する。人は、一番身近な言葉を通じて、人を死に至らしめることができる。そして、それが最も効果をあげるのは、どうやら権力の不均衡をともなった親密圏においてだということも、留意しておきたい。

     また、ネグレクトのように、すべきことがあるのに、それを積極的にしないことによって成立する暴力もあるだろう。自分だけでは生存できない子どもに、食事をあたえない、風呂にいれない、病気や怪我がわかっても病院に連れていかない、などがこれにあたる。保護や庇護の責任や義務があるのにもかかわらず、それを提供しない場合、それは暴力といえる。とはいえ、眼の前に助けを求める人がいて、しかもあなたにその人を助ける能力があるときに、なにもしなかったとしたら、それが暴力になるかどうか、暴力と認定すべきどうか、議論がわかれるところだろう。

     上記のいずれもポイントは、一見してすぐに暴力とわかる派手な行為でなくても、結果的に人に身体的・精神的苦痛を残すことが可能だという点にある。逆らえば殺されるか痛めつけられる、といった状況を背景に、上官から命令をうけ、兵士が虐待や虐殺に関与する場合、殺傷や痛苦を引き起こす道具(手足やナイフ、銃、刀など)の近くにいてそれを使った人間だけでなく、遠くにいた人にも責任があることを、20世紀の暴力を目撃した私たちは知っている。そればかりかその場合、通常の刑事裁判とは違い、殺戮の道具から離れれば離れるほど、その責任は大きくなるというのが、ナチス政権下で移送の専門家(スペシャリスト)と呼ばれた官僚アドルフ・アイヒマンの裁判で認められた点だった(注2)。

     同様に、現在の役職をうしない露頭にまようか、家族を露頭にまよわせるかといった状況で、理不尽な指示にしたがい、文書を改ざんしたり、汚染物質をしりながら放流したりし、その結果、誰かが社会的痛苦を経験するかもしれないし、手を汚した者自身が自殺するかもしれない。

     暴力を物理的なものに限定した際におこる第二の問題は、あきらかに身体に加えられる物理的な危害も、つねに「暴力」と認定されるわけではないという点である。殴りかかってくる相手を突く、銃を乱射してくる相手を撃つ、などの場合、法的にも倫理的にも、正当防衛の考え方が適用されることを、私たちは知っている。

     だが同時に、この「正当防衛」の考えが、時として容易に拡張され、利用されることも、私たちは知っている。自分の家族や共同体を「守ろう」として、私たち人間は、容易に「攻撃」に転ずる。自警団が組織され、警察や軍隊が出動し、「脅威」から身を守るため、相手を殺す。また、じっさいに危害を加えた人間や社会集団にたいしておこなわれる「報復」「応報」「懲罰」は、つうじょう暴力とはみなされない。

     自分たちの「安全」や「安心」を脅かす要因、将来の「発展」を妨げうる要因、自分たちに「危害」を加えうる要因を、取り除こうとして、私たちは気づかないまま、良心から、暴力をふるう。目的に照らして、手段としての暴力を議論することのむなしさは、このあたりに起因する。

     けれども、ここでのポイントは、人が暴力をふるうさいに、自分自身の暴力に気づかない、もしくはその残虐性を正当化できるのは、暴力をふるう相手を選んでいるから、という点にある。言い換えると、私たちは暴力をふるってもよい相手を、つねにおなじ人間のカテゴリーのうちに設定している、という点にある。

     ヨーロッパ人による非ヨーロッパ世界の征服・支配の文脈では、「野蛮人」や「インディオ」というカテゴリーが、暴力をふるってもよいカテゴリーだった。なかば、完全な人間ではないという意味で、「半人間」のようなカテゴリーである。アメリカ大陸の政治・経済的発展の文脈では、「黒人」だった。ナチスドイツの帝国主義と彼らの「問題解決」の文脈では「ユダヤ人」や「共産主義者」がそれに該当した。現在のユダヤ=キリスト教文化圏においては、「テロリスト」「アラブ人」「ムスリム」などがそれに当たるかもしれない。

     20世紀あるいは21世紀にいたるまで、全世界的にみて、「女性」がそのようなカテゴリーだったことは、法律や社会制度、社会慣習をみてもわかる。戦時下において、男性兵士による女性への強姦がつきものであることは有名で、少数民族や先住民、奴隷、難民など、「社会的弱者」の女性がターゲットになりやすいこともよく知られている。

     平時の現代日本でも、2017年になって強姦罪が強制性交等罪に変更されるまで長いこと、女性に対する強姦への対応は、その主たる目的が女性の保護ではなかった。また変更前は、親告罪のうえ、かなりの困難があるなか、仮に有罪が確定しても懲役2年以下で、傷害罪にすらおよばなかった。

     そのほか、2023年2月の時点での日本では、「犯罪者」「障がい者」「老人」が、社会構成員の一定数にとって、「殺してもいい存在」となっていることが、ソーシャル・メディアを含む各種メディアとりあげられる語りや、日常生活のなかで対面で遭遇する声から、わかる。

     現時点では、日本で唯一合法的な殺人である死刑が適用されるのは、「犯罪者」のカテゴリーに属する一部の人たちだけである。

     だが、これまでの歴史上、このカテゴリーが法制度上でも、日常生活の文化内でも、かんたんに横滑りすることを、私たちは知っている。ナチス政権が、ユダヤ人や共産主義者などの彼らが「敵」とみなした者たちだけでなく、優生学的な思想のもと、約20万人におよぶ身体・精神障がい者たちを殺害したことは有名である(注3)。それは、「安楽死政策」として知られている。

     日本では、ハンセン病患者への法的・制度的隔離と差別がつづき、強制的な断種・中絶もおこなわれた。1907年の「癩予防ニ関スル件」以降、1931年の強制隔離政策、1948年の優生保護法でのハンセン病の明記、1953年の「らい予防法」とつづき、戦後になって治療可能な病気になってからも、1996年にいたるまで隔離政策がおこなわれつづけた(注4)。おなじく優生学的な観点から、精神障がい者たちも「私宅監置」というかたちで、隔離されてきた(注5)。

     未曾有の負債を増やしつづけたまま、明確なヴィジョンや政策をうちだせず、少子高齢化と労働人口の激減を経験していくなかで、漠然たる不安が社会に蔓延しているとしよう。そのなかで、社会をひとつの大きな企業のようにみたて、ひとりひとりの市民を「資産asset」や「資源resourse」としてとらえ、それぞれが社会に提供しうるものと、社会がそれぞれにかけなければいけないカネや資源を冷静に計算している人がいてもおかしくはない。

     問題はそのあとの経営判断である。単線的なロジックで考えがちな企業経営者は、収支があわなくなったとき、構成員を解雇するかもしれない。それでも彼あるいは彼女は、企業の外には社会が、一応セーフティネットをもっていることを知っている。解雇された側は、解雇を不当として、訴訟に持ち込むこともできる。失業手当を受け取ることもできる。生活保護もある。うまく活用できるかどうかは別問題だとしても。

     しかし、一企業とちがって、社会が数式や単純なロジックのみで、「社会適応不可能」と判断した「犯罪者」、「有害」と判断した「障がい者」や「病者」、「無用のお荷物」と判断した「老人」を「解雇」するとき、それはなにを意味するだろうか。「解雇」された者は、生きていくことができるのだろうか。「監禁」や「安楽死」以外のなにが残されているのだろうか。

     物理的暴力と非物理的暴力の関係について、まとめてみよう。上述の第一の点は、非物理的・非身体的な力が、じっさいには身体的暴力のように機能するという現象だった。ある場合には、致死的であり、それも「大量の死を生産」(cf.ハンナ・アレント)することさえある。

     第二の点は、物理的暴力が加えられ、身体的痛苦が生じているのに、それが暴力として認定されにくいという現象である。もちろんこの場合、振るわれている側には「暴力」としてうつる場合がほとんどだと考えられるが、重要なのは、ふるう側だけでなく、傍観者たち、つまり社会集団を構成している「良識ある第三者たち」が、暴力に気づきにくいという点である。

     物理的効果をもつ非物理的暴力が一方にあり、物理的であるにもかかわらず気づかれにくい暴力が他方にある。前者は、物理的でないがゆえに「見えにくい暴力」であり、後者は、法や制度、慣習、価値意識のなかに「自然化された暴力」だといえる。

     この種の「見えにくい暴力」「自然化された暴力」を、よりよくとらえるための概念として「象徴暴力」というものがある。

     

    【注】

    1) クリフォード・ギアーツ(吉田禎吾・柳川啓一・中牧弘允・板橋作美訳)『文化の解釈学 1・2』岩波書店、1987=1973.

    2) ハンナ・アレントは、まさにこの点を強調している。ハンナ・アレント(大久保和郎訳)『イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』みすず書房、1963=1994.

    3)  https://encyclopedia.ushmm.org/content/ja/article/the-murder-of-people-with-disabilities

    4)  https://www.nhdm.jp/about/issue/

    5) https://www.jspn.or.jp/modules/forpublic/index.php?content_id=12

    https://www.mhlw.go.jp/kokoro/nation/law.html

     

     

    [© Yutaka Nakamura]

     

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    連載記事

    第1回 暴力の縮減可能性――まえがきに代えて

    第3回 暴力概念の範疇(2)

    第4回 暴力概念の範疇(3)

    第5回 暴力概念の範疇(4)

    第6回 暴力へのまなざし(1)

    第7回 暴力へのまなざし(2)

    第8回 2023年9月上旬公開予定