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脱暴力の思想

殺される《叫び》のために

中村 寛

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第6回 暴力へのまなざし(1)

    Ⅲ 暴力へのまなざし

     

     前項まで、いくつかの暴力概念を紹介しつつ、暴力の多面性を記述してきた。暴力そのもののいくつかの特性(物理的/非物理的)、象徴作用という人間の特性によってもたらされる暴力(象徴暴力)、暴力のもつふたつのベクトル(暴力/権力)、そして社会構造そのもののうちに、あるいはそれとともに発現する暴力(構造的暴力)である。

     これらの概念に共通する点は、いずれも暴力現象の見えにくくも破壊的で致死的な側面を捉えようとしたことである。暴力は、見えやすい現象だけで成立しているわけではない。明示的な側面だけに眼を奪われると、わかりやすい部分への対症療法的なアプローチに終始し、根本的課題を見逃してしまう。

     もう少しこの課題をていねいに言いなおしてみたい。というのも、繰り返しになるが、私たちのこの論考でのゴールは、暴力を精緻に分析したり、うまく解説したりすることではなく、暴力を縮減することにあるのだから。

     暴力そのもののトータルな姿を、私たちは見ることができない。むき出しの暴力を直接的に目撃することはあるかもしれない。虐待や暴行などのかたちで被暴力を直接的に経験することもあるかもしれない。もしそれだけが対処すべき暴力のすべてだったとしたら、問題はもう少しシンプルだったかもしれない。しかし、それらの目撃や経験は、暴力のある側面を捉えてはいるだろうけれど、すべてではない。

     私たちは、多面的である暴力の、ある側面をとりあげて「暴力的」と判断する傾向が強い。

     そうだとすると、暴力にむける私たちのまなざしを、もう少し検討してみる必要がある。

     繰り返すが、私たちは暴力そのものをトータルに捉えることはできない。私たち自身がサヴァイヴァーでないかぎり、あるいは居合わせた目撃者でないかぎり、私たちが眼にするのは、暴力そのものではなく、暴力の痕跡であるか、暴力の表象(表現されたもの)であることが多い。

     暴力の痕跡は、苦しみや痛み、というかたちをとることがある。傷跡や瓦礫の場合もある。血痕や死体などの、なんらかの「残徴」であることも。

     

    ありふれた暴力(routine violence)

     歴史家のギャネンドラ・パンデイが「ありふれた暴力routine violence」という概念で論じた問題は、暴力に向けられる私たちのまなざしの「偏り」を批判的に検討するうえで、おおいに役立つ(注1)。彼は、特殊で非日常的な出来事ではなく、日常化され、自然化された現象としての暴力を問題視する。

     パンデイが提供するチェックリストが興味深い。いくつか抜粋してみよう。

     

     a1) パレスチナやイラクにおける自爆攻撃

     b1) イスラエル軍やアメリカ軍の戦車や空からのミサイルによる民家や村の破壊

     

     a2) アフガニスタンにおける軍事的指導者のあり方

     b2) グアンタナモにおけるアメリカ軍による尋問

     

     a3) インナーシティにおける犯罪

     b3) 警察の暴力

     

     a4) 公開での斬首刑

     b4) 電気椅子

     

     前者(a群)は政治的マイノリティや少数派による暴力であり、暴力の認定を受けやすいのに対し、後者(b群)は当局や国家機関による暴力であり、暴力認定を受けにくい、とパンデイは指摘する(注2)。

     もっとも、北アメリカや西ヨーロッパのようなリベラル民主主義を標榜する社会からの認識と、日本語圏から見る認識とでは、若干のズレがあるかもしれない。たとえば、a1とb1の比較などは。

     しかし、もう少しパンデイの議論を追いかけてみよう。パンデイはさらに、暴力を用いる場合に、「残虐」あるいは「過剰なもの」として認識されやすい場合とそうでない場合があると延べ、次のようなリストを追加する。

     

     a5) 自爆攻撃

     b5) 的を絞った爆破やデイジーカッター(強力な爆弾)

     

     a6) 第二次大戦中の特攻隊

     b6) 東京の51%を破壊し、一夜にして10万人の民間人を殺害する量の爆弾投下

     

     a7) ムスリムの狂信性

     b7) キリスト教徒の戦い(中世も近代も)

     

     そして、これらのリストを比べると、すぐに以下の3つの指標が、私たちの暴力や残虐性の認定につきまとっていることを指摘できるという。

     第一に、組織化の度合いと規模。組織化されていて規模が大きなものになればなるほど、残虐なものとはみなされにくい。

     第二に、テクノロジー。洗練されていればいるほど、残虐なものとはみなされにくい。

     第三に、人種(および階級、ジェンダー、文化)の偏り(注3)。

     挙げられている比較のリストについて、日本語圏から見た場合、すべてに納得できるかどうかは疑わしい。暴力や残虐性の認定において想像される具体的なケースは、普遍的ではなく、暴力をまなざす身体とその位置によって、変化するからである。

     たとえば、a5とb5の比較をみて賛成できるかどうかは、私やあなたが在日朝鮮人なのか、中国で教育を受けた日本国籍保有者なのか、1930年代生まれなのか、1990年代生まれなのか、男性なのか女性なのか、アメリカなどの英語圏の大学・大学院で批判理論の教育を受けたことがあるのかどうか、などによる。

     どのような身体が、どこから、どのような距離感で見ているのか、それによってリストの構成要素は変化するのだ。もっとも、パンデイも気がついているように、彼の提供するリストは、これ自体に目的があるわけではない。むしろ、この暫定的なリストに否応なくあらわれている先の3つの指標に、重要性がある。

     指標を踏まえたうえで、自分たちで自前のチェックリストを、実験的につくっていくことができるのも、こうしたリストの価値である。それは、自分たちの暴力をみる際の偏りに気がつくチェックリスト、ということになろう。

     現在の日本語圏においては、次のようなリストを仮に提案してみたい。

     

     a8) チンピラ風の男が路上で喧嘩し、相手に傷害を加える

     b8) スーツに身を包んだ男性たちが、環境アセスメントをハックし、山を崩し、地中に穴をあけて、リニアモーターカーや発電所などインフラストラクチャーを開発し、利益を得る

     

     a9) 「テロリズム」というラベルを貼られた一連の暴力行使

     b9) 「対テロ戦争」と自称した一連の暴力行使

     

     a10) ストリートにおけるデモやプロテストでの叫び声やシュプレヒコール

     b10) 外交官や首脳らによる密室での交渉と、その後の政策決定

     

     a11) 宗教組織による教義の流布や儀礼実践

     b11) 学校教育や企業内における身体の規律=訓練(体育祭の練習や部活動、企業研修を含む)

     

     a12) 闘犬

     b12) 格闘技

     

     a13) ヒップホップのライムや身体表現

     b13) ギリシア神話やオペラ

     

     a14) クジラやイルカ、犬を殺して食すこと

     b14) 牛、豚、鶏を大量生産-消費-廃棄すること

     

     いかがだろうか。a群のほうが「暴力」や「残虐性」と結びつけて語られる傾向が強いのではないだろうか。あるいは、「不自然な」「病的な」「不適切な」行為としてまなざされることが多いのではないだろうか。

     それに対してb群は、規模やインパクトにおいて、a群以上の大きさをもっているにもかかわらず、「自然な」「適切な」行為としてまなざされる。そして、それがゆえに、問題視されにくい。場合によっては、そのことが致死的な結果を招くかもしれない。

     パンデイは、これらのリストの分析の次に、暴力が「異常なextraordinary」出来事として表現される傾向が強いことも指摘する。コロニアリズム、人種差別、階級差別、性差別など、日常のなかにコード化された暴力のかたちを論じてきた理論家たちですら、暴力を「過剰」「異常」「特異な現象」として扱ってきた、と。

     たしかに、そのとおりかもしれない。近年の批判理論の発達と浸透や、構造的暴力への注目などによって、ある程度状況はマシになったのかもしれないが、今でも私たちは「暴力」を、非日常的で、特殊な、異常事態として見ることに慣れてしまっている。とりわけ、コロニアルな状況、人種的差別、階級差別を明快に経験することのなかった者にとっては、とくに。

     複雑なのは、ある種の暴力の経験は、否定しようもなくある種の「過剰」、「異常事態」として経験されるということである。日常を壊され、「特殊な」経験を強いられるからこそ、これまでの日常を支えてきた言葉を壊され、文化的参照軸をうしなう。虐待や拷問などによってトラウマを受けた者たちが、語れなくなるのはそのためだと考えられる。この点は、のちに戻ってくることにしよう。

     その一方で、暴力を日常から切り離し、「異常」と捉えることの弊害は、実際には私たちの日常的な制度や慣習が、のちに「異常な事態」として経験されるかもしれない暴力を生みだしていることに、気がつかないことである。また、それゆえに、私たちが特定の暴力のかたちに慣れてしまい、それが「暴力である」と認識しにくくなることである。

     こうした点を浮き彫りにする点で、パンデイの「ありふれた暴力」の概念は、きわめて重要である。彼の概念も、ガルトゥングの「構造的暴力」と同様、暴力の所在を、特定の個人や集団に定めず、より気づかれにくく、したがって問題化しにくい、制度や慣習行動、語彙や文法、法律や政策などにおく方向性を示していると言える。

     

    【注】

    1) Pandey, Gyanendra. Routine Violence: Nations, Fragments, Histories. Stanford University Press, 2006.

    2) Pandey, Gyanendra. Routine Violence: Nations, Fragments, Histories. Stanford University Press, 2006, p.3.

    3) Pandey. Ibid. pp.4-5.

     

     

    [© Yutaka Nakamura]

     

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    連載記事

    第1回 暴力の縮減可能性――まえがきに代えて

    第2回 暴力概念の範疇(1)

    第3回 暴力概念の範疇(2)

    第4回 暴力概念の範疇(3)

    第5回 暴力概念の範疇(4)

    第7回 暴力へのまなざし(2)

    第8回 2023年9月上旬公開予定