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くたばれ

諸屋超子

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第10回 凡凡某凡

     彼女を見たのはちょうど1週間前。その日は会社の飲み会の帰り道で、わたしはいつもより遅い電車に乗っていた。

     乗車率は60%といったところか。彼女はいつの間にかわたしの真向かいの席に座っていた。

     おしゃれ上級者風な国産ブランドの本革ショルダーバック、私鉄系スーパーの衣料品売り場にあるようなフリース素材のピンクのシャツ(たのしく遊ぶ仔犬たちのアップリケ付き)の上に、愛らしい女子大生がSHOPLISTで買ったようなガーリーなダッフルコート、ボトムスはセンタープレスの効いた黒いスラックスに、女子高生の履くような合皮のローファー。

     奇妙な格好の40絡みの彼女は、癖っ毛風の黒髪ショート頭をゆっくりと回し、連れもいないのに少しニヤついた表情。

     彼女の経歴の手掛かりを、わたしがひとつも見つけられずに戸惑っていると、彼女はすっと右手の人差し指を立て、ゆっくりとそれを持ち上げて、それからいきなりわしわしと右の鼻の穴をほじり出した。

     わたしは雷に打たれたように痺れてしまった。チカチカと目の前を嫉妬、怒り、侮蔑そして羨望が渦巻いて鼓動が激しくなっていく。

     わたしは勢いよく立ち上がり、彼女に向かって掛け出すと、全体重を込めた平手打ちを彼女の左頬にかまし、言葉にならない雄叫びを車両中に響き渡らせるところだった。

     なんとか持ち堪えたわたしは、鞄からリフレッシュ用の目薬を出して、ゆっくり両目にさして、ティッシュペーパーで目の周りを丁寧に拭う。しかし、出口を失った激情は、私の内臓を熱く燃やして猛り狂う。

     平凡から抜け出したい。平凡じゃなくなりたい。いっそ汚れものでもいいから忘れられない人になりたい。

     周囲が固唾を飲んで彼女の指の行方を見守っている。彼女は注目されるのなんか日常茶飯事とでもいうように、退屈そうにあくびをする。

     鎮まれわたしの中の激情。叶わないものに憧れても虚しいだけだろう。

     その夜は、どうやって帰ったのか分からない。いつものBASEのパンとぬるくなったマウントレーニアのカフェラテが入ったコンビニの袋が、一人暮らしの小さなテーブルに置いてあったことで、自分がいつものようにコンビニに寄り道したのだと分かった。

     わたしは平凡な自分が嫌でたまらない。嫌でたまらないが抜け出し方がわからない。

     あの翌朝も、前夜の飲み会の浮かれ気分が残る同僚たちのおしゃべりの中で、存在感の薄さを大いに発揮した。

     「高橋さん、昨日はお疲れ様でした! いつの間にか帰っちゃっててさみしかったよー」

     わたしの名前をいつも間違う山城さんはニコニコ悪気のない笑顔。お疲れ様と手を振って見送ってくれたのはなんだったのか。

    「高梨さん、昨日のお釣りはデスクの上の封筒ね」

     すぐにわたしの正しい名前を口にした馬渡さんだったが、親密な目配せも、意味深な笑顔もなし。自分が呼んだ名前こそ正しいのだという自信があるわけではなさそうだ。

     高橋さんないし高梨さんのわたし。

     同期の佐原さんとは、お昼を一緒に食べたり、食べなかったり、会社帰りにお茶することも稀にある仲で、だから会社の中でも特別に友人もおらず浮いているわけではないわたしなのだが、では、佐原さんと何の話題で盛り上がるのかというと、部長の他愛ない愚痴、もしくは話題のスポットについての世間話だ。

    「マルイのリニューアル、もう行った?」

    「この前スイパラで友達とお腹はち切れそうになったよー」

     話題のスポットの話題具合は、ホットペッパーかR25で得られるレベル。深く個人の趣味に根差したりしていない。スイパラでハメを外す友達は決してわたしではない。その程度の仲。

     しかし、わたしが平凡だからと言って、佐原さんは平凡というわけではない。わたしは、以前、何かの流れから佐原さんとInstagramで繋がった。ほとんど投稿をしない、しても地味で目立たないわたしのアカウントの存在を、きっと佐原さんは忘れてしまっていることだろう。

     でもわたしは、佐原さんがちょこちょこと夜中に病みストーリーをあげているのを知っている。

     真っ暗な画面に、白抜きの小さな文字で文章がびっしり。わたしはそれを、必ずスクショして、拡大して隅から隅まで読んでいる。

    「守れない約束ならして欲しくなかったよ。期待するたび苦しくて、こんなんなら出逢わなければよかったのかな? たぶん、朝が来たらなんでもないよって笑って許しちゃう自分がきらい」

    「あなたの笑顔が見られるならって、髪型も、お化粧も、洋服も……あなたの喜ぶわたしになった。すべてあなたの好みにしたのに、夕飯のとき、3度鳴って切れたあの着信はなに? ごめん、あなたがお風呂に入った隙にわたしはあなたのスマホに手を伸ばした。そんな女の子、あなたはちっとも好きじゃないのに」

    「だれにも助けてって言えない。あなたを他人に悪く思われたくないから。でも、悪い人だよね。分かってる。分かっててもそばにいたいって、痛い女かな? 胸が痛いよ」

     わたしはそれを読むたびに、ため息が溢れる。なんて陳腐で独りよがりな言葉たち。時代錯誤な尽くす女の自分に酔いきって発せられた言葉たち。真夜中に流れてきて、数時間後の朝には削除される言葉たち。そんなものを人前に晒せるのは、間違いなく自分が特別な人間だという自覚があるからだ。

     わたしだってあげてみたい。病みストーリー。こんなことが言えるわたしなら、もっと自分を好きになれるのに。でも、そもそも夜中に抑え切れなくなるほどの切なさはわたしの暮らしの中にない。

     真夜中は特別な人のための時間。

     わたしだって、いじけてばかりいないで、特別になろうと努力したこともある。例えば、去年の大型連休には、派手目のヘアカラーに挑戦した。連休明け、イメージチェンジしたわたしで出社したならば、きっとわたしは存在感を手に入れられる。そう思ったのだ。

     4時間の美容室滞在の末、イヤリングカラーを赤にした、ちょっと明るめの垢抜けヘアが完成した。鏡の中で髪の毛だけが特別になっていた。特別な髪の毛をかぶった平凡なわたしのみじめな姿。

     それから数日、服を着替えてみたり、じっと慣れるまで鏡を見つめてみたりしたが、どうにも馴染まないので、連休最終日に急遽髪色戻しに美容室へ行った。前回と同じ美容室では変に思われてしまうし、平凡な奴がいい気になっていると思われたくはなかったので、別の大手チェーンの美容室に行った。

    「髪が少しだけ傷んでますね。まあ、そうひどくはないのですが、念のため、トリートメントを追加しませんか?」

     髪の傷みすら平凡なわたしは、押しの弱いセールストークでグレードが中間のトリートメントを選んで追加してもらった。仕上がりはまあ、そこそこ。広告ほど輝いてもいないが、詐欺というほどひどくもない仕上がり。

     迷いに迷って選んだカットソーを着て行った朝、同僚たちから「素敵」と褒められることはない。

    「あれ、それ新しいやつだね」

     それでおしまい。

     ボーナスが出てから買ったちょっとおしゃれな通勤鞄は、社内で3人が色違いを所有していることに買った後で気がついた。

    「このお茶菓子好きなんだよね。2個もらっても平気かな?」

    「よくあるやつだから別に文句言われないんじゃない?」

     わたしの買ってきたお茶菓子についての給湯室での同僚たちの会話。

     可もなく不可もない存在感のないわたし。

     英会話にも通ったけれど、国内取引ばかりの我が社で活用できたことはない。ヨーガのクラスにたまに出てるけど、落としたペンを拾うのすら体が硬い。先月、マラソン大会に出場する松嶋さんの応援に行ったが、手を振ってるわたしに松嶋さんは気がついたのか、気がつかなかったのか。とくに個別に声もかけられなかったが、翌日会社で一応のお礼は頂いた。小さなキャンディに「みなさん応援ありがとう」の文字。

     目立たない。気づかれない。注目されない。愛されないし、苦にもされない。

     愛されたくて、注目されたくて、服装にも、髪型にも、振る舞いにも、おかしなところのないように気をつけていたら、どこの誰でも構わないような存在になってしまっていた。

     今夜はいつものコンビニとは違うコンビニで、イカの塩辛を買ってやる。臭いぞ。美味いぞ。若い女性らしくないぞ。ついでにストロングゼロも買ってやる。おまけにストローもつけてやる!

     わたしは勢い込んで、2つ手前の駅で降りた。見慣れないコンビニに入ると、早速イカの塩辛の場所が分からずウロウロしてしまう。コンビニなんて、時短で買い物する場所なのに、うろつくわたし、なかなかいいよね。

     店内は少し混んでいて、わたしはレジ待ちの列に加わる。すると、わたしの後ろから、ズルズル、ズルズルとだらしなく足を引きずった若い女の子がやってきて、そのままだらだらとレジカウンターの中へ入って行った。ズルズル歩いているわけは、彼女がサンダルを履いているからだと後ろ姿を見て気がついた。

    「お次の方どーぞー」

     いつの間にか彼女に呼ばれていたので、わたしはつい速足でレジに駆け寄る。店員である彼女があんなにダラダラ歩いていたのだから、客のわたしが急ぐことはないじゃないかと我にかえって嫌になる。

     ちょっと意地悪な気分になったので、彼女に質問する。

    「コンビニのお仕事ってサンダル履きオッケーなの?」

     彼女はチラッとこちらを見やったが、小馬鹿にしたように鼻をフンと鳴らして言った。

    「最近雨多いんで。もう乾いた靴がないんですよ」

     同情をひくでもない、慌てて言い訳するでもない彼女の様子に思わずうっとりしたわたしに彼女が尋ねる。

    「ストゼロ、ストロー要りますか?」

     わたしが手を伸ばすタイミングで、ストゼロのストローすら普通の領域に入っていたようだ。

     危険にチャレンジしたわたしのストゼロ。奇をてらったわたしのストロー。なんでもない普通の飲料。両端に穴のあいた単純な管。

     わたしは結局普通から抜け出せない。先週の鼻くその彼女の向かい側に座った奇跡が、わたしに起きる精一杯の奇跡。

     歩いて帰る気がなくなって、わたしはもと来た道を戻って駅にたどり着く。

     人のまばらなホームに立ち、普通のストローで、普通のストゼロを啜って電車を待つ。イカの塩辛はレジ袋の中で割り箸と一緒に静かに家路をともにする。

     やがて電車が滑り込みドアが開いても、鼻くその彼女が座っていることはもうないだろう。

     どっちつかずの13番目の月がホームの上でわたしを嘲笑う。

     

     

     

    [© Choko Moroya]

     

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