緩慢な暴力
パンデイの指摘する「ありふれた暴力」の概念は、近年指摘される制度的暴力(institutional violence)や組織的暴力(systemic violence)の概念にもつながる。私やあなたにとって「ありふれたもの」、私たちの「あたりまえ」を構成するもの――たとえば、教科書や新聞、雑誌、テレビ番組だけでなく、広告、ドラマ、映画、日常会話、とりわけロールモデルとなる大人たちの言葉遣いや所作、政治家や有名人やインフルエンサーや学校教員の発言など――それらが暴力につながっていると彼はいう(注1)。
アメリカにおいては、黒人、ラティーノに対する警察官の殺害(ポリス・ブルタリティ)や、嫌がらせ、高い逮捕率や検挙率などにつながっている。日本においては、議会や企業経営層における女性率の絶望的なまでの低さ、高い死刑賛成率だけでなく、寝たきりの障がい者を次々に殺す事件、強制性交や性暴力に対する度重なる無罪判決や被害者女性への攻撃、高齢者を廃棄することへの賛同の声、などにつながっている。
パンデイにとって暴力は、マルセル・モースにとっての贈与と同じように、「社会的事実」として扱うべきことがらで、社会のあらゆる制度に関係している。それゆえに、社会制度や日常的慣習のなかに位置を占める暴力は、より大きな暴力への「耐性」ないし「許容」をつくるという。
近年ではしかし、人間による人間への暴力、人間がかかわる制度や慣習による人間への暴力に加え、人間による非人間への触れ方や、生命圏での非意識的な振る舞いから帰結する深刻かつ致死的なダメージを、暴力として概念化しようとする試みもでてきている(注2)。動物愛護の観点からの人間以外の生き物への権利付与、というだけにとどまらず、森林や生物多様性を含む環境の破壊がそれである。
背景にはもちろん、環境問題や温暖化/気候変動による危機意識の高まりがある。2000年に発表されたパウル・クルッツェンとユージン・ストーマーによるエッセイが、「人新世anthropocene」という単語で、これまでとは明らかにレベルの異なる人間の地球に対するインパクトを語った(注3)。産業革命以降、大気中の二酸化炭素レベルと気温の急激な上昇、人口の爆発的増加、それにともなう生産-流通-消費-廃棄活動の激化、生物の凄まじい勢いでの絶滅などを考えると、人間の活動が未曾有のインパクトをもっていることはあきらかで、もはや完新世(Holocene)と呼ぶのはふさわしくない地質学上の時代区分に入っているのではないのか、と。
様々なデータを重ね合わせるかぎり、人間の活動が地質学上の時代区分を変更するほどのインパクトをもつということが、すでに人新生という言葉に不穏さを漂わせている。どうやら、人間は他の生命を滅ぼしてまわり、生態系を破壊しまくっているらしい。そして、なによりもそのことによって、人間種自体が大行列をなし、滅びに向かってひた走っているらしい。
環境問題や温暖化/気候変動は、人間の活動、とりわけ非人間に対する振る舞い方が大きく関与しているが、それがやがては還流し、時間を超えて人間を痛めつける結果になっている。そういう意味では、私を含むあらゆる人間が、日常的に、無自覚に、あたかも自然にとる行動が、ゆっくりと、静寂のうちに、いつのまにか種としての人間を滅ぼす――そういう種類の暴力である。それを、ロブ・ニクソンは「緩慢な暴力slow violence」とよんだ。ゆるやかに進行し、長く影響を与えつづけ、眼につきにくく、注意を向け続けることをつい忘れてしまいやすい暴力である(注4)。ニクソンは書いている。
緩慢な暴力の作用が狡猾にもじわじわとひろがるのは、見世物を楽しむ時間と、そうではない時間とに与えられる注目度が不均衡だからである。すぐに楽しめる見世物を崇める時代にあって、緩慢な暴力には、映画館を満員にし、テレビの視聴率をつり上げるような、わかりやすい特殊効果が欠けている(注5)。
ここでもまた、私たちの日常的な“かまえ”が、将来にとって甚大なインパクトをもつという意味で、「構造的暴力」や「ありふれた暴力」の概念が有効なのかもしれない。しかし、ニクソンは、「構造的暴力」と「緩慢な暴力」との共通性に言及しながらも、それらの違いについても書く。構造的暴力が、その構造を静的で固定的なものとして捉えるのに対し、緩慢な暴力の概念は、時間に注目する、と。
構造的暴力がもつ静的な含みとは対照的に、私は緩慢な暴力という概念をとおして、時間、うごき、そしてどんなに緩やかなものであっても、変化という問題を前景化しようと努めてきた。緩慢な暴力について、時間的側面をあからさまに強調することで、私たちはそれを表象するという課題や想像するというディレンマを全面に押し出すことができるようになる。そうした課題やディレンマは、この種の暴力が知覚しにくいからだけでなく、時間のはたらきによって暴力が本来の原因から切り離され、変化を知覚できなくなることによってももたらされる。ガルトゥングが40年ほど前に構造的暴力論を提唱して以来、24時間365日、見世物に導かれるようにメディア生活をおくる私たちの時間の過ごし方は大きく変化した。緩慢な暴力について語ることは、現代のスピードの政治性に直接関与することを意味するのだ(注6)。
環境問題を配慮するニクソンの暴力概念が、制度や日常的慣習の空間的ひろがりだけでなく、時間的側面に注目していることは注目に値する。人間ほど記憶や歴史(意味)にとらわれている生き物はいないというが、この場合、人間を中心に語ったり語られたりする記憶や歴史とは異なる意味で、人間のおこなったことが時間をおいて非人間を介して暴力的インパクトをもつのである。
緩慢な暴力の概念的新しさは、暴力の対象を、単純に特定の個人や集団だけに設定しておらず、より深く、複雑に捉えようとしている点である。私たち人間が暴力を振るって傷つける対象は、モノや生き物、環境にまでおよぶ。さらにいえば、人間とモノ、生き物、環境との関係にまでおよぶ。そうなってくると人間は、加害者であると同時に被害者ということになるだろうか。自らの振る舞いによって、自らの首を締めているのだから。
しかし、ニクソンが正しくも述べるように、振る舞いから影響が出るまでに時間がかかる場合、暴力の加害者と被害者がまったくの同一人物である可能性は低く、被害者は次の世代、あるいはさらにそのあとの世代、ということになろう。また、たとえば人間が有害物質を撒き散らしたとしたら、それに全員が等しく晒されるわけではない。そこにはまた、社会階層や格差、差別構造が反映されることになる。
【注】
1) Pandey. Ibid. p12.
2) Nixon, Rob. Slow Violence and the Environmentalism of the Poor. Harvard University Press, 2011.
3) Crutzen, Paul J., and Eugene F. Stoermer. “The ‘Anthropocene.’” Global Change Newsletter, vol. 41, 2000, pp. 17-18.
4) Nixon. Slow Violence and the Environmentalism of the Poor.
5) Nixon. Ibid. p.6.
6) Nixon. Ibid. p.11.
[© Yutaka Nakamura]
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