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過去と未来の“瓦礫”のあいだで

新原道信

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第2回 “瓦礫”の予感(2)

    3.“予感”の背景

     

     子どもの頃の“予感”には、“背景(roots and routes)”がある。このオンラインマガジンの編集者である西浩孝さんに、『境界領域への旅――岬からの社会学的探求』(大月書店、2007年7月)という本をつくっていただいたことがある。同書の「過去と未来の『瓦礫』の間で」という一章で、東京大空襲のことを書かせてもらったのは、母親のことがあったからだ。わたしの母親は、1927年8月15日に東京で生まれ、1945年3月10日の東京大空襲で「たまたま」隅田川の遺体とならず、特攻隊の生き残りだった父と出会い、わたしを生んだ。

     都市が「全面的」で「壊滅的」な攻撃の対象となり、「証人」が生き残ることのない「無差別」な攻撃は、効率的な破壊と殺傷のための「知」の結集の成果であった。計画した人間や1万メートル上空から爆撃した人間は、生き残る確率が高いが、だんだん近寄ってくる爆音を聞き、空を見上げた人間のほとんどは、即死か焼け死んでいる。母の小学校の同級生とその家族のほとんどが、瞬時にその生活、そのいのち、そこに生きていたという記憶もろともに一夜で消し去られた。

     母が、生まれ育った浅草を、夫に付き添われ訪れたのは、「あの空襲の日」から60年以上も経た後のことだった。失われた「その街」を想いつつ、ふれないよう、考えないようにしていた。とまどい、逡巡し、どうにかやっと、それでも生きているうちに一度だけでも「帰ろう」と思い立ったときには、「あの日」をかろうじて生きのびた同級生たちは、すでに多くが亡くなっていた。

     父がふたたび海峡を渡り、故郷の港町への帰還を果たしたのは、戦後40年ほど経た後のことだった。自分の祖父が建設にかかわった大講堂や市庁舎が、まだそのまま残っていたと喜んだ。しかし、あの頃の「その街」はそこにはなかった。日本帝国下につくられた日本人街や自分の父親が勤めた貿易会社は無かったものとなっていた。「8.9」の閃光を、長崎県・川棚の特攻隊訓練基地で目撃した父は、10月に体当たり攻撃をするはずが日本帝国の瓦解によって「たまたま」生きのびた。亡くなるまでに、「そのこと」を語ったのは、一度きりのことだった。

     そのせいだろうか。子どもの頃から、自分の存在の不確かさ、「たまたま」生まれ育っていることの偶然性、「寄る辺ない」「片居」のものという感覚をずっと持ち続けてきた。小学生の頃、はじめて父親に、「なぜ特攻隊員になったの。死ぬつもりだったの」と聞いたことがあった。父は何も言わず、書棚から、吉田満の『戦艦大和ノ最期』と、真珠湾攻撃の総隊長・淵田満津雄の証言についての本を渡してくれた。子どもにはひどく難しく、手をふれればバラバラになってしまいそうな古い本だったが、なぜか心ひかれ、本のなかに吸い込まれるように頁をめくった。

     「敗戦への道」と「華々しい開戦」。この“対位的(contrapuntal,  polyphonic, disphonic and displaced)”な贈り物は、ずっと謎かけとしてこころに残った。特殊潜行艇で真珠湾にむかい沈没してしまった兵士とたまたま助かり救助されてしまった兵士の写真、戦艦大和の沈没の後、重油の海で米軍機からの機銃掃射で、一人また一人と徳之島沖の海底に沈んでいく少年兵、その慚愧と慟哭が心を離れなかった。

     父親はなぜ朝鮮半島で生まれたのか、その意味を考えることが、自分にとっては、人間と社会の意味を考えることだということを、『ホモ・モーベンス――旅する社会学』(窓社、1997年4月)という本で書いた。それを読んだ父は、なにも言わずに朝鮮半島からともに引き揚げた旧友の詩人・大野新さんに本を送った。しばらくして、父宛の手紙が届いた。父はまた、なにも言わず、その手紙をわたしに見せた。これがいつもの父との会話なき対話のかたちだった。

     

    ・・・・・・道信氏のお仕事は、私などにとっては、考えも、実行する勇気ももたない学問(実行して体験するしかない学問)なので、ひたすら感嘆しました。特に84ページ(自分自身の“根”について)をよんだ時には、どきっとしました。貴兄はこんな息子をもって幸福なのか不幸なのか、私だったら引き揚げ以来潜在的に感じている、存在の傲慢さのような意識を、身体を張って償っているな、という思いで、一寸いたたまれなくなる思いです。「根」をさぐるということを、地球規模の、言葉としても単一ではないところでたしかめてくるようなことなど、病弱な胃腸の弱い私などは、想像するだけでたちすくんでしまいます。交通事故をおこして入院したり、「内なる異文化」をかかえて相互に流動化していくきっかけを感じるなど、生きた社会学そのものですが、これが自分からの流れだと思うと、ぴりっとさせられませんか。文のなかには谷川俊太郎の引用もありました。私のような逼塞者は、ご子息の対談者とはなりえませんね。でもこういう無謀な行動を思いたち実行するのは、新原君の血族でしょう。でも、戦争に負けてよかったのは、世界をおそれない人たちがでてきたことですね。自分の書いたものを読みかえしてみると、セマイ!セマイ!と思わざるをえません。貴兄も脳のゼンカ者ですが、お互い、飲みながら死にべたでいましょう。私のことを道信氏にあまりセンデンしないようにして下さい。 大野新」

     

    4.ふれる重さ

     

     これは、『境界領域への旅』の「あとがき――社会学以前の不随意筋と髄液について」でも紹介させていただいたお手紙である。大野さんがおっしゃる「身体を張って償っている」は、父親の世代が語れず/語らずにいたことがらの扉をこじ開けることでもあった。ふれることがそのことがらにかかわるすべてのものの魂を汚すこともかもしれないと識りつつ、自らの手を汚すという“良心の呵責/罪責の感覚”である。

     そのことに気づいたのは、『複数の沖縄――ディアスポラから希望へ』(西成彦・原毅彦編、人文書院、2003年3月)というアンソロジーに参加させていただいた後、編集者のOさんに下記のようなお手紙を書くなかでのことだった。

     

    ごぶさたしております。お返事を書こうと思いながらなかなかそれもできずに昨日、イタリアより帰国してやっといま、時差ぼけ?のせいか夜半に目を覚ましてこのお手紙を書き始めました。・・・・・・ふれる(介入する)ということでいつも想起することがらがあります。大学3年生の時に、心身のバランスを崩し、伊豆で禅寺に通いながら「養生」していた時、朝鮮半島の群山という町で生まれ育った父親の旧制中学時代の友人が、韓国医師会の仕事だということで日本にやってきました。日本帝国のもと、旧制群山中学からソウル大学医学部に進学し、医師会の会長などを務め、全羅北道の「輝ける星」となった同級生でした。いまはなき日本帝国のもとに存在していた日本人街のあった故郷の港町からの来訪者であった韓国人夫妻を、父親にとっては「異郷・異境」の地である伊豆半島で出会った元教え子に運転手を頼み、箱根を案内しました。芦ノ湖の遊覧船に乗り、韓国人医師夫妻と私だけになった時、唐突に、おずおずと、しどろもどろな日本語で、「私は父親の一族もまた、あの戦争に加担したという想いを持っています。私はどのように償えばよいのでしょうか」と暴力的な言葉をなげかけました。

    夫妻は遊覧船の最後尾で、強い風にあおられながら、「もう、むずかしい日本語はしゃべれないけれど」と前置きした後に、「あなたのお父さんはよい友だちです」とだけ答えました。そして、別の同級生、いまでは、地元の校長会のまとめ役となっている友人と父親が再会した時、「二人は言葉もなく、ただ抱きあって泣いたのですよ」という話をしてくれました。二人は日本人と朝鮮人双方の喧嘩の総大将だったのだということでした。これは当時の私にとって、加害の物語でもカタルシスにも回収されない不可解な応答でした。

    その時、気づいたことは、父親が朝鮮半島で生まれ育ったということ、これは両親たちの世代の問題なのではない。わたしの世代がどう生きるかの問題なのだ。遮蔽しようと思えば、閉じたままでいようとすればいられる問題に、扉をこじ開け、介入し、周囲の人間を巻き込み、ズタズタにして、敗北するしかない隘路へと身を投げ出すか否かという問いかけなのだということに気づきました。

    それは、「自分」の“背景”に在る“根本問題(fundamental problem)”を切り出すこと、身を切ることで自分もかかわったひとも血を流すことになるような「無謀な行動」、問題意識のインヴェンションです。このあきらかなる介入(intervento)の暴力を自覚し、罪責感とともに“識る”ことの「業」を引き受ける(übernehmen/assumere)こと、遮蔽しようと思えば出来ないことはないと思われることがら、ふれることの重さをあえて境界を越えて選び取る(die Verantwortung nehmen/ assumersi la resposabilità)ことなのだと、それ以来思うようになりました。・・・・・・

     

    5.“瓦礫”の出現の前で

     

     「9.11」の後、“未発の瓦礫(rovine nascenti, nascent ruins)”を意識しながら書いた『境界領域への旅』では、2005年5月9日の「ヨーロッパの戦勝記念日」への「ひっかかり」を書いた。「ベルリンを解放した」ロシアの「対独戦勝記念式典」に、アメリカ、フランスなどの「戦勝国」の首相・大統領のみならず、ドイツ、日本、イタリアといった「敗戦国」の指導者が列席し、「自由のために戦った兵士」を「追悼」し、「自由を愛するものたちの勝利」を祝福した。この大同団結の「祝福」の背後に在る“特定の場と時間に生起したことがらを忘却する性向(amnesia)”がもたらすかもしれない新たな災厄への“予感”があったからだ。“予感”“予見”を書いたつもりの作品だった。

     2010年4月から2011年3月まで家族をつれて、「第二の故郷」サルデーニャに滞在したが、滞在生活の最後に「3.11」が起こった。迷い抜いた末、急遽3月14日に帰国した。その後しばらくは、親たちから引き継いだ過去の“瓦礫”の情景がよみがえり、くずおれてしまっていた。

     “瓦礫の出現(rovine emergenti, emerging ruins)”に直面し、“予感”し“予見”していたことに対してなにもなし得なかったことを後悔した。本当に遅ればせながら、いま直面している人間と社会そのものの“内面崩壊/亀裂(degenerazione umana/spaccatura antropologica)”を考え、“書き/描き遺す”ことをしなければと考えた。

     鈍く、なかなかうごかないこころと身体のまま、西さんに叱咤激励され、なんとかチェルノブイリの日にむけて、「死者とともにあるということ・肉声を聴くこと――2011年3月の震災によせて」メールマガジン「大月書店通信」第28号(2011.4.26)」という文章を書いた(http://www.otsukishoten.co.jp/news/n2274.html)。そしてやっと、近しい日本のひとたちに、以下のようなメールを送った。

     

    イタリアを発つ前に、信頼できる複数のひとたちと原発の状況について話をしました。チェルノブイリ以降の状況から多くを学び、イタリアの4基の原発の廃止運動とかかわった友人たちは、「少なくとも奥さんと娘はイタリアに残せ」と言いました。その理由は、チェルノブイリの事故の後、雨が降ったコルシカやサルデーニャの村で、しばらくしてガンや白血病で亡くなったひとが出たこと、十年二十年経て、因果関係は証明できないが、あまりにも多くの知人・友人が、悪性腫瘍で亡くなっていることがあったようです。

    ヨーロッパのひとたちのすべてとはいいませんがそれなりの数のひとたちはチェルノブイリの記憶がのこっているはずです(イタリアの新聞のほとんどは、世界終局を描いたヨハネ黙示録を意味する言葉を用いて「日本の破局(L’Apocalisse del Giappone)」という表現をしていました)。すでにかなりの数の外国人の友人は、大使館のすすめで新潟や名古屋から日本を「脱出」しました。

    ほとんどの人間が息をあわせて「『安楽』の全体主義」(藤田省三)へと向かい始めた1980年代の流れをなんとか少しでも抑止することに力をこめようと考え行動してきたつもりでした。にもかかわらず、「わたしたちはまだ(放射能に)汚染されてはいません。同じ国の人間です」という悲痛の声を生み出したことに、地域社会の現実から学ぶべき者として、忸怩たる想いでいます。

    盟友・メルッチが言っていたように、この惑星と人間そのものの未来に責任をもたねばなりません。あらためてそう強く感じています。いまは亡きメルッチの奥さんのアンナ夫人ともメールにて頻繁にやりとりをしました。メルッチなら、「いまこの場で、惑星そのものの命運を考え、具体的に懸命に行動しなさい」というでしょう。

    わたしが、チェルノブイリ原発事故の少し後にサルデーニャに行ったのは、グラムシの故郷ということもありましたが、それだけではありませんでした。サルデーニャに行く前、沖縄の現実にふれる機会をいただいたわたしは、サルデーニャもまた、ヨーロッパ有数のリゾート地とNATO の演習場が隣接し、北東部に位置するラ・マッダレーナ群島には原潜を修理する基地があり、放射能による海域の汚染が危惧されている――その不条理がとても気になったからです。

    チェルノブイリ原発の事故後、「イタリアは安全だ。ただちに健康の問題はないが、子どもはなるべく外出しないほうがいい」というマスコミ報道が流され、他方で、事故直後に販売が禁止されていた生鮮野菜や牛乳に対する恐怖感とともに、「先日の雨や、いま食べているパスタから放射能が検出された」という情報が、研究者や環境保護団体などから届いていました。わたしが暮らした街サッサリには、イタリアの原発廃止運動を主導した若手知識人たちがいて、彼らの世話になり行動をともにさせてもらいました。帰国後しばらくは、日本では反原発の市民運動と歩調をあわせていました。だからなおさら、地震にともなう原発の事故を生み出してしまう社会の構築に加担してきたことに強い罪責感を感じています。

    あきらかなる介入の暴力を自覚し、罪責感とともにその自らの業を引き受けるしかないと思います。当初の問題意識をとりもどし、ふたたびうごかねばと強く感じています。そしていまこの社会/文明が直面している“劇的な収支決算(un bilancio drammatico)” の意味を、ごいっしょに考える機会が得られたらと切に思います。

     

    6.“瓦礫”のあいだを生きる

     

     “劇的な収支決算”という言葉は、2001年9月12日に白血病で夭逝したメルッチの言葉だ。亡くなる一年前、骨髄移植手術後をとらえて来日したメルッチは、身体から絞り出すように以下の言葉を遺してくれた。

     

    いまやカタストロフは、単に自然の問題ではない。単に核の問題でもなく、人間という種そのものが直面する、生体そして関係そのもののカタストロフとなっている。いわゆる「先進社会」のより先端部分で暮らすひとたちの半分が「悪性新生物(腫瘍)」という異物によって死ぬ。さらにその半分は、心疾患で死ぬ。これはまさに、現代社会のシステムがそこに暮らすほとんど四分の三の人々の生体に社会的な病をもたらすという“劇的な収支決算”となっている。この個々の生体のカタストロフという面から現代社会をとらえなおさねばならないと私は確信している。まだ多くのひとによっては語られていないことなのかもしれないが、この“生体的関係的カタストロフ(la catastrofe biologica e relazionale della specie umana)”は、まさにより深く根本的なものだ。

     

     このときメルッチは、“内にして外/外にして内(endo/esogeno, endo/exogenous )”なる“瓦礫”に直面し続ける社会の行く末を、自らの“身実(身体をはって証立てる真実)”として捉えていたのだろう。

     1986年と2001年、そして2011年、それからずっと、“内にして外/外にして内”なる“瓦礫”のあいだを生きているような感覚が生々しく続いている。2007年に『境界領域への旅』で“未発の瓦礫”への“予感”を書いた4年後、「3.11」に直面した。そしていま、地球規模の「経済危機」「気候変動」「災害」「パンデミック」「国際紛争」「核戦争」「遺伝子操作」のみならず、「心身の病」「虐待」「自傷」「他責・他罰」「ヘイト」「差別・抑圧」等々――“地球規模の諸問題(global issues)”と個々人の“深層/深淵(obscurity,oscurità/abyss,abisso)”に生起する“社会的痛苦/痛み(doloris ex societas, pain on society)”によって、日常生活者はたやすく“受難者/受難民(hominespatientes)”へと変異する。

     “瓦礫”は、直接的には破片や屑(detriti)、倒壊した建物の残骸(macerie)であるが、遠景から見れば崩壊の跡の廃墟(rovine)である。ラテン語のruere[=precipitare]から派生した「崩壊、破滅(rovina)」には、「虐殺」の含意もあり、「衰退、没落、衰亡、道徳的荒廃、壊疽、壊死(sfacelo)」がともなう。

     ついさきほどまで、ふつうの日常的な営みがなされていた都市や地域に、なにかの「事件」が起こって「廃墟」となる。その「廃墟」は、“ひとごと(not my cause, misfortune of someone else)”から、すばやく“わがこと、わたしのことがら(cause, causa, meine Sache)”となる惑星地球規模の社会をわたしたちは生きている。

     ほんの少し前までは、それはほのかでかすかな“兆し・兆候(segni, signs)”として立ち現れ、“未発の瓦礫”の“(かすかな声を聴く力としての)傷つきやすさ/攻撃されやすさ(vulnerability)”を必要とした。しかしいま、わたしたちは多発的な“瓦礫の出現(rovine emergenti, emerging ruins)”に直面し、“無関心(exterior-esse / fuori-esse/ indifferenza / fremd, not in my cause/lack of caring)”と“没思考/没精神(Gedankenlosigkeit/Geistlosigkeit)”、“没参加(dissociate/disengage oneself)”と“忘我・自失(raptus)”によって、固く閉じ、我身を守ろうとする。

     「日常生活」を生きるものにとって、「想定外の」災害や事故、「予期せぬ」病気など、いわば“見知らぬ明日(unfathomed future, domani sconosciuto)”は、閉じたいと思っていた目をこじ開けるようにして「まったく突然に」やって来る。やって来る(avvenire)ものとして知覚される“事件(avvenimenti, events)”は、実はすでにそれに先立つ客観的現実の中に存在していたのであって、ただ私たちが、眼前の“兆し・兆候”に対して“選択的盲目(selective blindness, cecita selettiva)”を通していたにすぎない。

     しかし、どこかで変な胸騒ぎや、ちょっとしたひっかかりとして、うっすらと感じるということがあるはずだ。知覚としては、「未だ発現していない」ものではあるが、“予見[的認識を]する”とはいかないまでも、やって来る“事件”の“兆し・兆候”を“うっすらと感じる(ahnen)”ことはあるのではないか。自分でも十分な「自覚」や「意識」をもたなかったとしても、非意識的に、“心身/身心現象(fenomeno dell’oscurità antropologica)”としては、かすかな“うごき(becomings, metamorfosi)”を起こしてしまっているのではないか。身体感覚としては、“感知し(percieving/sensing/becoming aware, percependo/intuendo/ diventando consapevole)”、“感応している(responding/sympathizing/resonating, rispondendo / simpatizzando / risonando)”のではないか。

     

     

    [© Michinobu Niihara]

     

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