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脱暴力の思想

殺される《叫び》のために

中村 寛

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第1回 暴力の縮減可能性――まえがきに代えて

    I 暴力の縮減可能性――まえがきに代えて

     

     暴力はいたるところにある。これまでも、これからも、いたるところに。最も平穏な場所や時間にも、最も寛容な贈与のなかにも、退屈だけども無垢な日常のうちにも。けれども、そのようにして、ほとんどすべてを暴力というコトバで表現すること自体、暴力である。あるいは、暴力になりうる。その力の作用する個別具体的な場や関係を無視することで。しかし同時に、特定の暴力について語ることは、他の暴力の形態を無視し、排除することでもあるのだ。それから、苦しみや怒りというものがある。はじめから、私たちがこの世にうまれるはるかまえから。どのようにして特定の時間や空間での暴力を認識し、それについて語ることができるだろうか。どうやって、暴力を再生産しないようにしながら、それについて書くことができるだろうか。どのように他者の苦しみや痛み、不満や怒り、恐れに触れることができるだろうか。

     --というふうに、2008年に提出した博士論文Community in Crisis: Language and Action among African-American Muslims in Harlemの書き出しに記した。今や、次のように修正を加えないといけない。認識し、語り、書き、触れるだけでは不十分である、と。

     暴力を主題におく研究はすでに数多く存在する。しかし、あたりまえだが、暴力は研究のために存在するのではない。暴力のみごとな分析は、どこかむなしい。それはすべて事後的な整理であり、渦中においてはほとんど役立たない。そして、どんなみごとな分析も、暴力を今のところ止めることができていない。どんなすぐれた哲学者も、思想家も、研究者も、作家も、戦争は止められないし、民族間(内)の暴力も、家庭内のドメスティック・ヴァイオレンスも、教室内のいじめも、路上の殺人も、止めることができていない。全員、あとからやってきて、それについて語り、描写し、分析するだけである。

     暴力をそれっぽく描写し分析するのではなく、暴力を防ぐことはできないだろうか。それに歯止めをかけ、縮減し、その力の効果をかぎりなくゼロに近づけられないだろうか。暴力をふるう者が、いつのまにか自滅したり、ふるうことがばかばかしくなったり、はからずも相手を救っていたりするような仕組みをつくれないだろうか。気づかずに暴力をふるう者が、すぐにそのことに気づいてしまい、気づかずに利他的にふるまってしまうような仕組みはできないだろうか。

     もちろん、暴力を完全に断ち切ることは難しいだろう。暴力を完全になくそうとすれば、さらに大きな暴力を使ってそれを断ち切ることになる。そうだとすると、暴力に対抗するという名目のもとで、あらためて暴力を発動することになる。

     しかし、暴力に肩透かしをくらわせたり、中和させたりすることで、その力を縮減することはできないだろうか。どのようにすれば、そのような暴力の縮減は可能だろうか。

     本研究は、脱−暴力(de-violence)の研究である。暴力を縮減するための仕組みと、それを支える理論について、語っていこうと思う。暴力の研究については、これまでずいぶんとたくさんの記述と分析がある。とりわけ、見えやすい様態の暴力については、枚挙に暇がない。世の中にどれだけひどい暴力があるかを描いてみせる本や映画、ドキュメンタリーは数多くあるし、そうした暴力がいかにひどい結果をもたらすか、についても複数の文献がある。それらについては、紹介しながらまとめていくが、それが本研究の目的ではない。

     本研究で示したいことは、あらゆる様態の暴力の縮減可能性である。戦争の軍事的暴力も、人種・民族間や人種・民族内で起こる暴力も、路上の個人間で起こる殺人や傷害も、家庭内で起こるドメスティック・ヴァイオレンスも、学校や職場でのいじめやハラスメントも、差別や警察の残虐行為も、環境や非人間への暴力も、表象や言説の暴力も、すべて縮減可能であるということ、しかもその場合、心ある少数者の社会運動によって、つまりは属人的な努力によってではなく、仕組みによって、行為者がたいして考えることなしに、縮減されていく仕組みをつくることが肝要だということを、これから示していこう。

     それに先立って、暴力の研究が必要だろうか。正直、以前ほどの確信はない。かつてなら胸をはってイエスということができたのだが……。しかし、これまでの暴力の研究を、多くの人が参照可能なかたちにしてまとめておくことは、無意味ではないかもしれない。また、そうすることで、暴力という言葉の複数の文脈を整理することも可能になる。なので、脱暴力の思想を描くまえに、まずはそれからやっていこうと思う。

     暴力と権力との関係はなんだろうか。暴力はいつ、どのような状況で顕在化したり、隠れたりするのだろうか。見えにくい暴力、と誰かが記述するとき、その暴力は誰に見えやすく、誰に見えにくいのだろうか。暴力の経験の相が、1人称、2人称、3人称と人称変化を起こすとき、それらの「客観的」記述は可能だろうか。軍隊や兵器がかかわる巨大な集合的暴力と、小集団の暴力とのあいだの関係はなんだろうか。物理的暴力と、表象の暴力、象徴暴力、との関係はなんだろうか。暴力と社会的痛苦の関係はなんだろうか。暴力の「加害者/被害者」という文法は健全だろうか。加害者が被害者になり、被害者が加害者になるということはあるだろうか。暴力の主体と対象は、人間だけだろうか。非人間にエイジェンシーを認めるとき、非人間も暴力をふるうだろうか。非人間に対する暴力をどのように捉え問題化できるだろうか。暴力を非日常的で特異な現象としてしまいがちな傾向は、なにに由来するのだろうか。

     まず、上記のような問いにこたえてみたいと思う。

     

    [© Yutaka Nakamura]

     

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    第8回 2023年9月上旬公開予定