象徴暴力
「象徴暴力symbolic violence」という概念をひろめたのは、社会学者ピエール・ブルデューの功績が大きい。「文化資本」や「ハビトゥス」などの彼とひもづく概念と同様、象徴暴力も、見えにくい営為や、言動の背後にある、意識されにくい構造(ある種のパターンを成立させていることがら)をとらえようとする概念である(注1)。
たとえば、象徴暴力には、女性に当然のようにあてがわれる役割や期待されるふるまいと、そのことと連動する差別や排除、および社会的序列や階層の再生産、といったことが含まれる。ひとむかしまえなら、いや、今でもひょっとするとそのままかもしれないけれど、あたりまえのように女性が家では台所にたち、食事をつくり、子育てをし、オフィスではお茶をくみ、サポート役に徹し、それがゆえに、あたりまえのように彼女たちよりも同期の男性が仕事の中心をにない、昇進し、といったサイクルのなか、女性は、結婚・出産を経て、仕事場を離れることが期待される。そしてそれがゆえに、採用、昇給、昇進においても、仕事量や質を「客観的」に評価した結果、男性が優遇されることになる。
戯曲化し、単純化した物語ではあるが、あながち間違っていないことは、以下の統計からもわかる。
日本の女性社長比率 8.2%(2022)帝国データバンクより
衆院議員の女性比率 9.7%(2021 総選挙時)内閣府男女共同参画局ウェブサイトより
参院議員の女性比率 22.6%(2019 通常選挙)内閣府男女共同参画局ウェブサイトより
大学・大学院の女性比率 22.5%(2014)内閣府男女共同参画局ウェブサイトより
これを差別と呼ばなかったら、いったい差別とはなんだろうか。けれども、象徴暴力の概念があきらかにする点は、単にそこに差別がある、ということだけではない。差別や排除がおこるメカニズムとして、差別する側も差別される側も、そしてそれを取り巻くコミュニティの成員も、三者ともが象徴を共有し、受け入れてしまうからこそ、階層構造が再生産されるのだと、ブルデューは指摘する。
もちろん、ある象徴のもと、全員が一律にある特定の価値を受け入れるわけではない。表面的に個人が、特定の価値に反発をおぼえ、抵抗を企てることはありうる。しかし、個々人が反発したり抵抗したりするかどうかは、ここではあまり関係がない。社会集団としての既成の価値意識がどのようなものとして共有されているかが重要なのだ。
たとえば、現代の日本の(とくに東京近郊の)日常生活のなかで、「違和感のない言動」「自然な姿」として、次にようなものが共有されているといえないだろうか。
・背広姿で国会に出席する60代男性の政治家。彼はもともと政治家の家系で、自分も父を見習って当然のように政治の世界へと進んだ。その横で質疑応答のサポートをするスーツ姿の50代男性官僚。縦割りの省庁の世界をなんとか変えたいと思いつつ、目の前の仕事におわれ、結局50代を迎えることになってしまった。
・スーツ姿で出社する40代男性サラリーマン。どんどん出世していく同期の連中を見ていると、そろそろ転職すべきかなと思っている。が、今よりよい条件の職場があるのかどうかわからず、不安を抱えている。子どももかわいいし、妻とも仲良くしたいが、なぜか正直に自分の気持ちを表にだせない。家に戻ると、子どもからも妻からも、嫌そうな顔をしているようで、つらい。
・ビジネスカジュアル服で会社から帰宅ついでに子どもを迎え、家に戻って料理をする40代女性。共働きでずっとやってきたけれど、育児や料理はなぜか自分だけがやっていて、正直手伝ってほしいとも思うが、あまりそういうことを言うのも「わがまま」かなと思ってしまう。土日も、夫は気ままに同僚たちと飲みに出かけていくが、自分が出かけることはほとんどしない。だめだと言われたわけでもないのに。
・保育園や幼稚園の送り迎えをする30代女性。子どもを産むまではバリバリと働いてきたが、今は離職してしまった。仕事に戻りたい気持ちはあるが、今さら戻れるのか不安な気持ちも日に日に強まっている。最近、「リスキリング」が話題になって、新しいことに挑戦するのに助成が受けられるならと思う反面、正直そんな余裕なんてないのかもと、モヤモヤしている。
いかがだろうか。簡易的なマーケティングリサーチやUXリサーチの「ペルソナ設定」に出てきそうだが、あながち間違っていないのではないだろうか。もちろん、時代とともに急速に変化することもあるだろうが、男女の固定された役割自体は、しぶとく残っているのではないだろうか。
他方で、それほど「自然」に見えない言動や姿もある。たとえば、以下のようなものはどうだろうか。
・若年から中高年までバランスよくばらけ、男女比も1:1の通常国会で堂々と同性婚の賛成をのべ、称賛をあびる30代の女性議員。彼女のパートナーは保育園ではたらく40代女性で、アフリカ系の父とフィリピン系の母をもつ。5年前に日本国籍を取得した。
・ヴェンチャー企業の管理職の仕事から戻り、子どもを迎えて帰宅したあと、キッチンに立ち料理する60代男性。彼の現在の妻は30代女性で、医学系の研究職として働くが、同じ家には彼の50代の元妻と、彼女の現在の恋人(40代男性)も一緒に暮らしている。4人で子どもを囲んでの食事はなによりも楽しいひとときだ。
・2人の30代男性にはさまれ、両者と手をつないで駅まで楽しそうにあるく40代のポリアモリーの女性。3人で何度も話し合い合意した「家族」のかたちだが、まだ周囲には言うことができていない。でも、今住んでいる近所には、多様な家族形態で暮らす人が多く、過ごしやすい。ここだったら、人目を気にしないで自分自身でいられると感じている。
・30代のキャリア志向の強い女性は、2人のまだ小さい子どもと夫を東京に残し、上海に単身赴任し、初の2年間の海外生活を満喫している。結婚してからはなかなか外に飲みに行けなかったが、東京の生活を離れたら、上海で知り合った友人たちや、日本から遊びに来た友人たちと頻繁に外食を楽しんでいる。スマホがあれば、子どもたちとはいつでも、どこでも、やり取りできるので、さびしさや不安もない。夫はとても理解があり、むしろ子どもたちとの時間が増えるといって喜んで送り出してくれた。
いかがだろうか。現実に存在してもおかしくないし、またある場合には存在しているにもかかわらず、それらは違和感をもってうけとめられるのではないだろうか。それがゆえに、前者の姿に体現された価値意識のなかに生きる者は、無意識のうちにその「あたりまえ」を承認しているし、後者の価値意識を生きる者は、それだけで「異端」とみなされる。つまりは、前者は後者を抑圧するのだが、そのときの抑圧はごく「自然に」おこなわれる。
さらに問題なのは、こうした差別が、次なる差別と排除をうみ、偏見を醸成ないし補強するという点である。数学や物理が得意だった女子高生は、理科系や工学系の大学を見学にいき、女性の少なさに愕然となり、研究者への道をあきらめるかもしれない。女性議員の少なさや、その世界で慢性的に横行する性差別的な慣習行動をみて、高い能力と感性をもつ女性が、政治の世界に進むのを断念するかもしれない。社長になれば、大きな力を発揮し、停滞気味だった会社の今後をアップデイトさせていくことができたかもしれない女性が、子育てと仕事の両立に悩み、ストレスで身体をこわし、休職・離職を余儀なくされるかもしれない。
このような文脈において、差別や排除、あるいは支配がおこなわれる。
そのことのひとつの帰結として、ひとりの女性の自立が阻害され、彼女が夫からの要求を意に反してのみつづけるとしたら、周囲からの圧力で自らをおしこめたり、ストレスを抱えたりして、身体を壊したとしたら、賛同者がいないという理由で自らが受けたハラスメントや差別について声をあげることができないとしたら、それは暴力ではないだろうか。
特定の個人や集団を攻撃しているわけではないのに言いたいことが言えないこと、危害を加えているわけではないのに身動きがとれないこと、その背景には、言いたいことを言い、うごきたいようにうごけば、危害を加えられたり、罰せられたりと、なんらか自分の損失につながるという心理がはたらいている。
そうだとすると、象徴暴力の背景には、暴力の可能性があるのだろうか。たしかにそういえるかもしれない。しかし、暴力の可能性を背景とした非物理的暴力には、脅迫や教唆などもある。
私としては、暴力の可能性があるかないかで象徴暴力を特徴づけるのではなく、次の事実に注目してみたい。
すなわち、日本の場合、戦後の飛躍的な経済成長が神話化されて語られることがあるし、その後のバブル期の好景気とあいまって、日本の経営思想や方法、政策が、成功体験とともに美化されることがある。だがじっさいには、家父長制の残余を下敷きにした家族制度とそのもとでの「シャドウ・ワーク」(cf.イヴァン・イリイチ)(注2)、会社の終身雇用制度などの社会保険を根幹にすえた徒弟制的な組織と個人の関係(たとえば、そのもとでの同調圧力下でのサーヴィス残業)などに支えられて、成し遂げられた。アメリカ合衆国の繁栄が、先住民からの略奪と強制移住、奴隷制のもとでの強制労働などによって可能になった構造に近い。
それゆえに、象徴暴力によって可能になった経済的な豊かさの獲得は、ふたたび、この象徴暴力を強化したと言っていい。うまくいっているのに、なにが問題だというのですか、というわけだ。ただし注意したいのは、象徴暴力の効果の範囲は広範におよび、その暴力によって恩恵にあずからないばかりか、不利益を被る者にもおよぶという点である。
法制度上の差別の撤廃や是正がおこなわれたあとでも、文化規範や慣習、価値意識などの制度のうちに、支配-被支配関係が根強くのこり、内面の劣等感・優越感、偏見などをうむのは、そのためである。
ふりかえると、ここに書いてきた象徴暴力というのは、基本的に制度的な暴力の一種と考えることができる。それは、法や慣習のような制度のなかで機能する。そしてそれは、機能することで「利潤」をうむ。経済的利潤だけとはかぎらない。すでにできあがった象徴暴力のなかで、既成の価値意識を承認しつつ場に参入することのほうが、当人にとってメリットが大きいのだ。
そこから飛び出して(飛び出したふりをして)、批判をあびせることが可能なのは、その本人が能力においてすぐれているからではなく、そうすることがその本人にとって「商売」になっていたり、なんらかの「卓越化=差異化distinction」のゲームに参入していてそのことが本人にメリットになっているか、本人がきわめて守られた特権的な位置にいるか、のいずれかである場合が多い。もちろん、自分にふりかかえる危険を知りつつ、勇気をふりしぼってその場にそぐわない批判を語る、数少ない智者たちもいたけれど。
制度的暴力という概念も、構造的暴力と同様、やはり非物理的でありながら、致死的な効果をもつものである。この点はあとで戻ってきたい。
【注】
1) Bourdieu, Pierre, et al. An Invitation to Reflexive Sociology. University of Chicago Press, 1992; .Bourdieu, Pierre (translated by Richard Nice). Outline of a Theory of Practice. Translated by Richard Nice, Cambridge University Press, 1977; ブルデュー,ピエール(田原音和監訳)『社会学の社会学』 藤原書店、1991=1980.
2) イヴァン・イリイチ(栗原彬・玉野井芳郎訳)『シャドウ・ワーク――生活のあり方を問う』岩波書店(同時代ライブラリー)、1981=1990.
[© Yutaka Nakamura]
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