山熊田は名の通り、山と熊と田んぼでできている。
透き通る渓に寄り添うように19家族、48人が住んでいる。
朝、山に入る前にはいつも、おばあちゃんが「気をつけてね 熊さ獲ってこい!」と、3粒の炒り大豆をそっと僕の手に乗せてくれる。それを口に放り込むと、何だかやる気になってくる。
女衆は集落に残り、マタギと呼ばれる男衆たちはブナの森の中へ奥深く入り込んで、熊を探す。
追い求めていた熊の斃(たお)れた姿を見るたびに、この瞬間を生きているんだなという確かな手応えと、いずれ自分にも訪れる不確かな死を想う。
熊から剥いだ皮を熊の体の上で左右反対に回し、「千匹も万匹も獲れますように」山へ感謝の言葉を唱えると、熊の体はあっという間に解体され、肉となって各々の背に担がれる。
「努力したぶんだけ山が返してくれる。山を信用している。熊は山からの授かりものだ」
山熊田では、山から手に入れたものはみんなで等分に分かち合う。
自然の中へ奥深く入り込み、命のやり取りをしながら静かに自身と向き合う--遠い昔からずっと続けられてきた彼らの営為に、強い生と死の手触りを感じる。
山から手に入れたものがダイレクトに肉体と精神の芯を形作り、それらが魂にグッと染み渡って、彼らの佇まいや存在に優しさや強さとなって色濃く溢れる。
金品が介在する物質社会から離れ、自然に溶け込んで肉体を使う。生業がシンプルになればなるほど生と死は近づき、表裏一体になっていく。それが動物としての本来の欲求と直接結びついて、生きる歓びや手応えに昇華していくのだと思う。
自然の一部だったはずの人間は、あっという間に大きな消費経済システムと深くリンクし、血はもちろん極端に言えば汗さえも流さずに、指先一つでスマホ画面をタップすれば生きていける社会になった。
グローバリゼーションは巨大な粘菌のように満たされることない欲望を増殖し、全てを飲み込んでいく。僕たちは安価な製品を買い求め、使い、食べ捨てる。そこには有用と無用の境はない。判断基準は「お金」。後世に残す環境や守られるべき命より、その瞬間の利益を一番に優先にする。
温暖化の影響で獣たちの生息分布は北上し、東日本では福島原発事故の影響が現在も続く。
これからも続いていくはずだった僕たちの普遍で確かな生業は不確かなものに変わった。
「熊とったど〜」
その一声で体中の血液が沸騰し、谷筋の雪の斜面を転げるように夢中で駆け下りる。
「よーーい、よーーーーい」
山の熊に向かって勢子(せこ)*たちの啼(な)く声がいつまでもこだまして谷を渡り、山とともに生きるマタギたちの息遣いとなって、山熊田の集落までズンと響いていくようだった。
*狩猟の一種、巻狩において獣を追い出したり包囲して一方に誘導する役目の人々。
〈以上、文は写真集『山熊田』(夕書房、2018年)より抜粋〉
[© Ryo Kameyama]
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