7.いまなすべきことは
ではいまなすべきことはなにか。生物としての生身の人間が、いかなる知性にとっても対応困難な現実に直面している。その一方で、組織化された人間がつくる社会の最先端にある組織は、そのまま自己増殖し続ける。組織化/システム化/端末化した人間の身体が悲鳴をあげている。
『戦艦大和ノ最期』を書いた後、沈黙を保っていた吉田満が再び声を発したのは、日本の社会が臆面もない自己中心、自己満足、他者への徹底した無関心へと向かうことへの危惧からだったという。淵田満津雄は、世界の破局(apocalisse)を予言するイエスの「夏は近い」とタイトルで自伝を書いていた。
とるものもとりあえず、やむにやまれず、我が身を投じて声を発した二人は、ことに臨むにあたって“思行(思い、志し、想いを馳せ、言葉にして、考えると同時に身体がうごいてしまっているという投企)”のひとだったのだろう。
中村雄二郎は,近代科学と現実とのずれに対して、「本来は『主人公』であるはずの〈現実〉に即した臨床の知とは何か」という“問いかけ(interrogazione, ask questions)”の冒頭で、メルッチの考え方には、自らの「〈臨床の知〉に通じる考え方がある」(中村雄二郎『臨床の知とは何か』岩波書店、1992年、2-4頁)としている。わたしたちは、どのように、時代の〈現実〉に応答する“臨場・臨床の智(cumscientia ex klinikós, composite wisdom to facing and being with raw reality)”を紡ぎ出し、“織り合わせる(intrecciare insieme, weave together)”のか?
わたしたちが日々の暮らしを営む都市や地域が、いながらにして“異郷/異教/異境(terra estranea/pagania/confini estranei, foreign land/pagandom/ extraneous borders)”となりゆくなかで、“予感/予見(doomed premonition, premonizione dell’apocalisse/previsione, prevision)”しつつも無力で在り続けた自分に問いかけることがある――いま、この“未発の状態(stato nascente, nascent state)”のなかで、「これをやろうとしないでは死ねない(!!)」という“使命(professione, Beruf, calling, vocation )”はなにか。なにを思い、志し、想いを馳せ、言葉にして、考えると同時に身体がうごいてしまっているという投企をする(pro-gettare)のか。生身の身体から発せられた声はどう聴きとどけられるのか。どのように自らの身体の声に気付くのかと。
大野新さんの「存在の傲慢さ」という言葉は、「ホモ・サピエンス」を自称する人間という「種」の傲慢さへの“問いかけ”として理解できる。文明は、欲望を全開にすることで自らの墓穴を掘る(「成長の限界」ではなく「成長」という限界である)。人間の「知(scienza)」の傲慢さについて、梅棹忠夫は、科学は「業」であり「罪」でもあることを自覚してコントロールする必要があると言った。梅棹は、「知」による「競争」「消滅」「破滅」を論理の必然として予見していた。文明は自分自身の存在を掘り崩すシステムだ。たとえば、感染症の拡大。資源の枯渇。人間は、その文明との間で、生存を賭けた競争のなかに投げ込まれている。「安全」「安心」の考え方自体が、人間の想定によってつくられているという限界を持つ。
安倍公房は、16世紀フランドルの画家ブリューゲルの「盲人に連れられて歩く盲人の群れ」から、人間もまた、鯨のように浅瀬に乗り上げ集団自殺してしまうのではないかと、人間と社会の未来を想像した(cf.『死に急ぐ鯨たち』新潮社、1986年)。
プログラムを生み出すプログラムを創出した人間は、社会というシステムを発明し、生物としての自らの閉じた定常系のシステムを破壊し革新するというアンビヴァレンス(ambivalence)を抱えることになった。脳のなかで再構成された「フィクション」であったはずの社会システム(たとえば資本や情報)は、独自の法則で運動を展開していく。生物としての人間は「例外」や「変異」によって進化するが、社会は「例外」を排除する。拡大された身体としての国家は機械化(官僚制化)していき、システム化された社会は、大量で高エントロピーの“造り出された廃棄物(invented refuse)”を生み出す。権力(パワー)は、自らの「統治性の限界(the Limits of Governmentality)」を認めず、その原因を「統治不能なもの(the ungovernable)」の側に求め、“異物(corpi estranei)”の根絶・排除へと向かう。では「ホモ・サピエンス」と自ら名のる存在はどこへ向かうのか?
8.これからの道行き
「想像をこえること」が生起・継起し続ける時代を私たちは生きている。「コロナ危機」のもとで、コロニアリズム/オリエンタリズムによる構造的差別(黒人差別、アジア人差別、医療者差別、感染者差別、「夜の町」差別、等々)が増殖している。
このままのパターン(制度と装置)でやっていけないことに気付かされたのに、いまなお、同じパターンで社会を続けていこうとしてしまう。マキャベリは「既存の秩序に支持者はいるが新しい秩序は支持されない」、ヤスパースは「人間というものは自己に加えられる非難に対しては、その非難が理由のあるものであろうとなかろうと、それを拒もうとしたがるものである」と言った。
梅棹は、「人文的な素人(humanistic amateur)」の「(理性ではなく)英智」に希望を託そうとした。“知慧(sapienza)”に対する“智恵(saperi)”と“智慧(saggezza)”、すなわち、“知慧(sapienza)”は“智恵(saperi)”にかなわないという感覚とともにある“智慧(saggezza)”への敬意である。フィールドワーカー梅棹もまた、“臨場・臨床の智”のひとだった。
異質性・多様性の「出会いの場」であったはずの都市が、地球規模の複雑/複合社会化によって、混沌・動揺、全方位的な流動化と同時に、異端・異物を排除・根絶する力を強め、“「壁」の増殖(proliferation of ‘barrier’)”の場となっている(新原道信「出会いの場」としての都市」『都市科学事典』春風社、2021年)。
このオンラインマガジンの“場(place, space, place, site, case, circumstance, moment, condition, situation )”においては、過去と未来のあいだの、“内にして外/外にして内”なる“瓦礫”という観点から、わたしたちの日常生活の“場”である都市や地域の内実を目視していくつもりだ。とりわけ、徹底して他者を犠牲にする「超(スーパー)システム」(cf.多田富雄『生命の意味論』新潮社、1997年)としての都市、「20世紀末」後の都市が全方位的に展開する“見かけ倒しの拙速社会(società fittizia e rapida, fictitious and rapid society)”を捉えかえそうと思う。近代文明が地球規模の破局をもたらし、瓦礫が出現することの必然性について考えたい(たとえば、生後1、2年で死ぬチェルノブイリの犬たち、早逝するツバメたち、中野好夫『人は獣に及ばず』みすず書房、1982年などに即して)。
明治以降、そして敗戦後の戦後社会も、「超システム」への総動員のなかに位置づけられ組み込まれていれば「安心」を確保できるという「幻想」が存在し機能していた。それが“見かけ倒し”であったことを体感できるようになったとしても、わたしたちは過去の思考態度(mind-set)に縛られ、なんとか窮地をやり過ごそうと、身をよじらせ、過去の「模範解答」にしがみつき、切り離せる「シッポ」を見つけようとする。これまで蓄積してきた「知(scienza)」は、「切り離す」対象の“線引き(invention of boundary)”の理由を説明するための「狡知の知」として「活用」される。
全体システムの変動により、十分な防波堤とはならなくなった「シェルター」もしくは「温室」のなかで、よりよいポジションを確保するための努力にエネルギーが注ぎ込まれ、人間と社会の〈現実〉に対して、“故意の近視眼(intentional myopia, miopia intenzionale 意図的に目を閉ざし生身の現実に対して心に壁をつくる性向)”と“選択的盲目(現実から目をそらす性向)”を選択する。
窓の外に迫り来る暴風も濁流も、“没思行(inclination toward unreflecting, imprudent and inconsiderate carefreeness)”によって無き/亡きものとする。これもまた“線引き”である。しかし生身の身体は、暴風と濁流のなかで生命活動/精神活動を停止させ悲鳴をあげる。システムの痛み、システムがもたらす“心身/身心現象の境界領域(liminality、betwixst and between)”の“痛み/傷み/悼み(patientiae, doloris ex societas)”である。
ここでの“使命”は、特権への非意識的な「安住」(「安心立命」)、「『安楽』への全体主義」(藤田省三)によってもたらされる差別・抑圧、“痛み/傷み/悼み”の縮減(市井三郎)である。
メルッチは、子どものみならず、「人間とは異なる種」、そして(人間が自らの身体の「内なる惑星」を感じ地球環境に溶け込んでいるような)「伝統的文化」へと目を向ける」と言っていた。わたしもまたここを“基点/起点(anchor points, punti d’appoggio)”として、地球の、他の生き物の、他の人間の悲鳴を、“感知”し、“感応”する“臨場・臨床の智”を次回以降、考えていきたい。
人間みなチョボチョボ、われもひとなりかれもひとなり、われもいきものかれもいきものなり、われもかれも、ものよりいで、ものにかえるものなり
[© Michinobu Niihara]
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