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くたばれ

諸屋超子

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第2回 めまい

     その朝それは、はじまっていた。ぐらりと世界が揺らいで、希世子は目を閉じた。シャワーは細い線でしかないのに、希世子の身体は一気に暖められ不調を起こしたらしい。

     なんてまぬけな老体。希世子はいらいらしながらめまいのおさまるのを待った。今日は休むべきかしら。壁に掛けたシャワーヘッドにぶら下がるようにしながら考える。いや、今日は先日の会議で壁への掲示がきまったグラフの作成作業があるのだった。会議には呼ばれなかったのに、グラフリーダーなんて名誉なのか侮辱なのか分からない称号を戴いて。結構なことだ。

     渋々出社することにした希世子を襲ったその衝動は誘惑としか呼びようがなかった。病院でもらってきためまい止めを飲まない。それだけのこと。それだけのことだが、希世子はこみあげる笑いを抑えられなかった。

     そして今、曇っているのに妙に明るい12月の午後3時。希世子は外回りの途中に立ち寄った家電量販店のだだっ広いエントランスロビーの白い床に寝転がっていた。

     倒れたわけではない。ただ、めまいの重く引きずり込むような、甘い引力に身を任せたのだ。くずおれたというのに近いかもしれない。スローにそしてカラフルに世界が揺らいで、うっとりと希世子はくずおれた。

     ちょうど近くを歩いていた若い男女のカップルが驚いて駆け寄った。少し離れた場所でエスカレーターに手をかけていた希世子と同年輩の中年女性も駆け寄った。彼女がうれしそうに目を輝かせてやってきたことを、希世子は見逃さなかった。

    「大丈夫ですか? ケガはないですか?」

     若いカップルの男がタッチの差でいち早く希世子の隣にかがみこみ、続いて女がよりそうようにかがんだのを横目で見て、希世子は喜んだ。

     カップルは休日風だが体や心を休ませるのに忙しいように見えた。一方、中年女性は忙しなく予定を詰め込んでいるようだが、その実孤独で、彼女にしか分からない暇を持て余しているといったところだろう。おまけに彼女は、希世子という暇つぶしを捕まえるには、お腹に贅肉を蓄えすぎているらしく、突っ立ったまま「あらー」とか「まあ」などと繰り返している。

     希世子は、暇人の慰み者にはなりたくなかったが、誰かの充実した人生の邪魔者になりたかった。

     男はテキパキと連れ合いに警備員を呼びに行かせ、自分はスマートフォンで119番をダイヤルした。男が希世子に症状や年齢、持病などをたずねる隣で、脂肪の塊を宿せし聖女が合いの手を入れる。「駐車場でなくて良かったわね。きっとケガをしていたわ」「まあ、それじゃあ昭和42年組?」「自律神経はサウナで鍛えるといいって山田さんが言ってたけど、女にはそんな暇ないわよねえ」

     希世子は中年女のねっとりとした欲望をさらりとかわしつつ、この冷淡なまでに気の利いた若い男と、なぜかしきりに頭を下げつつ警備員を連れてくる若い女を盗み見る。

     卑屈なほどに謙虚なこの若い女性は、人が倒れるというこの出来事が、その手の中にあったはずの時間を奪い去っていくことに敏感に気がついているらしい。しかし、それを責める相手はいない。というか、矛先に出来るはずの希世子は病人だ。いたわらなければならない。早く抜け出し、時間をその手に取り戻したいはずの彼女は、罪悪感からか、うらはらにこんなことを口走っている。

    「おうちにご家族はいますか? 猫ちゃんの毛がついているようだから、誰かお世話をしてくれる人は居るのかと思って」

     男の舌打ちが聞こえたので、希世子はわざと目を大きく見開いて男をみる。揺れる視界の端で女がおろおろしているのが見える。お節介様は希世子に同意するようにため息をつく。

    「ご親切に。大丈夫ですよ」

     希世子は猫など飼っていない。毛はきっとマフラーか何かの抜け毛が移ったのだろう。しかし、希世子は曖昧に答えた。ただ、驚き傷ついた素振りを見せれば、この若い女を翻弄できると思っただけだ。楽しみたかったのだ。

     めまいの薬を飲まなかったときにかられた誘惑、無責任ではた迷惑な存在として白昼堂々地べたに寝そべるという堕落は、いまや希世子の身体のうちをほかほかと満たしつつあった。

     希世子は、ふと10年も前の、同じように妙に明るい12月の午後のことを思い出していた。希世子のベッドで寝そべりながら、男はこの世の不幸を一身に背負っていた。

    「僕は何のために生まれてきたのか。生きていていいのだろうか」

     希世子はその言葉を聞いて、裕福とはどういうことかを思い知った。希代子は、生きる意味など、存在を受容されることなど、意識したこともなかった。ただ生まれて、ただ暮らし、ただ働いてきた。ただ責任を負わされ、社会に迷惑はかけぬよう言いきかされ、他人の権利のために余計に働かされることが生活であり、人生であった。それが証拠に、その時希世子は彼のためにコーヒーを淹れていた。

     いつか、〈その日〉がきた暁には、私もあれを手に入れよう。だれもが幸せになりたくていきているわけではないのだ。少しは私のことも不幸せなまま放っておいてほしい。

     暁は、希世子のもとをめまいとともに訪れた。

     ほら、あちらを見上げてご覧なさい。エスカレーターで降りてくる子連れ女の、希世子を見つめる潤んだ瞳を。めまいとともにゆったりと寝そべる希世子が、怠惰というベッドに沈み込んでいくのを、羨ましそうに、うっとりと見つめているから。

     

    [© Choko Moroya]

     

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