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過去と未来の“瓦礫”のあいだで

新原道信

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第10回 シコ・メンデスはなぜ殺されたのか?

     ずっと気になるひと、「このひとのことを忘れてはいけない」、そう想わさせてくれるひと。そのひとを想い、こころを寄せると、異なる時間、異なる場所で体験したことが、なぜかつながり、新たな意味を持つ。

     そうしたひとのひとりに、ブラジル・アマゾンの熱帯雨林への入植者の末裔であるシコ・メンデス(1944-1988)がいる。シコ・メンデスは、アマゾンの熱帯雨林でゴムの樹液を採取する労働者(セリンゲイロ)の三代目として、1944年ブラジル北西部アクレ州の森に生まれた。父親から樹液を採取する仕事を教わり、9歳から20年ほど、ゴムの樹の森で働いた後、熱帯雨林の環境を守る運動に身を投じ、1988年に暗殺された。

     

    1.緒形拳の1992年の映像

     ずっと気になっていたのだが、突き詰めて考えてきたわけではなかった。ところが期せずして、2025年4月、NHKのBS放送で、1992年8月に放送された「緒形拳のアマゾン紀行 闘い、シコ・メンデス」の前後編が再放送された。画面に映し出された在りし日のシコ・メンデスと「再会」し、その姿を追いかけていった。

     緒形拳(1937-2008)たち日本人取材班がブラジルを訪れたのは、1992年6月のことだった。この時期、リオデジャネイロでは、「環境と開発に関する国際連合会議(UNCED/地球サミット)」が開催されていた。21世紀に向け実行すべき行動計画(アジェンダ21)が採択された国際会議である。この会議と並行して、環境保護NGOのフォーラムが開かれ、シコ・メンデスの後継者である全国ゴム採集者協議会理事のオスマリーノ・ロドリゲスがシコ・メンデスの「夢」についての「遺書」を読み上げた。「世界社会主義革命が起こって100周年の記念日の2120年9月6日を生きる将来の若者たちへ」という内容だった。「苦しみと痛みと死の記憶はすべて過去のものとなる。現実ではないが夢見ることが出来て私は幸福だった」。この手紙を書いた20日後に、シコ・メンデスは殺された。

     緒形たちは、まず最初に、リオデジャネイロの山腹の斜面に拡がる貧民街のファヴェーラ (favela)を訪ねる。リオデジャネイロやサンパウロのファヴェーラには、ブラジル北部の森林伐採で暮らしが立ちゆかなくなり、都市へと出てきた元・入植者や先住民が、多く暮らしているからだ。その後、リオからさらに北上し、北西部アマゾナス州の州都マナウスからアマゾン川を遡り、アクレ州リオ・ブランコへと入っていく。

     1970年代、ブラジル政府は、「人間のいない土地に」というスローガンのもと、60万人以上の新たな入植者を、アマゾンの森に入植させた。1973年には、国道317号線がリオ・ブランコからシャプリまで延び、さらにクルゼイロ・ド・スルまで続く国道364号線(「アマゾン横断道路」と呼ばれる道路)が建設された。わずか15年間で、ロンドニア州の熱帯雨林の約半分は破壊された。

     「アマゾンの密林破壊は単に一地方の問題ではない」。シコ・メンデスは、道路がもたらす破壊の脅威を予見していた。森や木や川は、たがいに助け合い共生している。そこには植物や魚や動物や人間がいる。アマゾンの先住民は、ゴムの樹を「泪を流す樹」と呼んだ。そのゴムの樹を慈しむセリンゲイロたちは、「私たちの生命」であるゴムの樹に、慎重に切り込みを入れ、樹液を採取する。

     森を横断する道路が出来てから地価が高騰し、ゴム園は牧畜業者に売り渡されていく。木々が焼かれ、牛が放牧された。牧場の建設により、循環が断ち切られた森は死を待つしかない。入植二代目の父から仕事を教わり、9歳からゴム採集を始めたシコ・メンデスは、1975年に運動に我が身を投じた。彼はただ、自分が生まれ育ったゴム園であるセリンガル・カショイエラの67家族420人を守ろうとしただけだった。

     国道364号線の建設には、アメリカのIDB(米州開発銀行)が出資していた。シコ・メンデスは、地元の教会でもらった背広を着て、1987年3月マイアミまで行き、森の保全を訴えた。「IDBに出資している日本、米国、英国の政府は、セリンゲイロの意見をぜひ聴いてほしい。私はセリンゲイロだ。私の仲間たちは130年間も森林の資源を活用し、それを破壊することなく生きてきた。アマゾンは世界でも有数の生物資源の宝庫だ」と。

     シコ・メンデスは、アマゾンの森と生物多様性を守る運動のシンボリックな存在となった。環境に関する国際的な賞を次々と授賞し、IDBは舗装のための融資を中止した。これに対して、ゴム園経営者と牧場経営者は、セリンゲイロの運動家の暗殺リストを作成し、暗殺を予告した。この時期、ブラジルで起こった殺人事件には、土地紛争でセリンゲイロやアマゾン先住民が殺される事件が多く含まれていた。

     シコ・メンデスたちは、セリンゲイロの「妻やその子どもたちが自分たちの身を盾にして森を守る」非暴力の運動を、展開した。この闘いの途上で、暗殺予告を受けていたシコ・メンデスは、死を予感していた。「誰も好んで死にはしない。誰も好んで倒れたりはしない。もっと生きがいのある生き方をしなければならない。」「このように労働者が死に続けることは許されない。私は死にたくない。」 家族や友人と食事をしながら「雨が降るぞ」と言ったシコ・メンデスは、美しい木々に囲まれた小さな家で殺された。

     セリンゲイロたち入植者が来る前からの森の民だったグアラニー族の族長デラミニ(「かみなり」の意味)は、「『白人(森の外に暮らすひとの総称)』は我々の森を破壊してしまった。その結果としてこの世界も終わってしまう。2000年にすべてが終わってしまう。終末だ。助かるかどうか、それは神が決める」と言った。

     シコ・メンデスは、なぜ殺されたのか? 「森が哭く」という現代文明への“問いかけ”を、私たちはどう受けとめてきたのか?

     

    2.メルレルの1989年の授業と1996年のブラジルへの旅

     シコ・メンデスのことをはじめて知ったのは、1989年1月、留学先のイタリア・サルデーニャで、いまとなっては盟友となったアルベルト・メルレルの社会学の授業を受けていたときのことだった。授業は、1989年1月から5月にかけて、「開発・発展の諸問題」をテーマとして行なわれ、具体例として、アマゾンの森林破壊の問題が取り上げられた。

     メルレルは、1988年12月のシコ・メンデス暗殺事件に即座に対応した。まだインターネットもなかった頃、定期的に取り寄せていたブラジルのニュース雑誌Vejaに載ったブラジル・ポルトガル語の記事を、イタリア語に訳しながら事件の詳細についての解説をした。その内容は、イタリアで報道されるニュースとは異なる角度からの、はるかに詳しいものだった。加えて、イタリアのテレビニュースで報道されたシコ・メンデスが死ぬ前になされたインタビューと、映画『ミッション』についても言及した。オゾン層破壊、大土地所有制と貧困、ブラジルの「進歩史観」による森林伐採、スペインの南米征服と、あらゆる方向へとダイナミックに展開していく授業だった。このとき、雑誌Vejaで見たシコ・メンデスの表情、イタリアの国営放送RAIで映し出された視線や声の調子が、ずっとこころに残っていた。

     その「出会い」から少しの時を経た1996年、7月から8月にかけて、メルレルとブラジルへの旅をともにすることがかなった。ここで、シコ・メンデスが見た現実に少しだけふれる機会をもらった。

     サンパウロでは、メルレルの父親の旧友のイタリア人神父が責任者をつとめる修道院に寄宿させてもらった。ローマカトリックの司祭ロドヴィコ・パヴォーニ(1784-1849)が設立した修道会で、サンパウロのモルンビ地区のファヴェーラで、診療所や学童保育や学習のための教室、遊技場など、様々な施設を作り、ひとびとを支えていた。

     モルンビ地区は、いまは亡きF1ドライバーのアイルトン・セナが眠る墓地もある高級住宅街でもあった。ゲートで囲われ、入口には猟犬が待機し、防弾ガラスの車が出入りする高層住宅が屹立する一帯が在る。その一帯に隣接し、舗装されず土埃の舞う急勾配の土地にへばりつくように、ファヴェーラが形成されていた。

     ふつうなら外部の人間は警戒され、入ることが出来ないこの土地に、修道院の神父たちが付き添ってくれることで、入ることを許された。住民の多くは、森林伐採などで暮らせなくなったブラジル北部の地域から流出してきたひとたちだという。斜面の土地に寄せ集めの材料で建てられた家々に、ひとびとは住む。下水のない路地は、雨の日になると、「天からの恵み」のはずの水が濁流となり、穴だらけの斜面の道を泥まみれにしてゴミを押し流し、造りの悪い家々を痛めつける。

     両親は不定期な仕事を求めてサンパウロの中心街へと出ていく。乳幼児たちは、湿った日の当たらない部屋の中に残される。電気や水道をどうにか確保した後も、ここには託児所はなかった。一人の女性によって、私設の託児所が作られ、やがて他のひとの助けも得て、少しだけ自治体の援助金も受けるようになった。「シンガポールプロジェクト」という名前で、宿泊施設が建設されようとしていたが、ここに入ろうとする住民はほとんどいないか、一度入居してもすぐに出て行ってしまうのだという。託児所の裏手からは、川を隔てて、高層ビルと日本語の看板が見える。「誰もがここから出て行くことを夢見ている」街とはどんな街なのか?

     サンパウロ大学では、メルレルの恩師で南米最高の社会学者であり、軍事政権下のブラジルでサンパウロ大学の職を追われたオクタヴィオ・イアンニ先生(1926-2004)に会っていただいた。机の上に座って足を組み、「イタリア語は隣の家に住んでいたイタリア系移民のひとと話をしながら覚えたものなので、あまりうまくありませんが」と前置きされた後、イタリア語で、ラテンアメリカ社会において、どのように土地が占拠され、固有の世界が「グローバル社会」に組み込まれていったのか、奔流のように、情熱的に、話をしてくださった。「いろいろな『言葉』が造り出す『空気』によって、社会の問題は見えないようにさせられてしまいますが、それを見えるようにするための『批判的精神』が大切です。簡単にだまされてしまわないためには、たとえそれが自分にとって危険なことであっても、“識ろう”とする勇気が必要なのです。」

     リオデジャネイロからさらに北上し、エスピリットサント州で農村家族学校の国際大会に参加し、エスピリットサント州のコロニア(開拓地)のひとつで、19世紀にドイツ系とイタリア系移民が入植し切り開いた、ドミンゴス・マルティンスの森と農地を訪問した。

     さらに、ここから、先住民の方たちの助けを借りて、ボートに分乗し、アマゾン川を遡っていった。数時間の後に着いた森の中に、朽ち果てた石柱が遺る場所へと連れていってもらった。先住民の若者は、「ここには、私たちの先祖がつくった街があったという言い伝えがある」と言った(そのとき、この旅をいっしょにしたイタリア人たちは、「修道院の跡だろう」と言っていたが、先住民たちの言い伝えが真実である可能性が、後に明らかになった)。

     サンパウロのファヴェーラの住民と修道士、イアンニ先生、ヨーロッパからの入植者たち、ジャングルの遺跡へと案内してくれた先住民のひとたち、こうしたひとたちとの「出会い」を通して、シコ・メンデスが体感していた世界に想いを馳せていた。

     

    3.シコ・メンデスになぜこころを寄せたのか

     メルレルは、なぜシコ・メンデスにこころを寄せたのだろうか? メルレルは、イタリア北部の都市トレントで1942年に生まれ、第二次大戦後、ブラジルに移住した。貿易商の父親に連れられ、ヨーロッパもよく旅をしたこともあって、ブラジル社会を外から見る視点を持つことができた。そしてまた、ブラジル社会の諸相(メルレルに言わせるならブラジル社会の内なる“社会文化的な島々”)にふれる生き方をしたことからつくられた複合的な視点で、世界を見ることが出来るひとだった。

     メルレルは、サンパウロで暮らした少年時代から学生時代、父親が経営する農園で、使用人たちといっしょに肉体労働をすることも多かった。その中で、自然から、あるいは自然の中で働く人々から多くのことを学んだという。先住民の部族の言葉であるトゥピ語やグアラニー語もよくしろうとした。「自分にとってはこれが、もうひとつの学校だった。」

     サンパウロでの学校の同級生たちは、通常の都市ブルジョアで、ヨーロッパなど他の土地、ブラジルの中の農村や貧困といった他の世界をしらなかった。それに対して自分の中には、都市ブルジョアの世界、入植者たちの農村の世界、先住民の世界、貧困層の世界、ヨーロッパでの体験など、様々な異質な要素が混じり合い、いっしょになっていた。

     ブラジルには、先住民、ヨーロッパ人、アフリカ人という三つの系譜があり、19世紀頃から「ともに生きること、ともに暮らすこと」が定着していった。その後、違った場所から大量の移民がブラジルへ流入する。世界の主要な大陸から人が移動して流入した。入植者たちは、新しい風土に慣れ新たな土地に住みつくことが出来るかが問われた。「ともに生きる(con-vivere)がブラジルで強く学んだことだった。」

     そしてまた、以下のように語った。「国境の移動により、家族の運命が大きく左右されてきたことを自ら意識している。両親の出生の時期には、第一次大戦とその帰結としてのトレントのイタリアへの『回収』があった。幼少期には、第二次大戦とその帰結としてのイタリア東部領土喪失と冷戦による東西封鎖がある。国境地域に関する関心は、そうした個人的な歴史の再解釈からきている。しかし、そうした構造に翻弄させられるだけなのかといえば、そうでもない。境界領域を生きること、移動することにどのような意味があるのか、その意味を移動した者自らが証し立てるという課題を引き受けたい。」

     メルレルは、ブラジルやヨーロッパの都市エリートとは異なる固有の体験を経験化することによって、移動したひとのみならず、動植物も含めて、「ともに生きる」という在り方が、ブラジル社会に固有の「複合的な発展」の道だと、恩師イアンニ先生ともども考えていたのだと思う。その彼からみて、シコ・メンデスは、ブラジル社会に根ざした“共存・共在の智”の体現者であったのだろう。

     わたしはなぜシコ・メンデスが気になったのか? 気になるひとであったメルレルが気にしたひとであったことも理由のひとつであろう。しかし、シコ・メンデスは、「地球の裏側」で、違う時代、違う環境を生きたひとである。そうしたひとのことが、「地球規模の社会の問題を考えるときに重要だ」というような外在的な視点で、議論に「外挿」したかったわけではない。なぜか「感情移入」した。

     わたしの場合は、伊豆半島での体験を介して、シコ・メンデスに「ひっかかり」を持ったのだ思う。子供の頃、引っ越した土地で、自分にとってどこか“異郷/異教/異境”の地でもあった里山に分け入り、森の木々の隙間から空を見上げ、風が鳴る音を聞き、リンドウの紺碧に目を奪われ、気がつくと識らない谷戸を降り立っていた。山の上には入会地と共同墓地があり、山から水が流れ、田畑と民家、集落の境には神社がある。家の近くの坂を下ると川が水をたたえ、魚や水生昆虫が暮らしている。その川の水で米を洗い、洗濯をする。流れた米粒を魚が食べるという循環がそこには在った。

     幼い頃の一時期、暮らしをともにした祖母は、亡くなる直前、自らあまりかかわることのなかった農業への「こだわり」を強く示した。コツコツと貯めた全財産を投入して、荒れ果てた土地を整地し、その土地が田畑となることを願った。遺言は、「いまの文明は滅びへと向かうだろう。社会の常識や価値も変わるだろうが、唯一変わらないのは、自分の手や足で土や水にふれ、大地を育て、耕すことだ。そのための『地』を子孫に遺したい」というものだった。残念ながら、その「地」は、ひとの手が入らないまま、再び荒れ地となった。しかし、それからまたかなりの時を経て、大学を卒業し、故郷にもどってきたひ孫が、「その土地を耕したい」と申し出た。

     わたしのなかで、祖母の背中と、シコ・メンデスの表情が、どこか重なった。無い袖はふれない。敏感になれることを通しての理解、「感情移入」が偏りを生み出すのだとしても、自分の“背景(roots and routes)”のなかにある「原風景」を介して、恐る恐る、そっと、“身実(みずから身体をはって証立てる真実)”にふれるしかないとも思う。

     

    4.シコ・メンデスはなにを感知し、どう感応したのだろうか?

     1992年の映像をきっかけとして、かつての「ひっかかり」が呼び戻された。メルレルとわたしの偏りを通して理解されたシコ・メンデスとは、彼の生まれ育った「地」で、どう生きたひとだったのだろう。なぜこのように、「報われない」生き方/行き方を選んだのだろうか。なにを感知し、どのように感応したのだろうか?

     熊野の森の木が切られることを自分の身心の痛みとして感知し感応した南方熊楠のように、森の悲鳴、森の慟哭を聴いたひとだった。リトアニア生まれのユダヤ人画家ベン・シャーンは、「地球はその上に住むあらゆるひとのものである」であると言ったが、シコ・メンデスは、きっと、植物、虫、鳥、魚、動物も含めた森のすべてが、結び合わされ、織り合わされた複合体であると体感していたのだろう。感知するには、身体感覚を通じた出会い、つまりは体感することが必要となる。感知はまた、大きくつかむこと、大観することでもある。

     シコ・メンデスは、「地球全体がおかしくなった。その時代の核のようなものが水俣にある」と言った石牟礼道子のように、アマゾンの密林破壊が、単に一地方の問題ではなく、地球規模の問題だと大観していた。アマゾンの熱帯雨林は、地球をやさしく包み込み、呼吸をしてくれている。そのおかげで、地球の、生物の、人間の「肺」のなかにきれいな空気を運ばれてくる。そして、先住民から学んだセリンゲイロこそが、真の文明をつくってきたのだと体感/大観するかたちで感知していたのだろう。「真の文明は山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さざるべし」と言った田中正造のように。

     ではどうして、感知すると同時に感応、すなわち身体がうごいてしまったのだろうか? そもそもシコ・メンデスは、「深く掘れ。己の胸中の泉」といった伊波普猷のように、生まれ育ったセリンガル・カショイエラの「地」を、ただ愛するひとだった。東恩納寛惇が伊波普猷に送った言葉に託すかたちで言えば、「彼ほどアマゾンを識った人はいない/彼ほどアマゾンを愛した人はいない/彼ほどアマゾンを憂えた人はいない/彼は識った為に愛し、愛したために憂えた/彼は学者であり愛郷者であり予言者でもあった」ということになるのだろう。セリンガル・カショイエラという「小宇宙」は、「惑星地球」の呼吸を支える肺のような存在であり、生命活動の源である。もしその「肺」を傷つけてしまったならば、「惑星地球」という希有な生命体は、たやすく限界状況に直面すると予感/予見し、いてもたってもいられず、行動した。

     「地を識るひと」であったシコ・メンデスは、「われもひとなりかれもひとなり、われもいきものかれもいきものなり、われもかれも、ものよりいで、ものにかえるものなり」という“智”が身体化していた。“渾身・心の力で”、ただ自分の森、自らの「地」のもっとも困難なとき、困難なことから逃げないで、その場に居合わせ、感応した。南方熊楠がそうであったように、自らの内なる“地-球(terra-Terra, ground/soil-the planet Earth)”の慟哭に感応するような身体(化された)智をもっていたのではないか。

     

    5.シコ・メンデスが“問いかけ”たもの

     1988年に暗殺されたシコ・メンデスの生き方/行き方は、いま私たちになにを“問いかけ”ているのだろうか。近年の研究では、ヨーロッパから「白人」が到着する以前に、アマゾンの先住民たちが、ブラジル・ナッツやカシューナッツ、ゴムの樹を植樹して、「森を育てて」いた可能性が指摘されている。2024年には、エクアドルで古代都市の遺跡が発見された。さらには、植物はメッセージを発信し、コミュニケーションをとる能動的な存在であるという研究も出てきている。

     ゴムの樹は、植物は、この世界を、人間を、どう見ているのか? 植物の能動性を考えたことがあるか? 植物の目や耳、鼻、脳という発想をもったことがあるか? 生命の大半は植物だ。植物は、「協力」し、「会話」する。たとえば、植物は、乾燥や山火事、葉を食べる青虫に対応するため、人間とよく似た情報伝達の仕組みが存在していることが明らかになってきている。音、温度、重力、化学物質のうごきを感知するセンサーを備え、虫が葉を囓る音や唾液の成分を分析し対応する。微量な物質の組み合わせが「信号」となり、植物と昆虫や鳥が「コミュニケーション」をとる。白亜紀に花が誕生し、昆虫が花粉を運ぶという共生関係、虫と植物双方の共進化がつくられていった。森には、人間が感知しない膨大な「コミュニケーション」が存在している。

     森の地下には、菌糸の世界が拡がっている。菌糸のネットワークで森の木々がつながっている。人間の背後には、他の生物(動植物)、微生物、物質が相互扶助的に“共存・共在”する惑星地球のシステムが存在している。“生存の場としての「地(地域社会/地域/地球)」”は、モノ[風水土(物質圏=大気圏・水圏・地圏)]、イキモノ[生命系(生物圏)]、ヒト[類的存在としての人類の文明(人間圏)]によって構成されている。

     ブラジル社会には、オーギュスト・コントの影響による「進歩史観」があり、アマゾンの熱帯雨林の「開発」をもたらした。シコ・メンデスの運動は、「優秀な『人種』や『階級』が、受動的な存在であるセリンゲイロや先住民、森に働きかけ、開発する」という「神話」への「異議申し立て」であった。そしていま、脳化し文明化した人間が、圧倒的に能動的な主体として、客体としての「環境(自然や植物・動物)に働きかける」という「神話」が揺らいでいる。

     1992年6月、国連の国際会議と環境保護NGOの集会の他にも、リオ郊外の山間部で、先住民の「抵抗の500年委員会」の集まりがあった。シコ・メンデスは、森の暮らしを学ばせてもらった先住民の“共存・共在の智”を尊重した。「森はかつては彼らのものだった。セリンゲイロや先住民は生存に森を必要として、森はセリンゲイロや先住民を必要とする。」

     私たちはいま、人間の生産・消費・廃棄の活動の肥大化によって、1992年リオデジャネイロで「予見」されていた“惑星の限界/惑星システムに不可逆的な変化をもたらさない人間活動の境界線”の問題に直面している。しかし私たちは、「地球の裏側で、森や生物が死に瀕している」ことが、自分の生活、さらには生存に直接つながってくるような惑星地球規模の社会に生きているという実感はもてないでいる。

     ではどうやって、地球の、他の生き物の、他の人間の悲鳴を、感知し、感応する“共存・共在の智”をわがものとするのか? 「優秀」だから生き残ったという「神話」にすがりつくことなく、他の生物(動植物、菌類・微生物)と同等の存在であるという地平から、人間の尊厳とはなにか、それでも人間であること、社会をつくることの意味は何かを、シコ・メンデスの生き方/行き方が問いかけている。ではシコ・メンデスの逝き方とは何だったのか?

     

    6.なぜシコ・メンデスは逝かねばならなかったのか?

     シコ・メンデスの葬儀は、大雨のクリスマスの朝、1000人の会葬者で行われ、ニュースは全世界を駆け巡った。シコ・メンデスの死後、セリンガル・カショイエラは、特別保護区となった。アクレ州には、300万ヘクタール、18の保護地域が設定され、「一粒の麦もし死なずば」となった。

     しかし、シコ・メンデスは、なぜ逝かねばならなかったのか? 他の道はなかったのか? 私たちは、まだこの先も、「私は死にたくない」という智者の犠牲(サクリファイス)を必要としてしまうのか?

     

     

     

     

     

     

     

    [© Michinobu Niihara]

     

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