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戦争

亀山 亮

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第10回 沖縄戦戦争孤児・内間善考さん

    抗がん剤の副作用で横たわる日々が多くなった内間善考さん

     

    沖縄戦では県民のおよそ25%が犠牲となり、現在もガマなどの自然壕には多くの遺骨が残されたままになっている

     

     

     「親がいないのだから我慢しなければいけないといつも思っていた」

     「親戚の場所を転々として自分の居場所はいつもどこにもなかった。子供の時はいじめられて気持ちがおかしくなっていた」

     「時計の文字もずっと読めなかったよ」

     住民の半数以上が亡くなった激戦地、与座(現在の糸満市)出身の内間善考さんが戦争孤児になったのは8歳の時だった。

     防衛隊に召集されていた内間さんの父は戦死。母親と4人の兄弟と叔母で壕の中を避難していたが後からやってきた日本兵に追い出されてしまった。

     激しい艦砲射撃が降り注ぐ中、安全な隠れ場所を求めて逃げまどった。

     「外はあちこちで爆弾が爆発し煙が充満していた。ガマの中は火薬の硫黄の匂いと糞尿と人が死んで腐った匂いがまざってなんともいえない匂いだった」

     内間さん自身も負傷しながらも奇跡的に他のガマに逃げ込むことができたが米軍がガマに投げ込んだけむり玉(黄リン弾)のあまりの苦しさに他の人たちの後を追って外に出たところで米軍の捕虜になってしまい、ガマの奥にいた母親たちとは生き別れてしまった。

     内間さんは一人で戦場を彷徨いながら家族を探し続けた。

     戦後、孤児院で生活していた内間さんは生き残った叔母と妹と再会できたが母親と母親がおんぶしていた三男は米軍に銃撃されて亡くなり、米軍の捕虜になった二男も栄養失調で死んでしまったと聞いた。

     生き残った妹は子守奉公に出され、親戚中をたらい回しにされた内間さんは16歳の時に養父に家を追い出されて米軍基地から出るゴミ集めや大工などの仕事をしながら沖縄市の古い家に一人で移り住んだ。

     結婚して3人の子供をもうけたが「親の温もりを知らずに育ったから子供をどうやって育てていいかよくわからなかった」。

     2年前に同居していた娘が亡くなり、その後奥さんも失踪した。現在、内間さんが自分で建てた家に精神障害を持つ40代の息子と二人で住む。

     「少し散歩にいってらっしゃい! 他人の屋敷には入ったらダメだよ。傘も忘れるんじゃないよ」と息子に声をかける内間さんの口調はやさしい。

     「最近よく戦争のことを思いすようになって夜眠れないことが多くなった。年を取ってからは昔のことを思い出すことが多いよ」。

     沖縄戦で亡くなった内間さんの母親らは援護法で認定されている(民間人の軍への壕の提供に当たる准軍属として)弔慰金の申請をしたが3回とも却下された。

     「戦争でこれだけの人が死んだのに国は何もしない」

     「援護金は軍の階級によって支給額も違う。同じ人間が死んだのに死んだ後でさえ区別される」

     「この前検査したら肺がんがまた再発してしまったよ。でも大丈夫」と造作無く言う内間さんに返す言葉も見つからないまま、「家にはこれしかないさー」と昼時をだいぶ過ぎてから何度も勧めていただいた黒糖を口に入れる。

     空腹の胃にじんわりと黒糖の甘さが染みていくのを感じながら内間さんの「戦争」を思う。

     

     

     

     

     

    [© Ryo Kameyama]

     

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