16歳の紗奈は人の心に興味がある。世の中に興味がある。不条理であればあるほど興味がわく。
その興味は、疑問のかたちをとって、大抵は母の重美に、時にはGoogleの検索窓にぶつけられる。不満にも似た疑問。
どうして嫉妬深い人とそうでない人がいるの? 寛容であろうと努める人はなぜだまされるの? どんな顔でもそれが自分の顔になると完璧に見えないのはなぜ? ラブソングばかりが流行するのはどうしてなの? 歴史なんてしらないのにレトロを愛してるなんてなぜ言えるの?
今日も思い出したように鼻息荒く重美をつかまえて疑問をぶつけてきた。
「彩月ちゃんも、麻衣ちゃんも、香織おばさんまでこう言うの。『紗奈ちゃんはどうして虹郎くんと仲良くできるの?』でも、友情って相互関係じゃない?」
紗奈の疑問点(もしくは不満点)はそれらの発言が暗に虹郎に優を、紗奈に劣を付けている点らしい。同等かつ相互性がないと成り立たない友情を、なぜ不均衡な図式にしたがるのかと。
重美は真剣な顔でしばらく考えてから重々しく口を開いた。
「王様に見初められて断れば一家皆殺し」
怪訝な顔で見返した紗奈をまっすぐみつめて重美は続ける。
「王様は絶対的な権力だから、見初められたら光栄に思わなくてはならなくて、断るなんてもってのほかなの。大昔、どこかの国ではね」
紗奈は口を挟まずにじっと聞いている。それを見て、重美は心の中で「なんて賢い子どもでしょう」とつぶやく。
「虹郎くんは王様ではないけれど、容姿が派手で美しいから権力者として勝手にあがめ奉られやすいのね」
「それってルッキズムじゃない?」
「そういうことに納得のいく人間が未だに居て、さらにはそれは世間の常識だと考えているのよ。誰にも強いられずに支配下に入っているの」
「ふーん」
紗奈はしばらく唇をとがらせていたが「チッキショ」と吐き捨てるように言ってグラスの牛乳をあおった。薄い牛乳のヒゲをつけた顔は少し晴れていた。
紗奈は自らをTwitterの民と呼んだ。インスタグラムやTikTokは性に合わない。見栄えのために着飾る気恥ずかしさに耐えうる鈍感さと、ノリで踊る勢いは持ち合わせないというのだ。
しかし、最近はそのTwitterにも表面を飾りたてるカタカナ語多用星人があらわれたと紗奈は嘆いていた。所詮は他人が用意した遊び場なのだと考えれば仕様のないことだが。
「でもさ、カタカナ語星人ってどんな性格なんだろう」
「従順なのね」
重美はきっぱり言う。
「なぜ?」
「もちろん、ボキャブラリーの豊富な知性派もカタカナ語はつかうけれど、あなたがそんなに腹を立てているので有れば不必要に多用するんでしょう?」
「そう! 不必要なの!」
「その人たちは知性派がカタカナ語をつかってるのを見て、カタカナ語をつかえば知的に見えるって逆から考えているの」
「そういうのって短絡的っていうんじゃない?」
紗奈が眉をしかめる。
「短絡的にとらえた上で、従順でなければそうはならないわよ。世の中から知的に見えるよう振る舞うのはいいことだ、成功者として振る舞えなんて言われても『そうとは限らない』とかせめて『そんなことはない』とか反発する気概があればイメージをなぞるなんてことはないわけでしょう?」
「むう」
紗奈はいつも、重美のもっともらしい言葉に飲み込まれないよう注意している。しているが、いつも危うい。母の言葉はどうしてこんなにも子の心に絶対的に響くのか。紗奈はそこに不安を感じるとともに、安心も感じている。同級生が無邪気に「かあちゃんが言ってたもん」などとまるでマキシム(おっとカタカナ語失礼)かのように話しているのを見ると心の中で見下したりしているくせに、しかしそれでいて、紗奈自身、重美の言葉を真理として解決としたい気持ちが強くあるのだ。重美の、母の言葉を道標とすることで、きっと自分は目隠しでも歩みを進めることができるだろうし、もし転べば、責任を母に転嫁することだってできるだろう。母の言葉を鵜呑みにするということは、安心への甘い誘惑なのだ。
しかし、16歳の紗奈はそうも言っていられないのだ。将来というのは遠いものではなくなったし、今と断ち切れないものだ。未来永劫、母に責任を転嫁して生きていくつもりでないのなら、世間から責任能力が無いとされている間に責任を持たなければ、この先も持てるようにはならない気がして怖いのだ。
紗奈には莉花という友達がいた。莉花は一つ年下で、紗奈のことが「大好き」で「一生仲良し」だといつも繰り返し伝えてきた。そうだったのだがその実、紗奈と過ごす時間のほとんどは(というより一日の大半は)心ここに在らずで、「彼氏」が毎日電話してくれて自分は「愛されている」とか、おばあちゃんの目を盗んで彼氏に会った時に彼氏が自分をどんな風に褒めたかのことばかり話しているのだった。
紗奈から見ると莉花の「彼氏」はひいやりと冷たいのにギトギトしていて、隙あらば莉花の体に触りたがるが、莉花の心なんて(いや体だって)だいじにしていないように見えた。おまけに莉花よりずっとずっと年上で、それは紗奈から見れば、恋愛というより被害と呼んだ方がしっくりくるものだった。
だから紗奈は正直に伝えたのだが(莉花は悪くない。被害者だ。一緒に助けを求めよう)、莉花は「ますます紗奈を大好き」になったと言い、「一生友達でいてね」と言って抱きしめ、やがて離れていった。
紗奈はインスタグラムでフォローしてもされてもいない莉花のアカウントを見かけるたびに胸が苦しくなった。自分がほとんど更新していないせいで、莉花は紗奈のアカウントが紗奈のものだって気がつかないだけなのだと思ってみたがダメだった。苦しくてたまらなかった。紗奈は嘘が絶望的に下手な自分を呪った。
重美は紗奈のそんな話を聞いて
「それはジョニ・ミッチェルだ。『青春の光と影』だ」
と言った。そして紗奈を抱きしめた。紗奈は重美の胸でわんわん泣いた。泣きすぎてしゃっくりが出て、少し戻すくらい泣いてしまった。
後日YouTubeで『青春の光と影』を検索したら『Both Side Now』という曲が出てきた。字幕付きの動画をいくつか見たし、いろんな人が訳した歌詞も読んだし、英語でも読んでみた。しかし、難しくてうまく掴めないと紗奈は思った。ただ、しんみりと寂しくなった。重美はこの曲を紗奈のことだと言ったのかしら。莉花のことかもしれない。寂しいけれど、絶望とは違う何かだと紗奈は思った。
今日、紗奈は虹郎を呼び出して近所の科学館にいた。虹郎はアイスクリームとホットコーヒーを持ってのろのろと向かいのコンビニからやってきた。紗奈は割り箸を上げて合図する。科学館の売店には綿菓子の機械があって、100円入れると、ぶうんとスイッチが入って温まる。そこにあらかじめ渡されていたカップ入りの砂糖を注ぐ。綿菓子は後から後から湧いて出て、紗奈はそれを無心で割り箸にかき集める。
二人は庭に出てベンチに腰掛けると、虹郎はホットコーヒーのカップの蓋を外して紗奈に渡す。紗奈は綿菓子をカップの上にかざす。
「これで雨が降るはず」
「いびつな雲だな」
綿菓子はコーヒーの蒸気にあてられベトベトの雫を落とす。
「手が汚れそう」
「もう汚れてるな」
「えんがちょ」
綿菓子の雨雲をぱくつきながら、二人は互いの学校のこと、バイトのこと、最近聞いた音楽のこと、昼に読んだ小説のことなど鉄砲を撃ち合うように話した。
「虹郎」
「なに」
「王様なんかシカトしようね」
虹郎はしばらくぽかんとしていたが、ぷっと吹き出して言った。
「王様も、エンペラーも、総理大臣もシカトだシカト」
「なんにも飲み込まれたくない」
「おう、飲まれてたまるか」
「自分の王国にだけ住む」
「その王国、アイス食い放題な」
「綿菓子の機械の横には必ずコーヒーマシンを置くこと」
紗奈はベトベトの割り箸を舐めている。虹郎はアイスのコーンを尖った方からかじる。
空は青く、雲はもくもくと膨らんでいく。雲の中の国はむくむく膨らむ雲に包まれたまま空を流れていった。
[© Choko Moroya]
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