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生きた「吹き溜まり」

「湘南プロジェクト」の記録

中里佳苗

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第16回 「湘南プロジェクト」とは何か――日本語教室の歩みに照らして(1)

    1.独特な歩みの「湘南プロジェクト」

     「湘南プロジェクト」は、1999年1月からスタートした日本語教室を中心に(第13回参照)、湘南団地に寄り添った形でプロジェクトを遂行した。「プロジェクト」という言葉を聞くと、目標を定めて課題を一つずつ達成していくというイメージを持つと思うが、「湘南プロジェクト」は少し様子が異なっていた。

     「湘南プロジェクト」は、沢山の課題に取り組み、どんどんと成果を積み上げていくような動きはしなかった。「今、課題となっていることは何か」という部分から話し合いをし、方向性そのものを探っていくことに、膨大な時間を割いていたという印象がある。

     また話し合いを通じ、目標を共有したとしても、その目標に向けての方向性は、一つに集約することは無かった。むしろ、一つの形に凝り固まり、足並みが揃ったがゆえに形骸化することを避けるかのように、あえてバラバラのまま進んでいった。それは、互いの考えや認識のズレを含み込んだまま、時にぶつかっても空中分解しないように、じっくりと均衡を保ちながら動くという、独特な歩みのプロジェクトだった。

     この独特な歩みを表現するのはとても難しいが、一つずつ記録を振り返りながら、綴ってみたいと思う。まず、1999年2月15日の記録から振り返ってみよう。全体の記録をながめてみると、この頃から既に「湘南プロジェクト」の特徴が表れていたことに気づく。

     この日のミーティングには、湘南市社協の国武さん、新原先生、日本語教師の蔵田先生、そして長年にわたって外国人支援をしてきた北条さんと住吉さんというメンバーが参加していた。湘南団地の自治会はおらず、外部から団地に通ってくるメンバーが中心だった。議題は、次年度4月からの「湘南プロジェクト」についてであった。

     このミーティングで、プロジェクトの目標とされたのは、次のようなことだった。プロジェクトが目指すのは、子どもや団地住民の中から、地域の「リーダー」になる人を育てること。「湘南プロジェクト」の代表を務めていた新原先生は、このような「リーダー」のことを、「社会のオペレーター」という言葉を使って説明していた。

     これは私の理解ではあるが、「社会のオペレーター」とは、自分たちが抱えている問題の本質を見極め、様々な制度やシステムと、生身の人間を有機的につなぎ合わせられる人のことを表している。また、そのような人々の集う場を作り、必要であれば既存の制度やシステムを変えてゆく人物のこと指す。

     「ソーシャルワーカー」に近い概念に感じるが、「オペレーター」という言葉を使っていた理由を、新原先生はこのように述べていたと記憶している。私たちの社会では、出自や持っている文化の違いにより、同じ言葉を使っていても意味が異なる場合がある。そのような互いの言葉を「翻訳」して相手に伝え、時には戦略的に変換して交渉する能力が、現代社会には必要不可欠だ。そうした能力を表現するのが「オペレーター」という言葉だ。「仲介する」「媒介する」という意味を強調し、「メディエーター」と言い換えて、話されることもあった。

     「湘南プロジェクト」のメンバーも、「社会のオペレーター」という言葉こそ使ってはいなかったが、同じような目標を抱いていた。団地の自治会の人々は、団地で起こる「外国人がらみ」の困りごとに対応してくれる相談役を欲していたし、日本語の先生は、日本語の情報をしっかり駆使して、自分たちに必要な場を作っていけるようなリーダーを育てようとしていた。長年、地域に暮らす外国人やその子どもたちの支援をしてきた北条さんらは、行政とも協力しあって新しい制度や地域社会を作っていけるような次世代のリーダーの育成を想い描いていた。「社会のオペレーター」の持つ要素を、それぞれの角度から照らし、目標としていたのだと思う。

     話をミーティングのことに戻そう。新原先生は、ミーティングの冒頭で、このようなプロジェクトの目標を確認した。それを受けて、日本語教師の蔵田先生が、次のように返答した。焦りのような、苛立ちが感じられる口調だったことを、今も覚えている。

     

     「プロジェクトの長期的な目標は理解できました。しかし、今は4月以降の動きはどうするか、具体的に詰めていかねばならないと思います。今の日本語教室のままでいいのか、それとも目標を達成するために方向転換すべきなのか。予算に関しても細かく計画して、日本語教室の箱作りについて、きちんと話し合いたいです。」

     

     日本語教室はプロの日本語教師である蔵田先生を中心に、1999年1月からスタートした。日本語教師は、「水を与えるのではなく、井戸を掘る方法を教える」という理念を掲げ、教室の自主運営をしていける「外国人のリーダー」を育てようとしていた。そのために、「プロジェクトワーク」を取り入れた教育を精力的に行っていた(第14回、第15回参照)。「プロジェクトワーク」とは、学習者が自主的に課題を設定し、その課題を遂行しながら日本語を学んでいくという教育活動だ。そうした教育活動をより充実させるために、4月以降の教室に関して「もっと枠組み作りをしっかりしたい」と訴えたのだ。

     このような発言を聞き、私は「もっともだ」と思った。当時の「湘南プロジェクト」は、日本語教室はスタートしたものの、全体的には半ば「行き当たりばったり」の印象が強い場となっていた。教室にやってくる子どもたちをその場で集めて、臨時的に「子ども教室」をやったり、相談したいという外国人が来たら、手の空いている自治会役員や住吉さんらが臨機応変に対応したりというような形である。

     そのようなことを「即興」でできることこそが、「湘南プロジェクト」の底力を示していたのであるが、当時の私には、良く分からなかった。そのため、できれば蔵田先生の言うように、計画的に物事を進めていけたらと思ったりした。

     新原先生は、蔵田先生の焦りや苛立ちに理解を示しつつも、このように答えた。

     

     「4月からの予算が200万円ということ以外は、まだ何も決まっていません。『代表』の僕から、頭ごなしに『こうしてほしい』『こうしよう』といった案を出すこともありません。皆さんでアイデアを持ち寄って、考えていこうということです。」

     

     蔵田先生は、「まだ何も決まってない」という新原先生に対し、低い声で「ウーン」と唸り、何か言葉を飲み込んだ様子だった。そして、気を取り直したように、「日本語教室のコーディネートを自分に全て任せてもらえるなら、日本語教室の予算案を出しましょう」と言って、こう続けた。

     

     「4月以降の日本語教室は、3つのクラスを作って、3ヶ月ごとにテーマを決めて『プロジェクトワーク』をしていきます。1クラスに最高で3人の教師が携わります。そして1年間で全てのクラスが協力して何か一つのことを作り上げるということにしたいと思っています。ただ、こういうことに協力できるような、質の高い日本語ボランティアがいるといいのですが。」

     

     蔵田先生がここで述べている日本語教室の形は、一般的にイメージされる「プロジェクト」の形ではないだろうか。私は、蔵田先生の発言を聞きながら、その「プロジェクト」の「分かりやすさ」もあって、気分が高揚するのを感じた。

     しかし、それに対し、新原先生はこのように答えたのだった。

     

     「日本語教室のことは、蔵田先生のおっしゃられた形でいいと思います。しかし、回数を減らしてでもいいですから、今まで行ってきたような、全体でのミーティングを組み込んだ形で、日本語教室をやっていって欲しいです。」

     

     私は当時、「ミーティング」の重要性を伝える新原先生の意図は、全く理解していなかった。むしろ、蔵田先生と新原先生のやりとりを聞きながら、「ミーティングというより、子ども教室のことなどを、日本語教室のように具体的に決めて、計画的に進めていったらいいのに」と思ったりしていた。

     しばらくすると、外国人の相談活動を行っている住吉さんから、日本語教室に対してこのような要望が出された。

     

     「日本語教室では、生活問題への対応能力をつけるような授業をしていって欲しいのです。例えば、ビザの取り方を学ぶなど。書類の読み方や書き方ですね。そうした生活力をつけることを考えて欲しいと思います。」

     

     蔵田先生は、間髪入れずに、このように答えた。

     

     「そうですね、そうしたプログラムを組んでゆきたいと思います。また、バラバラに『今日は相談の日』などとしないで、日本語教育の中で、その相談を一緒に考えながら、外国人が自立していけるようにしたいと思っています。生活相談の窓口が欲しいなら、学習者にその場の設定を考えさせるようにする。日本語の交渉の仕方を学んでもらう。日本人が用意したものではなく、自分たちで獲得する試みが大事になってくると思います。そのような日本語教室にしていきたいと思っています。こうしたことを、『プロジェクトワーク』を通して学んでいってもらえたらと思います。」

     

     私には、蔵田先生のアイデアは、スマートでとても素晴らしい内容に思えた。「打てば返ってくる」ように、「プロジェクトワーク」の素案を出していける蔵田先生は、「湘南プロジェクト」の大きな推進力として、とても必要に思えた。

     実際に、その後の日本語教室は、イメージ通りの「プロジェクト」のごとく、システマティックな形で、沢山のミッションをこなしていく。しかし、後に詳しく書いていくが、「湘南プロジェクト」は、この蔵田先生の日本語教室に、同調して動くことは無かった。蔵田先生の「プロジェクト」は、あくまでも「一つの形」であって、「他の可能性もある」ことを、「湘南プロジェクト」はいつも念頭において動いていたように思う。

     「湘南プロジェクト」は、蔵田先生が体現していたような一直線に進んでいく「プロジェクト」とは異なり、むしろ「何も決まっていない」状態こそを大切にするかのような歩みだった。それは、外からみたら、またかつての私のような無理解な内部の者からしても、「ミーティング」を重ねているが、特に何かが大きく進展することもなく、なかなか形も定まらない、ボンヤリとした集まりにしか見えなかったに違いない。まるで、気まぐれに集まった「吹き溜まり」が、ゴソゴソとうごめいているようにしか見えなかったことだろう。

     しかし、この時に新原先生が提示していた方向性が、湘南団地という地域に寄り添った「プロジェクト」の形として最適だったのだろうと、現時点から振り返ってみるとよく分かる。次節以降も記録をたどりながら、「湘南プロジェクト」の根幹となる動きの様子を、少しずつ記していきたいと思う。

     

    2.「プロジェクトワーク」を推進する日本語教室

     「湘南プロジェクト」全体の動きをとらえるために、日本語教室の歩みを参照しながら、記録をまとめていこう。先に見たように、「日本語教室のコーディネートを私がするならば、予算案を出しましょう」と言った蔵田先生は、次のような日本語教室の形を提示した。1999年4月8日のミーティングでのことである。

     1999年4月からは、難民事業本部の「日本語ボランティア養成講座」の枠組み(第11回参照)から抜け、予算は湘南市社会福祉協議会の助成金と、民生委員児童委員活動推進助成金を組み合わせる形で、合計200万が準備された。その予算から、プロの日本語教師の蔵田先生は時給6000円、その他ボランティアは1500円、その他交通費が支給された。週2回で年間74回、一回につき2時間の授業を行う。助成金は約半分が日本語教師の人件費に費やされ、残りの半分を、複数のボランティアでシェアする形だった。

     日本語教室は4月~7月、9月~12月、1月~3月というように3学期に分けて授業計画が立てられた。レベル別に、上級、中級、初級、入門がそれぞれ1つずつ、合計4クラスが編成された。スタート時点からアシスタントとして来ていた安部さんの他に、地域で日本語ボランティアの活動をしている3名が、新しくサポートメンバーになった。学習者は、上級クラスには約10名、中級クラスは約15名、初級は約20名、入門は5名前後が在籍していた。私自身も途中から、この教室活動に組み込まれ、何度か日本語を教える側に回った記憶がある。

     授業の内容は、文法や語彙の習得だけでなく、生活に役立つような知識や情報も扱うように工夫されていた。また、年間で数回の「プロジェクトワーク」が実施された。「プロジェクトワーク」の具体例としては、日本語教室の文集やチラシを作ったり、地域のイベントに参加したり、などである。学習者の持ち寄りで行う「パーティ」も、好んで行われる「プロジェクトワーク」の一つであった。

     

    日本語教室年間計画

     

    プロジェクトワークに取り組む学習者

     

     このような「プロジェクトワーク」は、日本語教師が思い描いたようには実行できないことも度々あった。開設当初に行った「パーティ」の惨憺たる様子は、以前に紹介した通りである(第15回参照)。その後に出された「パーティ」の企画も、学習者の反抗によって中止となっている。「パーティ」の目的は、「日本語教室を陰で支えてくれている人々への感謝を表す」ことだったが、学習者は「それよりも日本語の勉強を優先させてほしい」と意思表示したのだった。

     教師側の思惑通りにはなかなか進まない日本語教室であったが、「プロジェクトワーク」の「題材」として最適な、新たなチャンスが舞い込んだ。毎年お盆の時期に行われる「団地祭」への参加である。

     「団地祭」とは、模擬店や舞台での出し物を通し、団地のメイン通りを「ふれあいの場」にしようという試みである。メイン通りには、テキ屋の屋台だけでなく、集会所を利用している自治サークル、老人会や子ども会、障がい者の会など屋台が並んだ。盆踊りの「やぐら」が建てられ、数台の神輿が団地内を練り歩き、とても見ごたえのある祭りである(第1回参照)。

     この祭りへ参加は、団地自治会による「湘南プロジェクト」への配慮から提案されたものだった。住民の中には、日本語教室に反感を持つ人たちもいて、そのような人々へ教室を知ってもらう機会にしてもらいたいという考えからだ。

     日本語教室は、自治会からの話を受けて、祭りへの参加を積極的に「プロジェクトワーク」として取り入れた。学習者も、この「プロジェクトワーク」には意気揚々と賛同した。華やかな祭りに「出店者」として参加できることを、楽しんでいる様子であった。そして、「皮から手作りの本格的な餃子の屋台をやる」というプロジェクトが企画された。その時の話し合いは、このような様子であった。

     

    1999年7月5日

    上級クラス担当:蔵田先生 「8月7日、8日の団地祭でつくる料理を決める」

    参加学習者:T(中国人女性30代)、Y(中国人男性30代)、S(中国人女性30代)、A(ベトナム人女性40代)、R(カンボジア人女性30代)その他3名

     

    蔵田先生:餃子でいい? 

    S:うんいい、男の人も作れる。 

    T:どうやって作るか? 

    Y:鍋、もってくる。水餃子だったら。 

    蔵田先生:材料とか教えてよ。どこで作る? 

    Y:作りながらしないと味がかわっちゃう。 

    T:面白そう、やりたい。

    Y:具は作っておいて、皮はその時つくって、つつんでやる。 

    蔵田先生:その時は、中国人が先生だからね。

    <材料>豚ひき肉、ピーマン、ニラ、白菜、セロリ、ネギ、こしょう、塩、味の素、しょうゆ、ごま油、サラダ油、小麦粉。鉄板、鍋(大)、コンロ2個、ボール、のし棒

    Y:中国からもってきた、こしょうある。 

    T:先生、中国のRさん来た。(注:Rさんは餃子づくりの名人で、この日は遅れて登場した) 

    蔵田先生:R先生、こちらへどうぞ。(Iさんが、Rさんに中国語でこれまでの内容を通訳)

    R:卵も入れる。 

    Y:どれくらい売れるかな。 

    蔵田先生:10万だよ、10万!! 売るのは若い女の子がいい。いいかっこしてね。 

    Y:みんないいファッションきてよ、水着きてさー。 

    蔵田先生:何個くらい売る? 

    R:10個500円。 

    Y:高いよ、みんな買わない。 

    蔵田先生:7個で300円はどう? 売上金はどう使う? 

    T:パーティがいい。 

    蔵田先生:鉄板持っている人はいる? 

    S:湘南公民館にあるかもしれない。 

    Y:ふたないからー ふたないと水入れて。ないならふつうのフライパンでいいよ。 

    蔵田先生:もし鉄板が無かったら水餃子だけね。 

    S:OK 

    蔵田先生:あと、どこで作るかだけど。 

    S:公民館は? 7月20日までに申し込まないと使えない。 

    蔵田先生:野菜を切って肉とまぜるのは、7時から9時はどう? もし公民館が使えない場合はどうしますか? 

    T:Yさんの家。Yさんの家大きい。 

    Y:みんな団地だから、同じ。でも、いいよ。 

    蔵田先生:だんなさんに言っておいてね。 

    Y:野菜、何にするかきめないと。 

    T:白菜はいま高いんじゃない? 

    A:今、安いよ! 

    Y:白菜とセロリまぜても大丈夫。

    蔵田先生:何個くらい作ったらいい? 

    Y:もう計算したんだけど… 4000個。 

    T:あまったらどうするよ。 

    蔵田先生:一日何パックくらい売れるかな? 

    S:50くらいかな。 

    蔵田先生:えー!! 一日200パックくらいは? 2日で400パック、300は売ろうよ! 4万から5万は絶対儲けよう!! じゃあ、どのくらい材料を買うかは、次回決めましょう。

     

     この話し合いの様子からも、外国人学習者の高揚した気持ちが伝わってくるだろう。あんなに乗り気ではなかった「パーティをする」という話まで浮上している。このような話し合いを3回ほど行い、団地祭の準備は進められていった。

     当日の「団地祭」では、男性陣が中心となり屋台のテントを組み立て、女性陣が餃子の種をつくるというフォーメーションで、4000個の餃子を作りあげた。2日間で利益は5万円程度になった。中国人が中心であったが、他の国の人々も協力し、一緒に餃子を作った。

     

    団地祭屋台

     

    水餃子の販売

     

     本格的な水餃子と自治会の人々の配慮により、「団地祭」という「プロジェクトワーク」は実りの多い形で終了した。屋台の成功は、日本語教室を団地住民へ広く知ってもらうことに一役かった。懸念されていた、住民による外国人への嫌がらせなども起こらなかった。

     こうした試みを、「外国人の自主的な参加の成果」としてカウントしていった日本語教室は、その後も精力的に活動を展開していく。教室開設当初は、「プロジェクトワーク」をするにしても「先生が準備して」「面倒くさい」と言っていた学習者が、互いに協力しあって実行するようになっていった。「団地祭」の収益で「パーティ」をすることが決まった時の議事録は、以下のような感じだ。この議事録と、開設初期の「パーティ」に関する記録(第15回参照)を比べてみて欲しい。

     

    1999年11月12日 <決まったこと>パーティのこと

    • 12月11日(土) 6:00~9:00 パーティ

    6:00~準備 6:30~パーティ 8:30~片付け

    • 12月6日(月) 各国のリーダーに準備のお金を渡す(各5000円ずつ)

    中国:Rさん ラオス・タイ:Aさん カンボジア・ベトナム:Tさん 南米:Mさん

    • 料理:各国の人々が料理を作り、国名と料理名を書いてくる

    ・ドリンク:各国の人々が3本ずつ買ってくる。お茶の用意もする

    ・菓子:子ども教室の先生にお願いする

    ・皿など:日本語教師が用意する

    • 内容

    6:30~あいさつ(初級クラス担当)、食事 料理の説明をする

    7:30~ダンス&カラオケ Tさん、Lさん、Yさん音楽を持ってくる

    8:30~あいさつ(中級クラス担当)

    • 招待状を出す(初級クラス担当)12月3日に書いて渡す
    • あいさつを練習する

     

    パーティへの招待状

     

     蔵田先生を中心とした日本語教室は、このような「プロジェクトワーク」を積み重ねてゆき、2年目の教室活動につなげていった。

     

     

     

    [© Kanae Nakazato]

     

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