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本のおくりびと

上野 朱

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第4回 17歳の春に

     長いこと古本を扱ってきて、この出版社はどうしてここを改善してくれないのだろうと感じることがあった。その筆頭が保育社のカラーブックスだ。調べてみると刊行が始まったのは1962年、そして最終巻・No.909の発行が1999年というから、平均すれば1年あたり20冊以上もの新刊が出版されたことになる。

     内容も鉄道や建造物、動植物から民俗芸能、趣味や観光地案内など多岐にわたり、その名の通りカラー写真も豊富に収録され、文庫本サイズなので旅のガイドブックとして持ち歩くにも好適だ。価格も手頃だし長いこと読者に支持されてきただけのことはある。

     しかしながらこの本を覆っているビニールカバーはどうにかならなかったのかと思うのは、経年劣化したものばかり扱う古本屋だけだろうか。フィールドワークや旅行に持ち歩いても汚れないようにかぶせられた(のだろう)このビニールカバーがとにかくよく縮むのである。それも紙製のカバーのように端を折り返してあるだけならよいが、このカバーは前後の表紙をぴっちりと差し込むポケット状だから、ビニールが縮むにつれて表紙も曲がり、甚だしいのはスルメをあぶったかの如く反り返ってしまう。保育社さんよ、お願いだからなんとかしてくれと思っていたところ、1990年を過ぎたあたりから紙のカバーに変更されたので表紙が曲がる心配もなくなった。しかしこうなると今度はあのあぶったスルメが懐かしく思えてくるのだから、我ながら勝手なものである。

     いまひとつは、以前の岩波新書にかけられていたパラフィン紙だ。これが年を重ねるごとに褐色化が進み、さらに年月を重ねると脆くなってハラハラと散り果ててしまう。ただこの褐変の度合いは、保管場所への日光の当たり方とはあまり関係はなさそうで、岩波新書にもともと備わっている味わいのひとつかもしれないと思ったりもする。

     写真家・映画監督である本橋成一さんの生家は東京・東中野の書店だったが、棚に並べた岩波新書のパラフィンが傷むと、成一少年が自転車で神田の岩波書店までパラフィン紙を貰いに行かされ、新しいものに掛け替えていたという。しかし私のような田舎の古本屋ではそうはいかず「現状ママ」だ。ネットに掲載するデータに前もって「元パラ欠」や「パラヤケ、傷み」という字句を入れておけばいいのだがつい忘れたり、店頭でお客さんが手に取っているうちに破れてしまうことも多く、そういった本を狙ったように通販での注文が入るのであった。この皮肉な現象は「古本屋あるある」のひとつかもしれない。

     こういった経年劣化は仕方のないものと諦めもつくが、線引きや書込み、そして蔵書印は古本屋泣かせだ。親が物書きである私の家では、教科書や参考書以外の書物に線を引くことなど考えもしなかったが、線を引きつつ読むほうが頭に入るという人も多いのだろう。またわざわざ蔵書印を誂えた人はつい押したくなるようで、前後の表紙の内側や天腹地、箱付きなら箱の各所にも押しまくり、1冊の本に7~8ヶ所の蔵印ということもあった。通販で注文の際に蔵印や線引き、書き込みの有無の再確認を求められることも多く、旧蔵者の影が濃いものは敬遠されがちなので古本屋としてはありがたくない。

     というのが古本屋の日常なのだが、なかには持っていた人の足跡が透け、思わず抱きしめたくなるような書き込みもあった。状態を古書目録ふうに書くなら以下のようになる。

     『古事記』 岩波文庫、昭和16年、改訂七版、全体にヤケ・シミ・汚れ多、角折れ、開き癖あり、表紙と本体外れ、扉にペンによる書き込みあり

     ――ということは本の状態としては相当悪く、しかも文庫の重版とくれば、普通ならもう役割を終えた本とみなして古紙集積所行きになるところだが、この本だけは別だ。なぜなら旧蔵者が詩人・作家である森崎和江さんで、扉の書き込みも森崎さん本人の筆跡なのだ。

     著名な作家の書き込みだから貴重だというのではない。青色の万年筆で扉に書かれているのは「古事記はくりかえし求めた。帰国して求めた古本」という文字。書き込まれた時期は不明だが、ここが森崎和江という書き手の思索の始まりではないかと思えるからだ。

     1927年、日本統治下の朝鮮・大邱に生まれた森崎さんは、福岡県女子専門学校(現福岡女子大学)に進学するため、敗戦直前に単身対馬海峡を渡る。17歳にして初めて踏む祖国の土だったが、彼女を迎えたのは家父長制に凝り固まった「にほん」の男と女だった。当時の男としては珍しく開明的な父の庫次さんから「女も三度の火をおこすだけではだめだよ」と教えられてきた森崎さんが感じた違和感はどれほど大きかったことだろうか。

     さらに生地朝鮮に於いてはあくまでも「朝鮮人の仕事」とされていた生活の下支えに欠かせない労働を、この国では日本人自らがやっていると知った時の驚き。それが「朝鮮の人々から見れば、私は支配者の二世に過ぎなかった」という自己認識と、「自分が他民族の乳房を奪っていたことに気付きもしなかった ~ 私がいなかったなら、朝鮮民族の子どもがひとり生きられたかもしれなかった」という悔恨につながってゆく。詩人・丸山豊さんからかけられた言葉「和江さんは原罪意識が強いね。ぼくも・・・」の原点であろう。

     古来より彼の地にあった祀りや祈りの場をつぶし、「朝鮮神社」など建立していわれなき神への平伏を強要した日本という国はいったい何なのか、自身も含めた「日本人」とは何者なのか。それを知る手がかりとして、まだ二十歳前後の森崎さんは『古事記』や『日本書紀』といった侵略者のテキストを買い求め、文中をさ迷っていたのではないか。21字の書き込みでにわかに厚みと重みを増した、100グラムにも満たない文庫本だった。

     

    ※付記

     森崎和江さんの誕生日は1927年4月20日とされている。ということは福岡女専へ入学した1945年4月初めの時点でもまだ18歳にはなっていない、ということになる。これは一体どうしたことか。

     考えられる可能性としては

     1)成績優秀だった和江さんは朝鮮在住時に1年飛び級をしていた

     2)朝鮮での転校の際、間違えて1学年上の教室に入り、そのまま過ごしていた

     3)本当は1926年生まれだったが1歳サバを読んだまま生涯を貫き、皆それを信じてきた

     ――あたりになろうか。ご本人に尋ねたところで「あらぁ、そういうことになるの? あたし計算は苦手なのよぉ~」と、どこかとぼけた春風のような答えが返ってくるだけだろうから、年齢については永遠の謎。これもまた、森崎和江なのである。

     

     

    [© Akashi Ueno]

     

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