1.「吹き溜まり」の不定根
外国人の集住する湘南団地にて、1999年に発足した「湘南プロジェクト」は、外国人を対象とした「生活相談」「子ども教室」「日本語教室」の3つの場を中心に活動を続けてきた。2001年には、外国籍の大人たちが、自らの力で「日本語教室」を刷新し、活動はより自主的な方向へ進んでいった。
国籍を問わず、「湘南プロジェクト」に携わった大人たちは、団地で育っていく子どもたちの未来に、想いを寄せていた。子どもたちが将来、生活の場で起こる出来事から、何が根本的な問題であるかを探し出し、それらに対峙していく力を身に着けられるように、プロジェクトにそれぞれの想いや願いを込めた(第21回~23回参照)。
私はこれまで、このような「湘南プロジェクト」の様子を、「吹き溜まり」をモチーフに描いてきた。それは、様々な立場や出自、文化的背景を持った多様な人々が、対等な立場で意見や考えをぶつけ合い、少しずつ歩み寄りながら想いや願いを共有していく姿が、雑多なものが道端に吹き溜まっていく様子に似ているように感じたからだ。ただ、「吹き溜まり」とは言っても、不要な「くず」や「ぼろ」が堆積し、悪臭を放っているようなイメージではない。そうではなく、様々なものが吹き溜まり、その場所で生命を保ちながら脈々と息づいている様子を伝えたく、「生きた『吹き溜まり』」という表現を使ってきた(第2回参照)。
しかし、本稿からは、「生きた『吹き溜まり』」から「『吹き溜まり』の不定根」というモチーフに変えて、体験を綴ってゆきたいと思っている。「不定根」というのは、種から生まれる「定根」とは異なり、茎のあちらこちらから生えてくる根のことだ。折れた草木が風に運ばれて「吹き溜まり」にひっかかり、その「吹き溜まり」が堆肥の役割をして、いつの間にか根が生えて青々としている。そのような様子を、「『吹き溜まり』の不定根」と表現したいと思う。
このモチーフを使う理由は、今後の原稿では、団地で育った外国籍の子どもたちに焦点を当てたいと思うからだ。これまで私は、「湘南プロジェクト」の活動の中でも、主に難民や外国籍の大人たちが集う「日本語教室」に足場をおき、そこから見ていた風景を書き留めてきた。
しかし、2001年に訪れた一つの「出会い」により、私は数年間過ごした「日本語教室」から、一歩踏み出すことになる。それは、団地の子どもたちとの「出会い」だった。「子ども」とは言っても、正確には、中学生から19歳までの青年期の女子が中心である。私は彼女たちと、2001年後半以降、多くの時間を過ごすようになった。
彼女たちは、「湘南プロジェクト」の大人が織り成す「吹き溜まり」の中で、縦横無尽に自身の存在を表していく、まさに「不定根」のような存在だった。「吹き溜まり」に集まった折れた枝やちぎれた茎から、皮層を喰い破って生えてくる「不定根」は、一見不格好であっても、強い生命力で躍動していた。
彼女たちとの「出会い」は、2001年10月14日にやってきた。この日は、高校進学に関する相談のため、外国籍の中学生や高校生、またその父兄など、総勢60名ほどの団地住民が集会所に集っていた。「湘南プロジェクト」の「日本語教室」や「子ども教室」でよく見る人々の顔もあった。
私はこの集会で、一人の少女に目を奪われた。彼女は、髪の毛の根本が少し茶色になった金髪に、その頃流行していた極太の「ルーズソックス」と、第二ボタンまで開いた薄い水色のシャツに、制服風のミニスカートを合わせていた。当時の言葉では、「コギャル」と呼ばれる風貌だった。
その少女が、約60名もの人々を前に、緊張した面持ちでスピーチをした。この時の様子を、私はこのように書き留めた。
会の終わりの方で、現役高校生と高校卒業生による「体験談」が始まる。男女4人が一人ずつ、「高校へ行ってよかった」という話をしていた。一番はじめにスピーチをした子は、優等生タイプで「日本に来て大変だったけど、勉強をすると自信が持てる」という話しをしていた。次に話しをした子は、金髪で「コギャル」の格好をしていた。優等生タイプの子の話しに引きずられつつ、当初は「勉強をするのは良い」と話していたが、だんだん「でもホントは、高校はイヤになって、勉強もイヤになった時期がある。でも、そん時に友達が助けてくれて… すごく友達がよかったから、高校にはいけた。今考えると、やっぱ、辞めないでよかった」と、とても不器用そうに、自分が発する言葉に翻弄されながら、本音を吐露していた。とても印象に残るスピーチだった。
彼女がスピーチをしたのは、「高校進学ガイダンス」という、外国籍の中学生を対象とした、進学説明会だった。「高校進学ガイダンス」は、県立高校の教員の有志が、各地の外国人集住地域に出向き、入試制度の説明や進学相談などをするボランティア活動である。ベトナム語、カンボジア語、ラオス語、スペイン語、ポルトガル語、中国語、英語での通訳が配置され、日本語に不慣れな保護者にとっても、参加しやすい形のガイダンスだった。
この日は、ガイダンスの一環として、現役高校生や高校卒業生ら男女4名が、高校進学の体験談をスピーチした。中には、「湘南プロジェクト」に初期の頃から通ってきていた子どももいた。
4人中3人のスピーカー達は、移住後の苦労の多い日常の中で、努力して高校へ進学したことの意味を語っていた。将来の夢につなげるための勉強の大切さや、高校生活の楽しさ、家族や学校の先生といった協力者への感謝を述べていた。そのどれもがそれぞれに、とても感銘を受ける内容であった。しかし、その中で、金髪の少女の話は、「ふいうち」という印象を受けた。
彼女は、「でもホントは、勉強が嫌になって学校を沢山サボってしまった」と話した。高校進学に希望を寄せている大勢の人たちを前に、学校や高校の勉強には意味を見出せず、ただ友達だけが救いであったと言うのは、とても勇気がいることだと思う。しかし、彼女は「綺麗ごと」ではない、等身大の体験を、嘘のない言葉で語っていた。
私はこの少女に強く惹かれ、集会が終わってから声をかけた。この日の「出会い」から、彼女たちと多くの時間を伴にする日々が始まったのである。
2.「高校進学ガイダンス」でつながった「縁」
彼女たちと過ごした時間について語る前に、「出会い」の場となった「高校進学ガイダンス」の背景について、少し触れておきたいと思う。
まず、このガイダンスを湘南団地に招致したのは、「湘南プロジェクト」発足の「立役者」だった北条さんだ(第10回参照)。「高校進学ガイダンス」に関しては、北条さんが初めて団地を訪れた1998年10月19日に、団地の自治会役員や「外国人のリーダー」に向けて、湘南団地での開催の提案をしている。この話を受け、当時の自治会長は、今後の自治会の方針として、「高校進学ガイダンス」のような相談会を行い、外国人への支援をしてゆきたいと応答した(第10回参照)。この自治会の想いは、その後発足した「湘南プロジェクト」にて、実現化したのである。
湘南団地で初めて、「高校進学ガイダンス」が開催されたのは、2000年10月15日だった。これは、金髪の少女がスピーチをした、ちょうど一年前のことである。「高校進学ガイダンス」の活動をしている高校の先生が、「打ち合わせ」のために初めて湘南団地にやってきたのは、2000年2月14日だった。
この日、ガイダンスの説明をしに来たのは、湘南団地の近隣にある湘東高校の先生だった。その先生は、とても優しそうな雰囲気だけれど、どこか芯の強さを感じさせる40代の男性で、長谷川先生といった。スマートな体形に黒髪がさわやかな長谷川先生は、湘南市内に住んでいて、自家用車で団地にやってきた。
湘東高校はその当時、湘南市にある高校の中でも、外国籍の生徒に対して日本語の指導も行っている、唯一の高校であった。長谷川先生によると1996年から外国籍の生徒が増え、通常の授業についていくための日本語の補習を行うようになったという。外国籍の在籍者数が、市内で最も多い学校でもある。2000年の神奈川県全体で高等学校等進学者は72579名(神奈川県『平成11年度公立中学校等卒業者の進路状況調査』より)。その年に配られた「高校進学ガイダンス」の資料によると、県内の外国籍の高校在籍者は391名、湘南市は41名で、その内湘東高校の在籍者が19名となっている。
この日の団地への来訪を境に、湘東高校の長谷川先生は、「高校進学ガイダンス」の開催を牽引するのみならず、ほぼ毎週のように団地に足を運ぶようになった。そして、「湘南プロジェクト」にとって欠かせない人物となる。
長谷川先生は、高校の教員という専門性から、高校受験を控えた中学生に対し、入試対策の学習支援や進学相談をしていた。また、団地に住むカンボジア男性が開いた母語教室を下支えしたり、「不登校」になっている日本人中学生に個別指導を行ったりと、「子ども教室」や「日本語教室」の活動だけでは十分に対応しきれないケースを受け持っていた。いつも少し「先回り」し、通常の教室活動からは「こぼれ落ちてしまう」ものをフォローしてくれていた印象がある。
先ほどのスピーチの金髪少女を「高校進学ガイダンス」の壇上にあげたのも、長谷川先生だった。彼女は湘東高校の卒業生で、その妹も湘東高校に通っていた。だから、長谷川先生とも互いに面識があった。彼女は長谷川先生についての印象を、「私や妹もめちゃくちゃ気にかけてくれて優しい先生だった。確か歴史の先生だったような…」と語っていた。
彼女の話では、長谷川先生にガイダンスのスピーチの話を持ちかけられたのは、2001年の「団地祭」でのことだそうだ。その年の「団地祭」にて、彼女は、幼馴染の中学生に久しぶりに声をかけたという。その幼馴染は、「湘南プロジェクト」の「子ども教室」にずっと通っていた中学生で、「日本語教室」の屋台を手伝っていた。屋台の前で幼馴染と話している時に、同じく屋台にいた長谷川先生とも再会した。そして、「スピーチをしてみないか」と誘われたという。
2001年の「団地祭」は、外国人の大人たちが「日本語教室」を刷新し、初めて彼らが主体となって、エスニック料理の屋台をやった年でもある。カンボジアの春巻きと南米のエンパナーダがミックスされた、とてもユニークな屋台だった。
外国人の大人たちは、このような「団地祭」の屋台を、単なる地域交流の機会としてだけではなく、外国人の「子どもたちのため」に開いていた。団地の活動に参加することで、子どもたちがより地域社会に馴染めるように、また、地域での活躍の場をいずれ子どもたちに「継承」していけるようにと、親世代としての願いを込めていた(第23回参照)。
外国人の大人たちの想いが込められた場が、スピーチをした少女たちと「湘南プロジェクト」との「出会い」をもたらし、彼女たちの活躍を後押しする母胎になったというのは、偶然にしては「できすぎ」のような気がする。
しかし、こうした奇跡的に思える出来事も、「湘南プロジェクト」の発足直後に、北条さんが子どもたちのために机を並べたその瞬間から、既に始まっていたのだと思う。「子どもの来所は遠慮して欲しい」と伝えていただけれど、我々が会場に到着するより先に、子どもたちは集会所にやってきていた。北条さんはその子たちを、迷うことなく迎え入れ、即興で教室を開いたのだ(第14回参照)。
あの日の「子ども教室」が、教室に通ってくる多くの子どもたちや、その後の教室を支えてきたボランティア、「高校進学ガイダンス」の長谷川先生、金髪の少女たちとの「縁」を引き寄せていったのだ。そのような「縁」が、外国籍の大人たちの願いを込めた「団地祭」の屋台に、まるで「吹き溜まり」ができるかのように結集してゆき、つながっていった。そして、この躍動する「吹き溜まり」から、外国籍の少女たちによる「不定根」が生まれるまでには、それほど多くの時間はかからなかった。
[© Kanae Nakazato]
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