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	<title>編集室水平線のオンラインマガジン　雨晴（あまはらし）</title>
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	<title>編集室水平線のオンラインマガジン　雨晴（あまはらし）</title>
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	<item>
		<title>第1回　マイマイ兵士たち</title>
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		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 21 Oct 2022 06:00:09 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[亀山　亮]]></category>
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					<description><![CDATA[&#160; マイマイ＝コンゴ民主共和国（旧ザイール）の公用語のひとつリンガラ語で水という意味。第2次世界大戦後に起きた戦争で最も多くの犠牲者（約500万人）を出し続けるコンゴ民主共和国。紛争の混乱の中で自衛組織として作&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/kameyama-ryo/1253/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第1回　マイマイ兵士たち</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img fetchpriority="high" decoding="async" class="alignnone wp-image-1349 size-full" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/10/8　No12.jpg" alt="" width="1477" height="1489" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/10/8　No12.jpg 1477w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/10/8　No12-298x300.jpg 298w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/10/8　No12-1016x1024.jpg 1016w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/10/8　No12-150x150.jpg 150w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/10/8　No12-768x774.jpg 768w" sizes="(max-width: 1477px) 100vw, 1477px" /></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>マイマイ＝コンゴ民主共和国（旧ザイール）の公用語のひとつリンガラ語で水という意味。第2次世界大戦後に起きた戦争で最も多くの犠牲者（約500万人）を出し続けるコンゴ民主共和国。紛争の混乱の中で自衛組織として作られたマイマイは、ジャングルの中で生活をして独自の世界観を持つ。紛争の長期化でマイマイは無秩序な集団に変貌。村々を襲い、殺人、レイプ、略奪を繰り返し、地域住民から恐れられている。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>コンゴ民主共和国カタンガ州 2006年</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>［© Ryo Kameyama］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>※アプリ「編集室 水平線」をインストールすると、更新情報をプッシュ通知で受けとることができます。</p>
<p><a href="https://suiheisen2017.jp/appli/">https://suiheisen2017.jp/appli/</a></p>
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			</item>
		<item>
		<title>第1回　「まえがき」「IAEA」</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/nishio-baku/1376/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 28 Oct 2022 04:00:01 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[西尾　漠]]></category>
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					<description><![CDATA[&#160; まえがき &#160; 　「極私的原子力用語辞典」を連載開始します。本業は反原発運動全国連絡会が発行する『はんげんぱつ新聞』の編集者です。1978年の創刊以来、編集の実務を担当しています。初代の故・高木仁三&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/nishio-baku/1376/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第1回　「まえがき」「IAEA」</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>まえがき</strong></span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><em>　</em>「極私的原子力用語辞典」を連載開始します。本業は反原発運動全国連絡会が発行する『はんげんぱつ新聞』の編集者です。1978年の創刊以来、編集の実務を担当しています。初代の故・高木仁三郎さんから引き継いだ編集長は2022年5月、末田一秀さんにバトンを渡しましたが、いまも編集に携わっています。脱原発のシンクタンクとも言うべき原子力資料情報室の共同代表も務めています。</p>
<p><em>　</em>原子力問題にかかわることになったのが『はんげんぱつ新聞』創刊の5年くらい前、テレビコマーシャルはおろか新聞広告も扱っていない、輸出向けの英文パンフレットづくりがメインの極小広告制作会社に勤めていたときです。反広告会議というグループに加わり、原発PRの批判をいずれも廃刊となった『新地平』や『市民』といった雑誌に書いたことから、反原発運動とつながりができました。</p>
<p><em>　</em>「原子力用語辞典」を最初につくろうとしたのは、1979年頃だったでしょうか。78年、79年と現代書館から『反原発事典』シリーズⅠ「［反］原子力発電・篇」・Ⅱ「［反］原子力文明・篇」を、反広告会議の仲間だった評論家の故・津村喬さん、現代書館の編集者で今はフリーで活躍している太田雅子さんといっしょに編集委員会を名乗って上梓し、シリーズⅢを「資料篇（ことばの事典を含めた資料集）」にしようと準備をしていました。高木仁三郎さんはもとより故・久米三四郎さん、故・水戸巌さんといったそうそうたる方々に第1稿を書いていただきながら刊行できなかったのは申し訳なく、慙愧に耐えません。</p>
<p><em>　</em>実は、シリーズⅢについては、高木さんに監修をお願いしていました。高木さんは、「自分が監修するなら、きちんとしたものを」と生真面目にすべての原稿を読み、手を入れ、何とか統一的で間違いのないものをと骨を折ってくれたのですが、けっきょくは挫折しました。私は何度か、「これくらいでよいのでは」と妥協を申し入れたものの、叱られて拒否されました。</p>
<p><em>　</em>その後、2001年に原子力資料情報室で小冊子『原子力キーワードガイド』を事実上の著者として作成、14年からは『現代用語の基礎知識』（自由国民社）で「原子力・原発」の項を担当しています。</p>
<p><em>　</em>今回は、そうした辞典に加えて事典風の余談を盛った「読む辞典」にしたいと編集室水平線の西浩孝さんには無理をお願いしました。後世に残る論文には載ることのない、インターネットで検索しても出てこないような「スクラップ情報」を、それでも残しておきたいというのが動機です。扱う「用語」も、その名にふさわしくないものが多くなりそうですが、あらかじめご寛恕をお願いしておきます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>＊発言者の肩書は、いずれも発言時のものです。</p>
<p>＊旧字・旧かなは新字・新かなに変えました。</p>
<p>＊［　］内は筆者の註です。</p>
<p><strong> </strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>◉IAEA</strong><strong>（あいえいいいえい）</strong></span></p>
<p><em>　</em>International Atomic Energy Agencyの略。「国際原子力機関」と訳されるが、IAEAのほうが通りがいい。1957年、国際連合との連携協定に基づき自治権を有する国際機関のひとつとして設置されたもので、核分裂物質（核物質）の保有状況を監視して核拡散を防止する活動の一方、そもそも原子力利用を推進する目的で設けられた機関である。</p>
<p><em>　</em>紛らわしい組織名としてIEA（International Energy Agency、国際エネルギー機関）、NEA（Nuclear Energy Agency、原子力機関）がある。前者は国連とは無関係で旧西側諸国のみで構成されている。後者はOECD（Organisation for Economic Co-operation and Development、経済協力開発機構）に属する国際機関で、OECD-NEAと書かれることが多い。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>すったもんだがありまして</strong></p>
<p><em>　</em>IAEAのスタートは、1953年12月8日の「Atoms for Peace」演説とされる。第8回国際連合総会で演説したアメリカのアイゼンハワー大統領は、原子力平和利用の促進のため、各国が持つウラン等の核物質の一部を国連の下に設立する国際機関に供出し、同機関が保管・貯蔵・防護を行い、利用方法を工夫すること（「原子力国際プール」、「ウラン銀行」などと呼ばれる）を提案した。</p>
<p><em>　</em>しかし、当時のソビエト社会主義共和国連邦（ソ連）の反対にあう。供出されない大部分の核物質は従来通り核兵器の生産に向けられる、供出したウランを原子炉で利用することで生まれるプルトニウムが核開発に使われないという保障がない、としてソ連は、原水爆禁止協定を先に結ぶことが必要だと主張した。言うまでもなく米ソそれぞれにさまざまな思惑があってのことだ。いろいろ言われているけれど、ややこしいのでここではスルーする。ともかく紆余曲折の末、1956年10月23日、ニューヨークで国際原子力機関憲章の採択に至る。翌57年7月29日に発効、ここにIAEAは発足した。</p>
<p><em>　</em>国際原子力機関憲章第2条は、目的をこう記している。「機関は、全世界における平和、保健及び繁栄に対する原子力の貢献を促進し、及び増大するように努力しなければならない。機関は、できる限り、機関がみずから提供し、その要請により提供され、又はその監督下若しくは管理下において提供された援助がいずれかの軍事的目的を助長するような方法で利用されないことを確保しなければならない」。</p>
<p><em>　</em>1970年3月6日に発効したNPT（Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons、Non-proliferation Treaty、核不拡散条約、核拡散防止条約）がIAEAとの間で締結することを義務づけている協定に基づいて当該国の原子力活動について実施する査察を含む保障措置活動によって、IAEAの名は広く知られるようになった。そのぶん原子力利用推進の側面が隠されている気がしないでもない。イランの核開発疑惑、最近ではロシアのウクライナ侵攻など問題が山積していることはご存じの通り。福島原発事故で核燃料がメルトダウンし確認できなくなった核物質をどう管理できるのかも大きな問題の一つだ。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>話半分嘘半分</strong></p>
<p><em>　</em>2021年10月現在のIAEA加盟国は173ヵ国。理事会は、原子力に関する技術の最も進歩した国として毎年6月の理事会によって指定される13ヵ国及び総会で選出する22ヵ国の計35の理事国から構成される。その指定理事国に日本は設立当初から選ばれていてIAEAに貢献していると外務省などは誇っているが、当初は選ばれるかどうか大いに気をもんでいたらしい。『新論』1巻5号（1955年11月）所載の「原子力平和利用国際会議に出席して」で自由党の前田正男衆院議員が当時の通商産業省工業技術院の駒形作次院長と対談していて、前田議員は「なんとしても日本は理事国に割込まなければならぬ」と言い募っていた。前田議員は力説する。「ぜひ割込まなければならぬので、駐在日本在外公館にぜひそういうような努力をするようにひとつ運動をしろという話をしましてまた帰ってから早速外務省の方に、正式にその話をして、外務省から在外公館に訓令を出した」。当初から選ばれていると胸を張る話でもないよね。</p>
<p><em>　</em>1965年9月には本部所在地のウィーンを離れて初めての総会が、東京で開催された。「原子力の平和利用開発を積極的にすすめている世界で唯一つの原爆被災国であるわが国で開かれたことは十分異議深いことである」（下山俊次日本原子力発電社長室副主査――『ジュリスト』336号）そうだ。また、外務省総合外交政策局軍縮不拡散・科学部長などを経て2005年から在ウィーン国際機関日本政府代表部大使を務めた天野之弥（あまの ゆきや）が、2009年から19年まで事務局の長であるとともに機関の首席行政官である事務局長を務めている。</p>
<p><em>　</em>指定理事国選出の時とは比べものにならない壮絶な外交駆け引きが行われた事務局長選挙については『世界に続く道　天野之弥回想録』（かまくら春秋社）で当人が事細かに記録している。何度繰り返しても決着がつかず、事態の責任を取るため、外務省の総合外交政策局軍縮不拡散・科学部部長の佐野利男と大臣官房総括審議官の松富重夫が頭を剃り丸坊主となったとか。Wikipedia の「天野之弥」の項にあったが、脚注の「『日本経済新聞』44283号、14版、日本経済新聞社、2009年5月4日、1面」は、縮刷版では確認できなかった。</p>
<p><em>　</em>ようやく選出された天野事務局長は、2015年9月の国連サミットで加盟国の全会一致で採択された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」にSDGｓ（Sustainable Development Goals、持続可能な開発目標）が記載されると、それに飛びついて新たなAtoms for Peace「平和と開発のための原子力（Atoms for Peaceand Development）」を掲げ、保健・医療、食料・農業、環境、工業適用等幅広い分野で原子力を活用した開発協力を提唱した。さすが！　IAEAサイバースドルフ原子力応用研究所（オーストリア）には、業績を称え命名されたという「天野之弥研究棟」（The Yukiya Amano Laboratories）まであるんだって。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>天にも上る</strong></p>
<p><em>　</em>1956年10月23日の国際原子力機関憲章採択を受けて日本政府は26日の閣議で署名を決定、同日、国連本部での調印式に加瀬俊一国連大使が代表として参加、調印を行った。『原子力委員会月報』1956年11月号は、その意義をこう述べている。</p>
<p><em>　</em>「この国際原子力機関にわが国が加盟した意義を考えてみると、わが国は国際連合のエカッフェなどの専門機関には加入しているが、連合自体の機関には加入していない。原子力機関のような主要な国際機関にわが国が加盟し、しかも準備委員国として主要な位置を占め、また理事国となることも期待されているということは外交上重大な意義を有するものといえよう」。</p>
<p><em>　</em>7年後の1963年10月26日に日本原子力研究所の動力試験炉JPDRが日本初の原子力発電を行うと、毎年10月26日を「原子力の日」とすることが64年7月30日の事務次官会議を経て同月31日の閣議で了解された。『原子力委員会月報』1964年8月号に説明がある。ちょっと長くなるが引用。</p>
<p><em>　</em>「『原子力の日』を10月26日としたのは、この日が、昭和31年国際連合の関係機関である国際原子力機関への加盟のために、わが国が同機関憲章に署名した日であり、また、昭和38年日本原子力研究所が動力試験用原子炉（JPDR）によりわが国が初めて原子力による発電に成功した日であるからである。</p>
<p><em>　</em>したがって『原子力の日』においては、ひろく国民一般が原子力についての理解と認識を深めることを目的とした各種の行事が行なわれる。行事の実施には科学技術庁をはじめ日本原子力産業会議、科学技術振興財団、日本放送協会、日本原子力研究所、その他国公立機関民間諸団体等多くの関係団体が参画する」。</p>
<p><em>　</em>JPDRの初発電単独では「原子力の日」にできなかったのか。それだけ国際機関に初加盟したことがよほどうれしかったんだろうかね。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>［© Baku Nishio］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>※アプリ「編集室 水平線」をインストールすると、更新情報をプッシュ通知で受けとることができます。</p>
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<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>第2回　「Atoms for Peace」「安全性」</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/nishio-baku/1390/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 28 Oct 2022 04:00:02 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[西尾　漠]]></category>
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					<description><![CDATA[◉Atoms for Peace（アトムズ・フォー・ピース） 　ドワイト・D・アイゼンハワー米大統領が、1953年12月8日にニューヨークの国際連合総会で原子力の平和利用を提案した演説ないし演説で提案された考え。余談だが&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/nishio-baku/1390/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第2回　「Atoms for Peace」「安全性」</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>◉Atoms for Peace（アトムズ・フォー・ピース）</strong></span></p>
<p><em>　</em>ドワイト・D・アイゼンハワー米大統領が、1953年12月8日にニューヨークの国際連合総会で原子力の平和利用を提案した演説ないし演説で提案された考え。余談だが、2009年に結成されたロック・バンドAtoms For Peaceには、「アトムス・フォー・ピース」と濁音を使わない訳語が使われている。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>世界をだました男</strong></p>
<p><em>　</em>アイゼンハワー演説は、もともとは米国民向けに用意された演説だったが、演説中にある「新たな平和への道筋で、これまで十分には試されていないものが少なくとも1つ存在している。それは、現在国連総会で提示されている道筋である」という道筋に関してアメリカの考えを表明するために特に招かれて国連での演説になったという。</p>
<p><em>　</em>演説は、まず、アメリカの核能力を誇示し、破壊力の恐怖を強調する一方、「米国がいったんは、いわゆる『核の独占』を手にしていたとしても、そうした独占はすでに数年前に存在しなくなっている」と述べる。そのうえで「米国は、核による軍備増強という恐るべき流れを全く逆の方向に向かわせることができるならば、この最も破壊的な力が、すべての人類に恩恵をもたらす偉大な恵みとなり得ることを認識している」として、IAEA設立のもととなった提案を行う。「米国は、他の『主要関係国』と共に、核エネルギーのこうした平和利用を促進する計画策定に着手することは、何よりも喜ばしい限りであり、また誇らしく思うものである。こうした『主要関係国』には、当然、ソ連も含まなければならない」と。</p>
<p><em>　</em>外務省国際協力局第一課編『国際連合における原子力平和利用の問題』（外務省国際協力局刊）は、こう解説をしている。「アイゼンハウアーの提案は、軍備の公開、確証、原子力管理機関の設置という、従来西欧側が主張ししかも行詰って了った行き方とは別個の角度から、先ず原子力の平和的利用のため関係各国が協議する機会を作り、これが成功すれば、その後に原子力の軍事面の管理にも及ぼして行こうとするものであり、より実際的な提案として西欧諸国の絶大の支持をうけた」。もちろんソ連圏諸国からの反応は違っていたけれど。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>夢から覚めて</strong></p>
<p><em>　</em>この演説の背景、成立過程、意図などについては、核兵器のみならず「平和的利用」面でも独占が脅かされていた、核燃料を売ることで原発の輸出を狙った、国内原子力産業の育成、核に対する国内世論の醸成などなど、とても列記できない数の文献がある。難しい話は苦手だから、触れないことにしよう。</p>
<p><em>　</em>「Atoms for Peace」という演説の名称は米紙が付けたものだが、その後、政府の正式名称になったという。土屋由香「広報文化外交としての『原子力平和利用キャンペーン』と1950年代の日米関係」（竹内俊隆編『日米同盟論』ミネルヴァ書房）によると、「国連演説の直後から米国広報文化交流庁（USIA）は、世界各国の新聞にアイゼンハワー演説を配信したほか、17ヵ国語のパンフレット、1600万枚のポスターとブックレットを印刷した。またヴォイス・オブ・アメリカ（VOA）ラジオ放送を通して30ヵ国語で演説を放送し、さらに演説の録画フィルムを35カ国に配給した」と、これは加藤哲郎「日本における『原子力の平和利用』の出発」（加藤哲郎・井川充雄編『原子力と冷戦』花伝社）の註からの重引である。でも、原著にも目を通しましたよ。</p>
<p><em>　</em>それから50年後。『日本原子力学会誌』2004年12月号に早稲田大学大学院の伊藤菜穂子がこんなことを書いていた。「アイゼンハワー大統領のＡtoms for Peace（AFP）演説から半世紀、昨年は世界各地で記念シンポジウムが開催されていた。しかし、最も注目される国際会議（ローレンス・リバモア国立研究所主催）に出席していた知人によれば、AFPに対する米国人の評価とは、1950年代の賞賛に反し、『基本的に欠陥のあるコンセプトで、結局、失敗であった』との見方が大勢を占めたという」。それに対し伊藤は、AFPは「決して『間違いではなかった』といえよう」と言うのだ。なにせ『日本原子力学会誌』だものね、そう書かないと。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>◉安全性</strong></span></p>
<p><em>　</em>安全について定義している国際基本安全規格（ISO/ＩEC  GUIDE 51：2014)によれば、「安全とは許容できない危害が発生するリスクがないこと」とされる。リスクには適切な日本語訳がないが、原子力の安全性について考えるには「危険性」でよいかもしれない。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>リスクの壁</strong></p>
<p><em>　</em>問題は「許容できない」と誰が、何をもって判断するかだろう。原子力の安全性を、リスクを受ける人ではなく、リスクを与える可能性のある人が決めている現実がある。許容できないリスクを他の利益があるから受け入れよという考えだ。</p>
<p><em>　</em>『原子力委員会月報』1957年9月号に茅誠司原子力委員会参与の「随感」が載っていた。「誰にでもいえることは放射性の塵をまき散らすことは害はあって益はないことである。まき散らさないことを誰しも望むであろう。しかしこれは結局原子力によって得られる利益とこの放射性塵による害とのバランスの問題である」。そのバランスのとり方はどうか。「天然の放射能の土地や時間による変動よりも小さい放射能灰の影響を恐ろしいと思うことは、犬にかみつかれそうになって蚤を恐れるようなものである」。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>軽きこと鴻毛の如し</strong></p>
<p><em>　</em>第６次エネルギー基本計画に「エネルギー政策の基本的視点（Ｓ＋３Ｅ）の確認」とある。Ｓ＋３Ｅとは、「エネルギー政策を進める上の大原則としての、安全性（Safety）を前提とした上で、エネルギーの安定供給（Energy Security）を第一とし、経済効率性の向上（Economic Efficiency）による低コストでのエネルギー供給を実現し、同時に、環境への適合（Environment）を図る」ことを言うのだそうだ。</p>
<p><em>　</em>まったく同じ説明が第５次エネルギー基本計画にもあるが、そこでは順番が３Ｅ＋Ｓとなっていた。2021年９月３日付電気新聞で、第６次エネルギー基本計画案を見たエネルギーアナリストの大場紀章氏が言う。「Ｓ＋３Ｅは従前の３Ｅ＋Ｓから順番が入れ替わったが、こうした小手先ではなく根本の見直し時期に来ている」。電気事業連合会や経団連などでは以前からＳ＋３Ｅと言っており、経済産業省が追いついた形だ。もっとも、だから電気事業連合会などのほうが安全意識が高いということでもないだろうが。</p>
<p><em>　</em>そもそも福島原発事故前の第３次計画までは３ＥだけでＳは影も形もなかった。2021年８月31日付電気新聞では、日本エネルギー経済研究所の寺澤達也理事長がいわく「強く思うのは、経済成長の視点を忘れてはいけないということ。Ｓ＋３Ｅではなく、『Ｓ＋３Ｅ＋Ｇ』という観点から議論する必要がある」。</p>
<p><em>　</em>あらまあ、G＝Grouthまで。安全性は、中身も扱いもかくも軽い。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>昔の人は言いました</strong></p>
<p><em>　</em>内田秀雄前原子力安全委員会委員長が1993年５月10日付電気新聞で言う。「原子力委員の大先輩が私に、『当初は安全の問題など考えなかったからね』と述懐されたことがある」。日本原子力産業会議編集・発行『日本の原子力－15年のあゆみ』にはこう書かれていた。</p>
<p><em>　</em>「［一キロワット時当たりの発電単価が］二円五〇銭という経済性の問題からはじまったとき、コールダーホール炉［東海原発］の安全性ということは、多くの関係者のあたまのなかにあまり存在していなかった」。</p>
<p><em>　</em>「東海発電所を始めるときはどんな準備をしたか。正直に言って準備は不十分であった」と記しているのは一本松珠璣日本原子力発電会長。「超高圧火力発電位に思っていた。［中略］仕様書に火力と同じようなことを書き受注者も平気で引受けた」（日本原子力発電『敦賀発電所の建設』）。</p>
<p><em>　</em>そもそも当時の法制や行政機構に「安全」の文字はなかった、と加藤哲郎が「日本における『原子力の平和利用』の出発」（加藤哲郎・井川充雄編『原子力と冷戦』花伝社）で指摘している。1955年制定の原子力基本法の基本方針に「安全の確保を旨として」と加えられるのは、原子力船むつ放射線漏れ事故(1974年)を受けた1978年になってのことである。同年、科学技術庁原子力安全局、原子力安全委員会も原子力局、原子力委員会から独立して誕生した。</p>
<p><em>　</em>『科学・社会・人間』42号に1992年3月29日、物理学会第47回年会で行われた第16回「物理学者の社会的責任」シンポジウムでの伏見康治講演「敗戦後日本の原子核・原子力研究者の苦悩」が掲載されていて、質疑応答も載っている。そこで伏見は、加藤が前掲論文の註で「山崎正勝『日本の核開発』も紹介する日本学術会議の声明や基本方針、各種草案にも『安全』はないようで」と言うのを裏付けるかのように答えている。「申し訳ないことですが、その当時は安全性のことは重要視しておりませんでした」。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>神話の誕生</strong></p>
<p><em>　</em>もちろん、全く考えられていなかったということはない。日本学術会議は1958年3月19日、政府に「原子力施設の安全性」で要望書を提出したりしている。もっとも、要望書作成の中心人物だった坂田昌一は、『思想』1958年7月号でこうも記していた。「日本の科学者の中には原子炉の安全性の問題を単純に考え、こうすれば危険はないという安全基準が外国のハンドブックでも引けば簡単につくられるように思っている人が多い」。</p>
<p><em>　</em>「安全神話」の走りだろうか。</p>
<p><em>　</em>「安全神話」という言葉がいつ生まれたのかは寡聞にして承知していない。国会では1979年5月8日の衆議院決算委員会で質問に立った山原健二郎議員が「安全神話とさえ言われるこの原子力発電所問題」と、この言葉を使っている。73年8月29日の衆議院科学技術振興対策特別委員会では参考人として呼ばれた大阪大学の久米三四郎講師が「何か原発に対する迷信といいますか神話が、皆さん方も含めてあるのではないか」と発言していて、「安全神話」という言葉はまだ定着していなかったと見える。</p>
<p><em>　</em>原発について「安全神話」という語が新聞紙上、初めて用いられたのは、1979 年4 月1 日、スリーマイル島原発事故の3 日後、朝日新聞の見出し「『安全神話』お粗末防災」だと言われている（東京大学大学院情報学環「災害と情報」研究会著・発行　原子力安全基盤調査研究「日本人の安全観」（平成14 年度～16 年度）報告書）。</p>
<p><em>　</em>「“安全神話”は崩壊した」と記事のタイトルにあるのは、『技術と人間』1978年6月臨時増刊号「原子力と安全性論争」で、これが発祥かもしれない。西尾（筆者）は『新地平』75年10・11月合併号に「無謬神話と初歩的ミス」を載せ、「事故のたびに電力会社は、『初歩的なミスであって、原子炉の安全性とは関係ない』と“説明”する」ことを「無謬神話」と名付けた。</p>
<p><em>　</em>「安全神話」の崩壊を逆手に取ったのがゼロリスク神話だ。2000年版の『原子力安全白書』は「多くの原子力関係者が『原子力は絶対に安全』などという考えを実際には有していないにもかかわらず、こうした誤った『安全神話』がなぜ作られたのだろうか」と問い、答えの一つに「絶対的安全への願望」を挙げている。ゼロリスクを求めるから安全神話が生まれたとする見方である。</p>
<p><em>　</em>しかし、2014年5月29日の衆議院原子力問題調査特別委員会に参考人として呼ばれた諸葛宗男東京大学公共政策大学院非常勤講師は「事故で原子力にはこういうリスクがつきものだということがもう国民に知れ渡ったわけでございまして、事故前はできるだけこれを余り表に出さないという安全神話があったわけでございますが、今後はきちんとこのリスクに正面から向き合って、安全性の改善をしなければいけない」と「安全神話」が事業者側によって意図的に作られたことを証言している。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>ゼロリスクへの道</strong></p>
<p><em>　</em>かくて、以後は「許容できるリスク」が、被害者を単に理解させる対象として語られる。</p>
<p><em>　</em>1999年12月24日に発表された原子力安全委員会ウラン加工工場臨界事故調査委員会『報告』は言う。「いわゆる原子力の『安全神話』や観念的な『絶対安全』という標語は捨てられなければならない。そのことが、関係者の間はもとより、国民的にも理解される必要がある。このことは『絶対安全』から『リスクを基準とする安全の評価』への意識の転回を求めるものである」。</p>
<p><em>　</em>伊原義徳高輝度光科学研究センター理事長・元原子力委員長代理の表現のほうがわかりやすいか。いわく「いままでは、事故が起きることは悪いことで、あってはならない、事故が起きないように安全を確保しますと説明してきました。しかし人間は神様ではありません。間違うものです。そもそも国の安全審査は、事故が起きても大丈夫なことを確保するのが仕事です。従って、これからは『事故が起きても災害に発展せず、安全は確保されます』と説明する必要があります」（「この人に聞く」――『原子力eye』2000年4月号）。</p>
<p><em>　</em>それこそ新たな「安全神話」だろう。この新しい「安全神話」の下で福島原発事故は起きた。にもかかわらず「ゼロリスク神話」は生き残っている。しかし、ゼロリスクは本当にありえないのか。原発から撤退するというゼロリスクの道があるでしょ。</p>
<p><em>　</em>『東京消防』2022年５月号に、アジア防災センターの小川雄二郎理事長が「防災の視点から原子力発電所への攻撃を考える」として、自然現象・人為現象の外力に耐えるための選択を述べている。まずは建築基準法など「規則で決める選択」、次に大きな外力に耐えうるよう「特別に配慮して決める選択」、そして想定以上の外力には「逃げる選択」、さらにそれでも十分でない場合に危険な土地の宅地利用を規制するなど「使わない選択」。</p>
<p><em>　</em>避難計画の実効性や軍事攻撃を考慮して、原発は「防災の観点からは『使わない選択』をすべき段階に入った」。それが結論だ。ナットク。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>［© Baku Nishio］</p>
<p>&nbsp;</p>
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			</item>
		<item>
		<title>第1回　看板に偽りありんす</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/moroya-choko/1393/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 28 Oct 2022 04:00:28 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[諸屋超子]]></category>
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					<description><![CDATA[&#160; 「それで、あの子ったら、本当にお茶目さんなのよ。ブラウスのボタンも最後まで留められないし、カバンの中はレシートだらけ、靴の踵はこーんなにけずれてる。なんていうの？ もう、こう、お世話したくなっちゃうのよね。&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/moroya-choko/1393/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第1回　看板に偽りありんす</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>&nbsp;</p>
<p>「それで、あの子ったら、本当にお茶目さんなのよ。ブラウスのボタンも最後まで留められないし、カバンの中はレシートだらけ、靴の踵はこーんなにけずれてる。なんていうの？ もう、こう、お世話したくなっちゃうのよね。ほっとけない感じ？ そこがあの子のいいところなのよね。なんにも気にしないところが。ね。人とは違っても、ぜーんぜん気にしないんだから。危なっかしいのよね。でもわたしはそういうの、気にしない人だから。仲良くしたらいいじゃないって思うタイプだからね。平気だけど」</p>
<p><em>　</em>くるくるくるくるくるくるくるくる。渦巻きくるくるくるくるくる。まずはコーヒーをスプーンでかき回すでしょう？ そこにミルクをそそぐとほーら。くるくるくるくる。</p>
<p>「ま、でも？ そうやって可愛がってきたのに、あの子ったら最近、連絡ないのよ。遊びに誘ってあげても忙しいって。ちょっと……あれ？ あれよね。ほら、ちょっと心のね……ほら……あれがあるって言うからさ、心のさ。そういうのがある人は優しくて繊細なのよね。そうなのよ。わたし勉強したから知ってるのよ。もしかしたら、わたしに彼氏ができたから、気を遣って連絡できないんじゃないかな？ そういうふうに考える子だから。『かすみさんには迷惑かけられない』って。すぐ一人で抱えちゃうの。別に気にしないでいいのにって言っても、すぐ気をつかうからさ、私も敢えて言わないようにしてるのよ。何もね。だからもう、半年は会ってないかな。まあ、きっと困ったらまた『かすみさーん』って泣きついてくるんだと思うよ。ま、そんなもんよね。わたしってほら、おねえさんみたいな雰囲気あるから」</p>
<p><em>　</em>かりかりかりかりかりかりかり。お煎餅食べる時、栗鼠ごっこしちゃいますよね。しちゃいませんか？ かりかりかりかり。</p>
<p>「そう、実は、この度……こほん！ あ、こほんって古いかな？ でも言っちゃわない？ こほん！ えー、こほん！ この度、わたくし、渡邊かすみは、篠崎慶一郎さんとお付き合いを始めさせていただくことになりました！ えへへー！ そうなのよー！ 照れちゃうけどね。彼がぐずぐずするから、わたしね、もう仕方なく言ってあげたのよ。本当はね、女からいうことじゃないわよね。男がさ、お願いするものじゃない？ こういうことって。女からお付き合いしましょうなんて、普通はそんなこと『かすみさんにそんな恥はかかせられませんから』ってみんな言ってくるものね。そうよ。そんなものよね。まさか女からは言わせられないって、みんな思ってるからさ。でも、彼ったら意気地がないのよ。それはね。それは彼にとってはわたしは高嶺の花？ なーんていい気になっちゃうけどさ。でもまあ、事実、高嶺の花なわけじゃない？ そこにさ、あの意気地のない男がさ、言えないわけよ。付き合ってなんて。むしろ、わたしから食事やデートに誘われたことにどぎまぎして？ 食らいついていくだけで精一杯よね。『どうしてこんなすてきな人が僕なんかさそってくれるのかな』って。そう思ってるんだとわたし思うの。仕方ないよね。男は美人に物怖じするって言うじゃない？ 美人に生まれるのも楽じゃないわねえ！ ねえ？ って冗談よ、ふふふ。でもさ、まあ、そんなわけだから、仕方なく？ わたしが誘ってあげて、彼を救い出してあげたのよ。孤独な闇の中から？ まあ、恩人っていうのもおこがましいんだけどさ。まあ、実際でも、そう感じてるんだと思うよね。そうでしかあり得ないもの」</p>
<p><em>　</em>ごごごごごごご。あれは3．11の一週間後。暗い気持ちで横になっていたら地響きが聞こえたんでしたっけ。ごごごごご。</p>
<p>「本当に、恋愛のはじめだからさ、わりと気をつかうのよ。そんなに恋愛経験もないだろうからね。やっぱりこっちがリードしてあげなきゃっていうかさ。わかってないのよ。女の扱いを。だからわたしがね、敢えて可愛らしく『こうして欲しいな』とか、ね？ そんな風に、ね？ うまくやってあげるのよ。たいへんヨォ。そんな風にさ。わたしも、別に？ わたしにぞっこんの、昔からモーションかけてくる、ほら、前に話したっけ？ 慶応ボーイの？ ずいぶん年とった慶応ボーイね。慶応じじい？ ま、なんでもいいんだけど。あの彼を愛せたら楽なのにねぇ。なんかダメなのよ。すごく愛してくれてるのは分かるんだけど。本当に好きになれないのに、打算で付き合うってことができないのよ。わたしには。それで、その彼のことも振り続けて……よく考えればかわいそうよね。わたしが振り向くまでいつまででも待ちますって忠犬ハチ公かって、ね？ まあ……ね？ 振り向いてあげられたら、きっと幸せにしてくれるんだけどね？ わたしにも気持ちってものがあるからさ。そこまで合わせてあげられないわよね。まあ、仕方ないのよ。彼もわかってるんじゃないかな」</p>
<p><em>　</em>べとべとべとべと。あ、窓際に置いてあったカセットテープのケースって黄ばんでべとべとになってましたね。べとべとべとべとべと。</p>
<p>「で、そんな人のことはいいのよ。彼ね。彼とお付き合いが始まったんですよ。いよいよ。でも大変よ？ モテない人だから。もう、なーんにもわかんないんだから。とにかく尽くしたがるわけ。そんな風にしたら女に飽きられちゃうとか、そんなこと考える余裕がないのよね。とにかく尽くすのよ。まあ、わたしはね？ 彼がモテてこなかったって知ってるから、目をつぶってるけど、ちょっとつくしすぎじゃないかな？ まあ、楽しくて仕方ないんだろうね。わたしみたいな明るくて、優しくて可愛い人に優しくされたことないんだもんね」</p>
<p><em>　</em>ぷっぷっぷっあれ？ 電波が。ド……ぅん……ね‥‥トンネル…‥入っちゃ……ぷーぷーってやりませんでした？ やりましたよね。懐かしいな。あの頃。自由は僕らの隣にあった。</p>
<p>「でも青春しちゃってます。まだまだ若いぞ！ かすみさん！ って。五十過ぎちゃっても、まあ、過ぎてるなんて誰も気が付かないからね。彼もきっと年下くらいにしか思ってないから」</p>
<p><em>　</em>過ぎたことは、過ぎてすぐには気になるのが人情ですが、稀にとうに過ぎ去ったものがまだそばにあると思っちゃうなんてこともあるようで。</p>
<p>「愛されてるなって。本当。彼がわたしに尽くすのが幸せなら、そうさせてあげてもいいかなっていうか。結局、尽くさせてあげているのよね。結局はね。結局」</p>
<p><em>　</em>するってえとなにかい？</p>
<p>「わたしがいないと彼ってどうなってたんだろうね？ 彼の人生。恋人も出来ずに、友達もいない。仕事と家の往復で」</p>
<p><em>　</em>恥ずかしがるこたぁねぇよ。なまじ目鼻があるってんで苦労してる女はいくらでもいるんだから。</p>
<p>「彼に尽くさせてあげてるわたしが、一番尽くしてあげてるってことなのよね」</p>
<p><em>　</em>てけてんてん転迷開悟。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>［© Choko Moroya］</p>
<p>&nbsp;</p>
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			</item>
		<item>
		<title>第3回　「SMR」「エネルギー基本計画」</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/nishio-baku/1566/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 28 Oct 2022 04:00:57 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[西尾　漠]]></category>
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					<description><![CDATA[◉SMR（えすえむあーる） 　小型モジュール炉（Small Modular Reactor）の略。モジュール炉とは、主要機器を工場で生産し、建設地に運んで組み立てるというものだ。とはいえSMRの定義は国や機関により様々で&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/nishio-baku/1566/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第3回　「SMR」「エネルギー基本計画」</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>◉SMR</strong><strong>（えすえむあーる）</strong></span></p>
<p><em>　</em>小型モジュール炉（Small Modular Reactor）の略。モジュール炉とは、主要機器を工場で生産し、建設地に運んで組み立てるというものだ。とはいえSMRの定義は国や機関により様々で、炉の設計も数多く多様である。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>黒歴史と人は言う</strong></p>
<p><em>　</em>はじめはモジュール炉ではなく、SMPR（Small and Medium Power Reactor）の名で1965年頃から国際原子力機関（IAEA）が「主として開発途上の加盟国が、早期に原子力発電を導入するのを援助することを目的として」中小型炉の開発を促してきた。しかし「結果的には、SMPRは1基も輸出されていない」まま20年が過ぎたと、IAEA/OECD・NEA「中小型炉：プロジェクト開始調査フェイズ1」（1985年）にある。新規導入国も中小型炉に特に関心は示さなかった。</p>
<p><em>　</em>1979年のスリーマイル島原発事故で新設計画が止まったアメリカで1980年代から90年代半ばにかけて盛んに小型炉の設計研究が行われた。日本の原子力開発利用長期計画（長計）に初めて「中小型軽水炉」が登場したのが1982年である。86年にチェルノブイリ原発事故が起きて、小型炉の安全性が強調されるようになる。87年の長計には「中小型安全炉」と記された。同年にはＩAEAなどの主催で中小型炉（Small and Medium-Sized Reactor）に関する第1回国際セミナーが開かれ、日本原子力産業会議が「中小型炉開発・利用に関する欧米調査団」を編成してセミナーにも参加している。</p>
<p><em>　</em>その後、国際的にも国内的にも中小型炉に対する関心は徐々に色あせ、長計から変わった2005年の原子力政策大綱では、「大型軽水炉を中心とする」とされた。次にブームとなるのは2011年の福島第一原発事故の後だ。長期にわたって開発が叫ばれながら実用化に至っていないことから「黒歴史」と呼ばれてきたSMR開発だが、事故が起こると息を吹き返すことからもそう呼ばれるにふさわしい。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>ご冗談でしょう、キシダさん</strong></p>
<p><em>　</em>2018年に改定された第5次エネルギー基本計画に「小型モジュール炉や溶融塩炉を含む革新的な原子炉開発を進める米国や欧州の取組も踏まえつつ」という表現で小形モジュール炉が初登場する。21年の第6次計画では「高速炉、小型モジュール炉、高温ガス炉等の革新的技術の研究開発を進めていく」とされた。</p>
<p><em>　</em>2022年8月24日の第２回ＧＸ（グリーン・トランスフォーメーション）実行会議で岸田文雄首相は「新たな安全メカニズムを組み込んだ次世代革新炉の開発・建設」などの検討加速を指示した。ところが、26日の電気新聞は「主体、資金いかに」の大見出し。「有識者は『電力会社から具体的な話が聞こえてこない』と指摘」と書いている。25日付エネルギーフォーラムオンラインコンテンツ「目安箱」も言う。「どのような型の原子炉を、どの企業が、どこに、どのような資金調達計画で、いつまでに作る――。これを決めるだけでも大変だ。どの電力会社も原子炉再稼働の遅れや電力自由化への対応で経営不振に直面しており、あらたに巨額の費用のかかる原子力発電所を作る余力はない」。</p>
<p><em>　</em>それが原子力村の現実的な受け止めらしい。SMRが売り物の一つとしている「安全性」についても、「SMRは一連の未試験の技術革新を導入しており、それがさらなる技術リスクにつながる可能性もある」とOECD-NEA『小型モジュール原子炉―課題と可能性』（2021年）は指摘する。「軽水炉で追求の限りを尽くしてから言え」と、2018年6月20日付電気新聞の匿名コラムには「革新炉」に反発の声があった。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>目覚めの時</strong></p>
<p><em>　</em>もう一つの売り物は経済性だが、小規模から始め、資金を回収しながら順次増設して大きな発電所にするといっても、同一の設計でそれぞれ100基、200基単位で建設されるなら、しかも都合よく順次注文が入るなら、コスト削減の可能性があるというのでは、電力会社も手を出しにくい。</p>
<p><em>　</em>「最初の1基が完成しないことには量産もできない以上、今は初号機の実現に注力するしかない。安全対策をどのように求めるかといった規制も手探りの中で踏み出すのだから、初号機は工程遅延やコスト・オーバーランも頻発する可能性が高い。そこで開発に嫌気がさして、それ以降の計画が中止されるようであれば、信念を持って実用化したいと考えていた顧客はいなかったことが証明されるであろう」と、日本エネルギー経済研究所の村上朋子原子力グループ研究主幹は『週刊エコノミスト』2022年8月23日号で述べていた。皮肉がキツイなあ。好きだけど。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>嘘にも種が要る</strong></p>
<p><em>　</em>それでは、なぜ進めるのか？</p>
<p><em>　</em>革新炉ワーキンググループの座長を務める京都大学複合原子力研究所の黒崎健教授は2022年５月16日付電気新聞で言う。「原子力はどうしても悪いニュースばかりが報道される。もっとポジティブなイメージが発信されることで若い人たちに原子力の世界に入ってきてほしい。ＳＭＲ開発は、そうしたキーワードの一つになるかもしれない」。</p>
<p><em>　</em>「現実には、国内で直ちに実用化できるほど関心を寄せる需要家が現れ、進展することはないであろう。しかし、開発者は原子力の姿を変えていく覚悟のメッセージにすべきであり、それに呼応して世の中の目や認識を柔軟にし、広げていく絶好の機会にできる」と『エネルギーレビュー』2019年8月号で書くのは原子力システム研究懇話会運営委員の柳澤務元日本原子力研究開発機構理事。外交評論家の金子熊夫エネルギー戦略研究会会長となると、もっと露骨だ。「小型炉（SMR）など『新しい原子力』の開発にもっと努力すべきだ。今や従来型の原子炉では国民もなかなか納得しないだろう。『手を変え、品を変え…』という積極的なやり方がもっと必要だ」（2020年2月3日付電気新聞）。</p>
<p><em>　</em>その行きつく先は？　2021年12月15日付電気新聞の匿名コラムではこう予言されている。「今日のSMRブームは、大型軽水炉建設プロジェクト数例の失敗にこりた先進国原子力関係者の『わらにもすがりたい』動機から発している。脱炭素やエネルギー価格高騰の解決策として太陽光や風力以上に消費者の支持を取り付けた結果ではない。SMRブームも『原子力ルネサンス』のデジャビュ（既視感）に思えるのは筆者だけだろうか」。</p>
<p><em>　</em>あなただけじゃありませんよ。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>◉エネルギー基本計画</strong></span></p>
<p><em>　</em>エネルギー政策の基本的な方向性を示すために政府が策定する計画。ほぼ３年ごとに見直されていて、最新の第６次計画は2021年に改定。</p>
<p><em>　</em>原子力については「2030年度におけるエネルギー需給の見通し」のなかで「ＣＯ２の排出削減に貢献する電源として、いかなる事情よりも安全性を全てに優先させ、国民の懸念の解消に全力を挙げる前提の下、原子力発電所の安全性については、原子力規制委員会の専門的な判断に委ね、原子力規制委員会により世界で最も厳しい水準の規制基準に適合すると認められた場合には、その判断を尊重し原子力発電所の再稼働を進め、国も前面に立ち、立地自治体等関係者の理解と協力を得るよう取り組み、電源構成ではこれまでのエネルギーミックスで示した20～22％程度を見込む」としている。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>看板に偽りあり</strong></p>
<p><em>　</em>エネルギー基本計画の策定は、エネルギー政策基本法第12条で定められている。エネルギー政策基本法は、自由民主党の甘利明、伊藤達也、亀井善之、公明党の河合正智、斉藤鉄夫、保守党の小池百合子各衆議院議員の提案による議員立法により2002年6月7日 に成立、同月14日公布 、施行された。</p>
<p><em>　</em>文部大臣政務官という立場から提案者に加わっていないものの実質的な中心にいた加納時男参議院議員は、その著『三つの橋を架ける　国政参画十二年の挑戦』（日本電気協会新聞部、2010年）で「世界初、エネ政策基本法を議員立法」と自慢している。アメリカのThe Energy Policy Act は1992年制定ではなかったかといったことはともかく、「国会議員が質問し、国会議員が自身の言葉を使って答弁する。すなわちエネルギー政策に関して、国民の代表者である国会議員同士による非常に価値のある議論が行われたのだ」そうな。</p>
<p><em>　</em>『エネルギーフォーラム』2001年12月号では、匿名の座談会でこう言われていた。</p>
<p>「Ｂ　エネルギー基本法案って当たり前のことを書きすぎて全く中身のない法律だね。</p>
<p><em>　</em>Ａ　それは、議員立法なのか。</p>
<p><em>　</em>Ｃ　そうだ。政府提案だと、中身がないため、内閣法制局が絶対にＯＫしないそうだ。</p>
<p><em>　</em>Ｂ　電力の自由化を阻止するというのが、目的の一つにある。なぜなら、安定供給、環境、経済という三つの価値があって、安定供給、環境の下に経済があるのは、自由化をするなということだ。もう一つは『地方自治体の責務』というのがあり、これは住民投票をするなという意味だ。つまり原発推進法なんだよ。</p>
<p><em>　</em>Ｃ　エネルギー基本法案自体には何の中身もないけど、精神法としては存在してしまう。それが、縛りをかけてくる危険はあるな。何だかんだと、電力業界の守旧派が文句を言いやすくなる」（Ａ＝国防アナリスト、Ｂ＝原子力アナリスト、Ｃ＝経済アナリスト）。</p>
<p><em>　</em>エネルギー政策基本法と名前はついているけれど、実は電力自由化阻止法であり、原発推進法だというのだ。さすがにそれだけでは格好がつかないので、まずは2条でエネルギー安定供給の確保、次に3条で環境への適合をうたった。そして第4条で「前二条の政策目的を十分に考慮しつつ」市場原理の活用をと定めている。安定供給、環境が段違いに上位（本音では安定供給が最上位）なのである。</p>
<p><em>　</em>2002年5月17日の衆議院経済産業委員会で提案者の一人である甘利明議員は、こう説明している。「基本法の中に三本の柱がございます。三本の柱の位置づけにつきまして、環境が大事、そしてセキュリティーが同列で大事、そしてその幅の中で経済合理性を追求するということで、若干の三つの位置づけが変化がございます。正三角形というよりは、どちらかというと二等辺三角形型だと思います」。</p>
<p><em>　</em>これが経済産業省のお好きな「3Ｅ」の嚆矢であり、「3Ｅ」が同等のＥではなく二等辺三角形型だということを明らかにしている。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>衣の下の鎧？</strong></p>
<p><em>　</em>この同じ委員会審議に関して「注目されるべきことは『エネルギー安全保障は軍事的側面を含む』という“世界の常識”が“日本の常識”になりつつあることだ」と喜んだのは『エネルギーフォーラム』2002年7月号の小峰純同誌編集部長の「記者の目」だ。「ここでの安全保障というのは、第一義的には、直接的には、中東諸国の過度の依存をなくすであるとか、供給が中断をした場合、その被害を最小限にとどめるというふうな概念でございますけれども、その延長線上に軍事的な側面も当然入ってくると思います」という、提案者の一人である斉藤鉄夫議員の言を引用している。</p>
<p><em>　</em>小峰は言う。</p>
<p><em>　</em>「有事関連3法案［武力攻撃事態対処法、改正自衛隊法、改正安全保障会議設置法、20 04年6月14日成立］も、原発などへのテロ攻撃も武力攻撃事態に加えるべきだ。エネルギー政策基本法を、本当のエネルギー安全保障の視点から担保するためにも、有事関連3法案を修正し、できるだけ早く成立させるべきだ。</p>
<p><em>　</em>その上で周辺事態法、有事法等を包括的に位置づける『国家安全保障基本法』（仮称）の制定、もちろん憲法改正が期待される」。</p>
<p><em>　</em>あらあら、そこまで言っちゃうの。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>［© Baku Nishio］</p>
<p>&nbsp;</p>
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<p>&nbsp;</p>
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			</item>
		<item>
		<title>第1回　アブラゼミと団地祭（1）</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/nakazato-kanae/1430/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 04 Nov 2022 02:11:48 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[中里佳苗]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://suiheisen2017.com/?p=1430</guid>

					<description><![CDATA[０．アブラゼミと団地祭 　今年も、アブラゼミの声がやけに大きく聞こえる季節がやってきた。ミーンミーンといった夏の高い空を思わせるようなミンミンゼミではなく、ジリジリという重低音をしつこく響かせているアブラゼミだ。この声を&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/nakazato-kanae/1430/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第1回　アブラゼミと団地祭（1）</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><strong>０．アブラゼミと団地祭</strong></p>
<p><em>　</em>今年も、アブラゼミの声がやけに大きく聞こえる季節がやってきた。ミーンミーンといった夏の高い空を思わせるようなミンミンゼミではなく、ジリジリという重低音をしつこく響かせているアブラゼミだ。この声を聞くと、いつも思うことがある。「ああ、また今年も団地祭の夏が来たな」と。団地祭では、南米のエンパナーダやベトナムの春巻きといった多国籍な料理を、たくさん油で揚げていた。アブラゼミのジリジリという鳴き声が、油を熱したときのはねる音と重なり、まとわりつくような暑さの中で快然と執り行われた祭りのことを、毎年思い起こさせるのだ。</p>
<p><em>　</em>団地祭とは、私がまだ学生だった頃、湘南団地（仮名）で行われていた夏祭りのことである。湘南団地は、神奈川県の湘南市（仮名）にある県営住宅だ。団地祭は、毎年8月のお盆の時期に行われ、2015年にその幕を閉じるまで、50年近く続いた祭りだ。私はそのうち、1999年から2007年まで8回参加したのであるが、私の記憶に残っている団地祭は、このような様相だった。</p>
<p><em>　</em>団地祭は、100mほどの団地のメインストリートを、朝9時から夜10時まで車両通行止めし、毎年2日にわたって開催されていた。ストリートの先端部分には、祭りの本部と大きな仮設舞台が組まれる。舞台では、日中は高齢者によるフラダンスや子どもたちの和太鼓が披露され、合間にスイカ割り大会などもあった。そして夜はカラオケ大会。カラオケが終わると、仮設舞台の前は盆おどりの会場になる。盆踊りの音楽に合わせ、子どもたちが和太鼓で会場を盛り上げる。メインストリートの右側には、金魚すくいや輪投げ、チョコバナナやりんご飴などの「テキ屋」の屋台が4～5店ほど。左側には、団地自治会の老人会や子ども会などによる、手作りの焼きそばやかき氷、ハンドメイド雑貨、生ビールや焼き鳥の屋台が5～7店ほど並ぶ。</p>
<p><em>　</em>この2日間は、団地全体が、焼き鳥や焼きそばなどいわゆる「B級グルメ」のワクワクするような匂いで包まれる。午前中は、興奮気味の小学生たちが、「歩行者天国」となったストリートで追いかけっこをしながら、屋台の開始を待っている。正午近くになると、香ばしい煙を上げながら、屋台がじわりじわりと開始される。その匂いにつられるようにして、団地住民たちが、ちらほらと下に降りてくる。昼ごはんの「たし」にすると言って焼き鳥などを買っていく人や、どんな屋台が出ているか見るだけの人もいた。子ども会の焼きそば屋台は、1人前100円という破格の値段から、数十名の行列ができることもあった。突然の夕立に見舞われることはあっても、たいてい天気はいつも晴天、気温は30度超え。炎天下に長居する住民はいない。なので、だいたい昼過ぎの3時頃までは、人出はまばらである。汗だくの小学生たちが、時々テキ屋のくじの景品などを物色しながら、メインストリートを何度も往復しているくらいだ。ジリジリ・ジージーと、アブラゼミがしつこく鳴いている。</p>
<p><em>　</em>暑さのピークが過ぎると、ようやく神輿が登場する。祭りのメインは、やはりこの神輿だろう。団地祭には、毎年3基の神輿が集合する。「ドッコイ、どっこい」「ドッコイ、そーりゃ」という掛け声に合わせ、神輿を担いだ男衆がメインストリートをゆっくりと歩く。神輿の登場に合わせて、たくさんの団地住民がメインストリートに出てくる。神輿の見物客と担ぎ手たちが入り混じり、容易に身動きができない状態となるので、屋台はいったん商売を休憩せざるを得ない。重なり合いながら、皆が神輿を目で追う。神輿に乗って音頭をとりながら扇子を振るのは、全身に刺青が入った男性である。担いでいる人たちもみな「彫り物会」の人々だそうだ。通称「刺青祭り」と呼ばれ、担ぎ手は、神奈川県外からも集まっていると聞く。あでやかな神輿が通り過ぎると、一気に屋台へ人が押し寄せる。子どもから高齢者まで、たくさんの人々が闊歩し、薄暗くなって提灯が光るメインストリートを「祭りらしい」雰囲気にした。いつしか仮設舞台ではカラオケ大会が始まり、大音量の昭和歌謡が流れてくる。そして、二日目の夜。祭りが終了する間際、提灯で鮮やかに飾られた神輿が、メインストリートを練り歩く。夜の神輿はどこか妖艶な魅力があり、昼間の見物人より倍近くの人々が見にくるのだった。昼間よりもよりいっそう熱がこもった担ぎ手たち。祭りにくり出した人々やひしめく屋台に向かって、神輿が大げさに傾きながら迫ってくる。「ドッコイ、どっこい」「ドッコイ、そーりゃ」の掛け声と、見物人たちの感嘆や歓喜の悲鳴がこだまする。あやうく神輿に押しつぶされそうになる興奮を、ひとしきり味わいつくすと、喧騒のハレの日が終わる。</p>
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<p><img decoding="async" class="alignnone wp-image-1441 size-full" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/①提灯が映える万燈神輿（2006年撮影）-scaled.jpg" alt="" width="2560" height="1920" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/①提灯が映える万燈神輿（2006年撮影）-scaled.jpg 2560w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/①提灯が映える万燈神輿（2006年撮影）-300x225.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/①提灯が映える万燈神輿（2006年撮影）-1024x768.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/①提灯が映える万燈神輿（2006年撮影）-768x576.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/①提灯が映える万燈神輿（2006年撮影）-1536x1152.jpg 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/①提灯が映える万燈神輿（2006年撮影）-2048x1536.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2560px) 100vw, 2560px" /></p>
<p>提灯が映える万燈神輿（<span lang="EN-US">2006</span>年撮影）</p>
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<p><img decoding="async" class="alignnone wp-image-1442 size-full" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/②団地メインストリート（2006年撮影）-scaled.jpg" alt="" width="2560" height="1920" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/②団地メインストリート（2006年撮影）-scaled.jpg 2560w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/②団地メインストリート（2006年撮影）-300x225.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/②団地メインストリート（2006年撮影）-1024x768.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/②団地メインストリート（2006年撮影）-768x576.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/②団地メインストリート（2006年撮影）-1536x1152.jpg 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/②団地メインストリート（2006年撮影）-2048x1536.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2560px) 100vw, 2560px" /></p>
<p>団地メインストリート（<span lang="EN-US">2006</span>年撮影）</p>
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<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone wp-image-1443 size-full" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/③舞台にて太鼓を披露する子どもたち（2006年撮影-scaled.jpg" alt="" width="2560" height="1920" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/③舞台にて太鼓を披露する子どもたち（2006年撮影-scaled.jpg 2560w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/③舞台にて太鼓を披露する子どもたち（2006年撮影-300x225.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/③舞台にて太鼓を披露する子どもたち（2006年撮影-1024x768.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/③舞台にて太鼓を披露する子どもたち（2006年撮影-768x576.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/③舞台にて太鼓を披露する子どもたち（2006年撮影-1536x1152.jpg 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/③舞台にて太鼓を披露する子どもたち（2006年撮影-2048x1536.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2560px) 100vw, 2560px" /></p>
<p>舞台にて太鼓を披露する子どもたち（2006年撮影）</p>
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<p><em>　</em>私はその団地祭で、中国の餃子に始まり、南米エンパナーダ、ベトナムやカンボジアの春巻き、ベトナム王宮料理バンベーオ、カンボジアのバインセオなど、外国の食べ物を作って売る屋台をやった。団地に住んでいる外国にルーツをもつ人々と一緒に、エスニックな料理をこしらえて、売る。「これなあに？　どうやってたべるの？」「へんなにおいがする」「変わったもん売ってるね」「食べられるの？」「みるだけにしとくわ」「これで300円？　高すぎる」などといろいろ言われつつ、油にまみれながら汗水たらして売っても、あがりは2日間で3万円くらいにしかならなかった。しかし、毎年こりずに、団地祭で屋台をやった。</p>
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<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone wp-image-1444 size-full" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/④団地祭、ベトナムの春巻き屋台（2001年撮影）-scaled.jpg" alt="" width="2560" height="2500" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/④団地祭、ベトナムの春巻き屋台（2001年撮影）-scaled.jpg 2560w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/④団地祭、ベトナムの春巻き屋台（2001年撮影）-300x293.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/④団地祭、ベトナムの春巻き屋台（2001年撮影）-1024x1000.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/④団地祭、ベトナムの春巻き屋台（2001年撮影）-768x750.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/④団地祭、ベトナムの春巻き屋台（2001年撮影）-1536x1500.jpg 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/④団地祭、ベトナムの春巻き屋台（2001年撮影）-2048x2000.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2560px) 100vw, 2560px" /></p>
<p>団地祭、ベトナムの春巻き屋台（<span lang="EN-US">2001</span>年撮影）</p>
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<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone wp-image-1445 size-full" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/⑤団地祭、中国の餃子屋台（1999年撮影）-scaled.jpg" alt="" width="2560" height="1920" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/⑤団地祭、中国の餃子屋台（1999年撮影）-scaled.jpg 2560w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/⑤団地祭、中国の餃子屋台（1999年撮影）-300x225.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/⑤団地祭、中国の餃子屋台（1999年撮影）-1024x768.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/⑤団地祭、中国の餃子屋台（1999年撮影）-768x576.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/⑤団地祭、中国の餃子屋台（1999年撮影）-1536x1152.jpg 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/⑤団地祭、中国の餃子屋台（1999年撮影）-2048x1536.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2560px) 100vw, 2560px" /></p>
<p>団地祭、中国の餃子屋台（1999年撮影）</p>
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<p><em>　</em>そんな団地祭の記憶が、アブラゼミの鳴き声とともに、毎年よみがえってくるのだ。最後に参加した団地祭が2008年だったから、かれこれ14年前の記憶だ。私はこの湘南団地に住んでいたわけではないし、湘南団地が自宅の近くにあったというわけでもない。むしろ、湘南市にしろ、湘南団地にしろ「縁もゆかりもない」土地であった。さらに言えば、団地から自宅までは、電車とバスを使って1時間半以上かかり、神奈川県内としてもかなり「遠い」場所だった。</p>
<p><em>　</em>そもそも団地とは、都市部への人口流入に合わせ1950年代から60年代にかけて造成された、低所得者向けの賃貸住宅だ。湘南団地も、1960年代後半から建造され1971年に完成している。団地の多くがエレベータのない鉄筋コンクリートの4階～5階建て、2DK～3DKの間取り。1部屋40平米程度で、広さよりも戸数優先の造りになっている。棟数は数棟から100棟超えの大きな団地までとその規模は様々だが、湘南団地は約50棟、戸数は1000戸以上の比較的大きな団地であった。</p>
<p><em>　</em>多くの団地に共通して言えるのは、公共交通機関が比較的発達している都市部としては、立地がかなり悪いということ。最寄りの駅から徒歩圏内の団地はほぼみられず、大抵、最寄駅からバスを使う距離の場所にある。団地との縁が続いていた間、自分自身も転居を3度しているが、電車で1時間とバスで30分が一番近く、一番遠いときは、電車に1時間40分ゆられた後バスで30分という時もあった。駅からバスにゆられ、「湘南団地前」という停留所で降りる。70年代から団地に住んでいる人たちは、「湘南団地前」ができて、大変便利になったと話していた。団地の前にバス停ができるまでは、1つ手前のバス停しかなく、バスの本数も1時間に1～2本だったという。当時は、車の不所持が入居条件でもあったから、住民たちの当惑の声が聞こえてきそうだ。団地住民はバス会社と交渉を重ね、現在では通勤時間帯で5分に1本のバスが通るようになった。そのような住民の努力に敬意を抱きながらも、「湘南団地前」までのバス30分は、どうしても私の足取りを重くさせるものであった。</p>
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<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone wp-image-1446 size-full" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/⑥湘南団地とそこで暮らす外国人の子どもたちが作った七夕飾り（2000年撮影）　.jpg" alt="" width="2416" height="2417" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/⑥湘南団地とそこで暮らす外国人の子どもたちが作った七夕飾り（2000年撮影）　.jpg 2416w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/⑥湘南団地とそこで暮らす外国人の子どもたちが作った七夕飾り（2000年撮影）　-300x300.jpg 300w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/⑥湘南団地とそこで暮らす外国人の子どもたちが作った七夕飾り（2000年撮影）　-1024x1024.jpg 1024w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/⑥湘南団地とそこで暮らす外国人の子どもたちが作った七夕飾り（2000年撮影）　-150x150.jpg 150w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/⑥湘南団地とそこで暮らす外国人の子どもたちが作った七夕飾り（2000年撮影）　-768x768.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/⑥湘南団地とそこで暮らす外国人の子どもたちが作った七夕飾り（2000年撮影）　-1536x1536.jpg 1536w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/⑥湘南団地とそこで暮らす外国人の子どもたちが作った七夕飾り（2000年撮影）　-2048x2048.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2416px) 100vw, 2416px" /></p>
<p>湘南団地とそこで暮らす外国人の子どもたちが作った七夕飾り（2000年撮影）</p>
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<p><em>　</em>そんな「遠く」の「縁もゆかりもな」かった団地に、なぜ、10年間も通うことになったのか。しかも、なぜ、聞いたこともないような、外国のソウル・フードを作って祭りで売ることになったのか。そして、なぜ、団地から足が遠のいてから十数年、またおそらく今後も、アブラゼミの声を聞くと「団地祭」が自動的によみがえってくるまでに、潜在意識の奥深くまで記憶が刻まれているのか。夏が来るたびそのように思うのだが、いつも、あまり明確な答えが出せないでいる。</p>
<p><em>　</em>その当時、私はまだ大学生だった。誘われるがまま、人の動きに巻き込まれるようにして、湘南団地を訪れるようになった。その流れ自体は、当時はとても自然に感じられていた。私は当たり前のように、団地に通うようになり、自然に団地祭にも参加して、当然のように屋台でエンパナーダやベトナムの春巻きを売るようになった。しかし、こうして14年後に客観視してみると、そうした「自然」が、自然的な流れになるように、慎重に計画され舵取りがなされていたことが、なんとなくわかってくる。その流れは、多くの人々のかかわりや働き、そしてその言動に託された希望や想いがなければ生まれなかったものであること。一つのボタンの掛け違い、かかわる人のバランスが少しでも崩れたら、その場所は成り立たなかったであろうという、大変センシティブな場であったこと。そんな繊細な動きの中で、自身も何かを望み、何かを求めて、ずぶずぶとのめりこんでいったのだと思うのだが、改めて、その様子をこの手記を通して残しておきたいと思っている。団地祭だけでなく、団地祭に参加する母体となった、湘南団地に集った人々の活動を、記録に残しておきたい。</p>
<p><em>　</em>それは、毎年思い出してしまう団地祭の記憶に、なにがしかの決着をつけたいという、とても自分勝手な理由からでもある。何度書いても完結しない物語になる、とわかっていたとしても。そしてもう一つ。ただ単純に、団地祭の記憶とともに、思い浮かべる人々の姿を、細部まで丁寧に残しておきたいという理由。記憶の奥底からふきだしてくる、その人たちがいた場所と風景、声や音、そして匂い。たくさんの出会いや別れと、その場所に集った人々の間で起こったこと、繰り広げられた人間ドラマ。湘南団地という場所で出会った人たちのエピソードを、記憶が風化してしまう前に、少しでもいいから残しておけたらと思う。そしてそれがいつか、私と同じように、いつまでも記憶に刻まれる物事に出会った人々のもとへ、届けられたらと思っている。アブラゼミの声を聞いた時、ここで語られる団地祭を想像してくれる人がいるのであれば、この手記に登場する人物たちが、その人の支えになってくれることを願いつつ。</p>
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<p>［© Kanae Nakazato］</p>
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			</item>
		<item>
		<title>第2回　アブラゼミと団地祭（2）</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/nakazato-kanae/1435/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 04 Nov 2022 02:12:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[中里佳苗]]></category>
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					<description><![CDATA[１．「湘南プロジェクト」 　湘南団地に通うことになったのは、私が大学生だった頃、ゼミナールの担当教員であった新原道信先生に、声をかけられたことがきっかけだ。1998年の夏のことである。新原先生は当時、神奈川県の社会福祉協&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/nakazato-kanae/1435/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第2回　アブラゼミと団地祭（2）</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><strong>１．「湘南プロジェクト」</strong></p>
<p><em>　</em>湘南団地に通うことになったのは、私が大学生だった頃、ゼミナールの担当教員であった新原道信先生に、声をかけられたことがきっかけだ。1998年の夏のことである。新原先生は当時、神奈川県の社会福祉協議会（以下、県社協）の外国人支援5か年計画を受け、1996年から「研究委員会」を発足し、県在住の外国人や支援現場の声を聴くプロジェクトを遂行していた。その成果は、1997年の外国人フォーラムの開催や報告書などの形でまとめられている。1998年からは、県社協の5か年計画が、より地域に根付いた支援へと向かい、県社協から市の社会福祉協議会（以下、市社協）へと足場を移すこととなった。その現場として選ばれたのが、神奈川県の湘南市だ。もう一つ現場はあったのだが、私はその現場に行ったことがないので、湘南市に限って話を進める。</p>
<p><em>　</em>湘南市では、市社協の担当者が場をセッティングし、「在住外国人生活支援活動研究委員会」（以下、委員会）という会議がもたれた。そこは、県・市社協の職員、湘南市の国際室や児童福祉課、湘南市や神奈川県内各地で外国人支援をしているボランティア、そして、湘南地区の民生委員、主任児童委員、湘南団地の自治会長、事務局長、団地の住民（外国人代表）、小中学校の教員や保育園の園長らが、一同に会する場であった。様々な立場の人が、外国人住民の支援について話し合う趣旨の委員会だ。座長である新原先生の計らいにより「オブザーバー」という席を与えられ、私はその会議を「見学」することになる。「見学」とはいっても、その会議は「喧々諤々」といった表現がぴったりとくるような雰囲気で、委員らの熱意に圧倒された私は、メモをとっている「ふり」をして気配を消すので精一杯だった。初めて「見学」をしたのは、1998年7月13日だった。そんな始まりであったので、その後10年間、湘南市に通うことになるとは夢にも思っていなかった。</p>
<p><em>　</em>冒頭で述べた湘南団地は、この委員会の会議の中でも、とりわけ議論の中心におかれる地域であった。湘南団地には、1998年の時点で155世帯503人の外国人が暮らしており、これは団地住民の15％にあたる。国籍も多様であり、1980年代からカンボジア・ラオス・ベトナムのインドシナ難民が、1990年代からはブラジル・ペルー・ボリビアからの日系人の家族たちが集住するようになった。他に、韓国や中国の国籍の人々も暮らしていた。神奈川県国際課の「外国人登録者市（区）町村別主要国籍別人員調査表」によると、1998年の湘南市全体の外国人登録者は約3700人（湘南市人口の約1.5％）だったので、その内の14％近くが湘南団地で暮らしていた計算になる。</p>
<p><em>　</em>湘南団地は、言語や生活習慣の異なる外国人が集住しており、日常的になにかしらの衝突が発生している場所であった。例えば、「外国人住民が窓からタバコの吸い殻を投げている」「夜中に外で宴会をして騒いでいる」といった苦情が、昼夜問わず、自治会に寄せられる。また、周辺地域からは、低所得者や無職の外国人が多いため治安が悪く、子どもたちは非行にはしり「スラム化」していると噂される団地でもあった。実際に、駅から団地に向かうバスに乗ると、「この湘南団地行のバスに乗るの、ちょっとやだよね」「それわかる。団地に住んでる人って思われるから。こんなこといっちゃ悪いけど、貧乏な人が多い。それにあそこ、外人ばっかで怖いから、行かない方がいいよ。この前、先輩がそこに連れてかれて…外国人…少年院の…」という、制服を着た高校生のヒソヒソ話が聞こえてきたこともある。</p>
<p><em>　</em>そんな湘南団地に、1998年冬、市社協の委員会は「湘南プロジェクト」を発足させることとなる。私は、この「湘南プロジェクト」を足場にして、湘南団地に10年間通った。「湘南プロジェクト」は、団地住民もそのメンバーではあったが、団地の外からも、大学教員、日本語教師、小中高の教師、日本語教育や外国人支援に携わるボランティア、社会福祉協議会の職員、そして私のような学生などが多数参加した。「湘南プロジェクト」は、「外国人支援」という枠組みで、外部からは理解されていたし、参加者の多くはそのように自分たちを理解していた。外国人の多数集住する団地で発足したプロジェクトなので、自動的に、外国人を支援したり、外国人問題を解決するためのプロジェクトというイメージが先に来ると思う。</p>
<p><em>　</em>なぜ、このような歯切れの悪い言い方で、「湘南プロジェクト」を紹介するのかというと、「湘南プロジェクト」は、何がそこで起こっていたのか詳細に語ろうとすればするほど、一つの言葉ではまとめきれない動きだったからだ。「湘南プロジェクト」は、外国人支援という側面も持ってはいたが、支援しようとした者が逆に支えられる、さらに言うと、何かを教えられる、価値観を逆転させられるような場所としてあった。よく耳にするような「支援を通して、自分も学べることがたくさんあります」という綺麗ごとではなく、実際に、「こんなこともできないのか」と外国人に呆れられたり、「日本人はこれだからだめだ」と叱咤されることもあった。異国の地で言葉もわからない中、生活を作ってきた人々の経験に基づく知恵や生きる姿勢には、日本で親の庇護のもと学生である私などには、到底かなわない深さがあった。また、戦火を潜り抜け、全てを投げうって日本に逃れてきた人々の子どもたちは、平和への強い願いと生命をかけた親の愛情を深く理解しており、簡単には折れないたくましさを持っていた。そして、そのような外国人住民たちと、長年共に生きることを実践してきた、団地住民や団地自治会の人々。「かわいそうな外国人を助けてあげたい」という態度ににじみ出る傲慢さや他者への侮蔑を、誰よりも敏感に感じとる人々でもあった。表面上どんなに綺麗な言葉を並べていても、外国人を見下している人は、その蔑みが「目に出るから、すぐわかる」と言う。</p>
<p><em>　</em>湘南団地に限らず、団地というのはそもそも、時に騒音トラブルが傷害事件や殺人事件に発展するほどの、薄い壁、薄い床の建造物だ。ただでさえ隣近所と摩擦なく生活をしていくことが難しい居住空間で、言葉も文化も異なる外国人と鼻を突き合わせて暮らしてきたのが、湘南団地の住民たちだ。彼らは「助けてあげたい」という欺瞞や我欲を超え、ぶつかり合いを繰り返しながら徐々に獲得していった、深い共生の知恵を持っていた。「あいつらはガメツイ」と、外国人への偏見と敵意に満ちた発言をしながらも、外国人からの相談に昼夜問わず応じる人々でもあった。「現場たたき上げ」の、粗野であっても洞察に富んだ生活の知恵を、外からやってきたプロジェクト参加者たちは、じっくりと理解し、学ぶ必要があった。外国人住民や日本人住民といった国籍を問わず、このような団地住民たちの共生のあり方に出会い、魅力を感じ、理解し、共に時を過ごしたいと思った人々が、「湘南プロジェクト」に参加することになった。</p>
<p><em>　</em>だから「湘南プロジェクト」は、「外国人支援」とか「多文化共生」という一つの目標を立てて、その遂行に邁進するようなプロジェクトではなかった。外国人に関する「専門家」が外から団地にやってきて、団地の日本人と協力しながら「問題のある外国人」を支援し、問題を排除したり隠ぺいすることで理想郷をつくっていくというような計画とは、一線を画していた。いや、外側から見たら、「湘南プロジェクト」もそのような活動に見えるのかもしれない。しかし、「湘南プロジェクト」のプロセス一つ一つを丁寧にたどってみると、そこにかかわった人々の内面的な変容や価値観の転換が起こっていた。「問題のある外国人」を支援しようとすればするほど、それは我々の問題であったことに気づかされる。支援する側が、問題を抱える側にシフトするので、常に内省とともに動かねばならないという感覚。団地の中に日本語教室を一つ開設するにあたっても、「団地の外国人は言葉の問題を抱えていたので、日本語教師を雇って日本語教室を作って喜ばれました。これからも発展させてゆきましょう」という方向では動かなかった。</p>
<p><em>　</em>この手記の中盤で記す予定であるが、「湘南プロジェクト」も、湘南団地に日本語教室を開設した。公民館や地区センターなどのレベルで開かれる教室には珍しく、湘南団地の日本語教室には、プロの日本語教師が配属された。団地外国人からはとても評判がよく、人気の教師だった。しかし、この日本語教師は、間もなくプロジェクトからは「退出させられ」た。そして、沢山の外国人が勉強しにきていた日本語教室も、一時閉鎖となる。一体それはなぜだったのかについては、今後の手記の中で明らかにしてゆくつもりだが、外側からみると全く合理的ではないような選択を続けるプロセス自体が、湘南プロジェクトの目的であり内容であったと思う。今後この手記が進むにつれ、おそらく「湘南プロジェクト」でなければこの選択はしなかっただろうという「特異な決定」が、いくつも出てくると思う。そのような意思決定に至るプロセス、かかわった人々の動きや内面の変容を詳細に読んでもらえたら、「湘南プロジェクト」が何であったのかが、見えてくることと思う。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>２．生きた「吹き溜まり」</strong></p>
<p><em>　</em>現在はもう、かつて湘南団地に集っていた「湘南プロジェクト」のメンバーは、ほとんど団地に残っていない。多くの団地住民は転居してゆき、団地の外から通ってきていた人たちは他の土地で活動を行っていたり、また、亡くなった人もいる。もはや、この世で再び会うことは無いであろう人たちとの、湘南団地でのかかわり合い。そのかかわり合いは、強烈に今も私の中に印象づいているが、私が1年長く生き延びるたびに、その様相をごちゃつかせ、今も私の中で変容しつづけているように感じる。また、どうしても時間軸に沿って執筆するせいで、「湘南プロジェクト」が、企画遂行するという意味でのプロジェクトのようなリニアなものだと勘違いされるかもしれない。しかし、「湘南プロジェクト」は、決してリニアに進んでいったプロジェクトではなく、もっとごちゃごちゃしたものであった。このごちゃつきをそのまま書き残すのは至難の業だと思うが、執筆のための「止まり木」として、「湘南プロジェクト」の大まかなイメージを、述べておくことにする。</p>
<p><em>　</em>「湘南プロジェクト」のイメージは、一言でいえば「吹き溜まり」のようなイメージだ。それは、枯葉の吹き溜まりなのではなく、青々とした緑の葉が、大雨や風でやむなく落ちてしまい、吹き溜まりとなり、ところどころは水にぬれていたり、一部は腐ったりしてもいる。葉っぱは重なり合い、反発するものもあれば、空気など含んで落ち着いているものもあり、淀みながらもまだ「生きて」いる。団地にて、数多くの人が出会い、影響しあい、ぶつかり合い、かかわり合いを持った、そのイメージは、中心から波紋のように広がっていくような集団のイメージでは表現しきれない。中心がいくつもあり、その時々で、小集団が作られ次の瞬間には違う編成をしているような、大変、流動的で可変的な集団である。しかし、その動きは完全にバラバラなわけではなく、いつもどこかで重なりあっていて支えあい、一定のまとまりをもっていた。</p>
<p><em>　</em>生きた「吹き溜まり」というイメージのごとく、「湘南プロジェクト」は、一言では表現しきれない複数の顔を持った活動だ。それは、このプロジェクトが、一つの名前で呼ばれなかったことからも、読み取ることができるだろう。通常、何かの企画や計画は、たとえそれが愛称であったとしても、共通の名前を持っているものだ。しかし「湘南プロジェクト」は、それぞれの立場や意識、それぞれの想いから、プロジェクトをそれぞれの呼び名で呼ぶこととなった。大学や社会福祉協議会などに関係する公的な場では、「湘南プロジェクト」という総称を使っていたが、市外から湘南団地に通う者たちは、いつも「湘南」という地名で呼んでいた。一方、湘南団地に住んでいる自治会の人々や外国人たちは、「湘南プロジェクト」を「日本語教室」と呼ぶのだった。団地の日本語教室で働いた日本語教師たちは「湘南の日本語」と呼んでいたし、市内の行政の人たちやボランティアの人たちは「団地の外国人支援」とか「団地の日本語教室」と呼んでいた。外国人の若者や子どもたちは、単に「教室」とか「集会所」と言っていた。集会所とは、団地の自治会が管理する集会室のことで、「湘南プロジェクト」が活動の拠点にしていた場所である。日本語で表現するのが面倒だという外国人の住民たちは、いつも「あそこ」と、親指を横にしたポーズで団地の集会所を指差した。誰も同じ呼び名で呼んではいなかったが、一つの場所、一つの事柄をさしていた。しかし、一つの場所、事柄をさしたものであっても、異なった呼び名の通りに、その意味内容は少しずつ違っていた。そして、その呼び名が同一ではないことに、誰も違和を感じていなかったところが、このプロジェクトの特徴だった。</p>
<p><em>　</em>その呼び名一つとってみても、大いに混乱気味なプロジェクトではあったが、その生っぽさを殺さず、生きた「吹き溜まり」のイメージを念頭に、「湘南プロジェクト」のたどったプロセスを綴ってゆきたいと思う。アブラゼミの声と油の匂いも、時々雑音のように、思い起こしながら。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>［© Kanae Nakazato］</p>
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]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>第3回　アブラゼミと団地祭（3）</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/nakazato-kanae/1581/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 04 Nov 2022 02:12:29 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[中里佳苗]]></category>
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					<description><![CDATA[３．始まりのひとひら――「在住外国人生活支援活動研究委員会」 　1998年夏、彼は、2ピースのスーツ姿だった。ジリジリとアブラゼミが鳴く午後3時に、湘南団地の自治会長は、スーツ姿で会議室に座っていた。会議とは、先に紹介し&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/nakazato-kanae/1581/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第3回　アブラゼミと団地祭（3）</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><strong>３．始まりのひとひら――「在住外国人生活支援活動研究委員会」</strong></p>
<p><em>　</em>1998年夏、彼は、2ピースのスーツ姿だった。ジリジリとアブラゼミが鳴く午後3時に、湘南団地の自治会長は、スーツ姿で会議室に座っていた。会議とは、先に紹介した、湘南市社協主催の外国人支援に関する委員会のこと。県社協から市社協に主体が移動したのち、第1回「在住外国人生活支援活動研究委員会」が1998年7月13日に行われた。正確に言うと、「在住外国人生活支援活動研究委員会」は、県社協が主体で動いていた時期の1997年8月から持たれており、1998年7月13日の会議は通算で第6回となる。この1998年7月13日を境に、県社協の担当者は、事務局からオブザーバーへと役割を変えた。そのような経緯があるので、「第1回」とはいっても、集った委員たちはみな顔なじみである。</p>
<p><em>　</em>会議には、事務局の市社協の職員と座長の新原先生、湘南市の国際室や児童福祉課の職員、国際交流協会の職員とボランティア、小中学校の教諭、湘南保育園の園長、湘南地区の民生委員、主任児童委員、湘南団地の自治会長、事務局長、団地の住民（外国人代表）、アドバイザーとして神奈川県内各地で外国人支援をしているボランティア、そしてオブザーバーの県社協の職員と学生が集った。会議に集う人々のドレスコードはなく、男性はポロシャツやYシャツにパンツスタイルが主だったが、ジーンズにTシャツという人もいた。女性は、涼しげなカットソーの人もいれば、エスニック柄のスカートにラフなシャツといった出で立ちの人も多かった。そんな中、2ピースのスーツ姿で座っている湘南団地の自治会長は、明らかに、浮いていた。そんな光景が、「湘南プロジェクト」の始まりのひとひらとして、私の中に記憶されている。</p>
<p><em>　</em>私はその当時、大学生だった。縁あって新原ゼミナールに所属することになり、先生からの誘いを受け、この第1回「在住外国人生活支援活動研究委員会」にオブザーバー参加した。委員会についての主だった情報も、またその先の計画も聞かされないまま、突然その場所に行った。当時、大学院生であった学生にも、数名声がかけられていた。院生にはもっと詳しいことが事前に話されていたのかもしれないけれど、私は「外国人支援の会議に行く」ことしか知らされていなかった。今思えば、下調べくらいはすべきだったが。しかし、「外国人の支援をする人々は皆、国際意識の高い人々であり、勉強になるに違いない」、そのような予感と先々の可能性に、とてもワクワクしていたのを覚えている。</p>
<p><em>　</em>委員会の会場は、市社協の福祉会館にある会議室だった。市社協の担当者がワゴン車で、新原先生と学生らを、最寄り駅まで迎えにきてくれた。出迎えてくれたのは、委員会の事務局を務める国武さんだ。国武さんは、40代半ばくらいの男性で、笑顔が優しく、メガネをかけていた。優しい表情とは裏腹に、いわゆる「はげ頭」とは異なり、明らかに毎日剃っているようなスキンヘッドでもあったので、第一印象は謎の人であった。後に、歴史のあるお寺の住職さんであることが分かり、ホッとした。</p>
<p><em>　</em>会議室につくと、側面は大き目の窓であり、とても明るかった。明るい会議室に入り、綺麗に並べられた各委員の名札と500ｍlのお茶をみると、緊張から少し胸が高鳴った。会議なので、コの字型かなと思っていたが、座長である新原先生とアドバイザーとして参加している委員、そして社協職員が前に座り、他の委員たちと対面する形のスクール型だった。私のようなオブザーバーには、座長たちの席の横、入り口付近の席が用意されていた。今考えると、委員の表情など全体が見える位置であったことはありがたいことだが、何もわからない学生が、委員たちに対面して座ることには、少なからず居心地の悪さを覚えた。どのような顔をしてその場にいればいいのかわからず、席に着くなり、メモ用のノートとペンを準備するふりをして下を向いたことを覚えている。</p>
<p><em>　</em>ただ、このような居心地の悪さは、私だけではなく、その場を支配していたようにも感じた。会議の始まる前の数分間、新原先生と国武さんらは小声で打ち合わせなどをしていたが、他の委員たちは、ほとんど雑談をすることもなく、会議の開始を待っていた。委員たちはみな、顔なじみであるはずなのに、全員が静かに前を向いて座っている。明るい会議室が、静まり返っている。なんとなく、その雰囲気は異様で、緊張感が漂っていた。おずおずと顔を上げて、委員たちを眺めると、小・中学校の先生や市役所の職員は40代、50代に見えたが、他の委員は、還暦あたりの年齢かもう少し上かなと感じた。</p>
<p><em>　</em>定刻になると、市社協の国武さんが、司会として口を開いた。各委員の自己紹介から始まる。当時は気づけなかったが、昨年から通算6回も会議が持たれているのに、わざわざ自己紹介とは不思議な流れだ。資料を見返すと、この日は、県社協の前任者と後任の職員が来ており、担当の交代の挨拶と、今後の県社協の計画などが、冒頭で話されていた。自己紹介は、県の担当者に向けてのものであった。市社協での会議とはいえ、あくまでも、県社協の事業計画の一端であることがうかがえる。ただ、この後「湘南プロジェクト」の主軸は市社協となり、中でも、この時の事務局であった国武さんが、2022年現在まで20年以上も「湘南プロジェクト」の背骨の役割を果たしていくのだが、このことはまた後に書きたい。</p>
<p><em>　</em>自己紹介が終わると、座長である新原先生が、「今後の進め方」として話を始めた。</p>
<p>「この委員会の昨年度の最後に出てきたことですが、とりわけ子どもの問題に焦点を当てようという視点が見えてきました。それに伴い、今年度は、子どもの育っていく過程、プロセスから問題を考えていきたいと思います。湘南市の特徴として、湘南団地で子どもが生まれ育っていき、湘南保育園、湘南小学校、湘南中学校へと進んでいきます。子どもが育っていく過程で、それぞれの場所での取り組みがあります。この湘南団地という場所を中心に、学校・地域・職場など、それぞれの場所での話を聞いていく。またそれをまとめ、湘南団地以外の地域にも成果として伝えていければと思います。今日、大学院生を連れてきましたのは、聞き取り調査などの調査を行う時に活躍してもらおうと考えたからです」</p>
<p><em>　</em>これを聞き、学生である自分がここに連れてこられた理由が分かり、のっけから、とても驚いた。湘南市の湘南団地という地区で、これから、外国人に関する調査を行うようだ。自分もその調査に参加できるかもしれないと思うと、とてもドキドキした。とはいえ、その後10年も団地に通うことになるとは、想像すらしなかったが。</p>
<p><em>　</em>すると、団地の自治会長が立ち上がった。清水会長といい、少し猫背ではあるが、長身ですらっとした初老の男性である。会場の中で一人スーツ姿だったので、とても印象に残っている。</p>
<p>「調査を行うとなると、どのような調査を行うかが大きな問題となります。外国人を対象にして調査しようということだと思います。しかし、その人たちを調査して、何かの手を差し伸べてあげるといった状況から、現在は、ちょっと進んだのではないでしょうか？　少なくとも、生活の基盤といったところでは、そのように感じます」</p>
<p><em>　</em>湘南団地を中心に調査をするという計画が話されたとたん、団地住民である自治会長からは疑問の声があがった。そして、清水会長は続ける。</p>
<p>「言葉の問題がこの委員会でもとりあげられていますが、団地では、今年度から、団地の取り決めなどについての文書の翻訳をやめました。去年までは、4か国語に翻訳していましたが、今年からはフリガナをふる形にかえました。というのも、新しく入ってくる外国人は、多くて月に5～6家族くらいで、流入のピークは過ぎたと思うからです。それで、あえて文書も翻訳しないということにしたのです。多くの外国人住民が、生活の基盤を作れているように思います」</p>
<p><em>　</em>この言葉に反応し、湘南団地が学区である湘南中学校の教員、保育園の園長らが口をそろえて訴えた。</p>
<p>「私の学校の子どもたちが、学校に持ってくるものの中に、公的文書があります。例えば、税の払い方とか保険料の払い方といったものですが、親がわからないので、学校に持ってきて相談するケースが多発しています。また、病院に通訳としてつれて行くので、子どもの学校を休ませる親も多いです。親は普段の生活はできるものの、それ以上については対応できないのが現状です」</p>
<p>「そういったことは保育園でも同じです。小学校へ入学する手続きに、母親と一緒に学校へ行き、名前や住所など、書けない部分を手伝うようにしています。日本語は流暢に話せても、もらってきた文書が重要なのかどうか判断できず、捨ててしまう親もいます。フリガナがふってあって、仮に読めたとしても、意味がわからないということも多々あるようです」</p>
<p><em>　</em>さらに、湘南団地に住む「当事者」として参加していた西田さんが口を開いた。西田さんは、30代後半のカンボジア人男性だ。難民として日本に移住した。</p>
<p>「私もそうなのですが、会社で働きながら、役所や保育園、駐車場のことなどのいろいろな文書を書いたりするのは大変です。どういう書き方、読み方をすればよいのかを、少しずつ覚えました。今では皆に教えていますが、会話だったら「どこへ行きますか」といったもので十分ですが、文書はそうはいきません」</p>
<p><em>　</em>日本では、西田さんのようなインドシナ難民が各地域での暮らしを始める際、定住促進センターという施設を経由することになっている。難民の人々は全員、このセンターで、3か月間150時間の日本語教育を受けることが義務付けられていた。定住促進センターとは、アジア福祉教育財団の難民事業本部が国からの委託により行った事業で、来日直後の衣食住を保証し、定住に向けての準備を行う施設である。日本語教育の他、職業訓練や就労斡旋などが行われた。1979年の国際人権規約批准と1981年の難民条約加入を背景に、1979年に兵庫県姫路市と1980年に神奈川県大和市に定住促進センターが開所され、1995年にその役割を終えた。神奈川県に住む難民は、大和市のセンターを経由してきた人々が多い。西田さんもその一人であった。</p>
<p><em>　</em>ただ、西田さんによると、定住促進センターでの日本語学習では到底足りず、センターを出てからも、ボランティアに日本語の学習をサポートしてもらったという。当時、湘南団地の近くでは、団地から歩いて10分程度の公民館で、ボランティアによる日本語教室が行われていたし、駅前や市役所の付近でも教室が開かれていた。西田さんのようなインドシナ難民だけでなく、このようなボランティアの日本語教室を利用していた外国人は多い。とはいえ、基本的に言葉の習得は、外国人たちの自主性に任されてもいた。西田さんは、仕事をしながら遊ぶ時間も惜しんで日本語を勉強し、大変難しい「プラスチック成形技能士」資格の1級を取得したり、会社でのプロジェクトチームの班長を任されるなど、大変な努力家だった。</p>
<p><em>　</em>しかし、多くの人々は、慣れない土地での就労や生活に追われ、日本語の学習にかける余力が残っていなかった。言葉の習得によって多くの課題が解決できることもわかってはいるが、西田さんのように個人的な努力で困難を乗り越えてきたケースは稀であった。会議に参加していたどの委員もみな、このような外国人の現状を知っていた。そのため、清水会長の「生活の基盤は作られた」という発言に対して、未だに解決はしていない「文書に関する問題」の事例をあげながら、委員たちはやんわりと反証を行ったのだ。しかし、清水会長は、大きな声でぴしゃりと言い切る。</p>
<p>「父親の世代で、日本語を覚えようとしない方々は、今後も覚えようとはしません。覚えたくないといった方が多いようです。日本の生活に慣れ、隣人とあえて話さなくても生活ができるようになった。会社に行って収入が得られ、買い物さえできればよくなってきてしまいました。日本の生活に慣れ、トラブルが少なくなるなどよくなってきた反面、そのような弊害が生じてきています。だから、調査を行うにしても、いずれ世代交代をしていくという長い目でみて、子どもの現状に限ってやる形の方がよいと思います」</p>
<p><em>　</em>言葉はとても丁寧ではあったが、外国人に対する厳しさがあり、語尾に憤りが漂っていた。そのような言い方を受けて、他の委員たちは皆、口を閉じてしまった。すかさず、新原座長が話をまとめて、今後の調査の原案をさらりと述べると、少しホッとした空気が流れた。だが、最後に、清水会長がこのように会議をしめたのだった。</p>
<p>「湘南団地は生活の場であり、外国人のことも、湘南の人民として扱ってほしいです。調査をするとしても、興味本位や、助けなければという発想はやめていただきたい」</p>
<p><em>　</em>何が起こったのか、正直、学生の私には理解ができなかった。清水会長の言葉で、場の空気が一瞬ピリッとし、気まずい雰囲気が漂った。私は居心地の悪さを感じながらも、今日の会議で立ち上がって話をしていたのは、湘南団地の清水会長だけだったなと、ボンヤリと思った。また、委員の中で少々「浮いて」しまうほど、服装に気合が入っていたのも、清水会長だった。私には、清水会長が、最も熱心にこの委員会に参加しているように思えた。そのような人が、なぜ、終始どこか苛立っており、場を気まずい雰囲気にさせていたのか、私には理解ができなかった。ただ、会議が始まる前、顔なじみであるはずの委員たちが、ほとんど雑談などはせずにシンとしていた理由だけは、なんとなく想像ができたのだった。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>４．理想と、最低限の手段と</strong></p>
<p><em>　</em>最初の会議で感じた、いたたまれない感覚がまだ残る中、清水会長や他の委員のこれまでの様子が知りたくて、社協の事務局が作成していた会議記録を読んだ。記録からは、清水会長を含む団地の自治会に関わっている委員たちと、その他の委員のやりとりが、いつも対立しているような印象を受けた。中でも特に、日本語を外国人に教えるボランティアをしている小野寺さんと、団地自治会の人々とのやりとりが、印象的だった。小野寺さんは、いつもエスニック調のスカートに色鮮やかなスカーフなどを巻いていて、華やかな印象の女性である。彼女は当時、駅前にある市民活動センターにて、ボランティアによる日本語教室を運営していた。この教室に集う人々は、ボランティアといっても、湘南市が主催する「日本語教育ボランティア養成講座」などで教授法に関するトレーニングを受けており、中には独学で「日本語教育能力検定試験」に合格したという勉強熱心な人もいた。海外への興味関心が強く、国際化ということへの意識を常に持っている人々だったと思う。小野寺さんは、その中でも代表的なポジションにいる人だった。以下は、私が委員会にオブザーバー参加する1年前、1997年9月18日に行われた第2回委員会の記録である。</p>
<p><em>　</em>話の発端は、他市にて、外国人へのサポートを行っている委員からの事例報告だった。地域に住んでいる外国人の子どもを対象としたお祭りや母語教室を開くことにより、外国人の親同士のネットワークができ、子どもの将来について一緒に考えていくきっかけとなっているという内容であった。それに関して、小野寺委員が発言する。</p>
<p>「湘南市でもブラジルの方たちはけっこう交流があります。レストランアモーレの主催で、3か月ほど前、100人以上集まり、医療問題についての相談会を行っています。それから、つい先日、ブラジル領事館の方が出張してきて、商工会議所で120人以上の人たちの相談にのっていました。ブラジルの人たちは絶対数が多いので、ネットワークが見えます。しかし、小数の在住外国人の人たちがネットワークを作っているという話はあまり聞きません。日本語教室にいらっしゃる方たちは口コミで次々きており、それなりのネットワークはあるようですが」</p>
<p><em>　</em>ちなみに、神奈川県国際課の『外国人登録者市（区）町村別主要国籍別人員調査表』を参照すると、1997年の湘南市の外国籍登録者は約3500人で、出身国でみるとブラジルが1200人で最も多く、韓国・中国・フィリピンに次いで、ペルーが200人程度。南米出身者が多いことが分かるが、カンボジアも約200人、ベトナム80人とインドシナ難民も比較的多く暮らしていた。ラオス人については、1997年のデータは無いが、1998年には約170人となっている。湘南団地が学区である中学の教員は、次のように続ける。</p>
<p>「カンボジアやラオス国籍の子は、学校からネットワークにつながっていったわけではなく、地域の集まりに入っていってネットワークができたようです。ただ、一定以上は大きくならないようで、地域にポツンポツンとネットワークがあるようです。単に、沢山住んでいるから、横のつながりがしっかりしているというものではないようです。ただ、ブラジルは旅行社もきちんとあって、旅行社主催でブラジルの人だけ集めて、行楽に行ったりしています。以前はペルーもありましたが、最近は活動がとまっています」</p>
<p><em>　</em>このような地域の状況の報告が行われた後、清水会長が、団地の様子と自治会の考えを伝える。</p>
<p>「団地周辺の地域では、同じ国々の方たちの集まりはある程度あります。国の文化、例えばお正月をやるとか、スポーツ大会をやるとか、私たち自治会が協力したこともあります。しかし、地域の生活にもなじんでもらわないといけないので、あまり向こうの文化に埋没させるわけにもいかないわけです。日本の生活になじんでもらうためには、早く向こうのことを切り捨ててほしい。習慣だろうとなんだろうと切り捨てて、こちらサイドへ向かってほしいという願望の方が、地域の住民の中では強いのです。昨年までは、ラオス・カンボジアという個々の集団で行事を持っていましたが、今年から少し方向をかえなければという声があがっています。というのは、ベトナムを中心として背中合わせの状態が続いているからです。在日のベトナム人は、ラオスやカンボジアの人たちをいじめてきた人たちと思われている。ベトナムは内戦など、トラブルの中心だったからです。ベトナムでトラブルがあったから、自分たちはここに来たのだという考え方から抜け出せない、ラオスやカンボジアの人たちがいます。しかし、実際には、ベトナム難民には反体制の方々の方が多いのだから、もうそろそろ水に流して同じテーブルについてくださいというのが、去年の終わりごろから私たちが少しずつ取り組んでいるものです。また、あまりに個別に外国人を集めた行事をやることによって、日本人との交流にかえって隔たりがでてきたのもあります」</p>
<p><em>　</em>これを受けて、小野寺委員は、日本文化や習慣に適応することが、出身国の文化を捨てて日本に同化することと同じではないと反論した。おそらく、はっきりと物を言う小野寺委員のことだ、口調も少し強めだったのではないかと想像する。</p>
<p>「国際人になる、あるいは湘南が国際都市になっていくためには、外国の人たちに『文化を捨てなさい』ということは前提にないわけです。生まれた国の文化、あるいは言葉を大切にしながら日本社会に溶け込んでほしいという姿勢で取り組んでいただきたいと思います」</p>
<p><em>　</em>そして、清水会長と小野寺委員のやりとりが続く。</p>
<p>「私は九州からきたのですが、湘南では私の方言を笑われました」</p>
<p><em>　</em>と、清水会長。</p>
<p>「その時、笑わない人たちをつくっていくのが国際化で、そのようになっていくステップが大切ではないでしょうか」</p>
<p><em>　</em>すると、清水会長が、団地という生活の場のひっ迫感を伝える。</p>
<p>「それはあまりに理想論です。明日、明後日の生活の中で、どう溶け込ませて、どう生活してくのかという問題とはちょっとずれがあるように思います。『あなたの国や文化を忘れないでください、いつまでも持っていてください』というよりも、あまり過去を引きずらないでほしいと思います」</p>
<p><em>　</em>それでも引かない、小野寺さん。</p>
<p>「こちらが、今の生活の中で、仲良く楽しく喧嘩もないようにコミュニティを作っていきましょうねという時に、『あなたの文化を忘れてはいけませんよ』とこちらからいう必要はありません。生活の場であっても同じことです」</p>
<p><em>　</em>このやりとりを読み、どちらかというと、清水会長よりも小野寺委員の主張の方が、その頃の私には「正しい」ように思えた。当時はグローバリゼーションについての議論が盛んに行われ、「国際化とは同化政策ではない」という主義主張なども、新聞や雑誌などでよく目にしたものだった。そのような時代の風潮とは真逆のことを、清水会長は言っているように思えたのだ。小野寺さんの主張に加勢するように、他の委員も、他地域での試みをあげつつ、清水会長をやんわりと牽制するのだった。</p>
<p>「横浜区（仮名）の地域振興課から財源を出してもらい、『琉球文化のつどい』をやりました。横浜区民が地域に住んでいる沖縄人たちのことを全然知らず、どういう苦労をして生活をしていたかも知らなかったため、横浜区民に沖縄の人たちの想いや文化を知ってもらおうということで開催したものです。その次の年が『コリア文化のつどい』です。在日韓国朝鮮人の人たちが横浜区で生きてきたことを学ぼうというものです。そして、今年が『中国文化のつどい』です。ニューカマーの中国人が横浜区だけでも800人ほどおります。横浜区では25人に1人が外国人という地域なので、外国人の想いを学ぼうということです。その結果、地域に住んでいる人たちのことについて、理解できるようになりました」</p>
<p><em>　</em>それでも、清水会長は、同じ主張を繰り返していた。</p>
<p>「このようなイベントを行ったことにより、それなりに、来日した人たちの安ど感を生むのに役立ったかもしれないけれど、もうそれだけではだめです。私たちが北海道から来た人に対して、文化を忘れなさいといわなくてもなじんでいきます。そのような感覚を、在住外国人の人たちにも持ってもらいたいのです」</p>
<p><em>　</em>続けて、湘南団地の民生委員である播戸さんが、発言をした。播戸さんは、当時まだ仕事をしていたから、引退前くらいの年齢で、小柄だが体格のいい男性である。清水会長と同じく、団地が完成して間もなく湘南団地にやってきた。神戸出身、ガラガラ声で関西弁を話す。標準語でも、関西なまりがあった。指が一本無かったが、食品関係の職場で失ったと聞いた覚えがある。</p>
<p>「湘南団地は大きく分けて4つくらいの民族がおります。ラオス、カンボジア、ベトナム、中国です。例えば、昔からいた中国の人は、中国人で集まるエリアがあるのです。それに対して、ベトナム人たちが入ってきたのは最近で、彼らも集まりますが、同じ民族同士でも、出身地等でトラブルがあるわけです。なので、清水会長のやっていることは、最高の方法ではなく、最低限の手段なわけです」</p>
<p><em>　</em>この播戸さんの「清水会長のやっていることは、最高の方法ではなく、最低限の手段なわけです」という発言を読んだとき、私ははっとした。播戸さんの「最低限の手段」という言葉が、なぜか、棘のように記憶に刺さった。清水会長よりも、小野寺委員らの考えの方が「正しい」ように思っていた私に、どこか釈然としない感覚が残った。「最低限の手段」をとらねばならない理由やその状況を、当時の私にはほとんど想像できなかったが、こうした記録を読み、ますます、清水会長や播戸さんといった団地の人々に興味をもったことは覚えている。</p>
<p><em>　</em>後日、新原先生から「次の委員会にも来ますか？」とたずねられた。オブザーバー参加は強制ではなく、学生たちの自由参加だった。一緒に参加した院生たちも、残った人と残らなかった人がいた。私は迷うことなく、「お願いします」と答えていたのだった。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>［© Kanae Nakazato］</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>※アプリ「編集室 水平線」をインストールすると、更新情報をプッシュ通知で受けとることができます。</p>
<p><a href="https://suiheisen2017.jp/appli/">https://suiheisen2017.jp/appli/</a></p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>第1回　さよならの風景</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/ueno-akashi/1477/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 11 Nov 2022 00:44:05 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[上野　朱]]></category>
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					<description><![CDATA[　ある日のこと、そこにあったはずの建物は影もなく、アスファルト舗装の駐車場の一画に、そこだけ砂利を敷き固めた四角いスペースが取り残されていた。そばには小型ダンプが停められ、その脇の日陰で2人の作業員が休憩中だった。 　こ&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/ueno-akashi/1477/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第1回　さよならの風景</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><em>　</em>ある日のこと、そこにあったはずの建物は影もなく、アスファルト舗装の駐車場の一画に、そこだけ砂利を敷き固めた四角いスペースが取り残されていた。そばには小型ダンプが停められ、その脇の日陰で2人の作業員が休憩中だった。</p>
<p><em>　</em>ここにあった店で商売してた者だけど、と声をかけると「あっ、そうなんだ」と驚いたような顔を見せる2人。おととい通った時はまだ建物があったけど、きのう一日で壊したの？ と尋ねると若いほうの男性が「10分！」と威勢良く答え、年かさのほうもつられて笑った。こういう展開では私も笑わないといけないじゃないか。</p>
<p><em>　</em>借りていた店舗から退去するにあたって、本棚もカウンターもすべて撤去しておいたので、残っていたのは壁と屋根と窓とドアというほとんど空き箱のような建物だった。構造も木造にモルタル吹きつけで、床もベタ打ちのコンクリートにフロア材を敷いただけという造りだったので、いくらなんでも10分は誇張だが、重機の力をもってすれば朝飯前の取り壊しだったことだろう。</p>
<p><em>　</em>ほぼ20年間、この場所で古本屋を営み多くの人を迎えてきたが、壊す時はあっという間かと、滑稽なような淋しいような複雑な気分で初夏の陽に白く映える砂利敷きを眺めていた。楽しかったことや悲しかったこと、新しい発見や出会いのすべては、この場所に古本があり、お客さんが来てくれたことによってもたらされたものだ。これからしばらくの間、薄暗い古本屋の帳場から見た人と本の行き交いを記してみたい。</p>
<p><em>　</em>薄暗いと書いたが、蛍光灯の光で本が焼けるのを防ぐためといった立派な理由で照明を抑えていたのではなかった。天井には全部で10台ほどの蛍光灯が取り付けられていたのだがそれが順に切れてゆき、放っておいたら自然に薄暗くなっていっただけのことである。しかしお客さんによってはその暗さを「古本屋らしくて懐かしい」と喜んでくれる人もあったので、これ幸いとそのまま横着を決め込んでいただけのことだ。</p>
<p><em>　</em>しかしこんないい加減な古本屋でも仕入れがなくては成り立たない。仕入れの方法としてはお客さんによる持ち込み、買い取り依頼を受けて自宅に出向く、業者だけの市で入札や競りで落とす、古紙回収業者の集積所に積み上げられた紙の山から掘り出す、といったところだ。古書組合に入っていない私は市には出入りできなかったけれど。</p>
<p><em>　</em>古本屋に蔵書を持ち込んだものの予想外の買い取り値の低さに落胆したという人も多いだろう。しかし少々弁明するなら、たとえば持ち込まれた100冊のうち、5冊か10冊が商品になればいいほうなのだ。それを10年寝かせるうちに売れれば上出来という商売なので、おのずと買い取り値は抑えめになる。もっとも流行り物のコミックなどは回転もよくほどなく現金に化けるので、それなりの値段で買い取ることができるのだけれど。</p>
<p><em>　</em>買い取り値、ことに査定ゼロを告げるのが気の毒になるのは、若い頃から大切にしてきたという本（しかも今ではまず売れる見込みのない）を前にした時だ。本の状態や発行年に目を通す私のそばでお客さんはしみじみと語る。「初任給が1万いくらだった頃に何ヶ月もかかって月賦で」とか「幾度も引っ越したけれど、これだけは手放さずに」あるいは「亡くなった父がずっと大事にしていたもので」などなど。</p>
<p><em>　</em>こんな時「申し訳ない。本の評価はしますが、あなたの思い出は査定に入りません」と言いたいけれど口には出さず、「いい本なのに値段がつかなくてすみません。でもなんとか次に活かせるようにしましょう」と答えていた。これはただの方便や商人口ではなく、書籍という「知」に対する敬意だった（他者や他民族を罵るだけの、知の欠片も感じられない書籍も多くなってしまったが）。1冊100円をつけても売れず、10円に下げても動かず、いずれは前述の古紙集積所に持ち込むことになったとしても、本に込められた知と、その本と共に過ごしてきた人の記憶をぞんざいに扱ってはならぬと心に刻んできたが、ふと、この仕事は一種の「おくりびと」のようなものかもしれないと思った。</p>
<p><em>　</em>映画化もされたおくりびと――納棺師は、老いや病や事故で世を去った人の遺体を生前の姿に近付けるのが仕事だが、それは故人のためというよりも、むしろこれから火葬場へと送り出す遺族の心を癒やす役割のほうが大きいのではなかろうか。</p>
<p><em>　</em>私事だが、義父の納棺にあたって遺体を整えてくれたのは、まだ若い2人の女性だった。僧侶のように遺族一同から恭しく頭を下げられるわけでもなし、お布施を包まれるわけでもないその2人は、硬直した遺体を器用に着替えさせ、長患いで乱れた髪を梳き、血の気の失せた顔に薄化粧を施して自然な色に戻すと、深々と一礼して去って行った。</p>
<p><em>　</em>古本屋も同じだ。そこが店のカウンターであっても、お客さんの家の書棚の前であっても、その人にとっては馴染んだ書物との別れの場なのだ。そして古本屋が去った後の棚には当然空きスペースが残される。人との死別とは違って、本は後日再び同じものを買うことができるかもしれないが、ヤケやシミや開き癖はその1冊だけのものだ。いつか、あの本はどこに置いた？ と無意識のうちに背文字を探してしまう日がくるかもしれない。そして手放したことを思い出してから、「きっと次の人に大切に読まれているだろう」と思ってもらえるような別れを提供すること。「本のいのち、引き継がせてもらいます」――合掌・礼拝まではしないが、それが「本のおくりびと」が果たすべき役割であろう、と。</p>
<p><em>　</em>そんな古本のすきまに暮らしてきた私の、店で出会った本と人の話はいずれまた。</p>
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<p>［© Akashi Ueno］</p>
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		<title>第1回　父母-pumo-</title>
		<link>https://suiheisen2017.com/kang-hoju/1500/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[水平線編集室]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 18 Nov 2022 00:00:14 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[姜 湖 宙]]></category>
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					<description><![CDATA[&#160; 大きさ：F10号　画材：アクリルガッシュ &#160; ［© KANG HOJU］ &#160; ※アプリ「編集室 水平線」をインストールすると、更新情報をプッシュ通知で受けとることができます。 https&#8230;&#160;<a href="https://suiheisen2017.com/kang-hoju/1500/" class="" rel="bookmark">続きを読む &#187;<span class="screen-reader-text">第1回　父母-pumo-</span></a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-1501" src="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/父母-pumo--scaled.jpg" alt="" width="2170" height="2560" srcset="https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/父母-pumo--scaled.jpg 2170w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/父母-pumo--254x300.jpg 254w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/父母-pumo--868x1024.jpg 868w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/父母-pumo--768x906.jpg 768w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/父母-pumo--1302x1536.jpg 1302w, https://suiheisen2017.com/wp-content/uploads/2022/11/父母-pumo--1736x2048.jpg 1736w" sizes="(max-width: 2170px) 100vw, 2170px" /></p>
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<p>大きさ：F10号　画材：アクリルガッシュ</p>
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<p>［© KANG HOJU］</p>
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