1.「湘南プロジェクト」
湘南団地に通うことになったのは、私が大学生だった頃、ゼミナールの担当教員であった新原道信先生に、声をかけられたことがきっかけだ。1998年の夏のことである。新原先生は当時、神奈川県の社会福祉協議会(以下、県社協)の外国人支援5か年計画を受け、1996年から「研究委員会」を発足し、県在住の外国人や支援現場の声を聴くプロジェクトを遂行していた。その成果は、1997年の外国人フォーラムの開催や報告書などの形でまとめられている。1998年からは、県社協の5か年計画が、より地域に根付いた支援へと向かい、県社協から市の社会福祉協議会(以下、市社協)へと足場を移すこととなった。その現場として選ばれたのが、神奈川県の湘南市だ。もう一つ現場はあったのだが、私はその現場に行ったことがないので、湘南市に限って話を進める。
湘南市では、市社協の担当者が場をセッティングし、「在住外国人生活支援活動研究委員会」(以下、委員会)という会議がもたれた。そこは、県・市社協の職員、湘南市の国際室や児童福祉課、湘南市や神奈川県内各地で外国人支援をしているボランティア、そして、湘南地区の民生委員、主任児童委員、湘南団地の自治会長、事務局長、団地の住民(外国人代表)、小中学校の教員や保育園の園長らが、一同に会する場であった。様々な立場の人が、外国人住民の支援について話し合う趣旨の委員会だ。座長である新原先生の計らいにより「オブザーバー」という席を与えられ、私はその会議を「見学」することになる。「見学」とはいっても、その会議は「喧々諤々」といった表現がぴったりとくるような雰囲気で、委員らの熱意に圧倒された私は、メモをとっている「ふり」をして気配を消すので精一杯だった。初めて「見学」をしたのは、1998年7月13日だった。そんな始まりであったので、その後10年間、湘南市に通うことになるとは夢にも思っていなかった。
冒頭で述べた湘南団地は、この委員会の会議の中でも、とりわけ議論の中心におかれる地域であった。湘南団地には、1998年の時点で155世帯503人の外国人が暮らしており、これは団地住民の15%にあたる。国籍も多様であり、1980年代からカンボジア・ラオス・ベトナムのインドシナ難民が、1990年代からはブラジル・ペルー・ボリビアからの日系人の家族たちが集住するようになった。他に、韓国や中国の国籍の人々も暮らしていた。神奈川県国際課の「外国人登録者市(区)町村別主要国籍別人員調査表」によると、1998年の湘南市全体の外国人登録者は約3700人(湘南市人口の約1.5%)だったので、その内の14%近くが湘南団地で暮らしていた計算になる。
湘南団地は、言語や生活習慣の異なる外国人が集住しており、日常的になにかしらの衝突が発生している場所であった。例えば、「外国人住民が窓からタバコの吸い殻を投げている」「夜中に外で宴会をして騒いでいる」といった苦情が、昼夜問わず、自治会に寄せられる。また、周辺地域からは、低所得者や無職の外国人が多いため治安が悪く、子どもたちは非行にはしり「スラム化」していると噂される団地でもあった。実際に、駅から団地に向かうバスに乗ると、「この湘南団地行のバスに乗るの、ちょっとやだよね」「それわかる。団地に住んでる人って思われるから。こんなこといっちゃ悪いけど、貧乏な人が多い。それにあそこ、外人ばっかで怖いから、行かない方がいいよ。この前、先輩がそこに連れてかれて…外国人…少年院の…」という、制服を着た高校生のヒソヒソ話が聞こえてきたこともある。
そんな湘南団地に、1998年冬、市社協の委員会は「湘南プロジェクト」を発足させることとなる。私は、この「湘南プロジェクト」を足場にして、湘南団地に10年間通った。「湘南プロジェクト」は、団地住民もそのメンバーではあったが、団地の外からも、大学教員、日本語教師、小中高の教師、日本語教育や外国人支援に携わるボランティア、社会福祉協議会の職員、そして私のような学生などが多数参加した。「湘南プロジェクト」は、「外国人支援」という枠組みで、外部からは理解されていたし、参加者の多くはそのように自分たちを理解していた。外国人の多数集住する団地で発足したプロジェクトなので、自動的に、外国人を支援したり、外国人問題を解決するためのプロジェクトというイメージが先に来ると思う。
なぜ、このような歯切れの悪い言い方で、「湘南プロジェクト」を紹介するのかというと、「湘南プロジェクト」は、何がそこで起こっていたのか詳細に語ろうとすればするほど、一つの言葉ではまとめきれない動きだったからだ。「湘南プロジェクト」は、外国人支援という側面も持ってはいたが、支援しようとした者が逆に支えられる、さらに言うと、何かを教えられる、価値観を逆転させられるような場所としてあった。よく耳にするような「支援を通して、自分も学べることがたくさんあります」という綺麗ごとではなく、実際に、「こんなこともできないのか」と外国人に呆れられたり、「日本人はこれだからだめだ」と叱咤されることもあった。異国の地で言葉もわからない中、生活を作ってきた人々の経験に基づく知恵や生きる姿勢には、日本で親の庇護のもと学生である私などには、到底かなわない深さがあった。また、戦火を潜り抜け、全てを投げうって日本に逃れてきた人々の子どもたちは、平和への強い願いと生命をかけた親の愛情を深く理解しており、簡単には折れないたくましさを持っていた。そして、そのような外国人住民たちと、長年共に生きることを実践してきた、団地住民や団地自治会の人々。「かわいそうな外国人を助けてあげたい」という態度ににじみ出る傲慢さや他者への侮蔑を、誰よりも敏感に感じとる人々でもあった。表面上どんなに綺麗な言葉を並べていても、外国人を見下している人は、その蔑みが「目に出るから、すぐわかる」と言う。
湘南団地に限らず、団地というのはそもそも、時に騒音トラブルが傷害事件や殺人事件に発展するほどの、薄い壁、薄い床の建造物だ。ただでさえ隣近所と摩擦なく生活をしていくことが難しい居住空間で、言葉も文化も異なる外国人と鼻を突き合わせて暮らしてきたのが、湘南団地の住民たちだ。彼らは「助けてあげたい」という欺瞞や我欲を超え、ぶつかり合いを繰り返しながら徐々に獲得していった、深い共生の知恵を持っていた。「あいつらはガメツイ」と、外国人への偏見と敵意に満ちた発言をしながらも、外国人からの相談に昼夜問わず応じる人々でもあった。「現場たたき上げ」の、粗野であっても洞察に富んだ生活の知恵を、外からやってきたプロジェクト参加者たちは、じっくりと理解し、学ぶ必要があった。外国人住民や日本人住民といった国籍を問わず、このような団地住民たちの共生のあり方に出会い、魅力を感じ、理解し、共に時を過ごしたいと思った人々が、「湘南プロジェクト」に参加することになった。
だから「湘南プロジェクト」は、「外国人支援」とか「多文化共生」という一つの目標を立てて、その遂行に邁進するようなプロジェクトではなかった。外国人に関する「専門家」が外から団地にやってきて、団地の日本人と協力しながら「問題のある外国人」を支援し、問題を排除したり隠ぺいすることで理想郷をつくっていくというような計画とは、一線を画していた。いや、外側から見たら、「湘南プロジェクト」もそのような活動に見えるのかもしれない。しかし、「湘南プロジェクト」のプロセス一つ一つを丁寧にたどってみると、そこにかかわった人々の内面的な変容や価値観の転換が起こっていた。「問題のある外国人」を支援しようとすればするほど、それは我々の問題であったことに気づかされる。支援する側が、問題を抱える側にシフトするので、常に内省とともに動かねばならないという感覚。団地の中に日本語教室を一つ開設するにあたっても、「団地の外国人は言葉の問題を抱えていたので、日本語教師を雇って日本語教室を作って喜ばれました。これからも発展させてゆきましょう」という方向では動かなかった。
この手記の中盤で記す予定であるが、「湘南プロジェクト」も、湘南団地に日本語教室を開設した。公民館や地区センターなどのレベルで開かれる教室には珍しく、湘南団地の日本語教室には、プロの日本語教師が配属された。団地外国人からはとても評判がよく、人気の教師だった。しかし、この日本語教師は、間もなくプロジェクトからは「退出させられ」た。そして、沢山の外国人が勉強しにきていた日本語教室も、一時閉鎖となる。一体それはなぜだったのかについては、今後の手記の中で明らかにしてゆくつもりだが、外側からみると全く合理的ではないような選択を続けるプロセス自体が、湘南プロジェクトの目的であり内容であったと思う。今後この手記が進むにつれ、おそらく「湘南プロジェクト」でなければこの選択はしなかっただろうという「特異な決定」が、いくつも出てくると思う。そのような意思決定に至るプロセス、かかわった人々の動きや内面の変容を詳細に読んでもらえたら、「湘南プロジェクト」が何であったのかが、見えてくることと思う。
2.生きた「吹き溜まり」
現在はもう、かつて湘南団地に集っていた「湘南プロジェクト」のメンバーは、ほとんど団地に残っていない。多くの団地住民は転居してゆき、団地の外から通ってきていた人たちは他の土地で活動を行っていたり、また、亡くなった人もいる。もはや、この世で再び会うことは無いであろう人たちとの、湘南団地でのかかわり合い。そのかかわり合いは、強烈に今も私の中に印象づいているが、私が1年長く生き延びるたびに、その様相をごちゃつかせ、今も私の中で変容しつづけているように感じる。また、どうしても時間軸に沿って執筆するせいで、「湘南プロジェクト」が、企画遂行するという意味でのプロジェクトのようなリニアなものだと勘違いされるかもしれない。しかし、「湘南プロジェクト」は、決してリニアに進んでいったプロジェクトではなく、もっとごちゃごちゃしたものであった。このごちゃつきをそのまま書き残すのは至難の業だと思うが、執筆のための「止まり木」として、「湘南プロジェクト」の大まかなイメージを、述べておくことにする。
「湘南プロジェクト」のイメージは、一言でいえば「吹き溜まり」のようなイメージだ。それは、枯葉の吹き溜まりなのではなく、青々とした緑の葉が、大雨や風でやむなく落ちてしまい、吹き溜まりとなり、ところどころは水にぬれていたり、一部は腐ったりしてもいる。葉っぱは重なり合い、反発するものもあれば、空気など含んで落ち着いているものもあり、淀みながらもまだ「生きて」いる。団地にて、数多くの人が出会い、影響しあい、ぶつかり合い、かかわり合いを持った、そのイメージは、中心から波紋のように広がっていくような集団のイメージでは表現しきれない。中心がいくつもあり、その時々で、小集団が作られ次の瞬間には違う編成をしているような、大変、流動的で可変的な集団である。しかし、その動きは完全にバラバラなわけではなく、いつもどこかで重なりあっていて支えあい、一定のまとまりをもっていた。
生きた「吹き溜まり」というイメージのごとく、「湘南プロジェクト」は、一言では表現しきれない複数の顔を持った活動だ。それは、このプロジェクトが、一つの名前で呼ばれなかったことからも、読み取ることができるだろう。通常、何かの企画や計画は、たとえそれが愛称であったとしても、共通の名前を持っているものだ。しかし「湘南プロジェクト」は、それぞれの立場や意識、それぞれの想いから、プロジェクトをそれぞれの呼び名で呼ぶこととなった。大学や社会福祉協議会などに関係する公的な場では、「湘南プロジェクト」という総称を使っていたが、市外から湘南団地に通う者たちは、いつも「湘南」という地名で呼んでいた。一方、湘南団地に住んでいる自治会の人々や外国人たちは、「湘南プロジェクト」を「日本語教室」と呼ぶのだった。団地の日本語教室で働いた日本語教師たちは「湘南の日本語」と呼んでいたし、市内の行政の人たちやボランティアの人たちは「団地の外国人支援」とか「団地の日本語教室」と呼んでいた。外国人の若者や子どもたちは、単に「教室」とか「集会所」と言っていた。集会所とは、団地の自治会が管理する集会室のことで、「湘南プロジェクト」が活動の拠点にしていた場所である。日本語で表現するのが面倒だという外国人の住民たちは、いつも「あそこ」と、親指を横にしたポーズで団地の集会所を指差した。誰も同じ呼び名で呼んではいなかったが、一つの場所、一つの事柄をさしていた。しかし、一つの場所、事柄をさしたものであっても、異なった呼び名の通りに、その意味内容は少しずつ違っていた。そして、その呼び名が同一ではないことに、誰も違和を感じていなかったところが、このプロジェクトの特徴だった。
その呼び名一つとってみても、大いに混乱気味なプロジェクトではあったが、その生っぽさを殺さず、生きた「吹き溜まり」のイメージを念頭に、「湘南プロジェクト」のたどったプロセスを綴ってゆきたいと思う。アブラゼミの声と油の匂いも、時々雑音のように、思い起こしながら。
[© Kanae Nakazato]
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