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生きた「吹き溜まり」

「湘南プロジェクト」の記録

中里佳苗

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第1回 アブラゼミと団地祭(1)

    0.アブラゼミと団地祭

     今年も、アブラゼミの声がやけに大きく聞こえる季節がやってきた。ミーンミーンといった夏の高い空を思わせるようなミンミンゼミではなく、ジリジリという重低音をしつこく響かせているアブラゼミだ。この声を聞くと、いつも思うことがある。「ああ、また今年も団地祭の夏が来たな」と。団地祭では、南米のエンパナーダやベトナムの春巻きといった多国籍な料理を、たくさん油で揚げていた。アブラゼミのジリジリという鳴き声が、油を熱したときのはねる音と重なり、まとわりつくような暑さの中で快然と執り行われた祭りのことを、毎年思い起こさせるのだ。

     団地祭とは、私がまだ学生だった頃、湘南団地(仮名)で行われていた夏祭りのことである。湘南団地は、神奈川県の湘南市(仮名)にある県営住宅だ。団地祭は、毎年8月のお盆の時期に行われ、2015年にその幕を閉じるまで、50年近く続いた祭りだ。私はそのうち、1999年から2007年まで8回参加したのであるが、私の記憶に残っている団地祭は、このような様相だった。

     団地祭は、100mほどの団地のメインストリートを、朝9時から夜10時まで車両通行止めし、毎年2日にわたって開催されていた。ストリートの先端部分には、祭りの本部と大きな仮設舞台が組まれる。舞台では、日中は高齢者によるフラダンスや子どもたちの和太鼓が披露され、合間にスイカ割り大会などもあった。そして夜はカラオケ大会。カラオケが終わると、仮設舞台の前は盆おどりの会場になる。盆踊りの音楽に合わせ、子どもたちが和太鼓で会場を盛り上げる。メインストリートの右側には、金魚すくいや輪投げ、チョコバナナやりんご飴などの「テキ屋」の屋台が4~5店ほど。左側には、団地自治会の老人会や子ども会などによる、手作りの焼きそばやかき氷、ハンドメイド雑貨、生ビールや焼き鳥の屋台が5~7店ほど並ぶ。

     この2日間は、団地全体が、焼き鳥や焼きそばなどいわゆる「B級グルメ」のワクワクするような匂いで包まれる。午前中は、興奮気味の小学生たちが、「歩行者天国」となったストリートで追いかけっこをしながら、屋台の開始を待っている。正午近くになると、香ばしい煙を上げながら、屋台がじわりじわりと開始される。その匂いにつられるようにして、団地住民たちが、ちらほらと下に降りてくる。昼ごはんの「たし」にすると言って焼き鳥などを買っていく人や、どんな屋台が出ているか見るだけの人もいた。子ども会の焼きそば屋台は、1人前100円という破格の値段から、数十名の行列ができることもあった。突然の夕立に見舞われることはあっても、たいてい天気はいつも晴天、気温は30度超え。炎天下に長居する住民はいない。なので、だいたい昼過ぎの3時頃までは、人出はまばらである。汗だくの小学生たちが、時々テキ屋のくじの景品などを物色しながら、メインストリートを何度も往復しているくらいだ。ジリジリ・ジージーと、アブラゼミがしつこく鳴いている。

     暑さのピークが過ぎると、ようやく神輿が登場する。祭りのメインは、やはりこの神輿だろう。団地祭には、毎年3基の神輿が集合する。「ドッコイ、どっこい」「ドッコイ、そーりゃ」という掛け声に合わせ、神輿を担いだ男衆がメインストリートをゆっくりと歩く。神輿の登場に合わせて、たくさんの団地住民がメインストリートに出てくる。神輿の見物客と担ぎ手たちが入り混じり、容易に身動きができない状態となるので、屋台はいったん商売を休憩せざるを得ない。重なり合いながら、皆が神輿を目で追う。神輿に乗って音頭をとりながら扇子を振るのは、全身に刺青が入った男性である。担いでいる人たちもみな「彫り物会」の人々だそうだ。通称「刺青祭り」と呼ばれ、担ぎ手は、神奈川県外からも集まっていると聞く。あでやかな神輿が通り過ぎると、一気に屋台へ人が押し寄せる。子どもから高齢者まで、たくさんの人々が闊歩し、薄暗くなって提灯が光るメインストリートを「祭りらしい」雰囲気にした。いつしか仮設舞台ではカラオケ大会が始まり、大音量の昭和歌謡が流れてくる。そして、二日目の夜。祭りが終了する間際、提灯で鮮やかに飾られた神輿が、メインストリートを練り歩く。夜の神輿はどこか妖艶な魅力があり、昼間の見物人より倍近くの人々が見にくるのだった。昼間よりもよりいっそう熱がこもった担ぎ手たち。祭りにくり出した人々やひしめく屋台に向かって、神輿が大げさに傾きながら迫ってくる。「ドッコイ、どっこい」「ドッコイ、そーりゃ」の掛け声と、見物人たちの感嘆や歓喜の悲鳴がこだまする。あやうく神輿に押しつぶされそうになる興奮を、ひとしきり味わいつくすと、喧騒のハレの日が終わる。

     

    提灯が映える万燈神輿(2006年撮影)

     

    団地メインストリート(2006年撮影)

     

    舞台にて太鼓を披露する子どもたち(2006年撮影)

     

     私はその団地祭で、中国の餃子に始まり、南米エンパナーダ、ベトナムやカンボジアの春巻き、ベトナム王宮料理バンベーオ、カンボジアのバインセオなど、外国の食べ物を作って売る屋台をやった。団地に住んでいる外国にルーツをもつ人々と一緒に、エスニックな料理をこしらえて、売る。「これなあに? どうやってたべるの?」「へんなにおいがする」「変わったもん売ってるね」「食べられるの?」「みるだけにしとくわ」「これで300円? 高すぎる」などといろいろ言われつつ、油にまみれながら汗水たらして売っても、あがりは2日間で3万円くらいにしかならなかった。しかし、毎年こりずに、団地祭で屋台をやった。

     

    団地祭、ベトナムの春巻き屋台(2001年撮影)

     

    団地祭、中国の餃子屋台(1999年撮影)

     

     そんな団地祭の記憶が、アブラゼミの鳴き声とともに、毎年よみがえってくるのだ。最後に参加した団地祭が2008年だったから、かれこれ14年前の記憶だ。私はこの湘南団地に住んでいたわけではないし、湘南団地が自宅の近くにあったというわけでもない。むしろ、湘南市にしろ、湘南団地にしろ「縁もゆかりもない」土地であった。さらに言えば、団地から自宅までは、電車とバスを使って1時間半以上かかり、神奈川県内としてもかなり「遠い」場所だった。

     そもそも団地とは、都市部への人口流入に合わせ1950年代から60年代にかけて造成された、低所得者向けの賃貸住宅だ。湘南団地も、1960年代後半から建造され1971年に完成している。団地の多くがエレベータのない鉄筋コンクリートの4階~5階建て、2DK~3DKの間取り。1部屋40平米程度で、広さよりも戸数優先の造りになっている。棟数は数棟から100棟超えの大きな団地までとその規模は様々だが、湘南団地は約50棟、戸数は1000戸以上の比較的大きな団地であった。

     多くの団地に共通して言えるのは、公共交通機関が比較的発達している都市部としては、立地がかなり悪いということ。最寄りの駅から徒歩圏内の団地はほぼみられず、大抵、最寄駅からバスを使う距離の場所にある。団地との縁が続いていた間、自分自身も転居を3度しているが、電車で1時間とバスで30分が一番近く、一番遠いときは、電車に1時間40分ゆられた後バスで30分という時もあった。駅からバスにゆられ、「湘南団地前」という停留所で降りる。70年代から団地に住んでいる人たちは、「湘南団地前」ができて、大変便利になったと話していた。団地の前にバス停ができるまでは、1つ手前のバス停しかなく、バスの本数も1時間に1~2本だったという。当時は、車の不所持が入居条件でもあったから、住民たちの当惑の声が聞こえてきそうだ。団地住民はバス会社と交渉を重ね、現在では通勤時間帯で5分に1本のバスが通るようになった。そのような住民の努力に敬意を抱きながらも、「湘南団地前」までのバス30分は、どうしても私の足取りを重くさせるものであった。

     

    湘南団地とそこで暮らす外国人の子どもたちが作った七夕飾り(2000年撮影)

     

     そんな「遠く」の「縁もゆかりもな」かった団地に、なぜ、10年間も通うことになったのか。しかも、なぜ、聞いたこともないような、外国のソウル・フードを作って祭りで売ることになったのか。そして、なぜ、団地から足が遠のいてから十数年、またおそらく今後も、アブラゼミの声を聞くと「団地祭」が自動的によみがえってくるまでに、潜在意識の奥深くまで記憶が刻まれているのか。夏が来るたびそのように思うのだが、いつも、あまり明確な答えが出せないでいる。

     その当時、私はまだ大学生だった。誘われるがまま、人の動きに巻き込まれるようにして、湘南団地を訪れるようになった。その流れ自体は、当時はとても自然に感じられていた。私は当たり前のように、団地に通うようになり、自然に団地祭にも参加して、当然のように屋台でエンパナーダやベトナムの春巻きを売るようになった。しかし、こうして14年後に客観視してみると、そうした「自然」が、自然的な流れになるように、慎重に計画され舵取りがなされていたことが、なんとなくわかってくる。その流れは、多くの人々のかかわりや働き、そしてその言動に託された希望や想いがなければ生まれなかったものであること。一つのボタンの掛け違い、かかわる人のバランスが少しでも崩れたら、その場所は成り立たなかったであろうという、大変センシティブな場であったこと。そんな繊細な動きの中で、自身も何かを望み、何かを求めて、ずぶずぶとのめりこんでいったのだと思うのだが、改めて、その様子をこの手記を通して残しておきたいと思っている。団地祭だけでなく、団地祭に参加する母体となった、湘南団地に集った人々の活動を、記録に残しておきたい。

     それは、毎年思い出してしまう団地祭の記憶に、なにがしかの決着をつけたいという、とても自分勝手な理由からでもある。何度書いても完結しない物語になる、とわかっていたとしても。そしてもう一つ。ただ単純に、団地祭の記憶とともに、思い浮かべる人々の姿を、細部まで丁寧に残しておきたいという理由。記憶の奥底からふきだしてくる、その人たちがいた場所と風景、声や音、そして匂い。たくさんの出会いや別れと、その場所に集った人々の間で起こったこと、繰り広げられた人間ドラマ。湘南団地という場所で出会った人たちのエピソードを、記憶が風化してしまう前に、少しでもいいから残しておけたらと思う。そしてそれがいつか、私と同じように、いつまでも記憶に刻まれる物事に出会った人々のもとへ、届けられたらと思っている。アブラゼミの声を聞いた時、ここで語られる団地祭を想像してくれる人がいるのであれば、この手記に登場する人物たちが、その人の支えになってくれることを願いつつ。

     

    [© Kanae Nakazato]

     

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