「探しものはなんですか 見つけにくいものですか」と始まるのは、井上陽水の初期の曲『夢の中へ』だ。
人はなぜ古本屋へ行くのか、ごく大雑把に言うなら(1)中古でいいから安価で読みたい、(2)絶版や版元品切れのため古本で探すしかない、ということになろうか。しかし、探している本に限って古本屋の棚にない、という経験をした人も多いことだろう。例えば続き物で、自分が持っていない巻を手に入れようと棚を辿ってもなぜかそれだけがなく、そのくせ前後の巻は2、3冊ずつこれ見よがしに並んでいるという皮肉。さらによくないのが、やっと見つけた推理小説の下巻しか棚にない、という場合だ。謎が解明される下巻だけ先に押さえておき、いつか上巻を手に入れるまで犯人ごと封印しておくというのも難しいとみえて、とりあえず下巻だけ確保しておこうという人は余り見かけなかった。
もっとも近年はたいていの本はインターネット上に出品されているので、何軒もの古本屋を巡り歩く必要もなく、パソコンやスマホで注文して送られてくるのを待つだけ。古本探しや欠番の穴埋めもずいぶん楽になったものだ。だがネットのデータだけではなかなか辿り着くことができないもの、それが(3)記憶の糸繋ぎ、ではなかろうか。
ある日届いたメールは、「祖父は戦前、九州帝国大学の学生でしたが、早く亡くなったため直接会ったことがなく顔も知りません。おたくが出品している学部の記念写真帖に祖父が写っていないでしょうか?」という、孫娘さんからの問い合わせだった。こういう依頼を面倒くさがる古本屋もあるが、依頼者と一緒に過ぎ去った時間の路地を訪ね歩くような楽しさがあって、私にとってはなかなか好きな作業なのである。
まずはおじいさんの名前を名簿に探すとなんと一発でストライク! 出品していた写真帖がたまたまその人の卒業年度だったようで、血縁でもないこちらの心まで弾んでくる。
集合写真でその顔を確認しておいてからスナップ写真のページに移り、学生ひとりずつの顔を虫眼鏡で確かめてゆけば、白衣で実験中の姿や部活動など数ヶ所にその人を見つけることができた。早速「若く凜々しい姿で写っておられますよ」と連絡すると即座に「買います」の返信があり、到着後には「初めて祖父に会うことができて涙が出た」という声が届いた。祖父と孫娘との時を越えた初対面――赤の他人の古本屋まで嬉しくなってしまう。
そういえば以前、私も編集に加わった山口勲写真集『ボタ山のあるぼくの町』(海鳥社、2006年)が出版されたときにも、撮影者の山口さんの元へ「手元に1枚もなかった亡き母の顔をこの写真集の中で見つけた!」という声が寄せられた。同じ炭坑の仲間の姿を写真集として出版したことに後ろめたささえ感じ、「なんか、昔の仲間を売り物にしとるような気がしてですなあ」と落ち込んでいた山口さんだったが、この時は「いやぁ、僕も嬉しいですばい、撮っといてよかったですばい!」と顔を真っ赤にして喜んでいたものだ。
いつの間にか多くの人がスマホを持ち、なにかにつけ液晶を頭上にかざして撮影しまくる時代になった。同じ方向に向けて何本もの腕が伸ばされている光景は、海底の巣穴から身を伸ばして餌をとるチンアナゴの群れを思い浮かべてしまうが、電子データ化されて個人のポケットにしまい込まれたその画像は、いつか誰かを喜ばせることがあるだろうか。
ところで、1984年から86年にかけて刊行された『写真万葉録・筑豊』(全10巻・葦書房)という本を見た人があるかもしれない。編・監修は私の父・上野英信と、ハンセン病療養者を撮り続けた写真家・趙根在さんのふたり。「撮影者の有名無名を問わず、筑豊を記録した写真をすべて集める」という方針の下に、アルバムや抽斗に眠っていた写真まで借り集めて複写し、生活・労働・事故・朝鮮人・子どもたち・海外移民などのテーマ別に編んだものだが、実は刊行中そして刊行後にもちょっとした不満が寄せられていた。
それは、撮影者や提供者の名前は巻末にリストがあるのに、それぞれの写真が撮られた場所や時期が載っていないこと。それがあればたとえば孫に「ここがじいちゃんが働いていたヤマだ」と話してやることができるし、知り合いの顔も探しやすいのに、という声である。読者の立場からすればもっともな意見であろう。
それに対して英信は次のように語っていた。「筑豊には大ヤマも小ヤマもそれ以下もある。大手の労働者だった人にも零細ヤマの仕事や暮らしを知ってほしいし、知らないヤマだからと素通りすることなく、ここに収めたすべてが『筑豊』だと思って見てもらいたい。だからあえて場所は載せない」と。たとえば大手炭坑の労働組合が、零細炭坑労働者の窮状には目もくれない、いやそんな現実があることを知りもしないということを批判してきた英信らしいやり方ではある。なので全10巻のページをめくりながら、かつての自分の姿や二度と会えない人の顔を探す楽しみがある写真集、と思ってもらうほかない。
ところで先述の山口勲さん撮影の写真群の中に印象深い1枚があった。といっても事故や労働争議など報道性の高いものではなく、とりたてて芸術的でもない。それは七五三の祝いで着物をまとった姉妹の、いわばありふれた記念写真で、その子たちの親に頼まれて撮ったものだという。だがこの写真を手に山口さんは言った。「あの頃の炭坑夫の給料で子どもに着物を買ってやるなんて、なまやさしいことじゃないですばい。この子たちの親も相当苦労しとりますよ。写真代? とてもじゃないがそんなもの受け取られんですばい」
互いの生活を知り尽くした上で撮影された1枚の裏にも、小さな物語が眠っている。
【お知らせ】
2023年2月4日~5月7日まで、埼玉県東村山市の「原爆の図 丸木美術館」に於いて、趙根在写真展『地底の闇、地上の光 -炭鉱、朝鮮人、ハンセン病-』が開かれています。未公開写真を含めた約180点の写真を展示。この機会に是非! (月曜休館)
[© Akashi Ueno]
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