――実家に本らしい本は少なかった。
という一文を読んで、私の実家はどうだっただろうか、とふと思い返してみた。実家と言われてはじめに思い浮かぶ良才洞の宇星アパートの十五階の一室。子ども部屋にも、母の勉強部屋にも、リビングにも本棚が並んでいた。私の四畳ほどの小さな部屋の二面は天井まである本棚で塞がれ、韓国語、日本語の絵本がびっしりと詰まっていた。夏休みの度に実家に帰ると私は絵本を端から読み漁り、時間を忘れて部屋に閉じ籠っていた。しかしその家はリーマンショックのあとに失われ、家が失われると同時に大量の本たちも何処かへ消失した。
駒場東大前の細長いワンルームアパートの短い廊下には金属製の本棚が並んでいた。冷え冷えとした、明かりさえもないその廊下。トイレの前に陣取って私は宮沢賢治の絵本を読んで育った。磨り硝子の戸口から入る陽光、家の前を行き来する人影。じめじめしたその家は人通りの多い歩道に面していたため、母はプライバシーを気にして換気さえも殆どしなかった。田中正造全集、聖書、中上健次全集。電話台にしていた二人掛けの木製ベンチの中、クローゼットや押し入れ、ベッドの下、吊り戸棚…狭い家のあちらこちらに本は押し込まれていた。ドイツに引っ越した際にそれらの本の大部分もまた失われてしまった。今の私に実家と呼べるものはなく、韓国と中国に住む父と母それぞれの家に本がどれほどあるのかさえ、私は知らない。
子宮が膨らみ始めた頃。お腹の上にハードカバーの本を置いて読んでいた。『車輪の下』、『嵐が丘』。十九歳の頃の私はトイレに行く度に流産を期待していた。ゴンゴン、とお腹を重い本で叩いてみることもあった。私の肉体は若く、健康で、どれほど杜撰に自らを扱おうとも、また身体的負荷を掛けても、胎児はまったく健やかに育って行った。医者は、赤ちゃんはずいぶん大きい、とエコー検査でボソリと述べた。狭い待合室は二、三人が座るのがやっとで、付き添いの男性のパートナーは外で立ちっぱなしになるのが常だった。マガジンラックには、私が生まれた少し後に出版された古臭い産み分けの本、『女性自身』と、漫画と絵本が数冊置いてあった。産み分けの本はオーガズムを感じれば男の子が得られると力説していた。つまり、総ては男性のテクニックの問題であると結論付けていた。「愛があれば男の子や」。夫の昔の職場に行った時に、利用者のおばちゃんが、私の出っ張った腹を撫でながら言った科白。
戦争孤児の祖母は男の子が欲しいがあまり、毎晩足湯をし、蒸しタオルで腹や脚の付け根を温め、漢方を煎じて飲んでいた。願掛けの真っ白なイブルが毎晩敷き直された。生まれた男の子はいつも家の番犬を棒で叩いて虐めていた。その子の十三歳上の姉である私の母はいつも菩薩の画集を見て、クラシック音楽を聴いていた。胎教。彼女は本当にお腹の中の子どもへの教育について博士論文を書くつもりでいたのだ。民主化の嵐が韓国中に吹き荒れていた頃、「民主」と同じ音の名前を娘につけることによって、彼女はそれに味方することができる、と考えていたらしい。十一歳のミンジュは殆ど寝たきりになった祖父の寝室で床に座って始終つけっぱなしのテレビを観ていた。民主党と開かれたウリ党の統合。ミンジュはペタペタッと大理石の廊下を走り、書斎に籠って忙しく教会の仕事をしている祖母のもとに行った。「ハルモニ、私の名前って、そういう意味だったの!」
薄暗い廊下を、腹の痛みに耐えながら足を引き摺って歩いていた。新生児室と病室はやけに遠く離れており、出産祝いで坊主の友人が買って来た花束は看護師に捨てられた。赤ん坊を見に来た腎臓移植をした彼女。その薄暗い廊下で私に囁いていた。「菩薩にそっくり。名前はあとで変えるべきよ」。統合失調症と診断され、強制入院になった彼女とはもう七年以上会っていない。八人部屋の中で私はひとり異質だった。明白な若さと、ちっとも誕生を喜んでいない素振り。そして毎朝夫の届ける京都新聞を埋め草記事まで残らず読み、『裸の捕虜』を消灯後も読み続けていた。名づけを巡って絶縁宣言までした母が持って来てくれたその一冊の終わりは唐突に、深夜に訪れた。私は実にぽんっとあっけなく生まれた子どものこと。きっと眠っているだろう、完全な他者であるあの子のことをはじめてちゃんと認識した。外では初雪が降りしきり、助産師は泣いている私を見つけて背中を摩り、慰めてくれた。だがそれは、助産師の想像とは全く違う理由だった。私は開いた帝王切開の傷をもう一度縫って貰ったその日から、ノートとペンを手に取った。
[© KANG HOJU]
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