私たちは毎朝五時半起きでバスに乗り、鶴橋駅へ向かった。バスと電車の中で『箱崎ジャンクション』を毎日捲っていたが、ちっとも進まない。
今回の雇い主は、日本企業の韓国工場で長年働き解雇された労働者たちだった。二百名を超える従業員が、十二時間交代制で平均十年以上働いた会社からショートメッセージ一通で解雇された。本社は解雇について一切の話し合いを行わず、工場を物理的に潰そうとブルドーザーを引っ張ってきた。それを阻止するために、昨年の初めから二人の労働者が工場の屋上に登り、籠城を始めた。この高空籠城の闘いは厳しい寒さの冬を二度越え、日本への遠征団が組まれた今もなお続いていた。労働組合の組合員である彼らの来日の目的は、大阪に本社を構えるX社と雇用継続を求めて話し合うこと。たった、それだけだった。だが、X社は対話を拒み続け、私たちは本社前での要請行動や関係諸機関との調整、あるいは繁華街でのチラシ宣伝のために大阪をぐるぐると回ることになった。
通訳業務に入るといつも最初の数日間は交通整理をする移行期間が必要だ。普段は通訳ではなく韓日の翻訳業が中心のため、知っている韓国語の単語であってもすぐに口から出て来ない。まだ脳内では日本語の思考回路が働いていて、韓国語での思考と混乱し、複雑な回路を経なければ、納得する通訳が出て来ない。同じ韓国語といえども、その人がどんな言い回しや単語を好むか、方言、思想性、性格、それら総体を総合的に把握し、判断し、考慮する。
通訳中、日本語話者の日本人同士が疎通の取れていない会話を展開する時、最も気に障った。弁護士との面談、大阪府の社労士会との面談、etc。むしろ通訳が必要なのはあなたたち日本人同士の方ではないかと思うほど、お互いに嚙み合っていない議論をしていた。
「まったく宝くじが当たったみたいなもんですよ」
「じゃあ、一億当たったら自分の金じゃないと言うのか」
「何を言ってるんです? 宝くじとシンポジウムは全く別の話じゃないですか」
これをそのまま通訳している私だけが、この場の混乱に巻き込まれず、むしろひとり取り残されているようだった。
「こんなことを訊いたら失礼かもしれませんが、ホジュさんは韓国人としての帰属感はあるんですか」とキョンは飲みながら訊ねた。「ええ、もちろん。日本で、日本人と一緒にいると、よりそう感じます」「その表現でカンペキにわかりました」
キョンはそう答えて、五本目のプレミアムモルツのプルタブを開ける。工場労働者は飲むのが速いんだ、と彼は言った。きつい労働のあと、さっさと眠りに就き、明日の仕事に備えなければならない。ソウル方言しか話せない私にとって、彼の方言はどこか甘ったるく、耳をくすぐられる感じがする。果たして本当に、キョンは私の答えをわかったのだろうか。私は彼らと共にする日数を重ねていくなかで、私たちはやはり懸け離れた存在なのではないか、とますます思うようになった。彼らにとっては私はやはり圧倒的に「日本人」であり、韓国の混乱した内政にも関与のない、日本社会の市民、バイリンガルの一市民に過ぎないのだ。
せっかくその日は朝のスケジュールがなく、ゆっくり朝寝坊しても良かった筈なのに、夜明けと共に宿舎は大騒ぎだった。「ヒョンスが四時に監視カメラ塔に登った!」
昨晩、喧嘩して夕飯も別々に食べたキョンとテイも、すっかりその諍いを忘れてしまったようだった。「まるで、頰っぺたを引っ叩かれたみたいだ!」
屹度、私が最も私的な会話をしたのは同行していたドキュメンタリー番組のプロデューサーだった。私たちはいつもリビングの座卓で向かい合って作業をしていた。「山から月が昇るのは初めて見ましたよ」「屋上から見えるんですか?」「あれ、ホジュさんはまだ屋上に上ってないんですか?」「もう煙草は止めましたから」「一度見る価値がありますよ」
彼にそう言われて、一人、しぶしぶ備え付けの真っ暗な階段を上ってみた。三月だというのに震えるほど寒い。屋上に続く重たい金属製の扉を開けると、緑色に塗られた屋上には大量の鉢植えと、枠だけの藤棚、誰も座らないであろう錆びたブランコがあった。確かに、満月が山から昇っている。微かな風に揺られて、ブランコがキィキィと揺れている。韓国語の「満月」は、「望む」という単語に由来しているという説がある。望み、願い、風。すべて同じ単語だ。
普段は無口なプロデューサーが、キョンとミヌァンと私と飲みながら、言った。「やっぱり、ずっと撮影していて思うのは、連帯というのは宇宙だと思うんです。それから、風」。
キョンもミヌァンも、「엥?(なんのこと?)」と何も理解できないという顔だった。私は瞬間的に、朝の混雑した環状線のなかで、プロデューサーが、アイルランドで尹東柱の詩を朗読したことがある、と話していたのを思い出した。私が詩を書いていると言うと、尹東柱と白石が一番好きな詩人だと話した彼。タイから命懸けで密航して脱出し、三日三晩何も口にせずに編集するワーカホリック。「わたしの名前、ホジュのジュは、真珠の珠じゃなくて、めずらしく宙宙の宙なんです」と、私は返した。「ほら、だから宇宙」。まだミヌァンとキョンはきょとんとしていたが、プロデューサーはハハハ、と笑った。
大阪駅で、擦れ違う警備員がしぃっと笑う。怪しい保険会社のおばさんが付き纏う。私たちがサンマルクで時間潰しをしているあいだでさえ、彼らの仲間たちは高空籠城を続けている。危険で、寒く、孤独な籠城の先に、解決は待ち受けているのか。日数の問題でもなく、効果の問題でもなく、意志の問題でもない。「ちょっと、こっちに来て訳してください!」大声で呼ばれ、私はハッとして駆けつける。そうしてまた私は機械的に通訳し、十二時間以上の労働のあとに、疲労困憊してテイの隣のベッドにもごもごと潜り込む。
朝陽が昇ってくる。その眩しいオレンジの光の方から走ってくる七十三番の始発のバス。バスに乗り込むと、本を開いて思考を十五分間だけ日本語に切り替える。辞書、メモ帳、モバイルバッテリー、傘、龍角散、新しい法律用語を確認する。バスが揺れるたび、昨夜のチキンとビールがまだ胃のなかに居座っていることを感じる。
[© KANG HOJU]
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