最も幼い頃の記憶はなんですか? と質問される。
たぶん、妹が生まれた時。韓国の病院のプレイルームで、一人で預けられていた。父や祖母は、母と生まれたばかりの妹を見に行っていて、私は一人ぼっちだった。そこにはもう一人だけ、同い年くらいの男の子がいた。私は大きなクッションブロックを使って、建造物をつくって遊んでいた。「それ、なに?」と男の子から訊かれ、私は「基地だよ」と答えた。すると、その男の子に「基地じゃない」と言われた。私がつくっているものが基地か否かという論争ではなく、私が使った「基地」という言葉が間違っている、という指摘だった。「それは基地じゃなくて、〇〇というんだよ」と彼は言った。私は、「私の幼稚園では基地というんだよ」と返した。(幼稚園と言っている時点で、私は三歳を超えているはずで、やはり、妹が生まれた時ではなかったかもしれない。)
「それはどんな体験だったと思いますか?」と、分析家に訊かれた。
「妹が生まれて、嫉妬や孤独、不安……だったと思います」
「基地とは、どんな意味のものですか?」
「たぶん、秘密基地のことでしょうね」
「あなたは…――
――今も秘密基地にいて、誰かに見つけてもらいたいのかもしれませんね」
そこは駅前の高級マンションの一室だった。私はエントランスで約束の時間になるまで本を読んでいた。そして、時間になると三〇三号室のベルを鳴らした。「どうぞ」とだけ短い返答があって、オートロックのドアは開いた。部屋に入ると、廊下があった。生活感がするのを避けるためか、廊下にある棚は完全に白いカーテンで覆われていた。分析家は社会一般の精神分析家のイメージをきちんと踏襲していた。表情が乏しく、声は落ち着いて小さい。四畳ほどの部屋は、カウチ、分析家が座る椅子、ガラガラの本棚だけだった。すべて白い色で統一されていた。
私は分析家に幼い頃の記憶や成育歴を話しながら、しばしば本棚の方に目を逸らしたり、腕組みをしたりした。私はそれに後から気付き、急いで分析家の方に視線を戻し、腕をほどいた。しかし、一挙一動はすでに分析家に観察された後であり、私は自分が不安や緊張を感じていることを、分析家に悟られているのが無性に恥ずかしくなった。それから、自分が話していることが、果たして本音なのかも疑わしくなった。
「ビザのことと、お母さんとの不仲がなければ、結婚しなかったと思いますか?」
「ええ…そうでしょうね、たぶん…」
「それでも、そのパートナーだった方には魅力的な部分があったんですか?」
「いいえ。破滅的な文学者でした。魅力のかけらもない…」
「ぶんがくしゃ?」
「はい。とてもダメな詩人でした。私には、ダメな人とばかり付き合ってしまう傾向があるんです」
「大切にされると逃げたくなる?」
「はい、とても」
「どうして精神分析を受けようと思ったんですか?」
「私、韓国で飛び級して、一年早く小学校に入学したんです。けれども、そこで壮絶ないじめに遭ったらしく、半年ほどで学校に行かなくなって、母方の祖父母の家に預けられました。ただ、そのいじめられていたあいだの記憶が、そっくりないんです。クラスメイトや担任の顔、教室の風景、学校の校舎、すべて、何一つたりとも覚えてないんです。医者には当時、ストレス性の健忘と診断されました。それを、精神分析を通してだったら取り戻せるんじゃないかと思って…」
一時間後、エントランスから出てきた私は、半ば興奮状態にあった。これほどゆっくりと、時間をかけて誰かに自身の来歴を話したことは、恐らく初めてだった。私はすぐに、マンションの近くにあったミスタードーナツに入り、おかわり自由のホットコーヒーを何杯も飲みながら、分析家と話した一言一句を、記憶を頼りに一つ一つ、丹念にノートに書き記していった。
二十三歳の時、苦しみの理由を探すことは、無意味だと悟った。なのに、今になって私は見たくないものを、無理やり見ようとしている。私の中の子供に、ふたたび触れてみたいのかもしれない。
[© KANG HOJU]
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