4.2017年の石垣島への旅――言葉・表情・声
2017年3月には、石垣島を再訪している。「再訪」と言ったのは、その前に、琉球新報の三木健さんのご助力で、西表島炭鉱跡と竹富島を訪れ、那覇の沖縄第一ホテルで記録作家・上野英信さんの話しを聞かせていただいていたからだ。そのときから、石垣の森に入植し、開拓していった人たちのことが気になっていた。2017年は、20年ほど前の石垣・西表・竹富島への旅で、「こころをのこした」土地との再会であった。
宮古島への旅に先立つ2017年、市民の会で活動するFさんたちの助力で、西表から合流してくれたYさん、東洋大学の鈴木鉄忠さんと旅をともにした。
自衛隊の基地候補地とされた平得大俣は、「日本の名山」として知られる於茂登岳のふもとにある。石垣島中央部に位置するこの地域の4つの集落(「部落」)である嵩田、開南、川原、於茂登(おもと)は、台湾、沖縄本島、石垣の宮良、与那国、戦後の計画移民で嘉手納基地となった北谷、与那国など、沖縄内外の各地から、開拓農民として入植した人たちが切り開いた土地であった。
Yさんの案内で、まずは石垣市街から、海上保安庁(合同庁舎)前を通って、港ターミナル通りをすすみ、港まで歩く。石垣港には、海上保安庁の巡視船と大型クルーズ船Superstar Aquariusが停泊している。今朝到着し夕方には那覇に向けて出港するようである。Yさんは、巡視船の数が増えていることに驚く。[写真⑱]
[写真⑱:海上保安庁の巡視船と大型クルーズ船Superstar Aquarius]
入国審査を終えて、台湾からの観光客が市街地に向けて歩き始めている。白タクを監視するためタクシー組合の人たちが立ち番をしている。その向こう側に、銃器にカバーをかけた海上保安庁の巡視船が停泊している。「軍備増強」と「観光客誘致」という矛盾が狭いエリアに同居している。
黄色いジャンパーをまとったタクシー組合の人たちが、親しげに話しかけてきた。来訪の理由を告げると、停泊地の門番をしている方に話しをしてくれて、クルーズ船の近くまで行けることとなった。客たちは、短時間で、大量の薬品や化粧品、魚介類や果物を買い占める。5万人程度の人口の島にとって、一隻の大型船の入港は、街の暮らしに大きな影響を与える。
竹富島役場、先島ガス、石垣島ヴィレッジを通り抜け、タクシーに乗り込み、旧飛行場跡に近くに位置するショッピング・センターをめざす。台湾から石垣に移住した人たちが観光バスガイドなどしている話、「イノー(サンゴが育つ健康な礁池)」の話、ヤドカリでのウミヘビつりの話、ハブを丸焼きにした話など、運転手さんの幼少期の話はとても興味深い。
観光客には、刺身とリンゴが人気というショッピング・センター店内を見てまわる。ここからヘリポートのある石垣消防署まで歩いて行く。広大な空間として残されている旧飛行場跡と新八重山病院を見てまわる。建設中の道路は「この島に似つかわしくない6車線」でつくられつつあるが、建設中の新八重山病院には、常駐する医師がいないと言う。[写真⑲]
[写真⑲:工事現場の風景]
自衛隊のミサイル「地対空誘導弾パトリオット(PAC3)」は、2012年4月、2016年の「北朝鮮ミサイル発射」時には、石垣港向かい側の広大な埋め立て地(八島埋め立て地)に配備された。同埋め立て地が、現在工事中であるという理由から、さらなる候補地として、石垣島旧空港、「サッカーパークあかんま」があがった。その他、新石垣空港北側、白保・宮良地区北側、崎枝集落南側、屋良部半島西側、そして、嵩田の東側から開南の西側地域が候補地としてあがっていた。
Fさんは、基地候補地と石垣の現在をしるためのルートを考えてくれていた。まずはバンナ岳の展望台から、さきほど見た石垣港側と基地候補地の平得大俣地区を眺望した。於茂登岳(526m)の手前には嵩田、その東には開南、北には於茂登の農業地帯が拡がる。[写真⑳]
[写真⑳:バンナ岳からの眺望]
高台から道を降りると、嵩田、開南、川原、於茂登の集落となり、サトウキビやマンゴー、パイナップルが栽培されている土地に、「自衛隊基地反対」の看板やのろしが目に入ってくる。土地はよく整備され、ここまで来るのにどれだけの努力があったかを想像する。
於(お)茂(も)登(と)集落の入口には、1982年建立の「開拓の碑」がある。「碑」の裏側には、1957年5月19日にやって来た初代の方たちのお名前が刻まれている。その横には、「島のどこにも自衛隊基地いらない!!」と書かれたのぼり旗がいくつもある。[写真㉑][写真㉒][写真㉓][写真㉔][写真㉕]
[写真㉑:於茂登の集落]
[写真㉒:開拓の碑(正面)]
[写真㉓:開拓の碑(裏面)]
[写真㉔:基地反対の旗]
[写真㉕:サッカーパークあかんま]
候補地のサッカーパークあかんまから、屋良部半島へ向かう。崎枝集落南側から、日露戦争時代の戦時体制の遺構である「電信家(元海底電線陸揚げ室)」跡地では、現在はクルーズ船でつながっている台湾の基隆(きーるん)港が、軍事目的の電線でもつながっていたことがわかる。[写真㉖]
[写真㉖:電信家の石碑]
ここからいまひとつの基地候補地である屋良部半島西側へと向かう。御神崎(おがんざき)灯台には、八重山丸遭難の碑がある。ここからさらに、屋良部半島の内陸部にひっそりと置かれている不発弾の格納庫へと向かう。警備員さんが出てきて、「中に何があるか言ってはいけないことになっているので、いや、何が入っているか知らないさあ」と言う。続いて、準天頂衛星システム石垣島追跡管制局を見学する。[写真㉗][写真㉘]
[写真㉗:不発弾の格納庫]
[写真㉘:石垣の準天頂衛星システム]
新栄公園の石垣周辺の地図を見ると、あらためて石垣が、東・東南アジアと日本に開かれた交流の拠点であることが可視的にわかる。他にも、台湾宜蘭県蘇澳鎮(すおうちん)との姉妹都市(1995年9月26日締結)の石碑などもあり、漁民の往来、戦時中の台湾疎開、蘇澳鎮の港からの引き揚げ、そして台湾から嵩田地区への集団移住により、パイナップルと水牛の導入が図られたことなどが書かれてある。[写真㉙]
[写真㉙:石垣から見たアジアの地図]
八島埋め立て地にある石垣島出身の特攻隊長「伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑」にも案内していただいた。石垣も宮古と同じく、旧日本海軍の二つの飛行場(平得と平喜名)と陸軍の石垣島飛行場(白保)が存在していた。平喜名に続く平得と白保の飛行場建設には住民が徴用され、台湾への疎開もすすめられた。1944年10月の初空襲から1945年にかけて度重なる空襲、艦砲射撃、6月住民の山地への強制避難、マラリアという悲劇が継起した。[写真㉚]
[写真㉚:伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑]
こうして、Fさんたちの助けを借りて、島内を一周させていただいた。その次の日、市民連絡会の方々、候補地の方々との意見交換会を設定していただいたのだが、そのなかで、とりわけ「こころにのこって」いるのは、嵩田・開南・於茂登の方たちの言葉だった。
Fさんの運転で、於茂登集落へと夕闇のなかを走り、コンクリート造りの公民館に少し早めに到着する。もともとは開拓民のための合宿所だったらしい。現公民館長のKさんが解錠してくれて、館内の写真や旗などを見ることが出来た。
ふだんならば、農作業を終え、晩酌の時間であったろう。しかも、収穫期、とても忙しい時期に、それぞれの集落から集まってくださった。
「バンナ岳の斜面で農業をしています。静かな緑一面の土地に、取引先の人を案内すると『いい風景だね』と言ってくれます。この風景自体がブランドです。これで基地が来たら台無しですよ。」
「復帰後の土地改良の時期に、みなで話し合って、原風景を残すという選択をしました。土地改良をしないと農作業はたいへんだけれど、将来を考え、この風景を残したのです。」
「『外貨獲得』のための農業でマンゴー栽培をした。宮古からの自由移民で親戚は那覇に行った。マンゴー作りをしたいだけだ。突然のことでびっくりして、仲間と集まり、記者会見をして声明を出した。議会でも継続審議となり、各公民館に持ち帰って議論をして、みな反対となった。この土地は自分たちで開拓した土地だ。長い時間かけてやってきたんだ。」
「騒音は牛にとってたいへんなストレスとなる。土地を求めてやって来て苦労して開墾した場所に、またもや基地建設というのは絶対許せないという気持ちがある。農業をしていきたい人はみな反対している。」
「マンゴーのビニールハウスのすぐ近くが候補地となっている。与那国では基地問題で島内が対立し、自衛隊が来た。そうさせてしまう政治への怒りがある。」
「田舎がいやで那覇に出た。楽しかったけれど石垣とは空気が違う。しまの暮らしは時間がゆっくりと流れる。他にはない。これが牛飼いの気持ちだ。観光はいやだ。レンタカーが走っているだけでもいやだ。これじゃなんのためにもどってきたんだ。」
ただ「マンゴー作りをしたい」「牛にとってストレス」――マンゴーを栽培し、牛や土地と対話をしながら「しま」の時間を生きることのリアリズムがある。その暮らしは、初期に移住した開拓民の労苦によって築かれたものだという強い気持ちがある。
「最後の計画移民だった。小1の時はジャングルだった。父たちが嘉手納から先遣隊としてやって来た。陸稲(おかぼ)を作ったがイノシシに食べられた。硬い地面に埋まっている石ころを掘り出し、畑をつくった。新しい土地を求めてやって来たのに、またか!! 小さな島はどうなってもいいのか!! ここは石垣の真ん中で一番いい場所なんだ。」
「いままでの情景、静かな環境が変わってしまう。とにかく止める。絶対許さない。前の戦争の犠牲が残っている。父親たちの世代は、西表島に『疎開』してソテツを食べた。そしてマラリアを持ち帰った。土地が破壊されればこのときの二の舞となってしまう。またマラリア地獄だ。」
「母は日本軍に恨みが強い。自衛隊が来ればきっと米軍の基地にもなる。」
「父親母親たちの世代」への敬意とそこからの学びがある。やせた土地で石ころだらけの「ジャングル」を切り開いた。幸い、水は豊富で街に近かった。土地をくじ引きで分配し、みんなで植えつける。しかしそこからの収穫物は土地の主にあげる。先遣隊で開拓団規則をつくった。出身地のちがう部落民が団結し、一名の除名者も出さずに歩んできた。
こうした協業によってつくられた 「いい場所」は、ひとたび人の手を入れなくなれば、たやすく荒廃し、マラリアなどの伝染病が蔓延すると身体でわかっている。
「北谷で畑をやっていたが嘉手納の基地にとられた。かつての家は基地のなかにある。玉城から、与那国から、北谷からやって来て、いっしょに土地をつくった。まず先遣隊として父たちがやって来た。土地を開墾し、それから家族で入植した。
ツルハシで畑を耕した。そして、ようやく2世が育ってきたのに、基地ができたら本当に『二の舞』だ!!」
「昭和32年の計画移民で北谷からやって来た。みんなで力を合わせないと集落がつくれなかった。だからいまでも団結している。ここには於茂登岳からのきれいな水がある。高いところにタンクをつくり、自然な流れで農業が出来る。だからみんなダメだと言っている。」
「子どもの頃、土地改良前、虫や魚をとって遊んだ。野菜、花卉栽培、サトウキビで暮らせた。高校を出た後、いちど外に出てまた帰ってきた。静かな環境で農業をしたい。この静かな環境じゃないとダメなんだ。次世代にこのまま引き継ぎたい。八丈島でホテルの廃墟を見た。観光の危なさがある。自衛隊が来れば風評被害で農業もだめになる。」
大地の鳴動であるような言葉が次々と発せられ、公民館のなかで木霊していた。この土地に入植したのは、強制的に、あるいは出郷を余儀なくされた人々だ。耕すこと自体が困難な土地に、途方もない努力でいのちを根付かせ、 新たな風土と共存・共在する“智恵”を育み、「新しい土地」に新たな「しま」を創った。土地は、自分たちそのものであり、身体の奥底に、バンナ岳や於茂登岳、そこからの水、虫や魚や牛、花や野菜や果物が在る。土地と人の結びつきは分かちがたく、土地が壊されることは身が切られることだ。
話の後、前公民館長Mさんたちのご厚意で、あと10冊ほどしかのこってないという貴重な入植50周年の記念誌をいただいた。「最初に入植した人たち(父母の世代)は、嘉手納などから来てたいへんな苦労をしたこともあって、この土地への愛着が強いんで、生ぬるい反対運動やっていると怒られるんだよ」と言い、Mさんは、少し笑った。
公民館に集まってくれた人たちの言葉は、無駄な装飾がなく私心がない。身心を揺さぶる言霊と想念の余韻が刻み込まれた。話しの最中は、とても緊張していたため、気がつかなかったが、会場の公民館を出ると、虫の声がここちよく聞こえている。
この“贈りもの(dono)”の重みを感得し、記念誌に向き合うときは、こころを整え、正座する。「ジャングルの希望の一鍬」「先遣隊の思い出」「於茂登開拓者魂」――文章のひとつひとつ、写真の一枚一枚にこめられた想いを受けとめようと頁をめくる。
しかし、それだけではない。この集まりの前日には、於茂登の集落と「開拓の碑」を拝見している。バンナ岳の展望台から、そして道路脇から見た、よく手入れされた耕作地、夜半の公民館から漏れ出た灯りと虫の声――言葉・表情・声、それらすべてが次世代に“伝承・伝達”すべきものだ。
この「出会い」の後もずっと、こころを寄せていた。2022年12月から1月にかけて、Fさんたちが住民説明会の要望書を提出し、集会に来てくれていたHさんたちの尽力で基地賛成派が多い石垣市議会でミサイル配備に関する意見書が可決されたこと、石垣島への「島民が撃ったらいいと言ったら撃つわけではない」「危険なものができる土地に住む人の気持ちを理解しているのか」という声に耳をすましている。
「『空白』とか言うけれど、沖縄の2万5千年の歴史のなかで、尖閣が『軍事的空白』でなかったのは、第二次大戦末期の一時期だけですよ。このとき何が起こったか、まったく明白ですよ。」「運動にまきこまれたんだけれど(笑)、反対しないと人間としてまちがっていると思った」という2017年の言葉を想い起こしつつ。
5.「コーズ」のつらなり
学者として“晩年の様式を生きる(living in late style, vivere in stile tardo)”ことを意識するようになった。若き日に、三木健さんからいただいた厚情に、少しだけでもお返しができればと思った。再び、宮古・八重山にかかわろうと考え、再開した旅だった。「新型コロナウイルス感染症」などで、その後の再訪の機会を失してしまっているが、筆者を「育てて」くれたサルデーニャと同じく、「いつもあなたとともにある(Sempre sarò con te)」という想いがある。
そしていま、あたかも70年以上前の「サイパン陥落」後のような性急さで、短期間に建設された〈基地〉を目の前にしている。これは、“瓦礫の出現”ではないか。宮古・石垣で出会った人たち、出会った土地に、なにができるのだろうか。
宮古と石垣を歩きながら想起していたのは、『南嶋探検』の著者・笹森儀助のことであった。1845年、青森・弘前藩に生まれた笹森義助は、地元の政治家も足を運ばぬ場所を手探りで探り、明治となっても先島諸島(宮古・八重山)だけに課された人頭税という不条理な税のため、他の島々から強制移住させられた人々に話しを聞き、『南嶋探検』で、宮古・八重山の“生身の現実”を伝え、世に問うことを試みた。「このような人たちを置き去りにして何が近代化か」と。
上から/外からの「観察」や「分析」ではなく、“ごくふつうの受難者/受難民”の“わがこと”として立ち現れる近代化の歪みを把握し、声を発し、「我が身を持って証立て(sich betätigen)」(ヘーゲル)ようとしたのだと思う。
「ずっとこころにのこっている」とはどういうことだろうか。なにごとか、誰かに「関心をもつ」とは、inter-esse、自らの内側、こころと身体の内奥に(inter)、誰かが入り込み、時として、その「呼び声」が聴こえる瞬間(momento)である。
日々の「喧噪」のなかで、身心に刻み込まれた記憶(Erinnerung)は水面下に沈んでいるかにみえる。しかし、「出会ってしまった」その存在(esse)は、時をとらえて、身体の奥底からほとばしり、こころをつかまえる。
「危機の瞬間にひらめくような記憶をつかむ」(W.ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」)ことは、実はその存在(esse)に「つかまれ」ることでもあるのだ。他者が内に入ってきて、“わがこと(cause)”の欠くべからざる「素(Element)」として、声を発し、道を指し示す。想いを馳せ、考えると同時に身体とこころがうごいてしまい、「(我が)身を投ずる」(上野英信)こととなる。
「こころにのこる」ものが自らの内なる“わがこと”となり、うごかざるをなくなってしまった人たちに揺りうごかされる。そして気がつくと自分もまたうごいていくという「コーズ」のつらなりによって、「パブリックのもの」がつくられていくことに「身を投ずる」しかないのだとあらためて想う。
人間が思想を自分のものとしてもつとは、それによって生きることができるコーズcauseをもつことである。そのために精神の真底から笑い、喜び、怒り、憂え、悲しむことができるなにか普遍的なもの、なにかパブリックなものをもつことである。そのとき、歴史は精神の外側に己れを展開する眺めではなくなって、自己のうちなるコーズそのものにかかわる出来事となる。(真下信一「受難の深みより――思想と歴史のかかわり」〔1957年〕『真下信一著作集 5 歴史と証言』〔青木書店、1980年、pp.187-192〕)
[© Michinobu Niihara]
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