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	<title>中村　寛 &#8211; 編集室水平線のオンラインマガジン　雨晴（あまはらし）</title>
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	<title>中村　寛 &#8211; 編集室水平線のオンラインマガジン　雨晴（あまはらし）</title>
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	<item>
		<title>第1回　暴力の縮減可能性――まえがきに代えて</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/nakamura-yutaka/1516/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 01 Dec 2022 23:23:10 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[中村　寛]]></category>
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					<description><![CDATA[I　暴力の縮減可能性――まえがきに代えて &#160; 　暴力はいたるところにある。これまでも、これからも、いたるところに。最も平穏な場所や時間にも、最も寛容な贈与のなかにも、退屈だけども無垢な日常のうちにも。けれども、&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/nakamura-yutaka/1516/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第1回　暴力の縮減可能性――まえがきに代えて</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>I　暴力の縮減可能性――まえがきに代えて</strong></span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>暴力はいたるところにある。これまでも、これからも、いたるところに。最も平穏な場所や時間にも、最も寛容な贈与のなかにも、退屈だけども無垢な日常のうちにも。けれども、そのようにして、ほとんどすべてを暴力というコトバで表現すること自体、暴力である。あるいは、暴力になりうる。その力の作用する個別具体的な場や関係を無視することで。しかし同時に、特定の暴力について語ることは、他の暴力の形態を無視し、排除することでもあるのだ。それから、苦しみや怒りというものがある。はじめから、私たちがこの世にうまれるはるかまえから。どのようにして特定の時間や空間での暴力を認識し、それについて語ることができるだろうか。どうやって、暴力を再生産しないようにしながら、それについて書くことができるだろうか。どのように他者の苦しみや痛み、不満や怒り、恐れに触れることができるだろうか。</p>
<p><em>　－－</em>というふうに、2008年に提出した博士論文<em>Community in Crisis: Language and Action among African-American Muslims in Harlem</em>の書き出しに記した。今や、次のように修正を加えないといけない。認識し、語り、書き、触れるだけでは不十分である、と。</p>
<p><em>　</em>暴力を主題におく研究はすでに数多く存在する。しかし、あたりまえだが、暴力は研究のために存在するのではない。暴力のみごとな分析は、どこかむなしい。それはすべて事後的な整理であり、渦中においてはほとんど役立たない。そして、どんなみごとな分析も、暴力を今のところ止めることができていない。どんなすぐれた哲学者も、思想家も、研究者も、作家も、戦争は止められないし、民族間（内）の暴力も、家庭内のドメスティック・ヴァイオレンスも、教室内のいじめも、路上の殺人も、止めることができていない。全員、あとからやってきて、それについて語り、描写し、分析するだけである。</p>
<p><em>　</em>暴力をそれっぽく描写し分析するのではなく、暴力を防ぐことはできないだろうか。それに歯止めをかけ、縮減し、その力の効果をかぎりなくゼロに近づけられないだろうか。暴力をふるう者が、いつのまにか自滅したり、ふるうことがばかばかしくなったり、はからずも相手を救っていたりするような仕組みをつくれないだろうか。気づかずに暴力をふるう者が、すぐにそのことに気づいてしまい、気づかずに利他的にふるまってしまうような仕組みはできないだろうか。</p>
<p><em>　</em>もちろん、暴力を完全に断ち切ることは難しいだろう。暴力を完全になくそうとすれば、さらに大きな暴力を使ってそれを断ち切ることになる。そうだとすると、暴力に対抗するという名目のもとで、あらためて暴力を発動することになる。</p>
<p><em>　</em>しかし、暴力に肩透かしをくらわせたり、中和させたりすることで、その力を縮減することはできないだろうか。どのようにすれば、そのような暴力の縮減は可能だろうか。</p>
<p><em>　</em>本研究は、脱−暴力（de-violence）の研究である。暴力を縮減するための仕組みと、それを支える理論について、語っていこうと思う。暴力の研究については、これまでずいぶんとたくさんの記述と分析がある。とりわけ、見えやすい様態の暴力については、枚挙に暇がない。世の中にどれだけひどい暴力があるかを描いてみせる本や映画、ドキュメンタリーは数多くあるし、そうした暴力がいかにひどい結果をもたらすか、についても複数の文献がある。それらについては、紹介しながらまとめていくが、それが本研究の目的ではない。</p>
<p><em>　</em>本研究で示したいことは、あらゆる様態の暴力の縮減可能性である。戦争の軍事的暴力も、人種・民族間や人種・民族内で起こる暴力も、路上の個人間で起こる殺人や傷害も、家庭内で起こるドメスティック・ヴァイオレンスも、学校や職場でのいじめやハラスメントも、差別や警察の残虐行為も、環境や非人間への暴力も、表象や言説の暴力も、すべて縮減可能であるということ、しかもその場合、心ある少数者の社会運動によって、つまりは属人的な努力によってではなく、仕組みによって、行為者がたいして考えることなしに、縮減されていく仕組みをつくることが肝要だということを、これから示していこう。</p>
<p><em>　</em>それに先立って、暴力の研究が必要だろうか。正直、以前ほどの確信はない。かつてなら胸をはってイエスということができたのだが……。しかし、これまでの暴力の研究を、多くの人が参照可能なかたちにしてまとめておくことは、無意味ではないかもしれない。また、そうすることで、暴力という言葉の複数の文脈を整理することも可能になる。なので、脱暴力の思想を描くまえに、まずはそれからやっていこうと思う。</p>
<p><em>　</em>暴力と権力との関係はなんだろうか。暴力はいつ、どのような状況で顕在化したり、隠れたりするのだろうか。見えにくい暴力、と誰かが記述するとき、その暴力は誰に見えやすく、誰に見えにくいのだろうか。暴力の経験の相が、1人称、2人称、3人称と人称変化を起こすとき、それらの「客観的」記述は可能だろうか。軍隊や兵器がかかわる巨大な集合的暴力と、小集団の暴力とのあいだの関係はなんだろうか。物理的暴力と、表象の暴力、象徴暴力、との関係はなんだろうか。暴力と社会的痛苦の関係はなんだろうか。暴力の「加害者／被害者」という文法は健全だろうか。加害者が被害者になり、被害者が加害者になるということはあるだろうか。暴力の主体と対象は、人間だけだろうか。非人間にエイジェンシーを認めるとき、非人間も暴力をふるうだろうか。非人間に対する暴力をどのように捉え問題化できるだろうか。暴力を非日常的で特異な現象としてしまいがちな傾向は、なにに由来するのだろうか。</p>
<p><em>　</em>まず、上記のような問いにこたえてみたいと思う。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>［© Yutaka Nakamura］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>※アプリ「編集室 水平線」をインストールすると、更新情報をプッシュ通知で受けとることができます。</p>
<p><a href="https://suiheisen2017.jp/appli/">https://suiheisen2017.jp/appli/</a></p>
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			</item>
		<item>
		<title>第2回　暴力概念の範疇（1）</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/nakamura-yutaka/1858/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 24 Mar 2023 09:11:29 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[中村　寛]]></category>
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					<description><![CDATA[Ⅱ　暴力概念の範疇 &#160; 　脱暴力の思想を語るにあたって、（2023年2月の東京から見た）暴力概念のスケッチをしておきたい。それが役立つのかどうか、もはや確信はないけれど、糸口くらいにはなるかもしれない。 　概念&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/nakamura-yutaka/1858/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第2回　暴力概念の範疇（1）</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>Ⅱ　暴力概念の範疇</strong></span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>脱暴力の思想を語るにあたって、（2023年2月の東京から見た）暴力概念のスケッチをしておきたい。それが役立つのかどうか、もはや確信はないけれど、糸口くらいにはなるかもしれない。</p>
<p><em>　</em>概念conceptの語源は、よく知られているように、ラテン語concipereにあり、これはconceive（考えつく、孕む）から来ているようである。他方で、ドイツ語で概念を意味するBegriffは、「捉える／把握する」の意味をもつ。</p>
<p><em>　</em>私たちは日頃から、概念をつうじて、あるいは概念のなかで、ものごとを考え、想像する。逆にいうと、特定の概念を通じないと、あるいは特定の概念のなかでしか、よくとらえたり、想像したり、見たりできないことがらがある。さらにいえば、特定の概念が学習されると、それを通じて、あるいはそれのなかでしかものを見なくなる、ということもおきる。「社会」や「宗教」という概念がそうだろうし、「海」と「青」、「リンゴ」と「赤」という組み合わせの概念もそうだろう。</p>
<p><em>　</em>だが、アーティストやデザイナーなら誰でも知っているように、「海」は「青」くないし、「リンゴ」は「赤」くない。じっさいには、いくつもの色が折り重なっており、解像度をあげれば、そこには「青」「赤」以外の色がまじっている。もしかすると、私たちが「社会」や「宗教」と呼んでいるものも、おなじように、「『社会』ではないもの」「『宗教』ではないもの」をふくんでいるかもしれない。</p>
<p><em>　</em>現在、私たちが手にしている暴力概念で、なにが、どれくらい、見える（考えられる）のか。以下に、書き出してみたい。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>物理的暴力／非物理的暴力</strong></p>
<p><em>　</em>暴力を捉えるにあたって、最初にでてくる問題は、先に少し述べたように、すでに暴力という言葉が存在していて、それがある現象に焦点をあて、ある現象を覆い隠してしまっているという点である。</p>
<p><em>　</em>日本語での「暴力」という言葉には、一定のイメージがある。ほとんどの場合それは、物理的暴力・身体的暴力を想起させる。</p>
<p><em>　</em>殴る、蹴る、突く、（手や棍棒で）叩く、（銃やミサイルで）撃つ、（ナイフや包丁で）刺す、などがそれである。いずれも、物理的な力をともなう営みであり、対象となる身体に損傷や苦痛をあたえる。しかし、これを「暴力」と定義した場合、主にふたつの問題があらわれる。</p>
<p><em>　</em>第一に、これらのあきらかに物理的な力がなくても、じゅうぶんに暴力を実行することが可能だという点。人が直接手をくださずに暴力をふるうことは、頻繁にある。</p>
<p><em>　</em>物理的暴力を背景として、相手に指示をだす場合（教唆）や、相手の意図に反する行動をとらせる場合（脅迫・恐喝）が、そうだ。最高司令官から発せられる軍事命令などは、司令官自身は指一本うごかすことなく、大量殺戮を実行にうつすことができる。背けば殺されるかもしれないという状況下で、金や財産を譲らざるをえなかったり、不本意な要求に応じざるをえなかったりする場合もある。</p>
<p><em>　</em>言葉そのものを暴力とする場合、たとえばある種の虐待やいじめ、嫌がらせ（ハラスメント）なども、非物理的暴力であることがある。クリフォード・ギアツがかつて、マックス・ウェーバーをひきながら述べたように、私たちが「意味の網の目の中にかかっている動物である」（注1）。だからこそ、私たちは自分たちの話す言葉によって、傷ついたり、泣いたり、怒ったり、励まされたり、癒やされたりするのかが説明できる。</p>
<p><em>　</em>この場合、暴力の実行者は、言葉を道具として駆使し、相手のうちにある言葉をかき乱し、蹂躙する。人は、一番身近な言葉を通じて、人を死に至らしめることができる。そして、それが最も効果をあげるのは、どうやら権力の不均衡をともなった親密圏においてだということも、留意しておきたい。</p>
<p><em>　</em>また、ネグレクトのように、すべきことがあるのに、それを積極的にしないことによって成立する暴力もあるだろう。自分だけでは生存できない子どもに、食事をあたえない、風呂にいれない、病気や怪我がわかっても病院に連れていかない、などがこれにあたる。保護や庇護の責任や義務があるのにもかかわらず、それを提供しない場合、それは暴力といえる。とはいえ、眼の前に助けを求める人がいて、しかもあなたにその人を助ける能力があるときに、なにもしなかったとしたら、それが暴力になるかどうか、暴力と認定すべきどうか、議論がわかれるところだろう。</p>
<p><em>　</em>上記のいずれもポイントは、一見してすぐに暴力とわかる派手な行為でなくても、結果的に人に身体的・精神的苦痛を残すことが可能だという点にある。逆らえば殺されるか痛めつけられる、といった状況を背景に、上官から命令をうけ、兵士が虐待や虐殺に関与する場合、殺傷や痛苦を引き起こす道具（手足やナイフ、銃、刀など）の近くにいてそれを使った人間だけでなく、遠くにいた人にも責任があることを、20世紀の暴力を目撃した私たちは知っている。そればかりかその場合、通常の刑事裁判とは違い、殺戮の道具から離れれば離れるほど、その責任は大きくなるというのが、ナチス政権下で移送の専門家（スペシャリスト）と呼ばれた官僚アドルフ・アイヒマンの裁判で認められた点だった（注2）。</p>
<p><em>　</em>同様に、現在の役職をうしない露頭にまようか、家族を露頭にまよわせるかといった状況で、理不尽な指示にしたがい、文書を改ざんしたり、汚染物質をしりながら放流したりし、その結果、誰かが社会的痛苦を経験するかもしれないし、手を汚した者自身が自殺するかもしれない。</p>
<p><em>　</em>暴力を物理的なものに限定した際におこる第二の問題は、あきらかに身体に加えられる物理的な危害も、つねに「暴力」と認定されるわけではないという点である。殴りかかってくる相手を突く、銃を乱射してくる相手を撃つ、などの場合、法的にも倫理的にも、正当防衛の考え方が適用されることを、私たちは知っている。</p>
<p><em>　</em>だが同時に、この「正当防衛」の考えが、時として容易に拡張され、利用されることも、私たちは知っている。自分の家族や共同体を「守ろう」として、私たち人間は、容易に「攻撃」に転ずる。自警団が組織され、警察や軍隊が出動し、「脅威」から身を守るため、相手を殺す。また、じっさいに危害を加えた人間や社会集団にたいしておこなわれる「報復」「応報」「懲罰」は、つうじょう暴力とはみなされない。</p>
<p><em>　</em>自分たちの「安全」や「安心」を脅かす要因、将来の「発展」を妨げうる要因、自分たちに「危害」を加えうる要因を、取り除こうとして、私たちは気づかないまま、良心から、暴力をふるう。目的に照らして、手段としての暴力を議論することのむなしさは、このあたりに起因する。</p>
<p><em>　</em>けれども、ここでのポイントは、人が暴力をふるうさいに、自分自身の暴力に気づかない、もしくはその残虐性を正当化できるのは、暴力をふるう相手を選んでいるから、という点にある。言い換えると、私たちは暴力をふるってもよい相手を、つねにおなじ人間のカテゴリーのうちに設定している、という点にある。</p>
<p><em>　</em>ヨーロッパ人による非ヨーロッパ世界の征服・支配の文脈では、「野蛮人」や「インディオ」というカテゴリーが、暴力をふるってもよいカテゴリーだった。なかば、完全な人間ではないという意味で、「半人間」のようなカテゴリーである。アメリカ大陸の政治・経済的発展の文脈では、「黒人」だった。ナチスドイツの帝国主義と彼らの「問題解決」の文脈では「ユダヤ人」や「共産主義者」がそれに該当した。現在のユダヤ=キリスト教文化圏においては、「テロリスト」「アラブ人」「ムスリム」などがそれに当たるかもしれない。</p>
<p><em>　</em>20世紀あるいは21世紀にいたるまで、全世界的にみて、「女性」がそのようなカテゴリーだったことは、法律や社会制度、社会慣習をみてもわかる。戦時下において、男性兵士による女性への強姦がつきものであることは有名で、少数民族や先住民、奴隷、難民など、「社会的弱者」の女性がターゲットになりやすいこともよく知られている。</p>
<p><em>　</em>平時の現代日本でも、2017年になって強姦罪が強制性交等罪に変更されるまで長いこと、女性に対する強姦への対応は、その主たる目的が女性の保護ではなかった。また変更前は、親告罪のうえ、かなりの困難があるなか、仮に有罪が確定しても懲役2年以下で、傷害罪にすらおよばなかった。</p>
<p><em>　</em>そのほか、2023年2月の時点での日本では、「犯罪者」「障がい者」「老人」が、社会構成員の一定数にとって、「殺してもいい存在」となっていることが、ソーシャル・メディアを含む各種メディアとりあげられる語りや、日常生活のなかで対面で遭遇する声から、わかる。</p>
<p><em>　</em>現時点では、日本で唯一合法的な殺人である死刑が適用されるのは、「犯罪者」のカテゴリーに属する一部の人たちだけである。</p>
<p><em>　</em>だが、これまでの歴史上、このカテゴリーが法制度上でも、日常生活の文化内でも、かんたんに横滑りすることを、私たちは知っている。ナチス政権が、ユダヤ人や共産主義者などの彼らが「敵」とみなした者たちだけでなく、優生学的な思想のもと、約20万人におよぶ身体・精神障がい者たちを殺害したことは有名である（注3）。それは、「安楽死政策」として知られている。</p>
<p><em>　</em>日本では、ハンセン病患者への法的・制度的隔離と差別がつづき、強制的な断種・中絶もおこなわれた。1907年の「癩予防ニ関スル件」以降、1931年の強制隔離政策、1948年の優生保護法でのハンセン病の明記、1953年の「らい予防法」とつづき、戦後になって治療可能な病気になってからも、1996年にいたるまで隔離政策がおこなわれつづけた（注4）。おなじく優生学的な観点から、精神障がい者たちも「私宅監置」というかたちで、隔離されてきた（注5）。</p>
<p><em>　</em>未曾有の負債を増やしつづけたまま、明確なヴィジョンや政策をうちだせず、少子高齢化と労働人口の激減を経験していくなかで、漠然たる不安が社会に蔓延しているとしよう。そのなかで、社会をひとつの大きな企業のようにみたて、ひとりひとりの市民を「資産asset」や「資源resourse」としてとらえ、それぞれが社会に提供しうるものと、社会がそれぞれにかけなければいけないカネや資源を冷静に計算している人がいてもおかしくはない。</p>
<p><em>　</em>問題はそのあとの経営判断である。単線的なロジックで考えがちな企業経営者は、収支があわなくなったとき、構成員を解雇するかもしれない。それでも彼あるいは彼女は、企業の外には社会が、一応セーフティネットをもっていることを知っている。解雇された側は、解雇を不当として、訴訟に持ち込むこともできる。失業手当を受け取ることもできる。生活保護もある。うまく活用できるかどうかは別問題だとしても。</p>
<p><em>　</em>しかし、一企業とちがって、社会が数式や単純なロジックのみで、「社会適応不可能」と判断した「犯罪者」、「有害」と判断した「障がい者」や「病者」、「無用のお荷物」と判断した「老人」を「解雇」するとき、それはなにを意味するだろうか。「解雇」された者は、生きていくことができるのだろうか。「監禁」や「安楽死」以外のなにが残されているのだろうか。</p>
<p><em>　</em>物理的暴力と非物理的暴力の関係について、まとめてみよう。上述の第一の点は、非物理的・非身体的な力が、じっさいには身体的暴力のように機能するという現象だった。ある場合には、致死的であり、それも「大量の死を生産」（cf.ハンナ・アレント）することさえある。</p>
<p><em>　</em>第二の点は、物理的暴力が加えられ、身体的痛苦が生じているのに、それが暴力として認定されにくいという現象である。もちろんこの場合、振るわれている側には「暴力」としてうつる場合がほとんどだと考えられるが、重要なのは、ふるう側だけでなく、傍観者たち、つまり社会集団を構成している「良識ある第三者たち」が、暴力に気づきにくいという点である。</p>
<p><em>　</em>物理的効果をもつ非物理的暴力が一方にあり、物理的であるにもかかわらず気づかれにくい暴力が他方にある。前者は、物理的でないがゆえに「見えにくい暴力」であり、後者は、法や制度、慣習、価値意識のなかに「自然化された暴力」だといえる。</p>
<p><em>　</em>この種の「見えにくい暴力」「自然化された暴力」を、よりよくとらえるための概念として「象徴暴力」というものがある。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>【注】</p>
<p>1)　クリフォード・ギアーツ（吉田禎吾・柳川啓一・中牧弘允・板橋作美訳）『文化の解釈学　1・2』岩波書店、1987＝1973.</p>
<p>2)　ハンナ・アレントは、まさにこの点を強調している。ハンナ・アレント（大久保和郎訳）『イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』みすず書房、1963=1994．</p>
<p>3)　 <a href="https://encyclopedia.ushmm.org/content/ja/article/the-murder-of-people-with-disabilities">https://encyclopedia.ushmm.org/content/ja/article/the-murder-of-people-with-disabilities</a></p>
<p>4)　 <a href="https://www.nhdm.jp/about/issue/">https://www.nhdm.jp/about/issue/</a></p>
<p>5)　<a href="https://www.jspn.or.jp/modules/forpublic/index.php?content_id=12">https://www.jspn.or.jp/modules/forpublic/index.php?content_id=12</a></p>
<p><a href="https://www.mhlw.go.jp/kokoro/nation/law.html">https://www.mhlw.go.jp/kokoro/nation/law.html</a></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>［© Yutaka Nakamura］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>※アプリ「編集室 水平線」をインストールすると、更新情報をプッシュ通知で受けとることができます。</p>
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			</item>
		<item>
		<title>第3回　暴力概念の範疇（2）</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/nakamura-yutaka/1866/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 24 Mar 2023 09:11:45 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[中村　寛]]></category>
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					<description><![CDATA[象徴暴力 &#160; 　「象徴暴力symbolic violence」という概念をひろめたのは、社会学者ピエール・ブルデューの功績が大きい。「文化資本」や「ハビトゥス」などの彼とひもづく概念と同様、象徴暴力も、見えにく&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/nakamura-yutaka/1866/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第3回　暴力概念の範疇（2）</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><strong>象徴暴力</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>「象徴暴力symbolic violence」という概念をひろめたのは、社会学者ピエール・ブルデューの功績が大きい。「文化資本」や「ハビトゥス」などの彼とひもづく概念と同様、象徴暴力も、見えにくい営為や、言動の背後にある、意識されにくい構造（ある種のパターンを成立させていることがら）をとらえようとする概念である（注1）。</p>
<p><em>　</em>たとえば、象徴暴力には、女性に当然のようにあてがわれる役割や期待されるふるまいと、そのことと連動する差別や排除、および社会的序列や階層の再生産、といったことが含まれる。ひとむかしまえなら、いや、今でもひょっとするとそのままかもしれないけれど、あたりまえのように女性が家では台所にたち、食事をつくり、子育てをし、オフィスではお茶をくみ、サポート役に徹し、それがゆえに、あたりまえのように彼女たちよりも同期の男性が仕事の中心をにない、昇進し、といったサイクルのなか、女性は、結婚・出産を経て、仕事場を離れることが期待される。そしてそれがゆえに、採用、昇給、昇進においても、仕事量や質を「客観的」に評価した結果、男性が優遇されることになる。</p>
<p><em>　</em>戯曲化し、単純化した物語ではあるが、あながち間違っていないことは、以下の統計からもわかる。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>日本の女性社長比率　8.2%（2022）帝国データバンクより</p>
<p><em>　</em>衆院議員の女性比率　9.7%（2021　総選挙時）内閣府男女共同参画局ウェブサイトより</p>
<p><em>　</em>参院議員の女性比率　22.6%（2019　通常選挙）内閣府男女共同参画局ウェブサイトより</p>
<p><em>　</em>大学・大学院の女性比率　22.5%（2014）内閣府男女共同参画局ウェブサイトより</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>これを差別と呼ばなかったら、いったい差別とはなんだろうか。けれども、象徴暴力の概念があきらかにする点は、単にそこに差別がある、ということだけではない。差別や排除がおこるメカニズムとして、差別する側も差別される側も、そしてそれを取り巻くコミュニティの成員も、三者ともが象徴を共有し、受け入れてしまうからこそ、階層構造が再生産されるのだと、ブルデューは指摘する。</p>
<p><em>　</em>もちろん、ある象徴のもと、全員が一律にある特定の価値を受け入れるわけではない。表面的に個人が、特定の価値に反発をおぼえ、抵抗を企てることはありうる。しかし、個々人が反発したり抵抗したりするかどうかは、ここではあまり関係がない。社会集団としての既成の価値意識がどのようなものとして共有されているかが重要なのだ。</p>
<p><em>　</em>たとえば、現代の日本の（とくに東京近郊の）日常生活のなかで、「違和感のない言動」「自然な姿」として、次にようなものが共有されているといえないだろうか。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>・背広姿で国会に出席する60代男性の政治家。彼はもともと政治家の家系で、自分も父を見習って当然のように政治の世界へと進んだ。その横で質疑応答のサポートをするスーツ姿の50代男性官僚。縦割りの省庁の世界をなんとか変えたいと思いつつ、目の前の仕事におわれ、結局50代を迎えることになってしまった。</p>
<p><em>　</em>・スーツ姿で出社する40代男性サラリーマン。どんどん出世していく同期の連中を見ていると、そろそろ転職すべきかなと思っている。が、今よりよい条件の職場があるのかどうかわからず、不安を抱えている。子どももかわいいし、妻とも仲良くしたいが、なぜか正直に自分の気持ちを表にだせない。家に戻ると、子どもからも妻からも、嫌そうな顔をしているようで、つらい。</p>
<p><em>　</em>・ビジネスカジュアル服で会社から帰宅ついでに子どもを迎え、家に戻って料理をする40代女性。共働きでずっとやってきたけれど、育児や料理はなぜか自分だけがやっていて、正直手伝ってほしいとも思うが、あまりそういうことを言うのも「わがまま」かなと思ってしまう。土日も、夫は気ままに同僚たちと飲みに出かけていくが、自分が出かけることはほとんどしない。だめだと言われたわけでもないのに。</p>
<p><em>　</em>・保育園や幼稚園の送り迎えをする30代女性。子どもを産むまではバリバリと働いてきたが、今は離職してしまった。仕事に戻りたい気持ちはあるが、今さら戻れるのか不安な気持ちも日に日に強まっている。最近、「リスキリング」が話題になって、新しいことに挑戦するのに助成が受けられるならと思う反面、正直そんな余裕なんてないのかもと、モヤモヤしている。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>いかがだろうか。簡易的なマーケティングリサーチやUXリサーチの「ペルソナ設定」に出てきそうだが、あながち間違っていないのではないだろうか。もちろん、時代とともに急速に変化することもあるだろうが、男女の固定された役割自体は、しぶとく残っているのではないだろうか。</p>
<p><em>　</em>他方で、それほど「自然」に見えない言動や姿もある。たとえば、以下のようなものはどうだろうか。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>・若年から中高年までバランスよくばらけ、男女比も1:1の通常国会で堂々と同性婚の賛成をのべ、称賛をあびる30代の女性議員。彼女のパートナーは保育園ではたらく40代女性で、アフリカ系の父とフィリピン系の母をもつ。5年前に日本国籍を取得した。</p>
<p><em>　</em>・ヴェンチャー企業の管理職の仕事から戻り、子どもを迎えて帰宅したあと、キッチンに立ち料理する60代男性。彼の現在の妻は30代女性で、医学系の研究職として働くが、同じ家には彼の50代の元妻と、彼女の現在の恋人（40代男性）も一緒に暮らしている。4人で子どもを囲んでの食事はなによりも楽しいひとときだ。</p>
<p><em>　</em>・2人の30代男性にはさまれ、両者と手をつないで駅まで楽しそうにあるく40代のポリアモリーの女性。3人で何度も話し合い合意した「家族」のかたちだが、まだ周囲には言うことができていない。でも、今住んでいる近所には、多様な家族形態で暮らす人が多く、過ごしやすい。ここだったら、人目を気にしないで自分自身でいられると感じている。</p>
<p><em>　</em>・30代のキャリア志向の強い女性は、2人のまだ小さい子どもと夫を東京に残し、上海に単身赴任し、初の2年間の海外生活を満喫している。結婚してからはなかなか外に飲みに行けなかったが、東京の生活を離れたら、上海で知り合った友人たちや、日本から遊びに来た友人たちと頻繁に外食を楽しんでいる。スマホがあれば、子どもたちとはいつでも、どこでも、やり取りできるので、さびしさや不安もない。夫はとても理解があり、むしろ子どもたちとの時間が増えるといって喜んで送り出してくれた。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>いかがだろうか。現実に存在してもおかしくないし、またある場合には存在しているにもかかわらず、それらは違和感をもってうけとめられるのではないだろうか。それがゆえに、前者の姿に体現された価値意識のなかに生きる者は、無意識のうちにその「あたりまえ」を承認しているし、後者の価値意識を生きる者は、それだけで「異端」とみなされる。つまりは、前者は後者を抑圧するのだが、そのときの抑圧はごく「自然に」おこなわれる。</p>
<p><em>　</em>さらに問題なのは、こうした差別が、次なる差別と排除をうみ、偏見を醸成ないし補強するという点である。数学や物理が得意だった女子高生は、理科系や工学系の大学を見学にいき、女性の少なさに愕然となり、研究者への道をあきらめるかもしれない。女性議員の少なさや、その世界で慢性的に横行する性差別的な慣習行動をみて、高い能力と感性をもつ女性が、政治の世界に進むのを断念するかもしれない。社長になれば、大きな力を発揮し、停滞気味だった会社の今後をアップデイトさせていくことができたかもしれない女性が、子育てと仕事の両立に悩み、ストレスで身体をこわし、休職・離職を余儀なくされるかもしれない。</p>
<p><em>　</em>このような文脈において、差別や排除、あるいは支配がおこなわれる。</p>
<p><em>　</em>そのことのひとつの帰結として、ひとりの女性の自立が阻害され、彼女が夫からの要求を意に反してのみつづけるとしたら、周囲からの圧力で自らをおしこめたり、ストレスを抱えたりして、身体を壊したとしたら、賛同者がいないという理由で自らが受けたハラスメントや差別について声をあげることができないとしたら、それは暴力ではないだろうか。</p>
<p><em>　</em>特定の個人や集団を攻撃しているわけではないのに言いたいことが言えないこと、危害を加えているわけではないのに身動きがとれないこと、その背景には、言いたいことを言い、うごきたいようにうごけば、危害を加えられたり、罰せられたりと、なんらか自分の損失につながるという心理がはたらいている。</p>
<p><em>　</em>そうだとすると、象徴暴力の背景には、暴力の可能性があるのだろうか。たしかにそういえるかもしれない。しかし、暴力の可能性を背景とした非物理的暴力には、脅迫や教唆などもある。</p>
<p><em>　</em>私としては、暴力の可能性があるかないかで象徴暴力を特徴づけるのではなく、次の事実に注目してみたい。</p>
<p><em>　</em>すなわち、日本の場合、戦後の飛躍的な経済成長が神話化されて語られることがあるし、その後のバブル期の好景気とあいまって、日本の経営思想や方法、政策が、成功体験とともに美化されることがある。だがじっさいには、家父長制の残余を下敷きにした家族制度とそのもとでの「シャドウ・ワーク」（cf.イヴァン・イリイチ）（注2）、会社の終身雇用制度などの社会保険を根幹にすえた徒弟制的な組織と個人の関係（たとえば、そのもとでの同調圧力下でのサーヴィス残業）などに支えられて、成し遂げられた。アメリカ合衆国の繁栄が、先住民からの略奪と強制移住、奴隷制のもとでの強制労働などによって可能になった構造に近い。</p>
<p><em>　</em>それゆえに、象徴暴力によって可能になった経済的な豊かさの獲得は、ふたたび、この象徴暴力を強化したと言っていい。うまくいっているのに、なにが問題だというのですか、というわけだ。ただし注意したいのは、象徴暴力の効果の範囲は広範におよび、その暴力によって恩恵にあずからないばかりか、不利益を被る者にもおよぶという点である。</p>
<p><em>　</em>法制度上の差別の撤廃や是正がおこなわれたあとでも、文化規範や慣習、価値意識などの制度のうちに、支配-被支配関係が根強くのこり、内面の劣等感・優越感、偏見などをうむのは、そのためである。</p>
<p><em>　</em>ふりかえると、ここに書いてきた象徴暴力というのは、基本的に制度的な暴力の一種と考えることができる。それは、法や慣習のような制度のなかで機能する。そしてそれは、機能することで「利潤」をうむ。経済的利潤だけとはかぎらない。すでにできあがった象徴暴力のなかで、既成の価値意識を承認しつつ場に参入することのほうが、当人にとってメリットが大きいのだ。</p>
<p><em>　</em>そこから飛び出して（飛び出したふりをして）、批判をあびせることが可能なのは、その本人が能力においてすぐれているからではなく、そうすることがその本人にとって「商売」になっていたり、なんらかの「卓越化=差異化distinction」のゲームに参入していてそのことが本人にメリットになっているか、本人がきわめて守られた特権的な位置にいるか、のいずれかである場合が多い。もちろん、自分にふりかかえる危険を知りつつ、勇気をふりしぼってその場にそぐわない批判を語る、数少ない智者たちもいたけれど。</p>
<p><em>　</em>制度的暴力という概念も、構造的暴力と同様、やはり非物理的でありながら、致死的な効果をもつものである。この点はあとで戻ってきたい。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>【注】</p>
<p>1)　Bourdieu, Pierre, et al. An Invitation to Reflexive Sociology. University of Chicago Press, 1992; .Bourdieu, Pierre (translated by Richard Nice). Outline of a Theory of Practice. Translated by Richard Nice, Cambridge University Press, 1977; ブルデュー，ピエール（田原音和監訳）『社会学の社会学』 藤原書店、1991=1980.</p>
<p>2)　イヴァン・イリイチ（栗原彬・玉野井芳郎訳）『シャドウ・ワーク――生活のあり方を問う』岩波書店（同時代ライブラリー）、1981=1990.</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>［© Yutaka Nakamura］</p>
<p>&nbsp;</p>
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]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>第4回　暴力概念の範疇（3）</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/nakamura-yutaka/1869/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 24 Mar 2023 09:12:01 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[中村　寛]]></category>
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					<description><![CDATA[権力と暴力 &#160; 　物理的暴力と非物理的暴力（たとえば象徴暴力）の上記のような特徴を考えると、暴力のふたつの異なるベクトルがみえてくる。酒井隆史が『暴力の哲学』のなかで、ヴァルター・ベンヤミンを参照しながら、明示&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/nakamura-yutaka/1869/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第4回　暴力概念の範疇（3）</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><strong>権力と暴力</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>物理的暴力と非物理的暴力（たとえば象徴暴力）の上記のような特徴を考えると、暴力のふたつの異なるベクトルがみえてくる。酒井隆史が『暴力の哲学』のなかで、ヴァルター・ベンヤミンを参照しながら、明示したポイントである（注1）。</p>
<p><em>　</em>ドイツ語の「暴力Gewalt」には、制御し、制限をかける「権力」に近い意味合いがあると酒井は指摘する。すなわち、暴力という概念には、法や規律、ルール、慣習などを通じて、制御・統合する力（force）と、それらの法や慣習などを侵犯し、壊し、「外」へと逸脱する力（violation）とのふたつが内包されている。酒井が参照するのは、ヴァルター・ベンヤミンの有名な「神話的暴力」の概念で、それは暴力によって法を措定したうえで、その「最初の」暴力を覆い隠し、次に暴力によって法を維持するはたらきをもつとされる（注2）。</p>
<p><em>　</em>まとめると、暴力にはふたつの異なるベクトルがある。第一には、暴力をつかって「以前の法」を侵犯・破壊し、「はじまり」をつくり、打ち立てるベクトル。第二に、打ち立てた法を正統のもの（authority）とし、それを侵犯し破壊しようとするものを罰するベクトル。</p>
<p><em>　</em>現代社会に暮らす者の多くにとっては、あるいは、革命などによって政権や憲法が劇的に変化するという局面を目撃したことがない現代の日本語圏の生活者にとっては、この第二の法のベクトルのほうがなじみがあるだろう。</p>
<p><em>　</em>哲学や現代思想の世界に慣れ親しんできた者にとってはおなじみの考えかもしれないが、法が単なる文章によって成立している原理・原則集なのではなく、現実に人間の身体に作用する力であることは、この第二の法のベクトルを観察するとわかりやすい。</p>
<p><em>　</em>あなたが法を犯すとき、たとえば人のものを盗んだり、人を傷つけたりした場合、法はあなたの身体を拘束し、罰金を課したり、身体の自由を一定期間制限したりすることができる。法の執行機関は、警察と呼ばれている（law enforcement agency）。</p>
<p><em>　</em>近代以降の国民国家では、国家のみが暴力を独占する。主権者である国民が、個人に対してであれ組織に対してであれ暴力をふるう場合には、被害者によってではなく、公法によって裁き（報復的・懲罰的措置）をうけることになる。</p>
<p><em>　</em>ハンナ・アレントは、政治的概念としての権力と暴力とを切断して論じ、暴力をつねに正当化を必要とする道具として定義する。「権力は実際あらゆる政府の本質に属するが、暴力はそうではない。暴力はその本性からいって道具的なもの（インストルメンタル〔原文ルビ〕）である。暴力は、あらゆる手段がそうであるように、追求する目的による導きと正当化をつねに必要とする」（注3）。</p>
<p><em>　</em>それにたいし、「権力は政治的共同体の存在そのものにほんらい備わっているものであるから、いささかの正当化（justification）も必要としない。権力が必要とするのは正統性（legitimacy）である」（注4）。</p>
<p><em>　</em>アレントは、権力と暴力とを、単に異なるというだけでなく、対立するものととらえており、暴力は権力を破壊できるが、しかし、暴力が権力を創造することはないと述べている。つまり、アレントによると、権力と暴力とが正面から対立した場合、暴力はその本質が道具であるがゆえに、その戦いに勝利する。そして、暴力の矛盾は、その矛先を完全に破壊し尽くしたのちに、自身をも破壊してしまうことであるという。</p>
<p><em>　</em>ベンヤミンが「暴力Gewalt」の批判をおこなった際には、「神話的」である法の暴力（権力）をくつがえすものとして、対抗暴力（神的暴力）が想定されていた。念頭には、「暴力批判論」が執筆された1910-20年代の労働者階級によるゼネラル・ストライキがあった。それは、神話的な起源をもつ法措定の暴力と、それに仕え、維持する暴力との両者を否定し、停止させ、機能不全にする。</p>
<p><em>　</em>アレントが、「暴力について」の論考を書いていたのは1960年代後半のアメリカで、公民権運動やベトナム反戦運動、学生運動が念頭にあったことだろう。もちろん、自身がもっと若い頃にまのあたりにしたナチスによる大量虐殺も。</p>
<p><em>　</em>暴力のうちに潜むふたつのベクトルをとらえることも、暴力と権力の差異を分析し、きめ細やかに両者をとりまく複雑な現象をとらえることも、暴力の縮減に役立つのかもしれない。しかし、21世紀を生きる私たちは、権力が暴力と一体になる瞬間を、頻繁にどころか、日常的に眼にしてきた。</p>
<p><em>　</em>権力の維持には暴力が欠かせない、というよりはむしろ、権力そのものの成立条件、権力に正統性を付与する私たち民衆の生存基盤そのもののうちに、暴力が備わっていると言ってもよいのではないだろうか。あるいは、暴力の質や量はちがえど、権力の成立要件には、不可避的に暴力がかかわっているのではないだろうか。非暴力的な権力、暴力を行使しない権力などないのではないか。そして、暴力の認定じたい、つまりなにを暴力とし、なにを非暴力とするのか、なにを残虐な行為と認定し、なにを許容しうる行為とするのかの基準設定に、権力がおおきく関与しているのではないだろうか。</p>
<p><em>　</em>ミシェル・フーコーは、『監獄の誕生』から『性の歴史Ⅰ　知への意志』にいたるまでの論考のなかで、古典時代と彼がよぶ前近代から近代にかけての期間、権力のエコノミーがどのように変化したかを分析している（注5）。彼によれば、18世紀には、公開処刑をふくむ「はなばなしい身体刑」は、公衆の面前で、なんの臆面もなく、おこなわれた。身体刑を公開でおこなううえで、正当化がとくに必要とされなかったのは、それが暴力ではなく、権力の行使だと考えられたからである。</p>
<p><em>　</em>もっともそこでいう権力は、古典時代のそれであって、現代社会での権力とは違っている、とフーコーはいう。それは、王権のもとでの権力であって、臣民を生かしたままにしておくか殺す（王の）権利を意味していた。王はその正統性を担保するべく、権力を演出しなくてはいけない。したがって、王の権利の発露である身体刑は、公開で、はなばなしく演出されなければいけなかった。</p>
<p><em>　</em>近代にはいるとそれに代わって、ブルジョワジーが台頭し、国民国家が誕生する。それにともなって、王の殺す権利は、（国家による）生かしておく権力、生をよりよく促進していく権力にとってかわる。権力維持装置としてのはなばなしい身体刑は、もはや不要になった。死刑をむやみにおこなうのも、採算があわなくなった。それより、工場で生産活動に従事したり、戦場で命をかけて国家の主権者をまもったりする道具=身体が必要だった。個々の身体が主権者であると同時に、権力にとって重要な資産になるとわかれば、目に見える暴力の使用は、正当化を必要とするにようになった。</p>
<p><em>　</em>多少単純化しすぎだが、以上がフーコーが展開した論から読み取れることである。</p>
<p><em>　</em>フーコーの猫写と分析があきらかにしてくれることは、以下の点である。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>1．古典的権力は、現代からみると、いとも容易に、凄惨な暴力をもちいる。</p>
<p><em>　</em>2．その際に、正当化の必要はない。それは、権力の発動であり、制度のなかで許容された暴力だったから。</p>
<p><em>　</em>3．権力が発動しているとき、人はそのもとにあらわれる「暴力」を「残虐」だとはみない。痛みを最大化し、長引かせる創意工夫がなされたとしても。</p>
<p><em>　</em>4．近代以降、権力のエコノミーが変化してから、それを「残虐な行為」と認定する。</p>
<p><em>　</em>5．近代以降の権力は、新しい科学・技術・デザインをつうじて、市民の、国民の、主権者の、個々の身体のうちに内面化される。</p>
<p><em>　</em>6．権力が内面化されていくと、もはやその発動は、個々の身体の「自由意志」のうちに隠れていき、そのもとにあらわれる暴力も、見えにくくなっていく。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>権力と暴力との関係が制度のうちでどのように生成するかを、みごとに分析している、と私は思う。さらに付言すれば、上記のプロセスのなかで、そもそも個々の身体を主権者として主体化した暴力は、ほぼきれいに忘れ去られることになる。</p>
<p><em>　</em>たとえば人権を例にとろう。すべての人間が、生まれながらにして、誰にも侵されることのない権利を有する、と宣言がうたうとする。現代社会に生きる私たちは、そのことを自明のものとしてとらえる傾向がつよい。しかし、それを保証するのは近代国家が独占する法の暴力である。主権者である市民の人権を侵す何者かを、監視し、捕まえ、裁き、罰することは、法の暴力を使用しないとできない。</p>
<p><em>　</em>もちろん、法の暴力によって守られるどころか、「二級市民」として不当逮捕されたり殺されたりする対象になりやすく、法の暴力によって攻撃にさらされやすい「アフリカ系アメリカ人」や「アメリカ先住民」たち、あるいは「障がい者」や「ハンセン病患者」、「在日外国人」たちは、このことの虚偽性や矛盾に気がつきやすい位置にいる。権力が暴力と一体化する瞬間に、何度も立ち会っているのだから。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>【注】</p>
<p>1)　酒井隆史『暴力の哲学』河出書房新社、2016.</p>
<p>2)　ヴァルター・ベンヤミン（野村修訳）「暴力批判論」『ベンヤミン著作集1　暴力批判論』晶文社、1969=1921．</p>
<p>3)　ハンナ・アーレント（山田正行訳）『暴力について――共和国の危機』みすず書房、1972=2000, p.140.</p>
<p>4)　同上、p.141.</p>
<p>5)　ミシェル・フーコー（田村俶訳）『監獄の誕生――監視と処罰』新潮社、1975=2020[1977].</p>
<p>ミシェル・フーコー（渡辺守章訳）『性の歴史I――知への意志』新潮社、1976=1986.</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>［© Yutaka Nakamura］</p>
<p>&nbsp;</p>
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			</item>
		<item>
		<title>第5回　暴力概念の範疇（4）</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/nakamura-yutaka/2195/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 14 Jul 2023 06:32:52 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[中村　寛]]></category>
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					<description><![CDATA[構造的暴力 　構造的暴力の概念は、ヨハン・ガルトゥングによるものが有名だが、彼の功績は第一に、ここまでに述べてきたような直接的に個人の身体への直接的影響が観察可能な、「私的暴力personal violence」とはべつ&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/nakamura-yutaka/2195/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第5回　暴力概念の範疇（4）</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><strong>構造的暴力</strong></p>
<p><em>　</em>構造的暴力の概念は、ヨハン・ガルトゥングによるものが有名だが、彼の功績は第一に、ここまでに述べてきたような直接的に個人の身体への直接的影響が観察可能な、「私的暴力personal violence」とはべつに、個人の身体への直接的影響が観察しにくい、間接的な「構造的暴力structural violence」を区別したことにある（注1）。「構造的暴力」には、法制度上の差別や排除、人種、階級、ジェンダーなどの社会的範疇による不平等、年齢や宗教、性的嗜好などにまつわる慣習上の差別、などが含まれる。</p>
<p><em>　</em>しかし、ガルトゥングの功績はこれだけにとどまらない。彼の第二の（おそらくはさらに大きな）功績は、その二種類に腑分けした暴力の種類を、二種類の平和概念と結びつけ、解決への糸口を示そうとした点にある。図1は、彼が論文中に示したものである。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img fetchpriority="high" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-2208" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/07/図1.png" alt="" width="825" height="583" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/07/図1.png 825w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/07/図1-300x212.png 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2023/07/図1-768x543.png 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></p>
<p><span style="font-family: arial, helvetica, sans-serif; font-size: 10pt;">図1　暴力と平和の拡張概念　ガルトゥングの論文に掲載されていたものをそのまま訳出した。Galtung, Johan. “Violence, Peace, and Peace Research.” Journal of Peace Research, vol. 6, no. 3, Sept. 1969, p. 183より</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>「私的暴力」の対極には、「消極的平和」があり、それは暴力を取り除いた状態をつくることを意味する。主に私的暴力は、物理的暴力（身体に加わる暴力）、あるいはそれを背景とした脅迫などが念頭にあるから、それを除去することが「平和」の主な目的となることはうなずけるだろう。</p>
<p><em>　</em>他方で、「構造的暴力」の対極には、「積極的平和」がある。「構造的暴力」は、それが物理的というよりは間接的であるがゆえに、それに対峙する平和が目指すのは、暴力の除去ではなく、不平等や不正義の修正であり、社会正義の達成である。</p>
<p><em>　</em>もちろんこの図式に整理することの、あまり健康的ではない副産物は、ガルトゥング自身が書いているように、1）私的暴力と構造的暴力とが相互排他的に見えてしまうこと、2）私的暴力を取り除くためには構造的暴力が必要であるように見えてしまうこと、3）構造的暴力を取り除くためには私的暴力が必要であるように見えてしまうこと、である。</p>
<p><em>　</em>じっさいのところ、私的暴力と構造的暴力は、現象において相互排他的ではなく、両者が入り交じることがおおいにある。</p>
<p><em>　</em>象徴暴力の項で見たとおり、性別に基づく差別は構造的暴力ではある。だが、それがゆえに32歳の既婚女性である柏木綾子さん（仮名）が、職場においても、私的領域とされる家庭においても、上司や同僚、あるいは夫からのハラスメントや言葉の暴力、本当は嫌な要求を、あたかも「自然なこと」として受けいれざるをえず、心身の健康が蝕まれていくのであれば、それは私的暴力でもある。</p>
<p><em>　</em>高校に入ってから非行少年と呼ばれるようになり、頻繁に暴れて人を殴ったり刺したりしていた29歳の青年、山本敦さん（仮名）が、傷害罪で逮捕されたとしたら、それ自体は私的暴力と判定される。しかし、その彼が、父親が事業に失敗したあげく多額の借金を抱えて自殺し、貧困のなかで少中学時代を過ごし、衣服の古さや汚さ、家庭環境を理由に何人もの生徒から高校に入るまでの5年間、日常的にいじめや嫌がらせを受けていたとしたらどうだろうか。彼の父親に救済措置ないしはセーフティネットがなかったこと、さらに彼自身や彼の家庭への経済的・精神的ケアがなかったこと、「いじめ」というかたちでの社会的差別を止めるすべがなかったこと、これらはすべて構造的暴力ではないだろうか。</p>
<p><em>　</em>死刑もまた、国家による殺人という意味では構造的暴力かもしれないが、実際には身体への直接的暴力がふるわれる。懲役刑も、究極的には、身体の自由を拘束するという意味では、直接的暴力と言えるだろう。冤罪の場合、またそのときの科学ではとらえきれなかった疾患や病状、鑑定結果などが理由で、死刑ないし懲役刑となった場合も、構造的暴力と私的暴力とが手と手を取り合う。戦争においても、人は、社会的アイデンティティを脱ぎ、髪の毛を剃ったり、軍服を着たりという「通過儀礼」を経て、別のアイデンティティを獲得し、「汝殺すなかれ」から「しかるべき対象を殺すべし」という道義を身につける。引き金をひけば、GOサインを出せば、「あちら側」の身体が傷つき、死を迎えるわけだが、この一連の行為を、私的暴力とみるか、構造的暴力とみるかを議論するのは、不毛だと言える。</p>
<p><em>　</em>もちろん、だからといって、「私的暴力」と「構造的暴力」を区別して考えること自体が無効だというわけではない。そうではなく、ここでのポイントは、ガルトゥングも正しく述べているように、私的暴力と構造的暴力、あるいは物理的暴力と非物理的暴力、直接的暴力と間接的暴力、それらのどちらか一方だけを解決するべきものではなく、ましてや、どちらかを用いて他方を解決するものでもなく、両者に同時に働きかけるアプローチが必要になるという点にある。</p>
<p><em>　</em>「私」と「構造」をつなぐもの。物理的暴力と非物理的暴力。直接的暴力と間接的暴力。象徴暴力の発現し観察される具体的な場と、象徴をつくりだし維持する制度や慣習。暴力それ自体と、それを取り締まる法の暴力。侵犯や違反する力と、それを管理する権力。前者と後者との両者にアプローチが必要だということになる。この点はのちに戻ってきて詳しく論じたい。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>【注】</p>
<p>1）　<span lang="EN-US">Galtung, Johan. “Violence, Peace, and Peace Research.” Journal of Peace Research, vol. 6, no. 3, Sept. 1969, pp. 167–91.</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>［© Yutaka Nakamura］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>※アプリ「編集室 水平線」をインストールすると、更新情報をプッシュ通知で受けとることができます。</p>
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			</item>
		<item>
		<title>第6回　暴力へのまなざし（1）</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/nakamura-yutaka/2197/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 14 Jul 2023 06:33:02 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[中村　寛]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://suiheisen2017.com/?p=2197</guid>

					<description><![CDATA[Ⅲ　暴力へのまなざし &#160; 　前項まで、いくつかの暴力概念を紹介しつつ、暴力の多面性を記述してきた。暴力そのもののいくつかの特性（物理的／非物理的）、象徴作用という人間の特性によってもたらされる暴力（象徴暴力）、&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/nakamura-yutaka/2197/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第6回　暴力へのまなざし（1）</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>Ⅲ　暴力へのまなざし</strong></span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>前項まで、いくつかの暴力概念を紹介しつつ、暴力の多面性を記述してきた。暴力そのもののいくつかの特性（物理的／非物理的）、象徴作用という人間の特性によってもたらされる暴力（象徴暴力）、暴力のもつふたつのベクトル（暴力／権力）、そして社会構造そのもののうちに、あるいはそれとともに発現する暴力（構造的暴力）である。</p>
<p><em>　</em>これらの概念に共通する点は、いずれも暴力現象の見えにくくも破壊的で致死的な側面を捉えようとしたことである。暴力は、見えやすい現象だけで成立しているわけではない。明示的な側面だけに眼を奪われると、わかりやすい部分への対症療法的なアプローチに終始し、根本的課題を見逃してしまう。</p>
<p><em>　</em>もう少しこの課題をていねいに言いなおしてみたい。というのも、繰り返しになるが、私たちのこの論考でのゴールは、暴力を精緻に分析したり、うまく解説したりすることではなく、暴力を縮減することにあるのだから。</p>
<p><em>　</em>暴力そのもののトータルな姿を、私たちは見ることができない。むき出しの暴力を直接的に目撃することはあるかもしれない。虐待や暴行などのかたちで被暴力を直接的に経験することもあるかもしれない。もしそれだけが対処すべき暴力のすべてだったとしたら、問題はもう少しシンプルだったかもしれない。しかし、それらの目撃や経験は、暴力のある側面を捉えてはいるだろうけれど、すべてではない。</p>
<p><em>　</em>私たちは、多面的である暴力の、ある側面をとりあげて「暴力的」と判断する傾向が強い。</p>
<p><em>　</em>そうだとすると、暴力にむける私たちのまなざしを、もう少し検討してみる必要がある。</p>
<p><em>　</em>繰り返すが、私たちは暴力そのものをトータルに捉えることはできない。私たち自身がサヴァイヴァーでないかぎり、あるいは居合わせた目撃者でないかぎり、私たちが眼にするのは、暴力そのものではなく、暴力の痕跡であるか、暴力の表象（表現されたもの）であることが多い。</p>
<p><em>　</em>暴力の痕跡は、苦しみや痛み、というかたちをとることがある。傷跡や瓦礫の場合もある。血痕や死体などの、なんらかの「残徴」であることも。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>ありふれた暴力（routine violence）</strong></p>
<p><em>　</em>歴史家のギャネンドラ・パンデイが「ありふれた暴力routine violence」という概念で論じた問題は、暴力に向けられる私たちのまなざしの「偏り」を批判的に検討するうえで、おおいに役立つ（注1）。彼は、特殊で非日常的な出来事ではなく、日常化され、自然化された現象としての暴力を問題視する。</p>
<p><em>　</em>パンデイが提供するチェックリストが興味深い。いくつか抜粋してみよう。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>a1) パレスチナやイラクにおける自爆攻撃</p>
<p><em>　</em>b1) イスラエル軍やアメリカ軍の戦車や空からのミサイルによる民家や村の破壊</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>a2) アフガニスタンにおける軍事的指導者のあり方</p>
<p><em>　</em>b2) グアンタナモにおけるアメリカ軍による尋問</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>a3) インナーシティにおける犯罪</p>
<p><em>　</em>b3) 警察の暴力</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>a4) 公開での斬首刑</p>
<p><em>　</em>b4) 電気椅子</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>前者（a群）は政治的マイノリティや少数派による暴力であり、暴力の認定を受けやすいのに対し、後者（b群）は当局や国家機関による暴力であり、暴力認定を受けにくい、とパンデイは指摘する（注2）。</p>
<p><em>　</em>もっとも、北アメリカや西ヨーロッパのようなリベラル民主主義を標榜する社会からの認識と、日本語圏から見る認識とでは、若干のズレがあるかもしれない。たとえば、a1とb1の比較などは。</p>
<p><em>　</em>しかし、もう少しパンデイの議論を追いかけてみよう。パンデイはさらに、暴力を用いる場合に、「残虐」あるいは「過剰なもの」として認識されやすい場合とそうでない場合があると延べ、次のようなリストを追加する。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>a5) 自爆攻撃</p>
<p><em>　</em>b5) 的を絞った爆破やデイジーカッター（強力な爆弾）</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>a6) 第二次大戦中の特攻隊</p>
<p><em>　</em>b6) 東京の51％を破壊し、一夜にして10万人の民間人を殺害する量の爆弾投下</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>a7) ムスリムの狂信性</p>
<p><em>　</em>b7) キリスト教徒の戦い（中世も近代も）</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>そして、これらのリストを比べると、すぐに以下の3つの指標が、私たちの暴力や残虐性の認定につきまとっていることを指摘できるという。</p>
<p><em>　</em>第一に、組織化の度合いと規模。組織化されていて規模が大きなものになればなるほど、残虐なものとはみなされにくい。</p>
<p><em>　</em>第二に、テクノロジー。洗練されていればいるほど、残虐なものとはみなされにくい。</p>
<p><em>　</em>第三に、人種（および階級、ジェンダー、文化）の偏り（注3）。</p>
<p><em>　</em>挙げられている比較のリストについて、日本語圏から見た場合、すべてに納得できるかどうかは疑わしい。暴力や残虐性の認定において想像される具体的なケースは、普遍的ではなく、暴力をまなざす身体とその位置によって、変化するからである。</p>
<p><em>　</em>たとえば、a5とb5の比較をみて賛成できるかどうかは、私やあなたが在日朝鮮人なのか、中国で教育を受けた日本国籍保有者なのか、1930年代生まれなのか、1990年代生まれなのか、男性なのか女性なのか、アメリカなどの英語圏の大学・大学院で批判理論の教育を受けたことがあるのかどうか、などによる。</p>
<p><em>　</em>どのような身体が、どこから、どのような距離感で見ているのか、それによってリストの構成要素は変化するのだ。もっとも、パンデイも気がついているように、彼の提供するリストは、これ自体に目的があるわけではない。むしろ、この暫定的なリストに否応なくあらわれている先の3つの指標に、重要性がある。</p>
<p><em>　</em>指標を踏まえたうえで、自分たちで自前のチェックリストを、実験的につくっていくことができるのも、こうしたリストの価値である。それは、自分たちの暴力をみる際の偏りに気がつくチェックリスト、ということになろう。</p>
<p><em>　</em>現在の日本語圏においては、次のようなリストを仮に提案してみたい。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>a8) チンピラ風の男が路上で喧嘩し、相手に傷害を加える</p>
<p><em>　</em>b8) スーツに身を包んだ男性たちが、環境アセスメントをハックし、山を崩し、地中に穴をあけて、リニアモーターカーや発電所などインフラストラクチャーを開発し、利益を得る</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>a9) 「テロリズム」というラベルを貼られた一連の暴力行使</p>
<p><em>　</em>b9) 「対テロ戦争」と自称した一連の暴力行使</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>a10) ストリートにおけるデモやプロテストでの叫び声やシュプレヒコール</p>
<p><em>　</em>b10) 外交官や首脳らによる密室での交渉と、その後の政策決定</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>a11) 宗教組織による教義の流布や儀礼実践</p>
<p><em>　</em>b11) 学校教育や企業内における身体の規律=訓練（体育祭の練習や部活動、企業研修を含む）</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>a12) 闘犬</p>
<p><em>　</em>b12) 格闘技</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>a13) ヒップホップのライムや身体表現</p>
<p><em>　</em>b13) ギリシア神話やオペラ</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>a14) クジラやイルカ、犬を殺して食すこと</p>
<p><em>　</em>b14) 牛、豚、鶏を大量生産-消費-廃棄すること</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>いかがだろうか。a群のほうが「暴力」や「残虐性」と結びつけて語られる傾向が強いのではないだろうか。あるいは、「不自然な」「病的な」「不適切な」行為としてまなざされることが多いのではないだろうか。</p>
<p><em>　</em>それに対してb群は、規模やインパクトにおいて、a群以上の大きさをもっているにもかかわらず、「自然な」「適切な」行為としてまなざされる。そして、それがゆえに、問題視されにくい。場合によっては、そのことが致死的な結果を招くかもしれない。</p>
<p><em>　</em>パンデイは、これらのリストの分析の次に、暴力が「異常なextraordinary」出来事として表現される傾向が強いことも指摘する。コロニアリズム、人種差別、階級差別、性差別など、日常のなかにコード化された暴力のかたちを論じてきた理論家たちですら、暴力を「過剰」「異常」「特異な現象」として扱ってきた、と。</p>
<p><em>　</em>たしかに、そのとおりかもしれない。近年の批判理論の発達と浸透や、構造的暴力への注目などによって、ある程度状況はマシになったのかもしれないが、今でも私たちは「暴力」を、非日常的で、特殊な、異常事態として見ることに慣れてしまっている。とりわけ、コロニアルな状況、人種的差別、階級差別を明快に経験することのなかった者にとっては、とくに。</p>
<p><em>　</em>複雑なのは、ある種の暴力の経験は、否定しようもなくある種の「過剰」、「異常事態」として経験されるということである。日常を壊され、「特殊な」経験を強いられるからこそ、これまでの日常を支えてきた言葉を壊され、文化的参照軸をうしなう。虐待や拷問などによってトラウマを受けた者たちが、語れなくなるのはそのためだと考えられる。この点は、のちに戻ってくることにしよう。</p>
<p><em>　</em>その一方で、暴力を日常から切り離し、「異常」と捉えることの弊害は、実際には私たちの日常的な制度や慣習が、のちに「異常な事態」として経験されるかもしれない暴力を生みだしていることに、気がつかないことである。また、それゆえに、私たちが特定の暴力のかたちに慣れてしまい、それが「暴力である」と認識しにくくなることである。</p>
<p><em>　</em>こうした点を浮き彫りにする点で、パンデイの「ありふれた暴力」の概念は、きわめて重要である。彼の概念も、ガルトゥングの「構造的暴力」と同様、暴力の所在を、特定の個人や集団に定めず、より気づかれにくく、したがって問題化しにくい、制度や慣習行動、語彙や文法、法律や政策などにおく方向性を示していると言える。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>【注】</p>
<p>1）　Pandey, Gyanendra. Routine Violence: Nations, Fragments, Histories. Stanford University Press, 2006.</p>
<p>2）　Pandey, Gyanendra. Routine Violence: Nations, Fragments, Histories. Stanford University Press, 2006, p.3.</p>
<p>3）　Pandey. Ibid. pp.4-5.</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>［© Yutaka Nakamura］</p>
<p>&nbsp;</p>
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		<item>
		<title>第7回　暴力へのまなざし（2）</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/nakamura-yutaka/2199/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 14 Jul 2023 06:33:16 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[中村　寛]]></category>
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					<description><![CDATA[緩慢な暴力 　パンデイの指摘する「ありふれた暴力」の概念は、近年指摘される制度的暴力（institutional violence）や組織的暴力（systemic violence）の概念にもつながる。私やあなたにとって&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/nakamura-yutaka/2199/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第7回　暴力へのまなざし（2）</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><strong>緩慢な暴力</strong></p>
<p><em>　</em>パンデイの指摘する「ありふれた暴力」の概念は、近年指摘される制度的暴力（institutional violence）や組織的暴力（systemic violence）の概念にもつながる。私やあなたにとって「ありふれたもの」、私たちの「あたりまえ」を構成するもの――たとえば、教科書や新聞、雑誌、テレビ番組だけでなく、広告、ドラマ、映画、日常会話、とりわけロールモデルとなる大人たちの言葉遣いや所作、政治家や有名人やインフルエンサーや学校教員の発言など――それらが暴力につながっていると彼はいう（注1）。</p>
<p><em>　</em>アメリカにおいては、黒人、ラティーノに対する警察官の殺害（ポリス・ブルタリティ）や、嫌がらせ、高い逮捕率や検挙率などにつながっている。日本においては、議会や企業経営層における女性率の絶望的なまでの低さ、高い死刑賛成率だけでなく、寝たきりの障がい者を次々に殺す事件、強制性交や性暴力に対する度重なる無罪判決や被害者女性への攻撃、高齢者を廃棄することへの賛同の声、などにつながっている。</p>
<p><em>　</em>パンデイにとって暴力は、マルセル・モースにとっての贈与と同じように、「社会的事実」として扱うべきことがらで、社会のあらゆる制度に関係している。それゆえに、社会制度や日常的慣習のなかに位置を占める暴力は、より大きな暴力への「耐性」ないし「許容」をつくるという。</p>
<p><em>　</em>近年ではしかし、人間による人間への暴力、人間がかかわる制度や慣習による人間への暴力に加え、人間による非人間への触れ方や、生命圏での非意識的な振る舞いから帰結する深刻かつ致死的なダメージを、暴力として概念化しようとする試みもでてきている（注2）。動物愛護の観点からの人間以外の生き物への権利付与、というだけにとどまらず、森林や生物多様性を含む環境の破壊がそれである。</p>
<p><em>　</em>背景にはもちろん、環境問題や温暖化／気候変動による危機意識の高まりがある。2000年に発表されたパウル・クルッツェンとユージン・ストーマーによるエッセイが、「人新世anthropocene」という単語で、これまでとは明らかにレベルの異なる人間の地球に対するインパクトを語った（注3）。産業革命以降、大気中の二酸化炭素レベルと気温の急激な上昇、人口の爆発的増加、それにともなう生産-流通-消費-廃棄活動の激化、生物の凄まじい勢いでの絶滅などを考えると、人間の活動が未曾有のインパクトをもっていることはあきらかで、もはや完新世（Holocene）と呼ぶのはふさわしくない地質学上の時代区分に入っているのではないのか、と。</p>
<p><em>　</em>様々なデータを重ね合わせるかぎり、人間の活動が地質学上の時代区分を変更するほどのインパクトをもつということが、すでに人新生という言葉に不穏さを漂わせている。どうやら、人間は他の生命を滅ぼしてまわり、生態系を破壊しまくっているらしい。そして、なによりもそのことによって、人間種自体が大行列をなし、滅びに向かってひた走っているらしい。</p>
<p><em>　</em>環境問題や温暖化／気候変動は、人間の活動、とりわけ非人間に対する振る舞い方が大きく関与しているが、それがやがては還流し、時間を超えて人間を痛めつける結果になっている。そういう意味では、私を含むあらゆる人間が、日常的に、無自覚に、あたかも自然にとる行動が、ゆっくりと、静寂のうちに、いつのまにか種としての人間を滅ぼす――そういう種類の暴力である。それを、ロブ・ニクソンは「緩慢な暴力slow violence」とよんだ。ゆるやかに進行し、長く影響を与えつづけ、眼につきにくく、注意を向け続けることをつい忘れてしまいやすい暴力である（注4）。ニクソンは書いている。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p style="padding-left: 40px;">緩慢な暴力の作用が狡猾にもじわじわとひろがるのは、見世物を楽しむ時間と、そうではない時間とに与えられる注目度が不均衡だからである。すぐに楽しめる見世物を崇める時代にあって、緩慢な暴力には、映画館を満員にし、テレビの視聴率をつり上げるような、わかりやすい特殊効果が欠けている（注5）。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>ここでもまた、私たちの日常的な“かまえ”が、将来にとって甚大なインパクトをもつという意味で、「構造的暴力」や「ありふれた暴力」の概念が有効なのかもしれない。しかし、ニクソンは、「構造的暴力」と「緩慢な暴力」との共通性に言及しながらも、それらの違いについても書く。構造的暴力が、その構造を静的で固定的なものとして捉えるのに対し、緩慢な暴力の概念は、時間に注目する、と。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p style="padding-left: 40px;">構造的暴力がもつ静的な含みとは対照的に、私は緩慢な暴力という概念をとおして、時間、うごき、そしてどんなに緩やかなものであっても、変化という問題を前景化しようと努めてきた。緩慢な暴力について、時間的側面をあからさまに強調することで、私たちはそれを表象するという課題や想像するというディレンマを全面に押し出すことができるようになる。そうした課題やディレンマは、この種の暴力が知覚しにくいからだけでなく、時間のはたらきによって暴力が本来の原因から切り離され、変化を知覚できなくなることによってももたらされる。ガルトゥングが40年ほど前に構造的暴力論を提唱して以来、24時間365日、見世物に導かれるようにメディア生活をおくる私たちの時間の過ごし方は大きく変化した。緩慢な暴力について語ることは、現代のスピードの政治性に直接関与することを意味するのだ（注6）。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>環境問題を配慮するニクソンの暴力概念が、制度や日常的慣習の空間的ひろがりだけでなく、時間的側面に注目していることは注目に値する。人間ほど記憶や歴史（意味）にとらわれている生き物はいないというが、この場合、人間を中心に語ったり語られたりする記憶や歴史とは異なる意味で、人間のおこなったことが時間をおいて非人間を介して暴力的インパクトをもつのである。</p>
<p><em>　</em>緩慢な暴力の概念的新しさは、暴力の対象を、単純に特定の個人や集団だけに設定しておらず、より深く、複雑に捉えようとしている点である。私たち人間が暴力を振るって傷つける対象は、モノや生き物、環境にまでおよぶ。さらにいえば、人間とモノ、生き物、環境との関係にまでおよぶ。そうなってくると人間は、加害者であると同時に被害者ということになるだろうか。自らの振る舞いによって、自らの首を締めているのだから。</p>
<p><em>　</em>しかし、ニクソンが正しくも述べるように、振る舞いから影響が出るまでに時間がかかる場合、暴力の加害者と被害者がまったくの同一人物である可能性は低く、被害者は次の世代、あるいはさらにそのあとの世代、ということになろう。また、たとえば人間が有害物質を撒き散らしたとしたら、それに全員が等しく晒されるわけではない。そこにはまた、社会階層や格差、差別構造が反映されることになる。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>【注】</p>
<p>1）　Pandey. Ibid. p12.</p>
<p>2）　Nixon, Rob. Slow Violence and the Environmentalism of the Poor. Harvard University Press, 2011.</p>
<p>3）　Crutzen, Paul J., and Eugene F. Stoermer. “The ‘Anthropocene.’” Global Change Newsletter, vol. 41, 2000, pp. 17-18.</p>
<p>4）　Nixon. Slow Violence and the Environmentalism of the Poor.</p>
<p>5）　Nixon. Ibid. p.6.</p>
<p>6）　Nixon. Ibid. p.11.</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>［© Yutaka Nakamura］</p>
<p>&nbsp;</p>
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		<title>第8回　2023年9月上旬公開予定</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/nakamura-yutaka/2247/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 14 Jul 2023 06:33:31 +0000</pubDate>
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