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くたばれ

諸屋超子

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第8回 ブルーにしないで

     それはおとがいを鼻に押し当てた時と同じ湿った風のふく夕暮れでした。

     その昼に、東京から須磨子が帰ってきていると、母のLINEで知らされていた私は、ちょっと嬉しくて、ちょっとハラハラしていました。

     須磨子は明るく、無責任で、人にすごく嫌われたり、バカみたいに崇拝されたりするような、そんな子でした。私たちは家が近所で、小中高の同級生でもありました。

     私は週に一度のノー残業デーを利用して、今年から韓国語初級講座に通い始めました。その日は、その講座の帰りにスターバックスに寄ろうと店の前まで行くと、中から須磨子が出てきました。

    「千里!」

     もともと大きな目をこれでもかというほど見開いて、須磨子は私と再会した驚きを表現しました。まるでこの町に住んでいるのが須磨子で、突然現れたのが私みたいに。

    「すまちゃん、帰ってたんだね」

     私が微笑むと須磨子はテイクアウト用のカップを手にしていたにも関わらず、反対の腕を私の腕に絡ませ、店内へ入っていきます。

    「一緒に飲も!」

    「でもすまちゃん、テイクアウトしたんじゃ……」

    「大丈夫、今作ってもらったばっかりだから冷めないよ」

     私が気にしていたのは税率のことでしたが、言えませんでした。

     私が注文する間、須磨子は店の前で私とばったり会って戻ってきたのだと店員さんに嬉しそうに話していました。

    「ついでにドーナツも食べちゃおう」

     須磨子が追加注文をしたので、税率の罪滅ぼしが出来た気がしてほっとしました。

     私はネットで覚えたカスタムをオーダーしたラテと、ワッフルに生クリームとはちみつをつけてもらい席に着きました。

    「すまちゃんは飲み物何にしたの?」

    「コーヒー」

     スターバックスでただのコーヒーを頼むのが勿体無いと思ってしまう私と、軽減税率を適用して購入したカップを持って堂々と席に座る須磨子では、私の方がケチくさく、しみったれてしまうのはどうしてでしょう?

     そんなことを考えると、またハラハラし出したので、私は気を取り直して話題を振りました。

    「すまちゃんいつ帰ってきたの?」

    「今日……ん? 昨日か。国内なのに時差ボケ気味? あはは。昼に千里ママにばったり会って、夕方は千里ご本人登場じゃーん? マジ運命感じたわー! 元気? 元気ィ?」

     須磨子がまくし立てるように話している間、私はうん、うんとうなずいて微笑んでいました。他にリアクションも思いつかないので、須磨子といる時には大抵うっすら微笑んでうなずいています。

    「お休みがとれたの?」

     12月半ばという中途半端な時期の帰省の理由が知りたくてたまりませんでした。期待が高まり、ソワソワするお尻のあたりを落ち着かせようと座り直しました。

    「あー、んー、年末のこんな忙しい時期にうっかり男と別れちゃってさ。失恋休暇? 有給を取る権利万歳? マジ傷心。千里に会えてマジ奇跡! ぴえんぴえん」

     私は嬉しさが込み上げて優しい気持ちになれました。

    「すまちゃんが失恋?」

    「そうなのよ。ぴえんだよー」

     そう言ってドーナツをコーヒーで流し込む須磨子は、笑ってこそいましたが、どことなく寂しげで美しいのです。

     私は再び込み上げてきたハラハラを打ち消すように「嫌な男なんだね。きっと」と吐き捨てました。

     須磨子は一瞬驚いたようすでしたが、すぐに表情を戻しました。

    「んー、まあ2年も一緒に暮らしてきたから情もあるけど……そうよね? 私と別れるなんて嫌なヤツ、嫌なヤツ」

     おどけながらグーパンチのポーズをしてみせる須磨子。私もグーパンチを真似て笑いました。須磨子みたいに可愛くなれないグーパンチ。角度の問題でしょうか?

     須磨子が私の近況をたずねてきたので、私は韓国語初級講座のテキストを見せたり、先日購入した今年のクリスマス限定コフレの写真を見せたりしました。

     そのいちいちに須磨子は「わーすごい!」「きゃー! 可愛い」とリアクションをとってくれるので、私はハラハラから解放され気持ちよくなっていきました。

    「すまちゃん、お休みはいつまで?」

    「一応1週間」

     あと少しで年末年始の休暇が始まるというのに、よくもそんなに有給休暇が取れたものだと呆れました。私なら、有給休暇取得は労働者の権利なんていう「建前」を真に受けることは出来ません。

    「職場に戻った時気まずくないの?」

     須磨子は驚いた顔で私を見ました。こういう時なんです。私が須磨子をつくづく無責任だと感じるのは。きっと私に言われるまで、他の人の負担や迷惑を考えてもみなかったのでしょう。

    「まあ、一応2、3日かけて仕事振り直したり、リスケもしてきたからね。ごめんね、よろしくーって。あとは気にしてちゃやってけないじゃない?」

     気にせずによくもやってこれたものだと思います。須磨子の持ち物を見る限り、収入は良さそうです。

     会社の有給休暇なんて、ためにためて、会社からの勧告で変な時期に慌てて取らされる私がこんなに慎ましやかな暮らしをしていて、ちゃらんぽらんな須磨子の無造作に投げ出したバッグがGIVENCHYなんて、世の中どうかしています。

     須磨子が彼氏に振られたのでなければ、とてもじゃないけど私は……。私は……。

    「で、どうして別れたの?」

     そういえば、須磨子が彼氏に振られた経緯を聞いていないことに思い当たってたずねてみました。

    「んー、あいつはさ、結婚したいらしくて。でも私はまだ32歳だし、あいつなんてまだ27歳だし。それに私、結婚したいかどうかも分かんなくて」

    「え? 結婚したくないの?」

    「え? 千里はしたいの?」

     私はそれまで結婚がしたいのか、したくないのか自分に問うてみたことはありませんでした。結婚は、何というか避けられない義務というか、必ず訪れるであろうライフイベントで、私の年齢ならそろそろ出遅れを気にすべきだと周囲に思われているのではないかと気になりつつ過ごしていたのです。

     父や母が夕飯の席で

    「今どきは結婚を急かす時代じゃないからね」

     と話しているのを聞くと、心の中でごめんなさいと手を合わせていました。それは義務であって、私に選ぶ権利があるなんて思ってもいませんでした。

    「……わかんない」

     でしょう?! 須磨子は笑って

    「あえて結婚のこととか考えるタイミングなんてないよね」

     と頷く。

    「なのにあいつってば、僕は年齢的にもそろそろ真剣な付き合いがしたいって出ていったんだよ。お前のゴールは結婚かぁ? 私たちの今まで過ごした時間はなんだったんだよって感じ!」

     コーヒーをぐびぐびと煽って、カップをわざとらしくテーブルに叩きつけた須磨子を見て、私はまたハラハラし始めました。

     私は一体、須磨子のことが好きなのでしょうか? 嫌いなのでしょうか?

     須磨子が誰かに結婚したいと思われていたこと、それを迷惑だとばかりに切り捨てた上、被害者ヅラをできる図々しさを見ていると、私のお腹の中に真っ黒な渦が広がっていくようです。

     こんなにワガママを言って、人を傷つけても、人に迷惑をかけても平気な顔で過ごしている須磨子は、本来なら少しは反省するような痛い目にあうべきなのではないでしょうか?

     須磨子がこんな調子だから、私は彼女に会うたびに、モヤモヤと黒い渦をお腹に抱える羽目に陥り、もしかしたら自分って嫌な人間なのではないかとハラハラさせられるのです。

     私はやはり少し幼稚な部分があるようで、いっそ手放して、彼女にはいつか然るべき天罰が下ると考えられる大人になれれば平穏なのだと思います。でも今は、どうしても今すぐに因果応報をしっかり感じたいと思ってしまう。須磨子のせいで自分の人柄さえ疑わしくなり、いつか私の性格は最悪だと刻印が押されてしまうのではないかとハラハラするばかりで、なすすべもありません。

     こんな気持ちは、私が大手企業の男性と結婚出来ればおさまるのでしょうか? もしくは、須磨子が大人のたしなみや、わきまえを身につけてくれれば落ち着くのでしょうか?

     わかりません。

     今は、少なくとも、私の方がオシャレなカスタムドリンクをスターバックスで注文できて、須磨子はおじさんみたいに「コーヒーください」としか注文できないのです。つまりは私も負けてばかりではないのです。

     そんな事実に励まされて甘苦いコーヒーをすすると、すっかり冷めてしまっていました。

     

     

    [© Choko Moroya]

     

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