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過去と未来の“瓦礫”のあいだで

新原道信

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第1回 “瓦礫”の予感(1)

    私たちの日常は過去と未来の“瓦礫”に満たされている。社会的大事件のみならず個人の病・死も含めて。

    突然やって来る「それ」は、実はすでに客観的事実のなかに、いくつもの“兆し・兆候”として存在していた。わたしたちがただ、「それ」を見ようとしなかっただけだ。

     

    1.“瓦礫”の予感

     

     1959年に静岡県の伊豆半島で生まれたわたしには、日本列島と朝鮮半島のあいだで、非対称の合わせ鏡のような境涯で育った同年代の友人がいる。友人の父親は、東京・深川で生まれ、1946年に「故郷」である済州島に「帰還」するも、1948年に済州島の四・三事件に遭遇し、親族で唯一の生き残りだった姉と二人、密航船で日本列島に辿り着いた。「故郷」では、村そのものの存在が根絶された。荒野と化した土地に埋まっている骨とそこに漂う想いを、なんとか次の世代に伝えようと格闘したが、2000年に倒れ、この世を去った。

     わたしの父親は、薩摩半島から中国大陸・朝鮮半島へとわたった一族で、1926年9月11日に朝鮮半島・全羅北道・群山(クンサン)に移民三世として生まれた。幼少期・青年期を、白村江の古戦場近くのこの港町で過ごしたが、海軍に入隊するため1944年に海峡を渡り、長崎県・川棚で特攻隊の訓練を受け、出撃を待ちながら敗戦を迎えた。敗戦後は、「異境」の地である日本列島をさすらった。戦後しばらく働いていた東京・目黒で見た「戦災孤児の眼光が忘れられない」と話したことがあったが、その生の軌跡の多くを語らず、1999年に伊豆半島で生涯を閉じた。

     わたしと友人は、朝鮮半島の港町を故郷とする「『外地』出身の引き揚げ者」と、「江戸っ子」の済州島人の息子として、日本列島で生まれ育ったことになる。

     友人が大学生となったとき、父親が懇意にしていた政治学者のもとに通うようになり、1927年生まれのその学者は、神田川沿いのビル街の「安楽」を遠望しながら、「この場所はかつて“瓦礫”の山だったんですよ。君たちには未来の“瓦礫”が見えますか」と言ったという。

     わたしには、生涯の恩師となった1906年生まれの哲学者がいた。治安維持法で検挙され、敗戦後は瀬戸内の村に隠遁しようと思っていたところ、旧制一高の教授として東京に招かれ、焼け野原となった東京で暮らし始めた。恩師は、過去の体験を経験化しなければ、ふとした日常の小さな変化から、未来の焼け野原への暗転、「ペリペティア(突然、生身の現実に出会う瞬間)」が始まるという話をされた。体験とはただ生起したことがらが身体を通り抜ける(fahren)ことであるが、経験する(erfaren)とは、自らが体験したことがらを、痛みをともなう形で(「自己」の解体に直面し)、自らを切り刻み(analysieren)、ことがらを刻み込み・埋め込み、切り離すという道行きである。

     わたしの恩師や友人の恩師には、その生きられた学問から、未来の“瓦礫”を“予見する(prevedere, prevision)”ところがあった。それぞれの父親たちは、特攻や密航、“瓦礫”と化した東京が身体に染みつき離れない世代である。そこから、“予見”とはいかないまでも、うっすらとした“予感(presentiment, presentimenti, Vorahnungen)”、あるいは、なんらかの“災厄へのdoomedな(ただ安心とはいえない)予感”があったのだろう。そしてわたしや友人は、その“予感”を引き継ぎ、過去と未来の“瓦礫”のあいだを「たまたま」生きながらえているという「うしろめたさ」の身体感覚(sensus corporis, corporeal sensation)があったのかもしれない。

     

    2.子どもの“予感”

     

     わたしの盟友であり師でもあったイタリアの社会学者アルベルト・メルッチ(1943-2001)は、「私たちは、子どもたちへ、人間とは異なる種へ、そして伝統的文化へと目を向けることから始めることができる」(『プレイング・セルフ――惑星社会における人間と意味』ハーベスト社、2008年、197頁)と言った。メルッチによれば、子どももまた時代の空気を察し、“予感”するのである。

     都市化や産業化、技術革新への期待が大きかった「高度成長」の時代、夢想癖のある子どもの常なのだろうが、自分の死、人類の滅亡、宇宙の死を考え涙していた。死や終末、破局について、浅い眠りのなかで、くりかえし同じ夢を見た。

     たとえば、家族で伊豆の海で遊んでいる。透明度が高く、少し泳げば深い海となっていく。緑がかった明るい青色の透明な海の底を眺めながら、ひたすら沖へと泳いでいく。すると、かなりの深さの海底に、朽ちかけた階段があり、その階段は、海の底のずっと奥深くまで続いているようだった。階段の奥は暗くて見えない。気がつくと、その階段に引き込まれ、身体をつかまれるようにして深く潜っていった。濁った海水に満たされた真っ暗の階段を、下へ下へと降りていくのだが、なぜか呼吸は出来ている。なにも見えずに手探りで、深海へと階段を降りていくと、海底にごぼっと穴があき、突然視界が開け、そこには海底都市が拡がっていた。海底内の巨大な空洞の天空の、薄ぼんやりとした明かりに照らされたその都市は、よく見ると、巨大な廃墟であった。砕け散った窓ガラスが降り注ぐ高層ビル街を見上げつつ歩いていると、瓦礫に足をとられた。そのとき、ふとわれにかえった。「ああ、ぼくは、自分がまだ生きていると思っていたけれど、実はもう死んでいるのだ。現代文明は壊滅し、人類は滅び、いまでは残骸だけが遺されている。大洪水で海に没してしまった都市の廃墟のなかに、ぼくの骸骨が横たわっている。もし誰かが発見するのだとすれば、それは人類ではなく別の生命体なのだ」と気づいたところで、いつも目が覚めた。

     あるいは、温暖で雪が降ることなどまずなかった伊豆の実家が雪に埋もれている夢を見た。暖炉を求めて、実家の応接室に見知らぬ人々が集まっている。「オレはフランク・シトラだ。オレはえらいんだから、暖炉に一番近い場所をよこせ」と叫ぶ体格のいい男性がいた。凍えている母親や赤ん坊もいるのにと思い、「みんなたいへんなのに、なぜそんなことを言うんだ!えらいもなにもあるものか!」と叫んだ。わたしの隣で膝を折り曲げ座っていた痩身の老人が、「そんなことを言うのは、あなたもお父さんと同じで、この星の人間ではないんですね。あなたのお父さんは、別の星から来たのだけれども、いまこの地球の異常気象をつくりだした人たちと戦っているのですよ」と言って、窓の外を見るよう促した。吹雪でよく見えない外の景色に、閃光が走り、焼け焦げた父親の身体がもんどりうつのを見た。人肉が焦げる匂いがした。受け入れてもらえぬ社会の「捨て石」となって死んでいく父親をもった息子なのか、と思ったときに目がさめた。海底の廃墟へと降りていく夢、徹底して「よそ者」である自分を思い知らされる夢に何度も出会ったのは1967年頃から1972年頃にかけてのことだった。

     社会は、「成長」のまっただ中で、誰もが真面目にひたむきに息を合わせて「拡大」へと邁進しているように見えた。全国総合開発計画の地図を眺め、わたしが暮らす伊豆の田舎町までもが都市化していって、地球上には都市しかなくなるのではないかと考え、恐怖した。その「清潔なる帝国」に自分の居場所はあるのだろうか。きっとその「進歩」や「発展」からは取り残され、落としこぼされ、何かのちょっとしたきっかけで、「捨て石」となり、「トカゲのシッポ」として切り捨てられるだろう。「魔女狩り」の対象となり根絶・排除されるのではないかという感覚があった。“終わりの予感(doomed premonition, premonizione dell’apocalisse)”、「あたりまえ」だと思っていた日常が、たやすく“瓦礫”へと急転するという“(うっすらとした)予感”、「いまの自分の生活はうたかたの夢物語だったのだ」と実感させられるときが当然来るという“悲運の予感”であった。

     

     

    [© Michinobu Niihara]

     

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