ユニットバスの鏡の前、そこが私たちが光を初めて見つける場所だ。つま先立ちで、鏡に対して斜めに構え、真剣な面持ちの光。不器用なその指でポロシャツの襟を摘んでいる。
壁の高い位置に取り付けられた鏡は、端の方が腐食されてはいるものの、光の手によってよく磨かれており清潔だ。細かな錆だらけの蛇口も同じくよく磨かれているが、いくら締めてもポタポタと水が漏れてくる。
「全部立てるのは頂けねえ。首の後ろは立てて鎖骨に向かってすうっとおろしていくんだ」
兄貴分の克美が教えてくれたとおりに、光はポロシャツの襟を立てる。かれこれ15分格闘しているが、今度はなんとかキマりそうだ。襟がキマればキマるほど、光の間抜けっぽい雰囲気が際立つのだが、光は一向に気づかない。毎日必ず襟を立てて出かける。
克美が会社に任されて開店したバーには、「カジュアルながらもおしゃれでありたい」という克美の美学があり、光は克美のその考えに従いたいのだ。
克美は、子どもの頃から、光の憧れであった。光と克美は同じ市営住宅で育った。克美は光より5つ年上で、当時15歳。光は克美たちのグループに入りたいと、必死で毎日ついて行っていた。スーパーでの万引き、駐輪場にあるバイクの窃盗、カツアゲ。何にでもついて行った。エロビデオ鑑賞による射精大会では、光は審判としてみんなの下半身を見守った。
ある日の酒盛りで、ブラックニッカの大ボトルを盗んで持ってきた光に、他のメンバーはガムを一枚握らせて帰らせようとしたが、克美だけは光を手招きして、火のついたマルボロを渡して座らせてくれた。
初めてのタバコにむせる光を見て、メンバーたちは腹を抱えて大笑いしたが、克美はコーラで飲みやすく割ったニッカを渡してくれた。克美はいつでも笑顔を崩さず、周りの雰囲気にも動じなかった。
またある日、光の母が男と2週間蒸発した時には、万引きする弁当も選べずスーパーをうろついていた光を、克美は無言で家に引っ張って行き、食卓でたばこを吸っていた克美の母親に頼んで野菜炒めと炒り卵を作らせてくれた。
克美の母親は、何度も
「男と逃げるなら子どもも連れてけ」
と光の母への怒りを表明してくれ
「おばちゃんのおっぱいで育てなおしてやろうか?」
と鼻から煙を吐き出して笑った。
「ばばあは気持ち悪いこと言ってるけど、悪い奴じゃないから」
克美は母親のいすの足下に軽く蹴りを入れながらそう言い、光に火のついたマルボロをくれた。
2週間後、一文無しで帰ってきた光の母親が父親に殴られていた時には、廊下から窓を叩いて
「万引き行くぞ」
と連れ出してくれた。泣きじゃくる光に、マルボロを渡しながら
「殴り合いの後にはセックスするんだから、心配すんな」
と克美は慰めた。光は父親と母親が殴り合いながらベッドにもつれ込む姿を想像して深い安らぎを覚えた。
克美が高校を中退して間もなく、今の会社の社長がスカウトに来た。
団地の中の寂れた公園で、たばこを吸っていた克美とその友人2〜3人は社長の車に乗せられて去っていった。
「お前は、中学を卒業してからな」
社長は光の頭を撫でて一万円札を1枚くれた。
帰ってきた克美に聞くと「フツーの」宴会みたいなのに連れて行かれて「杯を交わした」だけだと言っていた。
克美はそれから忙しくなり、光は中学で先輩に教えてもらったシンナーを吸って暇をつぶした。
克美は、明け方、たまに光に会いに来た。
「シンナーとたばこは一緒にやると火事になるぞ」
と優しく教えてくれ、同じ会社に入るために、卒業までは毎日漢字のドリルを解くようにと光に言った。
「漢字がわかんねえとバカだと思われるから、しっかり準備しろ。毎日、必ず漢字を書け」
光は無事、克美と同じ会社に入り30年経った今も、毎日漢字ドリルを解いている。おかげで今、バーで領収書を書くときに困らない。
「上下のうえに、様子のようだぞ」
克美の言葉にさっとペンが動く。克美が光を見ながら満足そうに頷く。
光は克美の物知りなところを自慢に思っていた。会社に入るとき、克美は光に仏教の話をしてくれた。
「パンタカってブッダの弟子は勉強ができなかったんだけど、掃除で悟りを開いたんだ。お前も勉強はできねえけど、漢字ドリルを続けて、掃除を頑張っていれば俺が守ってやれるから」
光は建築現場でも、造船所でも、キャバクラの現場でも、掃除を頑張った。パチンコを打たされる日は、まずハンドルと椅子を拭いてから席についた。克美の分も、他の社員がいればその社員の分も拭いてから座った。
デリヘルの運転手の時には、車の中をいつもピカピカにしていたので喜ばれた。中でも桜という女の子は特に喜んで、休みの日に家に呼んでくれた。桜の部屋を掃除して、一緒に映画を見た。桜は字幕の映画しか見たくないと言ったが、漢字ドリルを続けていたので余裕で受け入れられた。
映画の最中、さくらがコーヒーに手を伸ばす度に、パーカーの袖からのぞく傷跡は、リストカットというのだと後で克美に聞いて知った。自分で自分を切りつける気持ちが、光にはちょっと分かるような気がした。克美と会えなかった中学時代、寂しくなった時は唇に血が少し滲むくらい噛んで、その血のしょっぱい味を味わっていると、不思議と安心したことを、光はなんとなく覚えている。
桜の家に行ったのはその一回きりで、その後も運転手をするたびに桜は「あの日はありがとうね」と缶コーヒーをくれた。
それから3ヶ月後に、桜は突然居なくなった。珍しいことでもなかったが、桜の居なくなった部屋を掃除しながら、光は少しだけ泣いた。タンスの引き出しに一枚だけ忘れられていたパンティーを持って帰って思い出にした。
中学卒業以来25年、勤めてきたこの会社で、掃除と漢字と克美だけを頼りに頑張ってきた光は、克美がバーを任せてもらえると聞いて大喜びした。店の改装工事が入る前に掃除をして克美に笑われた。
「光にバーテンは無理だろう」
社長からは反対されたらしいが、克美は必死に頼み込んで光をバーに入れてくれた。
「光をおしゃれにしてみせますって社長に宣言してきたからよ、おしゃれするんだぞ」
光はそれから毎日、出勤前はポロシャツの襟を立てている。首の後ろから鎖骨へ。すうっとすうっとながれるように。
爪先立ちで鏡を覗く男、光。私たちは光を見つけた場所に戻ってきた。これで終わりかって? そう、終わり。彼をどこかへ連れて行こうとするのは、作家の傲慢でしかないではないか? 彼が鏡の前に踏み台を置くよう声をかけることは、克美だけに許された特権なのだから。
[© Choko Moroya]
※アプリ「編集室 水平線」をインストールすると、更新情報をプッシュ通知で受けとることができます。