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生きた「吹き溜まり」

「湘南プロジェクト」の記録

中里佳苗

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第11回 「生きた吹き溜まり」――日本語教室が産まれた土壌(2)

    3.日本語教室開設に向けて

     北条さんの合流の後、「湘南プロジェクト」の動きは一気に加速していく。翌月の11月6日には第4回「現地打ち合わせ会」がもたれ、自治会や「外国人のリーダー」に向けて、日本語教室の創設に向けた「たたき台」が示された。この日のメモには、次のように記されている。

     

     <日本語教室について>

     ・今年度(来年度の資金調達をするまで)、どのような形で日本語教室の歩みを進めていくか→まず公民館で教室をやっている「湘南日本語の会」に、「外国人のリーダー」から協力要請の要望書(手紙)を出す

     ・日本語教室は、国連部の「外国人のリーダー」が中心になって委員会をつくり、大学側と協力しながら運営していく

     ・日本語教室の先生について

      専門的な知識と経験を持った人であるべき(アドバイザー委員)

      日本語を知っている外国人が先生になってもよい(新原)

      仲間内ではやりづらい(中国)

      日本語の教授法を教えてもらえたら、手伝いたい(ラオス)

     

     「たたき台」を振り返ってみると、「外国人のリーダー」が中心となって運営していくような形が模索されていたことが分かる。当時、地域で展開されていた日本語教室は、日本人の日本語ボランティアが運営している形が主流だった。「委員会」の小野寺さんや「湘南日本語の会」がやっていた教室も、同様の形をとっていた。そのような中で、「外国人のリーダーが中心となって」「日本語を知っている外国人が先生になってもよい」という発想は、とても斬新なものだった。

     また、このメモを振り返って目を奪われるのは、「今年度(来年度の資金調達をするまで)どのような形で日本語教室の歩みを進めていくか」という一文だ。「今年度」と言っても、あと残り4ヶ月しかない。そもそも、一般的に考えて、年度の途中から活動資金を確保することは難しい。助成金の申請時期に合わせて、新年度から日本語教室のスタートをするというのが「普通」だと思う。

     しかし、「4月まで待っている余裕はない」といわんばかりの勢いが、このメモから伝わってくる。「やるのかやらないのかはっきりしろ!!」と迫った団地自治会長(第7回参照)のみならず、「現地打ち合わせ会」にて何度も声をあげ続けた「外国人のリーダー」らに、真摯に応えようという気概が、この「たたき台」に表れているように感じる。

     「たたき台」を出した後、「湘南プロジェクト」は、近隣の公民館で教室をやっている「湘南日本語の会」とミーティングを重ねた。結局、彼らと協力する方向にはならなかった(第8回参照)。だが、そうした結果を見越してか、一方で、先のメモにあるような「専門的な知識と経験をもった人」である日本語教師とのつながりを作ってもいた。

     日本語教育の「専門家」として呼ばれたのは、日本語教師の蔵田先生だった。日本語教育の資格を持ち、長年、民間の日本語教育機関で教鞭をとったキャリアがある。蔵田先生は当時、地域のボランティアを対象とした「日本語ボランティア養成講座」の講師をしたり、外国人と一緒にコミュニティ作りを行ったりと、地域活動にも力を入れていた。そのような地域活動を通して、市社協の「委員会」の委員と知り合い、「湘南プロジェクト」に合流したのだった。

     蔵田先生が初めて湘南に来たのは、1998年12月14日だ。この日は、「湘南日本語の会」との2 回目のミーティングを予定していたが、その前に「事前打ち合わせ」が持たれた。「事前打ち合わせ」の出席者は、新原先生、市社協の国武さん、北条さん、そして蔵田先生、蔵田先生を紹介したアドバイザー委員の住吉さんだった。私は「記録係」として同席した。

     蔵田先生は、小柄ながら、ブランド物のスーツを着こなし、男勝りな口調で話す快活な女性だった。実際の年齢よりも、若くて元気なオーラを放っていた。

     また、今回、蔵田先生に声をかけたアドバイザー委員の住吉さんは、日系ブラジル人であり、日本の大学で学んだ経験のある語学堪能な女性である。彼女は、地域で外国人の相談を受けるボランティア活動をしてきた。

     長年、外国人の生の声を聴いてきた住吉さんは、現存の「日本語教室」や「日本語ボランティア」が抱える課題も理解していた。彼女はよく、「日本語ボランティア」の課題の一つとして、日本語教育に関する専門的な知識や技法の不足をあげていた。そのため、湘南団地で日本語教室を開催するとしたら、熟練した日本語教師を中心に、新しい試みに取り組むべきという考えを持っていた。そのような視点から、蔵田先生を「湘南プロジェクト」に連れてきたのだ。

     蔵田先生は、日本語教室を開設するにあたって、自分の考えをこのように述べた。

     「日本語教室をやるのであれば、まず、外国人のレベルをみたい。湘南団地の現状をうかがうと、初級クラス、中上級クラス、そして子ども学習のクラスと、3つのクラスが必要なのかなと思います。その中で私が主に担当できるのは、中上級クラスかなと。中上級の場合は、勉強する中で、自己表現していく方向で指導することが可能です。『プロジェクトワーク』といって、学習者が何かを創造していく活動、場を主体的に作る活動をしながら、日本語を教えてゆく。そういうクラスもできるかなと考えています。」

     北条さんが、これに対して返答した。

     「日本語の勉強については、見落としている部分をみつけて、勉強方法を教えて欲しいという意見が多かったと思います。「あいうえお」と1ページ目から教科書を進めるのではなく、ある程度、生活の中で身に着けた日本語があるので、それを活かしながら足りない部分を補うような。他の教室では、既に分かっていることを勉強するので、つまらなくて、行かなくなっちゃうのよね。」

     蔵田先生が答える。

     「そういう学習なら、『プロジェクトワーク』をしながら、どんどんできると思う。外国人が教室に行かなくなる原因って、必ずありますよね。まずは、勉強していて『楽しい』、『役に立った』っていう感情がついてこないと。私の教室では、『楽しい』って思う自然な感情を大切にしています。あと、教室の時間は、絶対に夜がいいですね。夜じゃないと、外国人の人たちは仕事があって通えないと思います。」

     蔵田先生の迷いのない返答に、その場がぱっと明るくなった印象だった。いつもは裏方に徹して発言を控えている社協の国武さんも、この日は珍しく、意見を述べていた。

     「いろいろと細かい調整はあると思いますが、まずは、動くということが、一番大切に思います。まず、はじめてみることが基本だと思う。」

     「まずは動く」という意気込みが、この会議の空気を作っていた。蔵田先生の力を借りながら、日本語教室を進めていこうという方向で話がまとまった。話がまとまりかけた時、住吉さんが、「これも忘れないように」と、注意をうながすように言った。

     「日本語教室だけではなくて、相談を受け止める人材も必要ね。とにかく、集まりやすい環境にしてゆく。勉強とは別に、『語る場』のようなイメージがもてるといい。」

     そこに、国武さんが、急いで付け加えた。

     「あと、子どもの教室。子どもの問題も、しっかり考えていかないと。」

     国武さんの言った「子どもの教室」だが、これについて少し補足説明をしておきたい。そもそも、これまでの「委員会」や「現地打ち合わせ会」の中では、将来的な大きな方向性として、外国人の子どもたちの中から、地域の問題を考えて、人をつなげてゆくようなリーダーを育成していくというという構想が話されていた(第3回参照)。

     中でも団地自治会は、早急に「相談窓口」を団地内に作ることを望む一方で、子どもの育成によって、将来的に自助的な相談窓口ができる可能性にも賭けていた。そのため、どちらかというと、「子どもの学習教室」や「相談」ができるような環境づくりの方が、「日本語教室」の開設よりも優先事項であったように思う。

     しかし、実際には、子ども育成といった課題に向き合おうとすると、「親世代」の外国人が抱える様々な問題を無視することはできなかった。例えば、子どもに目を向けると、親の失業や、日本語能力の不足による社会的孤立、そこから引き起こされる子どもへのネグレクトといった問題が現れる。

     そして何よりも、「現地打ち合わせ会」にて「外国人のリーダー」が訴え続けたように、団地に暮らす「親世代」に「日本語の勉強がしたい」という強い熱意があった。そのため、当面は大人向けの日本語教室を開き、外国人と一緒に活動の拠点を作っていこうという流れとなった。そうした流れの中で、今回、日本語教師の蔵田先生が「呼ばれた」のである。

     皆の発言を頷きながら聞いていた新原先生が、「事前打ち合わせ」をこのように締めくくった。

     「今日で、意見調整は終わり。もう一度、団地で『外国人のリーダー』と会って、日本語教室を始めましょう。オリエンテーションのような形で、蔵田さんに日本語の模擬授業をやってもらい、『外国人のリーダー』たちの意見を聞く。それで、プログラムや人数、時間、ボランティア募集などを詰めていきましょう。」

     「今日で意見調整は終わり」という言葉に、これまで「記録係」として横で話を聞いてきただけの私でさえも、「これから本当に何かが始まるんだ」と、ワクワクした気持ちになった。

     

    4.初めての「日本語教室」

     「今日で意見調整は終わり」という言葉の通り、その後は、日本語教室開設に向けての具体的な動きが展開される。第1回目の日本語教室が開催されたのが、1999年1月18日だから、準備期間は約1ヶ月。年末年始を考慮すると、実働日数は1ヶ月もなかったはずだ。

     残念ながらこの期間、「記録係」として同席できるようなミーティングは無かったので、動きの詳細は分からない。新原先生や北条さん、国武さん、蔵田先生、住吉さんらが綿密に連絡を取り合い、日本語教室の枠組みを作っていったのだと思う。年の瀬の12月22日に、国武さんが湘南団地の会場使用の確約をとり、年明け早々1月5日に助成金の申請書が提出された。文字通りの「師走」だったに違いない。

     そうして開設された日本語教室の第1回目を、振り返ってみよう。以下は、その日につけた日誌の一部だ。

     

     いよいよ、湘南団地での日本語教室が始まる。6時から授業をするということで、お金が難民事業本部から出ているのに、6時に行っても集会所の門は閉まっていた。そのため、日本語教師の蔵田先生は「仕事はきちんとしたい」と言って怒っていた。7時ころから外国人の方々が集会所に集まってきた。日本語教室開講のチラシをみると、確かに7時スタートとなっていた。そして、特別な挨拶も無く、蔵田先生が授業を行った。少し意外だったのは、団地自治会長などが、日本語教室「開会のことば」を言ったりしないことだった。授業の前に、そういう儀式などがあると勝手に予想していたのだが。

     まず授業は、ボールを投げて、受け取った人が名前を言うことから始まった。みんなで輪になっていた。なんだか楽しかった。特別な話などしていないのに、場が共有されている雰囲気があった。名前しか伝えていないのに、集った人の「顔」がみえていた。

     その後しばらくしてからグループになり、蔵田先生の出したクイズをグループで解くという授業をした。私の入ったグループはカンボジアの人々のグループだった。見渡してみると、50人ほどの外国人の人々が、ほぼ同じ国同士のグループをつくって座っていた。蔵田先生の出したクイズは難しく、みんな苦戦していた。暫くの間、カンボジア語で議論が続いていた。そして、たまに私に「先生、答え知ってるでしょ」「教えて」と言うのだった。とても奇妙に感じた。なぜ、「先生」なのか… そして、結構日本語で話はできるのに、カンボジア語で話をし、私が「日本語で話してください」と言っても、「話せない」と戸惑って、すぐにカンボジア語になるのだった。たまに思い出したように「先生」と声をかけてくる。そのような感じで、クイズは終わっていった。

     ふと気が付くと、自治会の人が教室にいた。グループ作業に気を取られて、いつから傍らにいたのか、そして何をしていたのか全く分からない。けれども、そこにいらした。どんな気持ちで、日本語教室のスタートを見守っていたのか…

     

     日本語教室の第1回目は、50名程度の外国人が集った。日本語教師の蔵田先生を中心に、教室が進んでいった。蔵田先生の授業は、遊び心のある躍動的な授業だった。日本語のレベルや母国語がなんであれ、誰もが引きこまれ、いつの間にか教室の一部になってしまう。会場となった団地集会所の大きなホールは、熱気に包まれていた。

     開設と同時に50名も集まった日本語教室は、一見、大成功に見える。だが、この日誌には「続き」がある。

     

     授業が終わった後、送迎の車に乗り込むと、難民事業本部の視察にきた方と、新原先生が少し気まずい雰囲気を醸し出していた。その様子に、はらはらしてしまった。内容はよくわからないが、どうやら、難民事業本部へ提出した書類と、今日の授業内容が異なっていることについてらしかった。駅についても、難民事業本部と新原先生の話し合いは続き、お店に入ってコーヒーを飲んだ。

     

     先に説明をした通り、日本語教室の開設は10月に決定し、年明けからスタートという、怒涛のスケジュールで遂行された。年度途中ということもあり、予算を準備することも至難の業だ。

     そのような状況で、北条さんからの助言を受け、難民事業本部から助成金を受ける方向で話が進んだ。それは、「日本語ボランティア養成講座」の助成制度だった。この助成金は、年度途中でも利用が可能だった。

     また、この助成を受けることで、日本語教師の蔵田先生への謝金を用意することができた。当時の難民事業本部には、日本語教室の活動費として使える助成制度もあったが、ボランティアの交通費や印刷費の何割かを支援するもので、講師代を賄うことはできなかった。そのため、湘南団地の日本語教室は、「日本語ボランティア養成講座」としてスタートすることになった。

     助成金の申請書類を見返すと、「日本語ボランティア養成講座」への参加者として、団地の外国人のリーダーら9名の名前と、学生である私や院生の名前が記載されている。そして、講座の講師として日本語教師の蔵田先生。団体名は「湘南団地外国人協議会」、ラオス人のリーダーが代表者となっている。

     講座の目的は、「湘南団地を中心とする外国人居住者とボランティアが、日本語と識字の学びを通じて新たなコミュニティ形成を考える」とある。「外国人のリーダー」が中心となり、他の外国人にも日本語の支援をしていくという自助グループ的な構想が記載されていた。

     そのため、日本語教室がスタートする前に配布された「日本語クラスのお知らせ」にも、「初級がだいたいわかる人のクラスです」とある。助成金の申請書の通り、日本語のレベルが中級以上の人向けに、日本語の教授法を伝え、自分たちで場所を築きあげてゆくという構想に則したものとなっている。

     

     

    《日本語教室ちらし表》

     

     

    《日本語教室ちらし裏》

     

     

     しかし、実際にその場に集った50名の外国人は、「9割が入門か初級レベル。残りの1割のよく話せる人も、中級の下か、よくて中の中くらいの日本語」と蔵田先生が表現していたように、「日本語ボランティア養成講座」に耐えうるようなレベルの人たちではなかった。中には、挨拶が一言二言できる程度で、ほとんど日本語を理解しない人もいた。赤ちゃんを抱えて参加していた、日本に来て間もない女性もいた。

     仮に、蔵田先生が模擬授業をした後、参加した外国人と日本語教室について意見交換ができたなら、「日本語ボランティア養成講座」に近い形になったかもしれない。しかし、実際には、そうした対話は難しい参加者が多かった。

     結果、先の日誌にあるように、難民事業本部の視察者からは、クレームが入った。事業本部の職員が目にしたのは、「養成講座」ではなく「日本語教室」だったのだから、「申請書類と内容が異なる」と注意を受けても、いたし方ない状況であった。

     帰りがけ、湘南駅前のコーヒーショップに入ると、難民事業本部の職員と新原先生が、真剣な面持ちで話し始めた。蔵田先生が、「新原先生にお任せしましょう。きっと大丈夫よ」と言って、新原先生たちからは少し離れた席についた。私は、「こんな時、北条さんがいてくれたら」と思いながら、話し合いの行方を見守ることしかできなかった。難民事業本部とのつながりが深い北条さんは、この日はあいにく不在であった。何もできない自分の不甲斐なさを感じながら、苦いコーヒーを飲んだ。

     

    5.「日本語ボランティア養成講座」を越えて

     湘南団地に視察に来た難民事業本部の職員が、「日本語ボランティア養成講座」としてどのようなものを想定していたのか、一般的な形をここで書いておこう。

     以下は、実際に私が2000年に参加した、「日本語ボランティア養成講座」の様子である。他地域のボランティア団体が主催し、講師は蔵田先生だった。「日本語ボランティア養成講座」は、日本語教授法についての話がメインで行われた。

     「ボランティアの心構え」という概論から入ってゆき、最終的には、日本語教授のための教案作りと実践までの訓練がなされる。特に、蔵田先生は、日本語教授法の中でも特殊な訓練が必要である「コミュニカティブ・アプローチ」を使用していたため、教案作りとシミュレーションには熱心であった。

     「コミュニカティブ・アプローチ」は、複数の国の出身者がいる集団において、母語や第二外国語に頼ることなく日本語を教えていくという、地域の日本語教室にはうってつけの教授法である。だが、その分、習得は難しい。日本語がわからない相手に日本語のみで教えるため、教材の提示の間合いやタイミング、言葉のコントロール、ジェスチャーなど、コミュニケーション能力全般が要求される。

     教案は、「目標」「文型」「分析」「学習項目」「手順」「教具」といった項目で作成され、「導入」の仕方と「ドリル」や「練習方法」も考案せねばならない。また、それを綿密にシミュレートしていく。教案作りができるようになったら、模擬授業による実習を行い、講座は終了。なかなかのボリュームである。3ヶ月間、12回程度のプログラムが一般的だ。

     難民事業本部の視察者も、多かれ少なかれ、このような「日本語ボランティア養成講座」を想定していたに違いない。そうだとするなら、50人もの外国人が集って、ボールを投げて自己紹介をしたり、クイズを行ったりしている光景は、どう考えても「養成講座」の枠からは外れていると言わざるを得ないと思う。

     しかし、湘南団地の外国人は、日本語教室を強く必要とし、また、とても歓迎していた。集会所に集った外国人の多くが、工場などでのきつい立ち仕事や肉体労働を終えてから、食事もとらずに日本語教室にやってきていた。化学薬品や埃まみれの体を、大急ぎでシャワーで流してから来たと話す人もいた。蔵田先生は怒っていたけれど、日本語教室を18時からではなく19時からとしたのも、終業時間への配慮からだ。それでも、遅れてやってくる人も多かった。帰り際に、「仕事で遅れてしまうけど、またきます」「自分よりももっと日本語教室を必要としている人たちがいます」と、熱く語った外国人がいた。

     そして、そのような外国人たちを、自治会の役員らは、祈るような眼差しで見守っていた。日本語教室の開所時に、自治会長などが改まった「挨拶」をしなかったのも、「外国人が主役なのだから」と裏方に徹しようとする態度の現れであろう。1996年の県社協の「研究委員会」の発足から日本語教室の開所まで、足掛け3年となるが、団地の人々からするならば、十数年かけてようやく手に入れた、大切な場所だったに違いない。

     このような人々の熱意や想いは、難民事業本部の視察者にも、少なからず伝わっていたように思う。視察者は、「どのように上司に報告すればよいか分からない」と言った。だが、「申請内容と違うので、助成の対象とはならない」とは言わなかった。

     新原先生が、その日の夜遅くに、難民事業本部の職員とコーヒーショップで話し合った結果を、メールで伝えてくれた。そこにはこのように記されていた。

     

     今日はおつかれさまでした。そしてご心配かけました。難民事業本部との話し合いは結果的にいい形となったことをご報告いたします。今日の内容を上司に報告するためにどうしたらいいか悩まれていたそうです。しかし、同時に湘南団地の状況が、自動的にボランティア養成とはいかないことも、くりかえしくりかえし話して理解してもらいました。

     つまりこれまでの湘南団地がもっていた社会的文脈からいって、団地内や地区内あるいは市内のボランティアがすぐに出てくるというよりは、かなりの『覚悟』を決めた外部の人間が入っていって、自治会や『外国人リーダー』のひとたちといっしょにぶつかり合いながら『場(arena)』を作っていくことによってしか、当面は道を切り開いていけないだろうという、これまでこの試みにかかわってきた人たちに共有された直感のごときものについてくりかえしお話をしました。

     事実、この『委員会』が、集会所に通うようになって初めて、市の国際室も、県の住宅課も、そして難民事業本部もはじめてこの場に顔を出せたのです。そのような意味でも、『場』を作れたことになっているはずです。こうした『文脈』についておそらく、かなり理解していただけたはずです。

     (中略)最後のほうでは『あと3年ということでプロパーのスタッフはなにかしなければという使命感を持っている。その点で現場に近いスタッフは今回の企画に対して好意的である。ぜひとも事業本部を巻き込んでほしい』という言葉もいただきました。

     

     その後、この「日本語教室」は、異なるひとたちの様々な熱意や想い、また「覚悟」をたずさえた「使命感」を巻き込みながら、書類上の「日本語ボランティア養成講座」を越えて、湘南団地に「根」を張ってゆくのであった。

     

     

    [© Kanae Nakazato]

     

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