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過去と未来の“瓦礫”のあいだで

新原道信

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第7回 “受難”と“痛み/傷み/悼み”(2)

    3.前市長の願望と企図【注1】

     

     前市長ニコリーニに会ってもらったのは、市長としてたたかい、傷つき、表舞台から退場してまだそれほど時を経ていない頃のことだった。エコロジスト(Lega per Ambiente)で、ランペドゥーザにおける農耕の復活と、難民・移民の受け入れに尽力してきた彼女は、大型のシェパード犬を連れ立って、中心街のカフェに現れた。私たちの投宿先が、現市長の一族が経営するホテルであったことから、会うべき重要人物としては紹介されなかったが、メルレルが前日のうちに連絡をとり、会って話すことを承諾してもらっていた。

     着席するとすぐに、「グローバリズムの勝利」による地域の疲弊、国境地域にあることの困難さについて、きわめて率直かつ的確にクリティークをしていくひとだった。市長在任中の5年間(2012年5月8日~2017年6月11日)、ずっとたたかい続けた。なんとか畑地の整備などの緑化プロジェクト博物館や図書館、民俗資料のアーカイブ化などを企画したが、ツーリズムにすべてが呑み込まれていった。放棄された耕地、渇水の問題は深刻だ。持続可能な土地をつくることと、開拓・移住の歴史、伝統文化の意味を島民が理解するための基盤作りに、出来る限りの努力をした(しかし、十分に理解されることもない、苦闘が続いていたのだろう)。小さな試みだったが、なんとか少しずつすすもうとはしていた。しかしながら、市長在任中に、難民の流入が大きな問題として立ちはだかった。

     

    [写真⑨:前市長が整備した市中心部の空き地を利用した畑地]

     

    「いまもまだ移民・難民の流れは止まっていないことから、住民の反応も当初の(比較的好意的な)理解から変わってきている。とりわけチュニジアの海岸から直接やってくる『不遜なチュニジア人の青年たち(baldo di tunesi)』の問題は深刻だ。その多くがランペドゥーザから出て行ったが、いまは行く場所がなく、島にのこっている。難民たちと直接話すのは、きわめて困難だが、難民センターで働く心理療法士のカテリーナ(仮名)は、信頼できる人物だ。」

    「環境的にも社会経済的にも小宇宙のような小さな土地が、グローバルな難民・移民の人権の問題のジレンマに直面している。いまは観光開発に押し流され、夏用の滞在型別荘の建設だけが活況だ。しかし、幸いなことに、大きな空港も港もないから、大量の観光客はやって来ない。それよりは、自足的な農業による持続可能な経済、過去の遺産を生かし直すことだと私は考えていた。実際、レンズ豆やケーパーは、本当に質のいいものが生産可能だ。残念ながら、家畜の飼育の伝統は消えてしまった。水、電気の問題も考えねばならない。1986年4月のカダフィによるミサイル攻撃未遂事件で、ランペドゥーザのNATO米軍基地問題が意識されるようになった。・・・・・・」

     

     市長在任中にローマ教皇を迎え入れた前市長は、ランペドゥーザの内発的発展を願望し、そのために“企図する(progettare)”ことの労苦を惜しまなかった。“わがこと”ではなかった難民問題に「(我が)身を投ずる」(上野英信)ことに躊躇しなかった。しかしながら、観光開発の推進勢力と難民を受け入れることを批判する声からの圧力で市長を退任することとなった。それでもなお、言葉を紡ぎ、「信頼出来るから」と心理療法士のカテリーナと会えるように手配をしてくれた。

     

    4.ケアするものの“痛み/傷み/悼み”

     

     軽食の後、中心街の別のカフェに向かい、難民センターでケアの仕事をする心理療法士のカテリーナと話をした。彼女は、ランペドゥーザについての詩や文章も書いており、ミラノ出身の著作家・詩人アルダ・メリーニ(Alda Merini)の名を冠した文学賞を受賞している。メルレルが、私たちの“社会文化的な島々(isole socio-culturali)”の概念について説明すると、きわめて強い関心を示し、こころを開いてくれた。

     前市長とも親交があり、リビアからの渡航費用を売春等で支払うかたちでやってきた難民たちとチュニジアから移入者という異なる状況・条件の間に立って「調整役」を果たしている。ケアしているのは、たとえばこのような人たち――ナイジェリアからリビアへ、リビアでの性的暴行により、船中で妊娠・出産した。決して故郷へはもどれないし、なかなか子どもと一緒に暮らしていくという考えを持てないでいるという女性だ。

     カテリーナは、難民の女性たちが、言葉にならない情動を“描き遺す”ことをすすめている。その絵を見せてもらった。絵に自分の人生(roots and routes)を描いていく。鉄格子が描かれた絵の最後には、I’ve never forgot Lampedusaと書かれている。妻を殺そうとする夫から逃亡した女性の絵には、The bitter experienceと書かれている。120人が乗ったボートから手足がはみ出した絵や、8歳のシリアの子どもがピストルを持ち、戦車に向かっている絵なども見せてもらった。沈没前に助けられた女性は、「ランペドゥーザは第二の人生」だと言う。リビアから母親なしにやって来た子どもの絵には母親も描かれている。

     「絵というかたちで解釈された“生の現実”を解釈し直すのが私の役目だと思っている。難民たちの絵を出版したいといま考えているの、だからまだ撮影はしないで」と言われた。彼女はまた、過去の不安を手放し、未来を考えるために、すべての「不安」を入れる袋と、すべての「善きこと」を入れる袋という療法を考案した。「難民女性たちの痛みがひどく私のこころに刺さるのは、この島が抱える痛み――アフリカとおなじ風土病があるランペドゥーザで病を発症した父親が、イタリ本土のボローニャまで治療に通っていることの痛み、もし父親が亡くなってしまったら天涯孤独となるのではという不安と無縁ではないと思うの」と言う。難民のケアに奔走することを、島民の誰もが理解してくれるわけはない。

     その後、彼女の工房に案内してもらい、さらにその他の作品も見せてもらう。

     

    [写真⑩:カテリーナの工房(撮影を許可してもらった)]

     

     宿舎にもどる頃、メルレルのところに、「深い孤独、怒り、悲しみのなかで出会った、あなたがたの理解と共感に深く感謝しています」というしらせが届く。

     宿舎にもどり、メルレル、鈴木、新原でリフレクションをおこない、前市長やカテリーナたちが引き受けた「調整役」の意味を考えた。戦争でやって来たひとたちは、自国での人権の危機を抱えている。他方で、チュニジアからの若者は、自分の判断で入国している。イタリアとチュニジアの協定(Accordo)により帰国せねばならないのだが、宗教、同性愛などの個人的条件により人権が保障されない危険性があると申告した場合は、イタリアに留まることが法的にも可能となる(pratica di protezione internazionale)。これを知らない若者は、自国に送還されるが、ふたたび船に乗ってやって来ることを繰り返す。しかしもし、国際的な人権保障を選択した場合は、母国にもどることは出来なくなる。

     サハラ以南のアフリカ(Africa subsahariana)からの難民は、自国にもどされることはないが、難民センターには、1、2週間しか滞在できず、退所後は、イタリアさらには、ヨーロッパの各地に移動していくしかない。サハラ以南のアフリカ難民が、自分の処遇が決まるのを待っているのに対して、チュニジアの若者は、自分の身体を傷つけることや、何か問題を起こすことでで送還を回避しようとする。

     ランペドゥーザの住民は、感覚的に、「黒い肌の難民(Africani neri)」に対しては好意的である。他方で、チュニジアの若者に対しては、3年以上刑務所にいた人間は解放されるという法律によって出所したものが多く含まれることもあって、「彼らは盗みを働く」「ただで食事が提供されている」という理解をしている。

     リビアの収容所からやって来たひとたち(ナイジェリア、シリア、サハラ以南のアフリカなど)は、ほとんどが滞在中に性的暴行を受けている。遭難して助けられたひとびとは、シチリア、カラブリア、カリアリ(サルデーニャ)、ミラノなどに移送される。初期(まだ、海難救助のシステムが確立していない時期)には、リビアやアルジェリアから直接ランペドゥーザまで船が来ていた。2018年現在、難民センターに滞在しているのは100から150人だが、数年前までは800人がいた。現在の法律では、自分の意志で難民センターから外出できる。兵士は、難民の出入りについては責任をもたず、逃亡した場合に対応することになっている・・・・・・。

     このようなかたちで、本日の話をふりかえった後、メルレルのところに、カテリーナから連絡が入った。「難民センター」で火災が起こったという。原因は「チュニジアの若者の放火だ」と言われている。この火事のために、市内および空港の消防士も動員され、憲兵も駆けつけたということらしい。空港は、この火事で消防士などの保安要員がいなくなったため、鎮火までの時間、閉鎖となった。そのため、10時頃に私たちのホテルに到着予定だった現市長との懇談は中止となった。

     

    5.むすびにかえて――“痛み/傷み/悼み”の“想像/創造力”

     

     “無関心”をこえる“出会い(incontrare l’altro, encountering the other)”の条件とはどのようなものなのだろうか?  2018年3月の時点ではまだ総合診療所(Poliambulatorio)に勤務していたバルトロ医師にも会ってもらっている。

     

    「2013年に身体が麻痺して倒れたとき、難民たちの人間性にふれた。このとき自分の使命(dovere)を自覚した。それは、ふつうのことであり、たまたま私に課されたお役目(professione)だ。・・・・・・だって、そこに死にかけたひとがいるのだよ。彼らは、瀕死の私に気持ち(いのち)をくれた。ショアーを繰り返してはならないのだ。」

     

     出会ったひとたち(前市長、心理療法士のカテリーナ、バルトロ医師たち)のことをいま想い起こす。彼女ら/彼らは、「ランペドゥーザ人(Lampedusani)」であり、「難民支援のため」に、この地にやって来た人々ではない。自分たちのことを「ごくふつうのひと(la gente,uomo della strada)」だと言い、それぞれの言葉の発し方は違っても共通していたのは、「だって、そこに死にかけたひとがいる」「自分は出会ってしまったのだ」という感覚だった。

     “痛み/傷み/悼み”の「共通感覚(sensus communis )」(中村雄二郎)――語られない、発せられない声が、聴くともなく聞こえてきて、いてもたってもいられなくなり、気がつくと身体がうごいていた。その「選択」が、自分の利害にとっては決してプラスにはならないとわかっていても、相手の“受難(patientes)”と、自分の“痛み/傷み/悼み”が“感応(responding/sympathizing/resonating, rispondendo / simpatizzando / risonando)”してしまった。

     実はこのとき、メルレルは、くも膜下出血で亡くなった前妻に続いて、癌で闘病した後妻に旅立たれたばかりで、カテリーナの父上の話の後、突発的に号泣していた。“受難”と“痛み/傷み/悼み”が感応する相手との間での相互的・相補的な“感知/感応”が起こっていたのだろう。この文章を書いているわたしも、いまの自分が置かれた状況から、前市長の索漠と 「諦念(森鴎外のResignation, rassegnazione)」、成し得べきことを遣り遂げようとしたいう感覚を、より近しく感じている。そしてもしかしたら、いまもう一度前市長と再会し、話せたならば、さらに深く“感応する(responding/sympathizing/resonating, rispondendo / simpatizzando / risonando)”ことができるのではと思う。

     恩師・真下信一先生が「信頼できる」と語っておられた哲学者・市井三郎先生の言葉が想起された。

     

    “不条理な”苦痛――つまり各人が、自分の責任を問われる必要のないことから負わされる苦痛――を減らさねばならない・・・・・・人がそれぞれの生涯に生きる価値(生きがい)とは、各人がまったくコントロールしえない自らの出自という“運命”のもとで、各人がそれぞれ特有に負わされている“不条理な苦痛”――より実在する問題性――を、どう処理してゆくかということにかかわっている。・・・・・・多くの人々は、自分一個の“不条理な苦痛”を処理することで、精一杯となる。それを責めるつもりはもうとうない。・・・・・・自分ではなくて他の人間が、自分が負うているのと同様の“不条理な苦痛”を軽減しようとして、自分に連帯を求めにくることが必然となる・・・・・・この自覚に到達したとすれば、《現在での()()のことなど、おれの知ったことか》という理屈だけですますことはできなくなるだろう。いや、おれはその理屈だけですませる、となおもいい張る人には、わたしは黙するしかない。われわれがすべてそういい張るなら、人間の運命はおしまいだね、とだけつけ加えながら・・・・・・。

    人間歴史の未来を創るのは、いうまでもなく人間である。多くの人間は過去、現在の惰性に押し流されるとしても・・・・・・。不条理な苦痛(・・・・・・)を軽減するためには、みずから創造的苦痛をえらびとり、その苦痛をわが身にひき受ける人間の存在が不可欠なのである。  (市井三郎『歴史の進歩とはなにか』岩波書店、1971年、208-­211, 201, 148ページより)

     

     冒頭のローマ教皇の語りかけ――“無関心”から“わがこと”への転換を図る道筋について、いま考えさせられている。世界は“痛み/傷み/悼み(patientiae, doloris ex societas)”に満たされている。「人間の運命はおしまいだね」とならないのだとすれば、個々人の“固有の生の軌跡(roots and route of the inner planet)”からくる「偏り」はあろうとも、ランペデューザで出会ったひとたちのように、“痛み/傷み/悼み”を介しての“想像/創造力”が出会い、つらなることしか、いまは思い浮かばない。しかし、その確かさについての“直観(intuizione composita, composite intuition )”は在る。

     

     

    【注】

    1) 以下の3の前市長と4の心理療法士のカテリーナ、5のバルトロ医師の語りについての記述は、新原道信「イタリアの“国境地域/境界領域”から惑星社会を見る――ランペドゥーザとサンタ・マリア・ディ・ピサの“臨場・臨床の智」新原道信編『“臨場・臨床の智”の工房――国境島嶼と都市公営団地のコミュニティ研究』(中央大学出版部、2019年3月、155-208ページ)、加えて、新原道信「願望のヨーロッパ・再考――「壁」の増殖に対峙する“共存・共在の智”にむけての探求型フィールドワーク」『横浜市立大学論叢 社会科学系列』71 巻2 号、2020年2月、 145-166ページなどですでに紹介している。

     

     

    [© Michinobu Niihara]

     

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