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本のおくりびと

上野 朱

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第5回 校正病のココロ

     親が物書き、私の職業が古本屋ということで、活字を見慣れていると思われてのことだろうか、時折急ぎの校正を頼まれることがあり、古本の片付けも後回しにして赤入れをしていたものだ。書籍は勿論のこと、論文、台本、自分史、近年はウェブページまで。

     振り返れば校正は昔から身近な存在ではあった。父が書き上げた原稿の最初の読者は母。まずは漢字や送り仮名に間違いがないかをチェックするが、内容に口を挟むことはほぼなかったし、そもそも女房子どもが口出しできるような内容の文章でもない。せいぜい「ここは、どちらの表現が適当と思うか?」という問いに意見を述べるくらいだ。そうして一応妻の目を通し「大変結構でございます」という言葉を受け取ってから、丈夫な封筒に入れるか防水紙に包んで出版社宛てに郵送することになる。

     ドラマなどでは書斎の隣の部屋で編集者が待っていて、書き上がった原稿を受け取るやいなや駆けだしてゆくというシーンを目にすることもあるが、私は「あんなのウソやん」と小さい頃から思っていた。なぜなら執筆中の父は徹底した静寂を求め、母や私の話し声や足音から台所の水音まで厳しく咎める人だったから、同じ屋根の下に誰かを待たせながらではひと文字だって書けるはずもなかったのだ。

     我が身を刻むような父の執筆と、戒厳令下の如く息を潜める妻子の暮らしを経てなんとか原稿が出来上がれば、数週間後にはゲラ(校正刷り)となって戻ってくるが、そこからはまだ10代前半の私にも校正係の役目が回ってきた。まず父が目を通して加筆や訂正をした後、さらに母と私で誤植を探してゆくのだが、コンピュータも普及していなかった当時は同音異義語の変換ミスは稀で、字画の似た活字の拾い間違いや文字の横転逆転、並びのずれなどが主であった。そして〈誤植1ヶ所につき5円〉なんて報酬につられて、欲と二人連れでゲラの文字を追っていた私だった。まあ中高生のやることなので、1冊分のゲラから50円か100円分の訂正箇所を見つけ出すことができれば上出来だったけれど。

     そんな環境で育ったからか、書籍はもちろん新聞や雑誌から街角の看板、テレビ画面を流れるテロップなどの誤字まで気になるようになってしまった。わざわざ見つけようとしているわけではないのだが、文字を追っているうちに「おっと」と躓いてしまうのだ。絶対音感のある人の中には、お知らせのチャイムも音階として聴こえたり、音程の外れた歌を聴くと頭痛が起きたりという人もあるらしいが、こういう人の頭の中にはきっと五線紙があって、耳に入る音を即座に音符として記しているのではなかろうか。同様に私の中には原稿用紙の断片のようなものがあって、目にした文字を書き込んでいるのかもしれないが、これは家業によって生じた、そして治りがたい病気かもしれないと思ったりする。

     ここ10年余りの間に最も多く目を通したのは、小・中・高校の教科書や便覧に載せるための、炭坑記録画家・山本作兵衛翁についての文章である。私が原画展示や著作権利用を扱う「作兵衛(作たん)事務所」の手伝いをしているため、版元からの確認と校正の依頼が、田川市石炭・歴史博物館の担当窓口を経て古本屋のカウンターまで流れ着く。

     それはいずれも「明治期の炭鉱の様子」といった見出しで、男のサキヤマと女のアトヤマが半裸で採炭している絵などに短い解説文を付けたものであり、翁の生年や没年等基本的なところにはまず間違いはないのでそれほど手間のかかる校正ではない。ただ、しばしば見かける誤字が「抗夫」「抗内」だ。わざわざ手偏の「抗」を入力する方が手間ではないかと思うが、事故の危険にさらされながら働いていた坑夫たちは、坑内からだけでなく文字の中からも追われていったのかと思ってしまう。坑夫を「炭鉱員」と言い換える(この頃よくある)ことで差別意識のないことを装うよりはまだましかもしれないが。

     そんな私が校正の際に心がけていたのは、誤字脱字や語法の間違いを訂正するのは勿論だが、可能な限り元の文章を改変することなく、より正確でわかりやすくするという至極当たり前のことだけだった。国による教科書検定みたいなことをやってたまるものか。

     だがある時、偶然山本作兵衛炭坑画と同じページに掲載されていた原爆ドーム(旧広島県産業奨励館)についての記述だけは見過ごすことができなかった。

    「この建物の上空600メートルで原子爆弾が爆発し、即死した」(傍点筆者)

     学校で使う便覧にこんな馬鹿げた文章を載せようというのかと呆れ果て、頼まれた箇所以外には手を出さない、原文の大幅な改変はしないという自分なりの原則も蹴り倒して「書き直し!」と指示を入れたが、その後版元はどうしただろうかと思う。

     戦争や侵略の歴史と同様に、原発事故やその被害などもいずれは都合良く書き換えられ、矮小化されてゆくことだろう。しかし文字や言葉に表れないものも見落としてはならぬ、国家が吐き続ける嘘に対しては容赦なく赤を入れてゆかねばならぬと、心を引き締める。

     ところである日、馴染みの精肉店に行った時のこと。店長オススメの肉に添えられた「味に自心あり!」という手書き文字を目にした途端、私の校正病が発症してしまった。

     ――この肉ほしいんだけど、ちょっと字が違ってるみたいだわ。

    「あ、ほんとだ! ゴメン、間違えとった」と、飛び出してきた店長が頭を掻く。

     ――ま、こちらのお肉には心がこもってる、と受け取っておきましょうかね。

    「おっ、嬉しいこと言うてくれるねえ。よっしゃ、ちょっとおまけしときましょ!」

     いちいちうるさいと煙たがられる我が病も、たまには人に喜ばれることもある。

     

     

    [© Akashi Ueno]

     

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