長閑な桜川に沿って歩いていくと、ラブホの前でパトカーと擦れ違う。千波湖まで辿り着くとじっとり汗を搔いていて、鞄の重みは増している。目的の茨城県近代美術館は臨時休館だった。千波湖の畔のベンチに座り、湖の湖面のきらめきを眺める。黒鳥のツガイを発見する。鳥はいつもツガイで行動するのだ、と私に教えてくれたのは九年前の桝村だった。その時、われわれがいたのは今日と同じ初秋。鴨川だった。しかし、それ以外、彼との会話は全く覚えていない。十九歳の私は、彼から貰った『二十歳の原点』を読んでいた。その頃の記憶はやけにぼんやりとしていて、連続的なものは一つもなく、総てが断片として存在している。夏休みの間に長野での保養キャンプのボランティアから夜行バスで帰ってくると、三人いたセフレは一人に減っていた。当時の私はずいぶんと野心的で、彼にロープを渡して縛ってくれ、と要求した。彼は、大きなテーブルの脚に私の両手首をきつく縛った。それから何が起こるかを楽しみに、どきまぎしていたのだが、彼は私を縛ると、それに満足し、煙草を買いにコンビニに行った。アパートの暗闇のなかで一人取り残されたその時の私の不憫さ。今もあいつをぶん殴ってやりたいと思う。奴が愛読していたバオ・ニンの『戦争の悲しみ』を今も借りパクしているので、一応それで怒りを抑える。
そのうち、ベンチで眠ってしまったようだった。リュックが地面に落ちたのと同時に目覚める。気が付くと、読んでいた谷川雁も落ちて、泥まみれになっており、さらには落丁していた。拾う気にもなれず、煙草を咥える。ずっと止めていた煙草を最近また吸うようになったのは、ストレスの所為だろう。煙草の灰がすこしだけ風に流されて、飛んでいく様子が、やけにスローで捉えられる。
煙草を吸う男が好きだった。それは父の影響に違いなかった。母は父の煙草を忌み嫌っていたが、私は彼が運転席でいつも吸うマールボロの匂いが好きだった。ある一定の時期までの私は間違いなく重度のファザコンだった。父と同じような男でなければ恋愛する意味はないと思っていた。だから、誰とも恋愛はしなかった。高校生の時に好きだった女の子はガラムを吸っていた。その子に教えて貰うがままに、私は年齢を詐称するメイクを覚え、短いだけのスカートを止めて、身体のラインが出る紺のレースワンピースを買った。六本木のバーで飲み、終電でどうにか渋谷まで帰った。そこから先は歩いて帰るしかなかった。彼女はいつも甘い匂いを纏わせ、シンプルなターコイズのピアスを揺らしていた。一緒に松見坂を上りながら、最後の会話をした。私はベルリンに、彼女はネパールに行くことが決まっていた。あの時のひんやりとした空気と、少しのぼせた私たちの、ころころした静かな笑い声が、今でも鮮明に思い出される。坂を登りきったところで、唐突に彼女はやっぱりセフレのところに行くと言って、渋谷駅の方へと来た道を戻り出した。呆気ない私たちの別れ。彼女から貰った石のついたティースプーンで、現在、子供がときどきプリンを掬う。
千波湖での居眠りを終えると、水戸駅まで戻るしかなかった。水戸駅まで戻る途中に地元の店があれば入ろうと思っていたが、ファーストフード店しか見当たらなかった。結局私は駅ビルの中のサイゼリヤに入る。ランチを注文し、ノートを開く。暫く時間が経っても何も書けずにいた。日本語があまり得意でないニューカマーの同胞に「おおきな、いけ」と説明した自分のひらがなを思い出す。昨日、七年ぶりくらいに出会した彼はややふっくらとして、流暢な日本語を話すようになっていた。結婚して、もうじき子供も生まれるらしい。彼と別れた後、夕陽が射し込む電車の中で、ぜんぶ嘘っぽいなぁ、と思った。この噓っぽさはいつか無くなるものだと七年くらい前の私は無垢に信じていた。この八、九年ほどのことを、ぶわー、っと走馬灯のように思い出していると、まったく新しい記憶さえも掬い取られる。私は寝不足と過労で胃腸が弱り気味なのに、何も考えずにフライセットを選び、それを食べた所為か、俄然調子が悪くなった。店内にあるトイレに駆け込む。吐こうと思ったが胃液が僅かに出るばかりだ。トイレの中ではかすかにK‐POPが流れている。韓国語の歌詞を聴き取ろうとすると、思考を韓国語で行うようになる。私はバイリンガルだ。しかしバイリンガルの定義に関して未だに納得していない。バイリンガルだとも、韓国人だとも、女性だとも、母だとも、他者から名指されるのが嫌いだ。全ての名指しを拒絶しながら、同時にそれらをふかく受容している。意味のない私の人生において、すべての責任を全うしたかった。一人しかいないトイレの洗面台にしがみつき、ずっと鏡を見つめていた。突然、「パボ!」という叫びが扉の外から聴こえ、ハッとし、鏡の中の私は破顔していた。
[© KANG HOJU]
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