ある晴れた日――プッチーニは晴れた空の乾いた悲しみを知っていたのだろう。
ぼくは期待に満ち満ちてあの坂道を登っていた。ママと手を繋ぎ、おしゃべりをしながら、これからぼくにとって通学路になる道に住んでいる猫たちに片っ端から名前をつけていった。
「同じ小学校からはゆめちゃんと翔太郎くんが行くんだって」
ママの手をぎゅっと握ると、ママもぎゅっぎゅと握り返してくれる。ぼくはゆめちゃんがあんまり好きじゃない。でも、ゆめちゃんはここのところ、今までよりちょっと距離を詰めて来ている。同じ中学に行く人という存在分近づいてくる。
「ゆめちゃんは不安なのね」
ぼくは、気の強いゆめちゃんが不安になるということが、少しも想像出来なくて笑った。
大親友の健臣とは、離れ離れだけど、そんなに心配していない。隣の学区の中学に行くだけだし、ぼくたちには固い友情があるから。健臣は固い友情を理解できる唯一の同級生でもある。あとは「同じ中学」か「離れ離れで寂しくなる」かで距離を決める人ばかりだ。「子どもなんてそんなもの」らしいのだけれど、ぼくの読んでる漫画の主人公たちは、子どもだけど固い友情を知っている人しかでてこない。
物品販売日と書かれた紙が、入り口でひらひらと風に吹かれている体育館。中では靴屋さん、画材屋さん、楽器屋さんに制服屋さんが元気に商売をしている。幼稚園の頃大好きだった「お店やさんごっこ」の日みたいでワクワクする。
「シューズは青色だって。これがぼくの学年カラーなんだって。3年間青色なんだって」
ぼくの大好きな青色が学年カラーで嬉しくてたまらない。各お店はほとんど1種類か2種類しか売り物がないのに、みんな見本品を矯めつ眇めつしていておかしい。ぼくもちゃっかりアクリル絵の具の見本を人差し指で撫でてみる。
ゆめちゃんが、お母さんの隣で手を振っている。ぼくはママから肘で突かれて渋々片手を上げてこたえる。
ゆめちゃんは意地悪だ。ぼくが5年生のとき、健臣と他のみんなと一緒にバレーボールをして遊んでいたら、痛いほどの力を込めてぼくを物陰に引っ張っていき、あおいちゃんとたまみちゃんを後ろに控えさせながら腕組みしてこう言った。
「健臣くんはツバサちゃんの好きな人でしょ!」
ツバサちゃんの好きな人をバラしたりして酷いなって驚いていたら、ゆめちゃんは、ぼくの左手を掴んで手の甲をギュッとつねってきた。
ぼくは火をつけられたみたいにびっくりして手を引っ込めた。ゆめちゃんはそれから、炎のようなメラメラした強い視線をぼくに向け「女子力ないくせに」と言った。
ぼくと健臣は2人で話し合って、ママに助けを求めた。ママはずいぶん担任の先生と揉めたみたいだったけど、校長先生を交えた話し合いで背筋をピンと伸ばしてこう言った。
「誰と誰とが仲良くするかは個人の裁量で決めるものだと娘は言っています。しかしながら、子どもだから他人との、境界を踏み違えることもやむなしと私は考えます。でも、ただ叱るくらいなら、せっかくのこの機会にこの子達にそのことを学ぶチャンスを与えてください」
翌週、教室に蛍光ピンクのポロシャツで揃えた若い男女のグループがやってきて、輪ゴムを使って人と人とのテリトリーを学ぶワークショップをしていった。
そういうわけで、ぼくはゆめちゃんをあまり好きではないのだけれど、ママのサインは挨拶くらいはしろってことらしい。
ぼくは制服の採寸の列に並びながら、ゆめちゃんと目が合わないようにつま先をじっと見つめる。小学校でさんざん履き潰したシューズは薄汚れて穴まで開いている。早くあの青いシューズに履き替えたいな。
間が持たずにスケッチブックの入った大きな布バッグを覗いてみると、ピカピカのアクリル絵の具セットが誇らしげにこっちを見る。
「次の方」
事件はそこで始まった。ぼくがスラックスが欲しいと言ったら、ジャージにワイシャツとネクタイという素っ頓狂な格好の男の人がかけてきて、一緒に来るように言われた。
「進路指導の谷中です」
首から下げた名札を見せながら廊下を先導して歩いていく。応接室に通された僕らは、ポツンとソファに浅く腰掛け、周りを見回す。
巨大化した金魚が2匹、苔だらけの水槽の中を泳いでいる。ぷんぷん薫っている大輪の百合は、大きな花瓶にどさっと活けられている。
5分も待たずに中高年の男性3人がゾロゾロと入ってきた。
教頭の丸尾先生は谷中先生とお揃いのジャージーにワイシャツとネクタイ。ぼくは、この中学の流行かと思っていたんだけれど、あれは教師という職業の人たちにとって定番のスタイルだと教えてくれた。小学校では見たことがなかったと思うけど、ぼくが小さすぎて気が付かなかったのかな?
生活指導の松山先生、学年主任の隈元先生がそれぞれ自己紹介を終えると、教頭先生は両手のひらを下へ向けすっと水平に動かすと、鶏みたいに首をひょこ、ひょこ、と前後に動かした。それを合図に皆ソファに深く腰掛けた。
「スカートではなくズボンを履きたいとお聞きしました」
どうやら、やはりそのことでここへ呼ばれたらしいことに面食らいながら,ぼくとママは頷いた。
「ということは、おかあさん、鈴木さんはこのことで相談や通院をなさっている?」
ママは一瞬軽蔑したような顔をして、空惚けた感じで尋ねた。
「ズボンを履きたい病についてですか?」
「はい」
「ええと……何科に?」
教頭は汗をかきながら、心の性がどうとか、体の性の違和感がどうとか言っている。
松山先生が、真っ赤な顔から黄色い目を飛び出させつつ首を突き出す。
「どうなの? 鈴木さん?」
隈元先生は、三島由紀夫そっくりのゲジゲジ眉の下で目を閉じた。
「ぼくは女だってズボンを履くと思います」
隈元先生の眉が一瞬ピクッとする。
「お母さん、当校では、男子はスラックス、女子はスカートって校則で決められているんです」
先週ぼくは、ママと映画を見た。大きな丸メガネとジャラジャラと大ぶりのアクセサリーをたっぷりつけたお婆さんのドキュメンタリー。おしゃれが大好きなお婆さんは、84歳にしてファッションアイコンとして注目を集めたそうで、若い頃は世界中を飛び回って仕事をしていた。その中で買い集めたこちょこちょしたものたちに囲まれて、優しげなおじいさんと一緒に暮らしていた。
「私は若い頃、自分用のジーンズを買うのに半年もかかったのよ」
ジーンズは当時男性のみが履くもので、女性であるお婆さんには、お店の人がなかなか売ってくれなかったらしい。
ずっとずっと昔の話だと思った。そんなことがあったなんて驚いた。それなのに今、ぼくは、大人3人から、男の子じゃないならズボンは履けないって説得されている。
「鈴木さんは自分のことどうしてぼくってよぶのかな?」
教頭先生の顔がどんどん近付いてくる。どこかへ連れて行こうとしてるみたいですごく怖い。
「一人称ぼくってかわいいから……」
ぼくがつかえつかえ答えると、ママが背筋を伸ばして言った。
「一人称にも受診が必要ですか?」
ママの青白いこめかみがピクピクと震えている。
窓の外を大きな布バッグやリコーダーを抱えた人たちが歩いていく。
ぼくはふと、ここにくる道でママが、おかっぱ模様の子猫にこけしちゃんって名前をつけて笑っていたことを思い出して泣きたくなる。
「不要でしょうな」いつのまにかぎょろっとした目を見開いていた隈元先生が言い放った。
何か言おうと息を吸い込んでいた教頭は、少しむせて咳き込んだ。
「きみは、スラックスを着用したいが特に男性になりたいわけではなく『ぼくはスカートが嫌いです』と言っているんだよね?」
太く濃い眉の下から鋭い視線を向けられて、ぼくは慌ててこくこくと頷く。
そうなのだ。さっきから、ややこしく尋ねられている色々に戸惑って分からなくなっていたけど、ぼくはただ、制服の採寸をしていただけだったのだ。
火のついていないストーブに載せられた誇らしげなやかん、コポコポと音を立てる金魚の棲家、花粉をきれいに拭い取られた哀れな百合。
「きみの気持ちはわかりました。それだけの確認にこれ以上の時間は不要でしょう。解散しましょう」
隈元先生は立ち上がり扉の方へ僕たちを誘導する。教頭先生があわてて追いかけながら、僕らの背中に呼びかける。
「校長と話し合いをしてから、こちらよりご連絡差し上げます」
隈元先生はぶんずんと、廊下を先導して歩いていく。
「昔、教科書は男のために書かれました。言葉は当然男言葉でした。そんな中で特別に教育の機会を与えられていた女の子たちは、教科書から学んで自分のことを『ぼく』と呼んだりしていたそうです」
隈元先生は、振り返ると、イタズラっぽく微笑んで言った。
「これは豆知識」
校門を出ると、ぼくは急に空腹を感じた。
「ママ、ナポリタン食べて帰ろう」
まさかの下にある喫茶・根無草に向かってぼくは駆け出す。ママは笑いながら追いかけてくる。くねくねと曲がった坂道に、いろんな柄の猫たちがのんびり日向ぼっこしている。
「あー! 今日、ズボン履いてきてよかったー!」
[© Choko Moroya]
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