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くたばれ

諸屋超子

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第5回 コロコロメランコリー

     メランコリーの日々があなたにはあっただろうか? 得体の知れない憂鬱に包み込まれ、鉛のように重たくなった手足をだらりと投げ出して椅子にもたれかかり、空を睨んでいるだけの日々が。

     古代ギリシアの医師たちは体内の“黒胆汁”が過剰な状態をメランコリアと呼び、それがメランコリーの語源になったという。“黒胆汁”聞いただけでずっしりと肩に重みを感じるような謎の液体“黒胆汁”。

     どこまでも続く曇り空のようなこの気分は、どうやら遥か昔から人々の近くにあった馴染み深いものであるらしいのに、まるで歓迎されていない。それどころか、われわれ現代人は、元気はつらつ、幸福であるよう努める義務があるかのように感じさせられている。

     幸福になるべき? なぜ?

     ある6月の朝、その男は子ども時代から愛用している机に向かい何かしきりに紙に書きつけていた。沢木ひとし23歳。

     彼の顔をこっそり覗き込んでみてほしい。なかなか可愛らしい顔立ちをしていることに気がつくだろう。しかし彼は、その顔を長く重たい前髪で隠している。口をへの字に曲げて、何かぶつぶつ呟いている様は少し気味が悪いくらいだ。

     彼がさっきから書いているのは遺書だ。そう、彼は自殺を企てているのだ。しかし、言葉がうまく摑めずにいるらしい。彼が死のうと考えたきっかけは、ごく平凡なことだった。彼が大学で同じサークルに所属していて、彼が片想いしている相手、前園可憐と、同じくサークルメンバーの金山豊が付き合っていると、友人から聞かされたからだ。

     死のうという強い気持ちとは裏腹に、遺書というのはなかなかに書くのが難しい。

     きっと今、あなたも私と同じことを考えているのではないかと思うのだが、その件について、彼は決して遺書なしには死なないと決めているようだ。そして、不出来な遺書を残すくらいなら、この計画を延期してでも完璧な遺書を残すと。しかし、言葉がうまく出てこないのだ。

     はじめは簡単なことに思われた。前園可憐への思慕、腹黒い金山豊に彼女が騙されたことへの軽蔑、金山への愚痴、悪口、数々の人聞きの悪い噂たち。

     しかし、3枚半書いたところで、ふと気になったのだ。これではまるで自分が僻みっぽく、陰湿な人間で、二人への腹いせに死ぬかのように見えるのではないかと。

     ひとしの人生は何もこの大学生活の恋のためにあったのではないのだ。もっと奥深く、暗く悲しいものなのだ。

     そこでひとしは思い切りよくそのレポート用紙を破り、丸めてゴミ箱へ投げ入れた。

    「リスクの取れないものに成功はない」

     どこかで耳にした偉人の言葉を頼りに再びペンを取る。次に書こうとしたのは自分がモテない孤独な男であるという事実だった。しかし、モテないものはモテないのであるから、語るべきエピソードもなければ事件もないのだった。試しに「誰も僕を愛してくれません」と書いてみたが、舌を垂らして励ましを待っているようでみっともない。これも却下した。

     次に幼少期の深い傷が無意識に刻み込まれているということで書こうとしたが、無意識をどうやって感じるというのか、第一これでは大嫌いなフロイトに与するようなものではないかと気がつき却下。

     自分が死んだ後も世界が続くのだということを、ひとしは強く感じた。絶対に衝撃を与えたい。

     他の者が恐れ、遠ざけたいと考えている死。それを選んだ自分。その優越を是が非にでも著して死にたいのだ。

     ひとしの筆は滑り始めた。

    「この世界は永遠の曇り空です。この灰色に閉じ込められた場所から、僕は飛び立ちます。貧困、疫病、孤独、裏切り……この不安だらけの世界でなぜ人々は希望を抱いて笑い合えるのか。僕にはそんなもの見つけられない。みんな一体どこで買ってきたの?」

     ひとしは書き上がった“遺書”を眺め、なかなかいいじゃないかと胸を張った。詩的だし、なんなら知的な感じさえ伝わってくる。

     もう一通書いてみた。

    「切れ目なく立ち込める灰色の雲が、今日も僕の心にある。目に映る空は裏腹に鮮やかな青、そして燃えるダリアの赤」

     これは8月に使えるな。夏の景色と憂鬱のコントラストとは、我ながら素晴らしいじゃないか。

     ひとしはさらに乗ってきて、もう一通書いた。

    「孤独は僕の友達だ。他には誰もいないのに、彼はいつも僕の隣にいてくれる」

     これには『バイ・マイ・サイド』とタイトルを記入。

    「桎梏を引き摺って空に叫ぼうとも、枯れ切った声は届かない。雨が激しく降りしきる」

     ひとしの筆は止まらなかった。ロマンチックは加速し、イメージ画をつけたものまで生まれ、四季折々の遺書も出来上がった。ひとしは張り切って文具屋へ走り、万年筆やサインペン、筆ペンなどを買い込んできた。渾身の一作は色紙に書き込んで壁に飾った。

     こうしてひとしは、われわれに美しい詩を見せてくれた。と言いたいところではあるが、その出来栄えは、先ほど確認した通りであった。

     しかし、メランコリーがひとしと死の間に楔を打ち込み、その生命を輝かせたことは確かだ。ひとしの“遺書”はこれからも増え続けるだろう。

     少しでもまともな考えを持つ人間なら、曇りのない太陽のような人間を信頼したりしないものだ。あなたにはメランコリーがあっただろうか?

     

     

    [© Choko Moroya]

     

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