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ストライク・ジャム

姜 湖 宙

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第16回 リラ冷え(バンダジ)

     十勝岳はグレーの雲に覆われて見えなかった。九十近いおばあさんが、ずっと三階のテラスからわたしに少しでも雲の合間から景色を見せようと粘っていたが、わたしは先に諦めてしまっていた。彼女の亡き夫が植えた高山植物と花崗岩の庭が、眼下に見渡せる。

     この美術館の陶器はすべて、李朝家具のバンダジの上に陳列されていた。バンダジの魚の形をした鍵を見て、祖父母のあつあつに焚いたオンドルの寝室アンパンにあったバンダジをはっきりと思い出した。わたしはそれを長いこと忘れていた。宝箱のようにずっしりと重い箱に、魚型の閂が掛かっていた。わたしと妹はずっと祖父母の家に預けられっ放しで、製紙業でたった一代で一財を成した祖父母の広大な屋敷をぐるぐると走り回っていた。二階から一階へ、庭へ、とにかく、すべての部屋をぐるぐると、一日中裸足で走り回った。

     この五月、わたしは小熊秀雄賞の授賞式の記念講演者として、旭川に招待されたのだ。旭川の地にわたしが降り立ったのはこれが二度目で、一年ぶりだった。五月の北海道は予想以上に寒く、わたしはカーディガンを買う羽目になった。授賞式の講演を何とか無事に終えた翌日、三泊四日の余った日程の中日を、小熊秀雄賞市民実行委員会の会長夫妻が、自動車でわたしを美瑛まで案内してくれた。車を飛ばすこと三十分。在日コリアンが館長をしている美術館。その美術館で意図せずして、わたしはバンダジの記憶を呼び覚まされ、紐解くことになった。

     ――わたしね、姜さんのお話をきいて思い出したんですよ。

     ――わたしもはじめてききました。

     ――俺も、母親と買い物に行ったとき、悲しいことがあった。それを思い出した。母親と買い物に行って、惨めな目に遭うのは、本当に忘れられないんだ。

     ほんとうはこんなことを話すべきではなかった、とホテルの一室で自分の過去を書いたA4の原稿用紙を丸めて捨てた。講演は盛会に終わったが、わたしはずっと喉に石が詰まったようだった。どこまで行っても自分は、アイデンティティーにこだわり続けている。すでにそれはうに決着のついた話だったはずなのに。

     韓国の祖父母の広い寝室アンパンには、わたしの両親が祖父母のためにインドネシアから持ってきたキングサイズのベッドと、あのバンダジだけがあった。祖母はシーツのアイロン掛けを怠らない人で、わたしたちは糊のきいたぱりっとした朝鮮式のイブル(ふとん)で、妹と二人で手をつないで眠った。祖母の大きな鼾が聴こえる頃になると、幼い妹は夜泣きを始める。すると、隣室で眠っていた伯母が、

     ――なんてかわいそうな子、ほら、ほらあ。

     と妹を抱きあげて、自室に連れていき、フランス製のベッドで寝かせるのだ。

     わたしが暗闇のなか、眠れずにひとり横たわっていると、あの魚の閂の腹が見える。開けようと弄るといつも手が金属臭くなった。弄り過ぎて、ついには壊してしまったあの金属製の魚の閂。あの、赤茶色の木の立派なバンダジ。戦災孤児で、嫁入り道具を買ってもらえるはずのない祖母は、自らそれを買ったのだろうか。祖父母はお互い殆ど口を利かなかった。しかし、妹が伯母の部屋に消えると、その音で目覚めた彼らは強い北の訛りで、何かを確認し合うように言葉を交わした。まるで、憤慨しているように強い口調だった。

     雪を被っている十勝岳の頂上が雲の切れ間からほんの少し見えた。彼女は喜んでいた。だが、やがてきつい雨が降り出して、一度降り始めると降りやまなかった。親を殺され、平壌ピョンヤンから鉄道でソウルへ逃げた祖母のポケットには、彼女の両親が営んでいた冷麵屋の箸と匙が入っていた。揺れの強い特急ライラックで完全に酔ってしまい、まだ調子の戻らない胃をさすりながら、車窓の濡れた景色を見ていた。

     そうして最終夜、ホテルですべての疲れを溶かすために、湯を張って湯船に浸かる。ずずず…と、頭まで湯の中に沈めていく。酒の飲みすぎでぼうっと熱くなる頭。目を瞑って、耳も水で塞がれ、わたしは息を止めて。回想のなかで、暗闇を魚がすうっと泳いでいった。いつまでも姿を現さない母と、週末にくたれたスーツでソウルに上ってくる父。六歳のわたしは、ちっとも寂しくなかった。

     昼間、寝室アンパンには誰もいない。わたしは祖父と伯母が仕事に行き、祖母が教会に行き、家政婦のおばさんアジュモニが昼寝をする時間、そっと一人で寝室アンパンに入り、バンダジの鍵を開けようとした。きっとなかには宝石か、あるいはアルバムか、大切なものが入っていると、子供ながらに確信していた。祖父母のベッドサイドに置かれたバンダジは、上に何かを載せるわけでもなく、ただ、いつも彼らの頭の傍らにあった。

     魚の鍵を床に落とし、重い蓋を開ける。バンダジは、やはりからっぽだった。

     

     

     

     

     

     

     

    [© KANG HOJU]

     

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    連載記事

    第1回 父母-pumo-

    第2回 〈TALK〉

    第3回 나와 너〈私とあなた〉

    第4回 湖へ

    第5回 WINDOW

    第6回 知らせ

    第7回 SIDE

    第8回 蹂躙

    第9回 越境する魚

    第10回 わたしは何を守りたかったんだっけ?

    第11回 distance

    第12回 つなぐ手

    第13回 人生(ランチタイム)

    第14回 失われたものたち

    第15回 通訳(ジャンクション)