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脱暴力の思想

殺される《叫び》のために

中村 寛

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第5回 暴力概念の範疇(4)

    構造的暴力

     構造的暴力の概念は、ヨハン・ガルトゥングによるものが有名だが、彼の功績は第一に、ここまでに述べてきたような直接的に個人の身体への直接的影響が観察可能な、「私的暴力personal violence」とはべつに、個人の身体への直接的影響が観察しにくい、間接的な「構造的暴力structural violence」を区別したことにある(注1)。「構造的暴力」には、法制度上の差別や排除、人種、階級、ジェンダーなどの社会的範疇による不平等、年齢や宗教、性的嗜好などにまつわる慣習上の差別、などが含まれる。

     しかし、ガルトゥングの功績はこれだけにとどまらない。彼の第二の(おそらくはさらに大きな)功績は、その二種類に腑分けした暴力の種類を、二種類の平和概念と結びつけ、解決への糸口を示そうとした点にある。図1は、彼が論文中に示したものである。

     

    図1 暴力と平和の拡張概念 ガルトゥングの論文に掲載されていたものをそのまま訳出した。Galtung, Johan. “Violence, Peace, and Peace Research.” Journal of Peace Research, vol. 6, no. 3, Sept. 1969, p. 183より

     

     「私的暴力」の対極には、「消極的平和」があり、それは暴力を取り除いた状態をつくることを意味する。主に私的暴力は、物理的暴力(身体に加わる暴力)、あるいはそれを背景とした脅迫などが念頭にあるから、それを除去することが「平和」の主な目的となることはうなずけるだろう。

     他方で、「構造的暴力」の対極には、「積極的平和」がある。「構造的暴力」は、それが物理的というよりは間接的であるがゆえに、それに対峙する平和が目指すのは、暴力の除去ではなく、不平等や不正義の修正であり、社会正義の達成である。

     もちろんこの図式に整理することの、あまり健康的ではない副産物は、ガルトゥング自身が書いているように、1)私的暴力と構造的暴力とが相互排他的に見えてしまうこと、2)私的暴力を取り除くためには構造的暴力が必要であるように見えてしまうこと、3)構造的暴力を取り除くためには私的暴力が必要であるように見えてしまうこと、である。

     じっさいのところ、私的暴力と構造的暴力は、現象において相互排他的ではなく、両者が入り交じることがおおいにある。

     象徴暴力の項で見たとおり、性別に基づく差別は構造的暴力ではある。だが、それがゆえに32歳の既婚女性である柏木綾子さん(仮名)が、職場においても、私的領域とされる家庭においても、上司や同僚、あるいは夫からのハラスメントや言葉の暴力、本当は嫌な要求を、あたかも「自然なこと」として受けいれざるをえず、心身の健康が蝕まれていくのであれば、それは私的暴力でもある。

     高校に入ってから非行少年と呼ばれるようになり、頻繁に暴れて人を殴ったり刺したりしていた29歳の青年、山本敦さん(仮名)が、傷害罪で逮捕されたとしたら、それ自体は私的暴力と判定される。しかし、その彼が、父親が事業に失敗したあげく多額の借金を抱えて自殺し、貧困のなかで少中学時代を過ごし、衣服の古さや汚さ、家庭環境を理由に何人もの生徒から高校に入るまでの5年間、日常的にいじめや嫌がらせを受けていたとしたらどうだろうか。彼の父親に救済措置ないしはセーフティネットがなかったこと、さらに彼自身や彼の家庭への経済的・精神的ケアがなかったこと、「いじめ」というかたちでの社会的差別を止めるすべがなかったこと、これらはすべて構造的暴力ではないだろうか。

     死刑もまた、国家による殺人という意味では構造的暴力かもしれないが、実際には身体への直接的暴力がふるわれる。懲役刑も、究極的には、身体の自由を拘束するという意味では、直接的暴力と言えるだろう。冤罪の場合、またそのときの科学ではとらえきれなかった疾患や病状、鑑定結果などが理由で、死刑ないし懲役刑となった場合も、構造的暴力と私的暴力とが手と手を取り合う。戦争においても、人は、社会的アイデンティティを脱ぎ、髪の毛を剃ったり、軍服を着たりという「通過儀礼」を経て、別のアイデンティティを獲得し、「汝殺すなかれ」から「しかるべき対象を殺すべし」という道義を身につける。引き金をひけば、GOサインを出せば、「あちら側」の身体が傷つき、死を迎えるわけだが、この一連の行為を、私的暴力とみるか、構造的暴力とみるかを議論するのは、不毛だと言える。

     もちろん、だからといって、「私的暴力」と「構造的暴力」を区別して考えること自体が無効だというわけではない。そうではなく、ここでのポイントは、ガルトゥングも正しく述べているように、私的暴力と構造的暴力、あるいは物理的暴力と非物理的暴力、直接的暴力と間接的暴力、それらのどちらか一方だけを解決するべきものではなく、ましてや、どちらかを用いて他方を解決するものでもなく、両者に同時に働きかけるアプローチが必要になるという点にある。

     「私」と「構造」をつなぐもの。物理的暴力と非物理的暴力。直接的暴力と間接的暴力。象徴暴力の発現し観察される具体的な場と、象徴をつくりだし維持する制度や慣習。暴力それ自体と、それを取り締まる法の暴力。侵犯や違反する力と、それを管理する権力。前者と後者との両者にアプローチが必要だということになる。この点はのちに戻ってきて詳しく論じたい。

     

    【注】

    1) Galtung, Johan. “Violence, Peace, and Peace Research.” Journal of Peace Research, vol. 6, no. 3, Sept. 1969, pp. 167–91.

     

     

    [© Yutaka Nakamura]

     

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    連載記事

    第1回 暴力の縮減可能性――まえがきに代えて

    第2回 暴力概念の範疇(1)

    第3回 暴力概念の範疇(2)

    第4回 暴力概念の範疇(3)

    第6回 暴力へのまなざし(1)

    第7回 暴力へのまなざし(2)

    第8回 2023年9月上旬公開予定