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過去と未来の“瓦礫”のあいだで

新原道信

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第5回 “廃棄物の反逆”(2)

    3.自分の背骨が折られていく

     

     「放水」への“予感/予見”はわたしにもあった。しかしそれは、「8.24」のペリペティアを前にして、「この12年間、自分はなにをしていたのか」という問いかけへとつながることも自覚させるものだった。こころが荒野をかけめぐるとき、気がつくと真下先生やメルッチが夢枕に立ち、対話をしている。

     2023年の「8.24」に先立つ2021年、ミラノで、メルッチの没後20年の追悼シンポジウム「未来は今――いまアルベルト・メルッチと対話する(IL FUTURO È ADESSO: Dialogando oggi con Alberto Melucci)」があった。「新型コロナウイルス感染症(COVID-19)」の影響で渡航は実現せず、オンラインで参加し、およそ以下のような話をした。

     

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     この20年間、2001年9月12日にアルベルトが亡くなってからもずっと、アルベルトと対話を続けてきました。いまでも、危機的な瞬間、苦悩、悲しみ、怒り、鈍い徒労感のなかにあるとき、アルベルトの言葉、表情やしぐさ、声音が、こころに鮮やかに、浮かび上がります。

     「9.11」から10年後の2011年3月11日、日本は、大きな地震に見舞われ、原子力発電所の炉心溶融が起こり、FUKUSHIMAは世界的に有名となってしまいました。わたしのもとには、福島の飯舘村出身の両親を持つ学生がいました。飯舘村は、「原発の恩恵を受けて」いなかったけれども、メルトダウンが起こった日に放射能の風が吹いたのです。それで、彼女の親戚も含めて全村民が牛や畑を残して出ていかねばなりませんでした。彼女の安否を心配していた2011年5月、最初の連絡が入りました。

     

    ご無沙汰しております。お変わりありませんでしょうか。私は元気です。けれどこの2ヶ月の間に、私の故郷を取り巻く環境が大きく変わってしまい、そのことが少なからず自分に影響を与えているようです。自分は今後どういうつもりで東京に暮らし、故郷を思い、原発のあり方を考えなければいけないのか、考えるきっかけにしたく、メール致しました。自宅は福島と宮城の県境にある海沿いの町のため、津波の被害が甚大でした。海から1キロほど離れていますが、数十センチ浸水しました。両親は無事でしたが、同級生を含む、地元の方100人以上が亡くなったそうです。GWに地元に一度帰ったのですが、自宅から見えていた景色からは、人々の生活が消え失せていました。部屋の一階からは波しぶきがはっきりと確認できる程、何もありません。線路や駅も流されました。しかしあまり取り乱すものではないのですね。行く前は、きっと泣き喚いたりするんだろうな・・・と思っていたのですが、テレビで見ていたような光景を実際に目にすると、ただ呆然とするだけでした。以前どんな風景だったか思い出せる物は、影も形も残っていなかったからかもしれませんが。さらに、自宅から50キロほど離れた原発の事故により、まず自宅のことを一番に心配しましたが、今は飯舘村のことがとても心配です。このような形で全国的に有名な村になるとは思っていませんでした。原発による恩恵は何も受けていないのに、こんな時だけなぜ・・・と思う日々です。両親共に飯舘村出身ですが、その親戚たちは今バラバラの場所に避難しているということです。牛を、田んぼを、先祖の墓を置いて、見えない恐怖から逃げ出さなければならない心情を考えるとゆっくりと自分の背骨が折られていくような気がします。

     

     これは、「日常性」がこわれて、わたしたちが当たり前と思っていたことが、もはや機能しなくなった瞬間です。その瞬間、「その意味は何か?」という疑問が生じます。私にとってそれが何を意味するのか、そしてそれが他の人にとってどのような意味を持っているのか、私が自分自身を見つける文脈にとってそれはどのような意味を持っているのか、FUKUSIMAの意味とは何かと続けていく「答えなき問い」です。

     そこからさらに10年が経ちました。2021年9月、わたしたちは、「新型コロナウイルス感染症(COVID-19, Coronavirus Disease 2019)」という制御不可能な「他者」とともに生きています。「コロナウイルス」の意味とは何でしょうか。特別なウイルスなのではありません。人間も含めたすべての多細胞生物とともに、微細な構造体であるウイルスは存在し続けました。「コロナウイルス」によって、「すでにとっくに存在」していた「想定外」に対する現代文明の脆弱さが、試されているだけなのです。

     わたしたちは、生身の他者と出会う「あたりまえ」の暮らしを喪失しつつあります(今日もイタリア以外の報告者はオンラインで「参加」していますね)。親しいひとに対面することも、ふれることも出来ない、この不条理な日常のなかで、何をするのか? いかにことに臨む(臨場する)のか? いかに“痛み/傷み/悼み”を分かち合う(臨床する)のか? “見かけ倒しの拙速社会(società fittizia e rapida)”において、逃げる場所もなく、どのように「答えなき問い」に応答するのか?――“問いかけ(interrogazione, ask questions)” は果てしなく続いていきます。

     わたしたちは、惑星社会から逃げ出すことも出来ず、かといって「問題解決」のあてもなく、それでも何らかの“責任/応答力(responsibility)”を発揮しようともがいています。ごくふつうのひととして、「亡命」も「脱走」もできない閉じられた惑星社会のなかで、“見知らぬ明日(unfathomed future, domani sconosciuto)”と出会い、この“転変・流動の時代(epoca di passaggio)”の意味を、様々な「他者(ひと/いきもの/モノ/地)」とともに考え続けるしかないのでしょう。

     わたしが知る「生身の」メルッチさんは、ゆっくりと、やわらかく、深く、耳をすましてきき、勇気をもって(lentius, suavius, profundius, audire, audere, adiuvare)、現実にふれ、“低きより(humility,humble,umiltà,humilisをもって、高みから裁くのでなく、地上から、廃墟から)”、身心のすべてを揺りうごかしたひとでした。

     わたしたちが、彼の“身実(みずから身体をはって証立てる真実)”から学び、どのように生存の場をつくり直していくのか――岐路に立ち、悩みつつ、それでも身体とこころを揺りうごかしている(playing&challenging)間は、メルッチさんと出会い続けているはずです。

     “出会い(incontrare l’altro, encountering the other)”は意味を生み出してくれます。ではどのように出会うのか? パッショーネとともに、わたしたちの存在のすべて、全身全霊、すべてを賭けて、具体的な生身の他者と出会い続けるしかありません。わたしはこの20年、メルッチさんの「パッショーネとともに(con passione)」を人生の道標(みちしるべ)として生きてきました。日本での日々を“ともに(共に/伴って/友として)”にした2000年5月、通訳をしながら、「これは彼の最期の言葉であり、遺言なのだ。ずっとこの言葉を抱きしめていくことになるのだ」と予感していました。だから、この言葉をみなさんと共有したいと思います。

     

    ・・・・・・さて、いよいよ本日の話の最後となりますが、パッショーネとともに(con passione)という言葉で締めくくりたいと思います。passioneという言葉は、英語であれ、フランス語であれ、ほとんどすべてのヨーロッパ言語で使われている言葉で、ラテン語のpatireを語源としています。patireとは、痛みや苦しみを受ける、こうむるという意味をまずは持っています。しかし、この言葉には、それと同時に、参加をする、わたしたちがなにごとかをなすとき、自らの情動や力のすべてをふりしぼっての、内からわきあがる熱意という意味もあります。喜び、高揚、痛み、苦しみを受けとめるには、同じく膨大なエネルギーを必要とします。みなさんもまた、パッショーネとともに、膨大なエネルギーを費やす形で、社会を認識するという責務へとむかっていただけたらなによりです。

    アルベルト・メルッチ 2000年5月 日本での講演にて

     

    4.人間の「里山・里海」のために

     

     わたしが、以上のような報告をした後、ベルギー、フランス、イギリス、チリ、イタリアなど、世界各国の若手の研究者がメルッチの著書からの刺激を語り、最後は、アンナ夫人、そしてメルッチの「竹馬の友」にして「痛みの哲学」の泰斗の報告があり、その後に、2000年5月日本での講演で、メルッチが話す姿が放映された。会場では、アンナ夫人やふたりの娘アレッサンドラ、マルタや旧知のイタリアの友人たちが泣いているのを見てわたしも泣いた。参加者の多くが泣くという学術シンポジウムらしくない「饗宴(simposio)」の場だった。翌日のアンナからのメールによれば、わたしの報告は、「とても愛された(è stato molto amato )」のだという。ここには何かの“エピファニー(epifania, epiphany、理解のひらめき)”があったのではないかと思っている。

     映像にてメルッチの横顔を見ることを“ともに(共に/伴って/友として)”したわたしたちは、ミラノでの参加者を除けば、世界の各地で「たったひとり」のpatire(参加する)という状況・条件だった。しかしなぜか、この“場(place, space, place, site, case, circumstance, moment, condition, situation )”が、惑星の各所でつながり/つらなるかたちで現れる(emerging)「里山・里海」のようだと、身体で感じた。だからこの孤立も孤絶も、きっと大丈夫だと一瞬思えた。

     前述の元ゼミ生の話にはつづきがある。その後もやりとりが続いたが、そのなかには「悲しいです。今後、自分が福島県出身であることを隠そうとすること、3月11日は東京にいたと必死に説明することなど、自分はやりかねないと思うのです」という言葉もあった。そこには、他者の“無関心(exterior-esse / fuori-esse)”――存在(esse)の内側に(inter)入っていかない断絶・切断・隔絶・乖離・亀裂――に対する恐怖があった。たとえば、「企業や原発が来たことで利益を享受したひとたちが、後から不平不満を言うのはフェアではない。受益したひとが受難するのは当然だ」といった声に対しての絶望である。しかし、彼女は、両親と「ふるさと」とのつらなりから、想い直し、背骨を伸ばした。

     

    飯舘村で生まれ育った両親は、私よりもずっと辛い思いをしているはずです。

    友人や親戚たちを全国のニュースで見ることになるとは思っていなかったと父は先日言っていました。

    それでも私たち家族はこの震災に関して、どこか距離を置いて見ていたような気がします。本当に被害の大きかった人たちに比べればたいしたことないから、避難しなくちゃいけないわけじゃないから・・・・・・帰省した時に感じた空気です。あえて口にしない。私もその空気に呑まれていました。

    しかし私はこの事態について、みっともなくてもいいから誰かと関わりを作って行く必要があるのだと思います。

    飯舘には、昨年の秋に祖母の葬式で行って以来です。その日は福島まで父が迎えに来てくれて、村に着くまでの車中ではいつものように話をしていました。なぜその話になったかは覚えていませんが、父がふと八木重吉の詩を教えてくれました。以降、私もよく口ずさむようになった詩です。

     

    「こころの暗い日にふるさとは 祭りのようにあかるんでおもわれる」

     

    金銭的な事情で高校卒業後に上京せざるを得なかった父は、この詩を写真立てに置いて、仕事をしていたと言いました。人よりも牛の方が多いような村であっても、父にとっては何よりも賑やかで温かい場所なのだと、その時改めて感じたことを覚えています。飯舘を故郷に持つ両親が、平気でいるはずがありませんよね。

    泣きながら、もっとかかわり合いを持ってみようと思います。家族とも、友人とも。

    この事態を冷静に遠くから眺めているなんて、やっぱり無理です。両親や、親戚、それに関わる人たちのルーツのために、私も当事者としてこの事態に正面から向き合ってみようと思います。本当にありがとうございました。

     

     これはきっと、不条理な“社会的痛苦に翻弄され、多くを語らずに死んでいった人間や生き物、山野河海の軌跡と痕跡、果たされなかった想いを抱きしめ、受けとめることなのだろう。ある日突然誰かがわたしたちの代わりに「心情の出郷/居ながらの出郷」者となることで成り立つ構造について、石牟礼道子は、「水俣にはいま私たちが直面している地球全体の問題の核がある」と言った。“瓦礫の出現(rovine emergenti, emerging ruins)”のなかで、自分ではない他者のために怒り、声をあげるひとたちがいる。「出奔した切ない未来」(石牟礼道子)に想いを寄せ、“受難者/受難民(homines patientes)”の」名代(みょうだい)になろうとしているひとたちの「草の根のどよめき」(いまひとりの恩師・古在由重先生の言葉だ)と(ちぎ)りを結ぶ(かかわりをつくる/つなげる/つらねる)ことしか、いまは思い浮かばない。

     この惑星の各所に出現しつつある“廃棄物の反逆”を前にして、あらためて気付かされている。放射能を含んだ水は地球上を循環し、わたしたちの身体に蓄積され、とりわけ生まれ来る子どもたちに影響を与え続ける。これまでも、人間が生み出した多くの有害物質を、森や海は、やわらかく受けとめ、やわらげてくれた。わたしたちは、この物質や生命の関係性の「網の目」のなかで、その「間(liminality, betwixst and between)」で、“生存”を確保している。膨大な時間をかけて創られてきた生命系・生態系、物質循環の「網の目」の構造とその意味を理解し尊重すること。森や土や河や海が生きていれば、汚染された物質を浄化し、地下水流を生み出してくれるはずだった。しかしいま、山野河海もまた、悲鳴をあげ、「地球の限界(Planetary boundary)」に直面している。

     

    地球の、他の生き物の、他の人間の悲鳴を、感知し、感応するような“臨場・臨床の智”をいかにして可能とするのか。そのためにはいかなる条件があるのか?

     

     「自分の背骨が折られていくような」心情を抱え、ファビング(phubbing、眼前の生身の人間への冷遇と無関心) に曝され、それでもなんとか、いたらぬ存在として、「パッショーネとともに(con passione)やっていこう」と思う。そう思えるのは、「誠者天之道也、誠之者人之道也(誠は天の道なり、これを誠にするはひとの道なり)」(『中庸』)――「我が身を持って証立て(sich betätigen)」(ヘーゲル)ようとしたひとたちの“思行(思い、志し、言葉にして、考えると同時に身体を動かす投企)”を見せてもらったからだ。

     死者や遠くのひと、若いひとたちに背中を押されつつ、身体とこころを揺りうごかし、想いをつないでいく。各世代の“つなぎ役(riempitivo, fill-in)”が、「(我が)身を投ずる」(上野英信)ことを試み、一個人では応答しきることはなど出来ない困難と痛苦をやわらげようとする。汚染水が流れ続けるという「統治性の限界(the Limits of Governmentality)」のなかで、それでも、社会そのものが生み出す“痛み/傷み/悼み(patientiae, doloris ex societas)”を被った土地に寄りそい、ひとにこころを寄せる人間の「里山・里海」を創ろうとし続ける。それが、「ひとの道」なのだろう。

     

     

    【注】

    1) Michinobu Niihara, “Il dialogo continua con Alberto Melucci: Il senso ci è dato nell’incontro”, Seminario internazionale IL FUTURO È ADESSO: Dialogando oggi con Alberto Melucci, in Casa della cultura, Milano, il 25 settembre 2021.(=「アルベルト・メルッチとの対話――意味は出会いのなかで与えられる」国際セミナー『未来はいま:いままたメルッチと対話し続ける』ミラノ文化会館、2021年9月25日) https://www.albertomelucci.it/eventi/il-futuro-e-adesso/

    2) 似田貝香門・吉原直樹編『震災と市民2 支援とケア』東京大学出版会, 2015年9月という共著本で「“交感/交換/交歓”のゆくえ」という章でこの話を書いた。書き進めるなかで、彼女と飯舘村のことを書かずにはいられなくなり、当初の構想とはまったく異なる内容となった。

    3) 新原道信編著『人間と社会のうごきをとらえるフィールドワーク入門』ミネルヴァ書房, 2022年。

     

     

     

    [© Michinobu Niihara]

     

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    連載記事

    第1回 “瓦礫”の予感(1)

    第2回 “瓦礫”の予感(2)

    第3回 “瓦礫”の予感(3)

    第4回 “廃棄物の反逆”(1)

    第6回 “受難”と“痛み/傷み/悼み”(1)

    第7回 “受難”と“痛み/傷み/悼み”(2)