コンテンツへスキップ

生きた「吹き溜まり」

「湘南プロジェクト」の記録

中里佳苗

HOME > 生きた「吹き溜まり」 > 第26回 「吹き溜まり」の不定根-カンボジアの「うちら」(3)

第26回 「吹き溜まり」の不定根-カンボジアの「うちら」(3)

    5.「うちら」の「廊下会議」

     さて、話を「うちら」と「ふれあい祭」に戻そう。通常、このようなイベントに参加する際には、母体となる「湘南プロジェクト」や「子ども教室」でミーティングをし、計画をしっかり練って準備をしていくと思う。

     しかし、カンボジアの「うちら」の進め方は、一般的な形と違っていた。彼女たちは、カンボジア料理の春巻きの屋台をやることにしたが、この準備の様子は、少し風変わりなものだった。少し当時の日誌を振り返ってみよう。

     

     「ふれあい祭」の話は、集会所の廊下で行っていた。キャピキャピと話が進むので、「お勉強の邪魔になる」と思って「子ども教室」で話すことを遠慮した。カンボジア料理の屋台の話が煮詰まったところで、ヒアンから長谷川先生、自治会の沢井さんたち、そして「子ども教室」の先生に伝えてもらう。

     ヒアンは緊張して、彼らへの伝え方をどうしようかと悩んでしまったので、話すべきことを紙に書いて練習する。ヒアンがそれぞれの大人に話をしに行くと、その都度、沢井さんや播戸さん、「子ども教室」の先生、長谷川先生が、私に確認にやってきた。

     それぞれの反応が違う。「子ども教室」の先生は、「子どもたち」が中心になることや、油や火のことを心配し、播戸さんはカンボジア料理という特殊なものが売れるかどうかを心配している… 沢井さんと長谷川先生は、いつものように大らかにOKをくれ、「必要なものがあったら言ってね」と言いに来てくれた。

     

     この日誌に出てくる「集会所の廊下」とは、「日本語教室」「子ども教室」が開催されていた集会所のホールや和室をつなぐ、比較的ゆとりのある通路のことだ。

     

    湘南団地集会所

     

     ヒアンたち「うちら」は、「ふれあい祭」の話が持ち上がってから、「湘南プロジェクト」に毎週通ってくるようになった。だが、プロジェクトの「子ども教室」と「日本語教室」には、彼女たちが落ち着ける場所はなかった。

     ヒアンたちは、どちらか一方の教室に入ってみるものの、すぐに居心地が悪くなるようで、「廊下」に出ていくのだった。集会所の「外」にたむろしている子どもたちもいたが、その子たちとも彼女たちは、少々「毛色」が異なっていた。

     だから、「うちら」が自ずと集ってしまうのは、「廊下」だった。「教室」にも「外」にも適当な居場所は無かったが、なんとなく時間を過ごせる「廊下」は、彼女たちにとって最適だったのだろう。

     彼女たちは、机も椅子もない通路で、いつも立ち話をしていた。「ふれあい祭」だけについて、真面目に話し合いができる「うちら」ではなかったので、日常の愚痴や、恋のこと、メイクやファッションの話し、また冗談を言い合ったりしながら、「祭り」へのアイデアを詰めていった。10代の若者らしく、甲高い声での「かしましい」おしゃべりには、「廊下」というスペースがちょうどよかった。

     先の日誌は、そのような「廊下会議」の後、「湘南プロジェクト」のメンバーに、「祭り」参加の承諾を取りにいった時の様子である。「うちら」は皆に「伝えるべきこと」をまとめ、「子ども教室」「日本語教室」そして自治会が詰めている事務室へ行き、それぞれの場所にいる大人たちに話をしたのである。

     彼女たちがそれぞれの大人に話し終えると、今度は、「湘南プロジェクト」の大人たちが、教室や事務室から「廊下」に出てきて、それぞれの考えを伝えてきた。一人ひとり、違うタイミングではあったが、「うちら」の元へやってきた。協力的な人もいれば心配や不安を先に述べる人、注意点をアドバイスしてくれる人と、反応は様々であった。けれども、一人も「反対」する人はいなかった。

     本来であれば、「ふれあい祭」について、「湘南プロジェクト」のメンバー全員と、しっかり「席について」話し合うべきだったのかもしれない。しかし、「湘南プロジェクト」の誰からもそうした声はあがらなかったことは、今思い返してみても、若干、不思議ではある。

     おそらくこれは、「湘南プロジェクト」の誰もが、自然と「廊下」という「うちら」の場所を認めていたから成立したことなのだろう。たとえ「廊下会議」であったとしても、その場所には「うちら」の熱意や真剣さがみなぎっており、それを「湘南プロジェクト」はしっかりと聴き取っていたのだろう。「うちら」の活躍を信じて見守るという姿勢が、「湘南プロジェクト」では共有されていたのだと思う。

     このような「湘南プロジェクト」の大人たちに見守られながら、「うちら」は「廊下会議」を続け、「祭り」の計画を練り上げていったのである。

     

    6.「見返したい」という「うちら」の叫び

     2001年11月24日「祭り」の前日、いよいよ「うちら」は準備を開始する。カンボジアの春巻きの具材を買いに、ヒアンとアニ、サラとサリカの両姉妹と一緒に、車で隣町にある業務用のスーパーへ走った。

     そこで大量の春巻きの皮と、豚ひき肉、そしてもやしを調達した。買い込んだ材料をひっさげ、すぐに春巻きのタネ作りと皮で包む作業に取り掛かった。会場は、湘南団地のヒアン姉妹の住まいを借りて行うことになった。この日の日誌を、振り返ってみよう。

     

     15時くらいから21時まで、材料を洗って練りこみ、春巻きの皮に包む作業に追われる(作った数は600~800個の間。途中アニがジュースを春巻きにこぼし、かなりの春巻きがおじゃんになってしまったので正確な数がわからない)。安室奈〇恵やジェニ〇ァー・ロペスのポスター、そしてハイビスカスの造花が部屋中に巻き付けられ、全体的に「ベビーピンク」な雰囲気の中、カンボジア料理を作り続ける。

     

     湘南団地の間取りは、玄関からダイニングキッチン、風呂とトイレ、6畳と4畳半の部屋がある。そこでヒアン姉妹と、その両親、兄が暮らしていた。度々、彼女らの親族が、仕事の関係で一時的に居候していることもあった。

     ヒアン姉妹は、4畳半の部屋を、自分たちの趣味に合わせて装飾していた。その部屋に小さな折りたたみ式のテーブルを置いて、皆で春巻きを包みながら、おしゃべりをした。

     

    団地一室の間取り

     

     彼女たちによると、「うちら」の遊び場は、団地の公園なのだという。毎日のように公園に集まっては、「お金をかけないで遊ぶ」ことをモットーとしている。おしゃれは、庶民的な価格帯の「しま〇ら」や「100円均一」のものを工夫して楽しむ。「いかにお金をかけないでおしゃれができるか」を、互いに見せ合うのが楽しいという。時々、団地の派出所に詰めている駐在さんを、おしゃべり相手としてつき合わせたりもする。そんな日常のことを、楽しそうに話していた。

     彼女たちの話を聞きながら春巻きを包んでいると、ヒアンの母親が、カンボジア語で何か話しかけてきた。ヒアンは、「うん、わかった」や簡単な日本語の単語を、とぎれとぎれ話す。彼女たちは、両親のカンボジア語の話を8割理解できるが、カンボジア語で返すことが難しいという。一方で、両親は日本語がほとんど分からない。そのため、ヒアンと母親との会話には、独特な「間」があった。しばらくすると、ヒアンがこう言った。

     

     「お母さんが、ご飯を食べていきなって! お母さんが昨日の夜から汁を作ってさ、カンボジアのラーメンを先生に食べさせたいって頑張ってたんだよ。」と言い、カンボジアのラーメンが運ばれてくる。私が手伝おうとすると、「カンボジアでは、お客さんに何もさせないのが礼儀。だから、姉貴は座っててくれた方がいいんだよ」と教えてくれる。春巻き作りは中断し、ラーメンを食べながら、みんなで写真をとる、彼女たちはとにかく写真が好きだ。

     

     前日から煮込んだという鶏ガラスープのカンボジアラーメンをいただいていると、彼女たちは、自作のコラージュボードを見せてくれた。彼女たちの写真と一緒に、ハイビスカスの造花やティーン雑誌の切り抜きなどが、色とりどりに飾られている。彼女たちの写真は、当時の「コギャル」にとって「カワイイ」とされるものに囲まれていた。

     私は、コラージュボードを片手に、ハイテンションでおしゃべりをする彼女たちの「明るさ」に、強く惹かれていった。その一方で、楽しい会話の合間に時々垣間見える、「難民二世」として日本で暮らす「うちら」の姿に、言葉にはできない感覚を覚えた。会話の途中途中で、現実の厳しさの中で生きている彼女たちの「すごみ」を感じ、言葉に詰まることもあった。

     生身の「うちら」は、カンボジア語で話をしてくる親に日本語で返答し、家族の生活を支えるために工場で昼夜働き、同じような境遇の友人たちと団地の片隅で遊ぶ。仕事を真面目に頑張ったとしても「出世」や「昇給」などはあまり期待できない。職場に限らず、見ず知らずの人からも、「外国人」だからと執拗な嫌がらせを受けたりもする。そのような日常の中で、彼女らは「明るく元気に」、ひた向きに生きているのだった。

     以下は、ヒアンからもらった手紙の一部だ。知り合ってから間もなく、ヒアンは劣悪な職場環境に耐えられず仕事を辞めた。その当時抱いていた複雑な心情を、手紙に綴っている。

     

     ヒアンだよ~。初めてだよね?手紙書くの。もう本当にこんなにうまく行かないのってつらい。うち、考えが甘かったよね。うち、ずっと今日が楽しいと明日もきっと楽しいだろうなーって思ってた。でもこんなのただの妄想だよね。現実、見てなかったよ。毎日がびっくりするほどいい事だらけだと気持ち悪いもんね。色んな事があって経験して、成長するんだもんね。でもさすがにもう、まいった時あったよ。「もうどうでもいいや」って。友達に「お水」とか「コンパニオン」に誘われたりしたけど、一回やろうかなって考えちゃった。「お水」もちゃんとした仕事だし、私は別にいいと思う。でもうちにはできなかった。そこまでしてお金は欲しいとは思わなかった。うち、こだわりすぎかな。

      別に仕事はなんでもいいじゃんって思われるかもしれないけど、やっぱ、うち、バカだから、みんなの言うこと聞かないんだよね。でも、今、ある会社の結果待ち中じゃん? これが落ちたら、地元の所で働くことにするよ。うちのわがままで、親に心配かけたくないし、親のあの顔見たくないんだよね。

      本当は、すっごいすっごい、今の生活捨てて、どっかに行きたい。けど、これで逃げたら、ずっとこのままだなって思う。耐えるしか無いんだよね。うち、弱音とか出すの下手だし、こーやって元気にしている方が、気が楽なんだよね。メールで入れようとしたけどやっぱ、アニ(補足:妹)には、こーゆーすがた、見せたくないんだよね。うち、見栄っぱりだね。はは。

     

     彼女たちの「あっけらかん」としたおしゃべりや、「カワイイ」に埋め尽くされた写真は、日常の「捨てたい」「逃げ出したい」現実を、自分なりに耐え抜く一つの方法でもあったのだろうと思う。仲間の「うちら」と一緒にいる間は、「今日が楽しければ明日も楽しい」ことを疑わず、「今」という時間を精一杯楽しむ。その貴重な時間に、お互い辛い姿を極力見せないということも、「うちらの礼儀」なのだ。

     「うちら」から一歩外に出れば、社会の支配的なルールや論理に従わなければならず、偏見や誤解を受けたとしても、それを覆すための「言葉」は容易には通じないことも分かっていた。また、一番身近な両親や家族との関係でも、言葉の壁もあり、ストレートに心を通わせることが難しかった。

     だから「うちら」は、例えそれが日常の中の「一瞬」であるとしても、自分たちの「楽しみ」や「輝き」を追究し、心置きなく自己表現できる場所を、友人との間で築き上げていたのだと思う。

     「ふれあい祭り」用の春巻き作りを終えると、私は「うちら」の作る空間に「後ろ髪を引かれる」思いを抱きながら帰路についた。そして、その帰り道、ヒアンからこんな一通のメールが送られてきた。

     

     明日はよろしくね!ぜったいに成功させたい。うちらにもできるんだってとこ、バカにしてきたやつらにもみせたい。見返してやりたいと思ってる。だから、みんなのためにも頑張りたいんだ。

     

     それは、さっきまで楽しそうに冗談やフィクションの世界で遊んでいた「うちら」から、突如、鋭さをもって投げられた言葉だった。「高校進学ガイダンス」のスピーチで、「ほんとは学校を辞めたかった」と、ヒアンは「隠し持っていたナイフ」を出した。その時と同じような「すごみ」を、彼女のメールからは感じた。

     彼女たちには、特有の語り方があった。いつも、おもむろに「湘南団地に住んでいる外国人の子どもで、いじめられたことのない子なんかひとりもいない」「外国人は国に帰れって言われても、好きできたわけじゃないし」「外国人だけど、帰る場所なんかない」と話し出したかと思うと、「そういえば、〇〇と〇〇がつきあってて」という話題にスライドしていく。ヒアンが手紙に書いているように、「元気にしている方が楽」「辛い姿を見せたくない」と、心の内側や本音を、急にひっこめてしまう「癖」があるのだ。

     そのような中で、ヒアンが「ふれあい祭」に向けて放った言葉は、彼女の心の奥底から出てきた言葉だったのだと思う。「何もできないとバカにしてきたやつらを見返してやりたい」という叫びが、全面に表出しているメッセージだった。これは、ヒアンだけではなく、アニ、サリカ、サラという「うちら」のメンバー全員が、共通して持っていた反骨精神だったに違いない。

     「うちら」との話し合いは、いつも「廊下会議」であったこともあり、「ふれあい祭」への動機付けや目的など、フォーマルな形で共有されることは無かった。だが、「うちら」の間でそれは、「難民」や「外国人」として偏見にさらされ、さらには「不良」と疎まれる若者たちが、自分たちに貼り付けられた負のラベルを跳ね返し、生身の自分たちを表し出すためのものとして意識されていたのだろう。

     そして、「湘南プロジェクト」の大人たちも、誰も口にはしなかったけれど、彼女たちの心情を敏感に察していたように思う。長年に渡り「来ちゃダメという子どもを作りたくない」と奮闘し、子どもたちの声を全力で聴き続けてきた「湘南プロジェクト」は、「うちら」の声も聴き逃さなかった。

     「湘南プロジェクト」は、「うちら」を、背後からただ黙って見守った。「何かあればいつでも協力する」「油だけには気を付けて」と声をかけながら、彼女たちの「好きなように」させた。彼女たちは、そのような深い理解をしてくれる存在に見守られながら、自分たちの「ふれあい祭」を作っていったのである。

     今振り返ってみると、彼女たちの生々しい声を、かき消さないでいてくれるそのような場所は、本当に稀有なものだったのだろうと思う。「湘南プロジェクト」という「吹き溜まり」は、彼女たちの心の奥底から出てくる叫びを受け止め、そして一つの作品へと昇華していくための、弾力のある足場になっていたのだろう。「うちら」にとって「湘南プロジェクト」は、雑多なものが吹き溜まってできた厚みのある堆肥だった。彼女たちはその温かい堆肥の中で、周囲からの偏見や罵倒によって凝り固まった「皮」を破り、新しい「不定根」を生やしていったのだ。

     この「うちら」の「ふれあい祭」当日の様子は、そこから徐々に広がっていった「うちら」の仲間たちのことも含め、次の原稿で詳しく綴ってゆきたいと思っている。

     

    「うちら」が作った「ふれあい祭」のチラシ

     

     

     

     

     

     

    [© Kanae Nakazato]

     

    ※アプリ「編集室 水平線」をインストールすると、更新情報をプッシュ通知で受けとることができます。

    https://suiheisen2017.jp/appli/

    連載記事

    第1回 アブラゼミと団地祭(1)

    第2回 アブラゼミと団地祭(2)

    第3回 アブラゼミと団地祭(3)

    第4回 「ごちゃごちゃ言ってもしかたない」と「あきらめるな」のあいだ(1)

    第5回 「ごちゃごちゃ言ってもしかたない」と「あきらめるな」のあいだ(2)

    第6回 「ごちゃごちゃ言ってもしかたない」と「あきらめるな」のあいだ(3)

    第7回 「湘南プロジェクト」の「始まり」(1)

    第8回 「湘南プロジェクト」の「始まり」(2)

    第9回 「湘南プロジェクト」の「始まり」(3)

    第10回 「生きた吹き溜まり」――日本語教室が産まれた土壌(1)

    第11回 「生きた吹き溜まり」――日本語教室が産まれた土壌(2)

    第12回 「生きた吹き溜まり」――日本語教室が産まれた土壌(3)

    第13回 プレハブの日本語教室(1)

    第14回 プレハブの日本語教室(2)

    第15回 プレハブの日本語教室(3)

    第16回 「湘南プロジェクト」とは何か――日本語教室の歩みに照らして(1)

    第17回 「湘南プロジェクト」とは何か――日本語教室の歩みに照らして(2)

    第18回 「湘南プロジェクト」とは何か――日本語教室の歩みに照らして(3)

    第19回 外国人による「湘南団地日本語教室」の創出(前編・1)

    第20回 外国人による「湘南団地日本語教室」の創出(前編・2)

    第21回 外国人による「湘南団地日本語教室」の創出(後編・1)

    第22回 外国人による「湘南団地日本語教室」の創出(後編・2)

    第23回 外国人による「湘南団地日本語教室」の創出(後編・3)

    第24回 「吹き溜まり」の不定根-カンボジアの「うちら」(1)

    第25回 「吹き溜まり」の不定根-カンボジアの「うちら」(2)