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生きた「吹き溜まり」

「湘南プロジェクト」の記録

中里佳苗

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第25回 「吹き溜まり」の不定根-カンボジアの「うちら」(2)

    3.カンボジアの「うちら」

     湘南団地の少女たちのことを思い出すと、彼女らが自分たちを指す時に使っていた、「うちら」という呼称が、鮮やかに耳に蘇ってくる。少女たち特有の甲高い声で発せられる「うちら」は、特定のメンバーを指しているのではなく、場面によって、その範囲と意味するところが変わるのが特徴でもあった。

     10代の女子らしく、時々喧嘩しては疎遠になったり、突如、新しいメンバーと急接近したりして、頻繁にメンバー構成を変化させていた。

     喧嘩の原因としては、「〇〇ちゃんは男子に色目を使って節操がない」といった思春期特有の些細なもめごとから、親同士の反目が発端となっていたこともあった。母親同士が裁判で係争中の子どもたちが大喧嘩したこともあったし、親の政治的な信条が異なる子どもたちが小競り合いをすることもあった。

     「湘南プロジェクト」の大人たちは、時に、親世代の困苦が子どもたちの痛みとして表出してしまうことも理解していた。「君たちがこれからの時代を作っていくのだから」と諭すこともあったが、大概は静かに見守っていた。表面的な「仲直り」や「その場限り」の和解を、大人たちが子どもたちに強要することは無かった。支配的な文化とは異なる文化を持ち、日本社会の中で「外国人」として生きている彼らの痛みを受け止め、痛みの表れ方を含めて、深く理解することに努めた。

     このような大人たちに見守られながら、思春期を過ごしていた「うちら」は、大小の喧嘩や小競り合いを繰り返していた。表面上は、彼女らが「いつも仲良し」であることはなかった。

     しかし、彼女らは「手放し」で許し合うことができなかったとしても、少々乱暴に抱擁するかのように、互いの存在を認めてもいた。距離をはかりながら、「何かあった時」には心を配り、必要であれば互いの味方となった。喧嘩はするけれど、相手を執拗に陥れたり蔑んだりすることは無く、いつもゆるやかにつながっていた。

     このような「うちら」と、当時「日本語教室」でボランティアをしていた私自身との関係は、「高校進学ガイダンス」のスピーチの後、次のような形で展開していった。

     

     スピーチの後、特に余韻もなく、個別相談の時間に移行したので、ボランティアや「子ども教室」の中学生と一緒に外に出る。さっきのスピーチをした金髪の子が、近寄ってくる。名前はヒアン。ヒアンの幼馴染だという中学生のサリカに、「超緊張した!! 何話せばいいかわかんなかったけど,変じゃなかった? 前の子が話し上手だからさー」としきりに聞いていた。私は横から口を挟み「一番良かったよ」と返事をする。それから、互いに自己紹介をした。

     その隣で、男性ボランティアに恋心を抱いている中学生が、彼に向けて「今度カンボジアの料理を作って持ってくるね」という話を、元気いっぱいにしている。同じカンボジア人であるヒアンとサリカが、「うちらもカンボジア料理作れるんだよ」と応戦した。私はそのパワーにのる形で、「11月にふれあい祭りがあるから、その時に、みんなでカンボジア料理作って売る?」と提案してみた。飛んだり、跳ねたりしながら、女の子たちは、その話にのってきた。「うちらは… 」「うちは… 」と。

     

     会話の中で、金髪のヒアンらが「うちら」と表現しているのは、カンボジア国籍の10代の女子グループのことだ。とりわけ、19歳のヒアンを筆頭に、高校生であるアニとサラ、中学生のサリカの4名のグループを指す。その当時は全員、湘南団地で暮らしていた。

     年長のヒアンは、湘東高校卒業後、文房具関連の工場で働いていた。高校の先生が「『外国人だから』と紹介してくれた職場もあったが、それはなんだか親切だが、差別されている気がしたので」、その話を蹴って、自分で見つけた仕事に就いたという。

     ヒアンの妹のアニは、姉と同じ湘東高校に通う高校2年生だった。勉強が嫌いで不登校気味であるが、ヒアンの励ましもあり、なんとか卒業を目指して頑張っていた。

     アニと同い年のサラは、日中は工場で働きながら、夜間高校に通っていた。中学生のサリカとは、姉妹である。サリカは、「湘南プロジェクト」の「子ども教室」に、小学生の頃から通ってきていて、よくイベントなどの手伝いをしてくれる子だった。ちなみに、サリカとサラ姉妹は、「日本語教室」の立て直し時期に尽力したソリンさん(第21回参照)を兄に持ち、その父親は市社協の「委員会」に参加していたカンボジア代表の西田さん(第3回参照)だった。

     彼女たちは、タイのカオイダン難民キャンプで生まれ、幼児期に難民として日本に移住したという。難民キャンプや難民定住センターの頃の記憶はほとんど無いそうだが、ほぼ同時期に日本に移住し、湘南団地への入居も同じタイミングだった。それは、ヒアンが小学1年生にあがる頃だったという。彼女らは「難民キャンプから、ずっと一緒に過ごしていた」幼馴染みである。

     この「うちら」に対し、私が参加を提案した「ふれあい祭」というのは、湘南団地で毎年11月に行われる、住民交流のための催しである。「団地祭」のように、外部から出店するテキ屋の姿はなく、団地住民の手作りによる質素な「祭り」であった。子どもを対象にした、くじ引きや焼きソバなどの小さな屋台が数軒ならび、メインイベントとして、自治会主催の「餅つき」が行われる。

     これまで「湘南プロジェクト」では、お盆時期の「団地祭」には継続的に出店してきたが、「ふれあい祭」への参加は一度きりだった。2000年11月23日に、「日本語教室」がプロジェクトの代表として出店した。内容は子ども向けの「お菓子のくじ引き」で、日本語教師らが準備を行った。例年の「団地祭」のように、外国人が全面的に表に出ることは無かった。

     この「ふれあい祭」や「団地祭」という、団地で行われる「祭り」には、「老人会」や「子ども会」といった団地自治会の諸団体が参加していた。このような「祭り」への参加は、「湘南プロジェクト」にとっても、自治会活動の一部として周知される、よい機会となる。もともとプロジェクトに対しては、「外国人だけを優遇している」という団地住民による反発の声が強かった。そのような状況において、「祭り」への出店は、プロジェクトの維持にも大きく影響するものだった。

     このような「ふれあい祭」に、私はほとんど「その場の勢い」で、カンボジアの「うちら」たちを誘った。今思うと、団地住民に向けたアピールの場である「祭り」に、たった今知り合ったばかりの少女たちを起用しようというのは、かなり慎重さに欠けていたと思う。

     この時、「うちら」の年長者であるヒアンは、自分たちが「ふれあい祭」に参加していいものかと危惧していた。私よりも冷静に、状況を把握していた。

     

     集会所にて、日本語教室の合間を見て、「ふれあい祭」をやるかどうか、ヒアンと妹のアニ、中学生のサリカに確認をする。3分くらいしか話ができなかった。

     帰宅途中、ヒアンからメールが入り、「うちらにできるか分からないけど、頑張るよ。不安だけど、姉貴(補足:中里のこと)やみんなもいるし、うちらも楽しみたいからさ。でも、他の大人達がうちらにやらせるの、反対かもしれないし、失敗したら迷惑かけるし、大丈夫かな?」と書いてある。

     

     ヒアンが言う「他の大人達」というのは、広い意味では団地の住民たち、そして、もう少し狭い意味では、団地の自治会や「湘南プロジェクト」の大人たちということだった。彼女たちはよく、「外見がこうだから、大人たちにうちら嫌われている」と話すことがあった。

     実際には、自治会を含め「湘南プロジェクト」の大人たちが、彼女たちを蔑むことは無かったが、「うちら」は、自分たちに向けられる「視線」を経験的に知っていた。団地や地域社会の中で、自分たち外国籍住民の若者、特に「金髪の不良」とくくられるような若者たちがおかれる立場を、嫌と言うほど味わってきた。「怠け者」や「無能」と言われ続け、薬や万引きなどをやっている「ワル」といったレッテルを貼られることもあった。事実無根であるのに、心無い言葉を浴びせられてきた。彼女たちの心身に沁みついた、周囲の大人たちへの猜疑心は、簡単には消せないものだったのだ。

     特に、カンボジアの「うちら」は、これまでほとんど「湘南プロジェクト」に「縁」が無かった子たちでもある。中学生のサリカは、小学校の頃から「子ども教室」に通ってきていたが、その他の子たちは、教室があるのは知っていたけれど、「勉強とか面倒で」「大人に怒られたくないから」足を運んだことは無かった。「子ども教室」にも「日本語教室」にも関わっていなかった「うちら」にとって、突然の「祭り」への参戦は、心理的なハードルが高かったに違いない。

     そのような「うちら」の危惧をよそに、私は「失敗しても私が怒られればいいわけだから、大人達の目は気にせずに、自由にやっていいよ」と返事をしている。しかし、当時の私は責任をとれるような立場にはなく、団地自治会や「湘南プロジェクト」に「おんぶにだっこ」の状態だった。自分の「考えなし」の言動に、改めて恥ずかしさを覚える。

     だが、この私の「軽率さ」が、たまたま運よく一つの機会となり、カンボジアの「うちら」が「ふれあい祭」に参加する流れができた。ヒアンは、このような言葉を残している。

     

     今日、姉貴がうちらに「祭り」をまかしてくれるって言ってくれたとき、すっごく嬉しかったんだ! うちらでも、いいんだって思った。うちら、こんなんだけど、いっぱい迷惑かけるかもしれないけれど、よろしくお願いします!

     

    4.「子ども教室」の葛藤

     その後、「うちら」は、カンボジア料理の屋台をやろうという計画を立てた。ただ、この話に進む前に、当時の「湘南プロジェクト」、特に「うちら」が関係してくる「子ども教室」の背景を、少しまとめておきたいと思う。

     その当時、「日本語教室」は団地集会所の大きなホールで、「子ども教室」は和室で行われており、「生活相談」を行う自治会役員たちは事務室につめていた。

     「日本語教室」にくるのは多くが成人で、その場のことを「大人教室」と呼ぶ人々もいた。時折、高校受験を目指す中学生や、夜間高校に通いながら働いている10代の若者が、日本語のサポートを受けに来ることもあった。学習スタイルは自習であり、数名のボランティアがその支援を行っていた(第21回~23回参照)。

     一方、「子ども教室」は、小学生から中学生の子どもたちがメインに集う場所であった。1999年1月、北条さんが即興的に作った教室が「最初」ではあったが(第14回参照)、正式な開設は1999年4月である。開設した1999年から2001年頃までは、常に20名~30名の子どもが出入りし、教室は活気にあふれていた。

     そもそも「湘南プロジェクト」が目指していたものは、これまで何度か紹介してきたように、地域社会で「社会のオペレーター」の役割をする人材を育成していくことである(第16回参照)。プロジェクトの主眼は、もともと、子どもたちに向けられていた。子どもの育成を考えた時に、その環境づくりの一環として、親世代への「生活相談」や「日本語教室」も並行して整備されたという経緯がある。

     その意味で、「子ども教室」はプロジェクトの中心的な場であった。そして、その教室は主に2つの機能を持っていた。一つは、日本語で行われる学校での授業についてゆくための、日本語学習や教科サポートの「学習支援」の場。もう一つは、支配的な言語や文化とは異なるものを持っている「外国人」の子どもたちが、日々感じている「寄る辺の無さ」を、素直に出すことのできる場。繕わずに安心して自分を表現できる、「たまり場」としての機能だ。

     ひとつだけ注意しておきたいのは、子どもたちは「外国籍」であるとはいえ、その多くが、幼少期から日本で過ごし、第一言語を日本語としているという点だ。彼らは日本語での日常会話には特に問題がなかったし、日本の風習や慣習にも多くの部分で適応していた。「外国人」と聞いて思い浮かべるような、「たどたどしい日本語」を話している姿とは、大きく異なる。

     だが、日常会話のレベルは問題なくても、教科書の文字を読むことが困難だったり、授業の説明を理解できなかったりする子どもたちも多かった。2000年12月26日の「湘南プロジェクト」のミーティング記録には、以下のような記述がある。「子ども教室」でボランティアをしていた元民生員の発言だ。

     

     最近は全体を見ることをやめて、MちゃんとSちゃんを見ていた。Sちゃんは三年生なのに、練習問題の日本語の意味がわかっていないことに気づいた。国語の時間は、先生に当てられないようにしていたという。話を聞いて涙が出てきた。「そんな悲しいことしないで」と言って、Sちゃんにかかりっきりで国語の読みをやっている。Mちゃんが協力してくれている。「あの子に絶対読ませてやる」と思ってやっていると、Mちゃんは毎回必ず私のところに来る。どんどん上達している。まわりの子どもは、じゃましたりしないで協力してくれる。そうしていると他の三年生の子どもたちも集まって来て、みんな勉強するようになってきた。

     

     このように、「子ども教室」では、学校の授業についていけない子どもに対して、熱心な「学習支援」を続けていた。私自身は「子ども教室」に出入りすることが少なかったので、支援の内容を詳しく記すことはできないが、一度だけ、高校へ進学した子の手伝いをしたことがある。

     彼女は通信制の県立高校に在籍し、4年目になるという。「なんとか4年で高校を卒業したい」ということで、課題のレポートを一緒に進めた。各教科、テキストを読みながら、「穴埋め式」のレポートを完成させていくスタイルだった。

     しかし、その子には、読めなかったり、意味が理解できなかったりする用語や単語が多くあった。テキストの読解には、人よりも多くの時間がかかってしまう。そのため、テキストを私が読み、簡単な日本語に置き換えて説明するというサポートを行った。なんとか期限内にレポートを提出し、卒業することができたが、かなりの日数がかかってしまったと記憶している。

     日常会話がどんなにスムーズであっても、専門的な知識を習得したり、そのような知識を活用したりするためのサポートはやはり必要で、そのようなサポートを「子ども教室」は担っていたのだろうと思う。

     こうした「学習支援」の一方で、「子ども教室」には、暇つぶしに来ている子、友達に会いに来る子、遊びに来ている子どもたちも多くいた。むしろ、「子ども教室」が開いている1時間半~2時間の間、ずっと勉強をしている子は少数だった。なんらかの勉強を「アリバイ」的に「ちょこっと」こなし、後はずっと遊んでいるという子どもがほとんどだった。

     「子ども教室の風景」としてぱっと思い浮かぶのは、真面目に勉強をしている子どもの横で、なるべく大声を出さないように「気を使いながら」遊んでいる子どもたちの様子である。そして、年齢や求めているものもそれぞれ異なる子どもたちに、いつも翻弄されながらも寄り添い続けているボランティアの姿。子どもが30人近く出入りするのに、ボランティアはいつも2,3人であり、慢性的に人手不足でもあった。

     子ども一人ひとりに、丁寧に関わってゆきたいという想いは、「子ども教室」の誰もがもっていたと思う。しかし、十分な支援ができるほどの人手はなく、「『学習支援』か『たまり場』か」という葛藤が、「子ども教室」には常にあったようだ。以下は、2000年2月14日のミーティング記録に残っていた、「子ども教室」でボランティアをする市議の発言である。

     

     2000年に「子ども教室」をどうするのかというご意見はもっともだと思います。子どもに教えるというよりも、子どもがやりたい、やろうとしていることをどのように側面からサポートしてやるかということが、そもそもの目的だったというのであれば、私たちもきちんとそこをおさえておかないといけないと思います。今までは、はっきりと明確なイメージを持たないままでいて、勉強道具を自主的に持ってきた子どもにはそこを教えてあげるとか、何も持ってこないでいる子どもにはプリントをやらせてみようという姿勢でいました。しかし、あの場は子どもたちの「たまり場」… 行ってストレスが発散できる場所でもいいし、みんなの顔を見てボケっとしているような「たまり場」だとするのならば、学習というものが先に出てはいけないわけですよね。

     

     このような葛藤を抱えながらも、「子ども教室」は、いくつかのルールを作りながら場所の維持を続けた。教室には、「勉強道具を一つ持ってくる」「何かしらの勉強をしてから遊ぶ」「勉強したい子の邪魔をしない」といった最低限の約束があった。「たまり場」を求めて来ている子どもたちも、そのことはしっかり理解していたようで、教室のルールの範囲内で、工夫しながら自分たちの場を確保していたように思う。

     また、子どもたちは中学生くらいの年齢になると、徐々に教室に入らないようになっていった。彼らは勉強をする気はないけれど、男女問わず、一生懸命におしゃれや化粧をして、集会所にやって来る。ふらりと教室に立ち寄っては、大人たちと他愛のないおしゃべりをする。しかし、彼らは、教室にずっといることは無く、集会所の「外」の階段や遊具に座り込んでいた。甲高い声のおしゃべりが「度を越える」と、さすがに自治会の人たちから叱られる。けれど、彼らは、次の週も懲りずに、精一杯のおしゃれをして集会所にやってくるのだった。

     「湘南プロジェクト」は、教室に入ってこない子どもたちも含めて、どのような子どもたちも迎え入れた。そして、どこか「寄る辺の無さ」を埋めるかのように、集会所にやってくる子どもたちの背景を、根気強く聴き続けた。

     外国籍の子どもたちの親は、残業をこなしたり夜勤で働いたりする人々も多く、夜間は子どもだけになっている家もあった。「なんとなく寂しくて」集会所に来る子どもたちもいた。また、小さな弟や妹の面倒を、親の代わりに見ている子どももいて、時々「息抜き」をするかのように、集会所に顔を出した。「夜に言葉の通じない父親と二人きりになってしまうのが気まずい」と言って、家を出てくる子もいた。

     「湘南プロジェクト」は、こうした彼らの背景を理解し、「来ちゃダメという子どもを作りたくない」という一心で、慢性的な人手不足に喘ぎながらも、「子ども教室」を続けた。勿論、時々は「学習支援をメインにしたら、もっと落ち着いた教室にできるのに」という願望も、「子ども教室」のボランティアから漏れることもあった。

     しかし、その度に、場の運営の効率化や組織化をはかることで、「来られなくなってしまう子どもたち」のことを思い浮かべ、なんとかそうした自分たちの欲求を胸の内に収めた。そのような葛藤の繰り返しをしながら、「子ども教室」は維持されていた。

     外側から見れば、「子ども教室」は統制がとれておらず、「何をしているのか分からない」場所だったかもしれない。しかし、団地の子どもたちにとっての「子ども教室」は、地域社会の中で唯一、学習や生活で困った時にはいつでも頼ることができる場所だった。また、自分を繕わずに受け止めてもらえる、懐の深い「吹き溜まり」だったに違いない。

     

     

     

     

     

     

     

    [© Kanae Nakazato]

     

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    第23回 外国人による「湘南団地日本語教室」の創出(後編・3)

    第24回 「吹き溜まり」の不定根-カンボジアの「うちら」(1)

    第26回 「吹き溜まり」の不定根-カンボジアの「うちら」(3)