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ストライク・ジャム

姜 湖 宙

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第21回 チィコ・ラプソディー

     巻き爪のひどいチィコ(十七歳)を捕まえようとして、大けがをした。両手に大判の絆創膏を何枚も貼り、深夜のマクドナルドで産業翻訳の続きをしている。マクドナルドがイスラエル支援企業だと知りながらも、郊外の我が家の近所には国道沿いのマクドナルドのほかにコーヒーが飲める場所はない。いそがしくフライドポテトを揚げ、デリバリー用のドリンクを詰めている店員たち。年季の入った店舗。

     チィコは元夫の行きつけの飲み屋のママからもらった。春の季節、自転車で夫と並んで疎水沿いを走った。じっとりと汗ばむ天気に、緑色の柳がゆたかに揺れていた。柳は嫌いだった、元夫の前妻の名前にその文字が入っていたから。

     チィコはすでにケージに捕らえられていた。なるべく揺れないようにケージを持ち、片手でハンドルを握って、また国道沿いを通って家まで帰った。そのかん、チィコは、にゃあ、にゃあ、と助けを求めて鳴いていた。

     ケージを開けるとチィコは本棚と壁の十五センチほどの隙間奥深くに入り、飲まず食わずでなんと三日間そこから出て来なかった。臆病だが頑固な猫だったのだ。

     一番ちいさかってん、だからチィコ。わたしが兄弟の子らを連れて帰る時、この子だけどっか行っててな、気がつかなかってん。それでずっと気がかりでな…。

     ママは何杯目かのビールを注いだ。エスカルゴをパクパク食べながら、テレビのくだらないバラエティー番組をぼうっと眺める。その頃、赤ん坊がどうしていたのかは忘れてしまった。ママは煙草に火を点け、ときどきおでんの煮込み具合を確かめた。テーブルの上にはびっしりと猫の置物があって、その間に猫の毛が落ちていた。

     チィコがこの家に来てすでに十年が経つが、私があの猫に触れたことは数えるほどしかない。人間嫌いなのだ。いや、人間恐怖症。

     チィコがかつてノラだったころ、疎水沿いで酔っ払いによる猫殺しがあったそうだ。耳をちぎられた猫、しっぽを切られた猫。その事件があってママやその友人が保護猫活動を始めた。チィコは何かを見たのだろうか? 同じ空間で暮らす猫が殺されるようすを目の当たりにしたの? その緑色のつるんとした目をのぞいてみても、この子はしゃべれないのだ。

     糞詰まりで死んでしまったブンちゃんは家の裏の桜の木の下に埋めた。生まれた時からブンちゃんとチィコとロクの三匹の猫と暮らしてきた私の子は、ブンちゃんが死んでもちっとも悲しまなかった。

     チィコはいよいよ餌を食べなくなった。朝になると水をくれ、とうるさく鳴いていたのもぴたりと止まった。死期が近いのか、と思った。私はスーパーで普段は買わないチュールの前でしばらく立ち止まった。

     母は中国から日本へ戻って来た。いそいそと私の家にやってきて掃除をし、汚い猫の水皿をきれいにあらってあげていた。百均で新品の猫用の座布団も新たに買ってきた。中国は六年かけて猫嫌いの母をも猫好きにしたらしい。閉め切っていたカーテンを開けると猫の毛が舞う。

     猫もうつ病になるんだよ、だから毎日陽にあてなさい。ほら、チィコはそれでうつ病になったんだよ。

     母はそう言って、冷蔵庫に貼ってあったチラシの内容が不吉だと言い、ひっぺがして捨てて行った。チィコは子どものつくった段ボールハウスに引き籠ってまったく姿を現さない。人間が活動している時間には出て来ないのだ。

     チィコは死ぬまで人間には心を開かないだろう。孤独なのだろう。

     オンマ! 餌のキカイが空だよ!

     朝、甲高いジュンの声。自動餌やり機はいつの間にか空になっていたが私はそれにちっとも気がつかなった。餌を補充すると、すぐにチィコがしずかにやってきては餌を爆食いした。この猫は、餌を食べなくなったのではなく、餌がなかったがゆえに食べなかったのか。

     伏見警察署に車庫届を出しに行った。駐車場が空いていたので駐車練習をしていると警察官が怪訝そうな顔で通る。「あの、駐車練習してるんです、車庫届のために」と言うと、いちおう納得したらしかった。駐車場の生垣の下には、猫の餌箱があった。警察署で猫でも飼っているのか。何度やっても車体は傾く。道路を挟んで向かい側の公園へ白黒の猫がかろやかに入っていった。

     ケージに閉じ込められたチィコは十年前と同じように助けを求めている。傍受できる韓国のKBSニュースラジオのボリュームをあげて、私は日課のシャドウイングをしていた。車窓から入る風が気持ちいい。

     木津川に着くと、土手に路駐し、ケージを持って川へと降りた。背の高い草がびっしり生えていた。足元もぼこぼこと歩きづらい。何年か前に、小学生が流されて死んだ川。

     私の赤ん坊が寝ていると、そっとチィコは赤ん坊の布団の上で暖を取っていた。それを見て、この猫は赤ん坊になら心を開くかもしれない、と期待したものだった。

     チィコは、ケージからなかなか出たがらなかった。私はケージを振り上げ、無理やりチィコを外に出した。チィコは驚きで、一気に走り出した。しかしそれでもなお、遠くには行かなかった。ほら、またあの不安げな目。私を非難するような目つき。

     あんた、ほんとうは怖がってないんだろ。そう私が吐き捨てると、あの緑色の目はするどくひかった。風が吹き、草が揺れた。シロサギが頭上を飛んだ。

     私は、階段をのぼり、ケージをふたたび後部座席に乗せた。エンジンをかけて、ニュースを聞きながら車を走らせた。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    [© KANG HOJU]

     

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