「それで、あの子ったら、本当にお茶目さんなのよ。ブラウスのボタンも最後まで留められないし、カバンの中はレシートだらけ、靴の踵はこーんなにけずれてる。なんていうの? もう、こう、お世話したくなっちゃうのよね。ほっとけない感じ? そこがあの子のいいところなのよね。なんにも気にしないところが。ね。人とは違っても、ぜーんぜん気にしないんだから。危なっかしいのよね。でもわたしはそういうの、気にしない人だから。仲良くしたらいいじゃないって思うタイプだからね。平気だけど」
くるくるくるくるくるくるくるくる。渦巻きくるくるくるくるくる。まずはコーヒーをスプーンでかき回すでしょう? そこにミルクをそそぐとほーら。くるくるくるくる。
「ま、でも? そうやって可愛がってきたのに、あの子ったら最近、連絡ないのよ。遊びに誘ってあげても忙しいって。ちょっと……あれ? あれよね。ほら、ちょっと心のね……ほら……あれがあるって言うからさ、心のさ。そういうのがある人は優しくて繊細なのよね。そうなのよ。わたし勉強したから知ってるのよ。もしかしたら、わたしに彼氏ができたから、気を遣って連絡できないんじゃないかな? そういうふうに考える子だから。『かすみさんには迷惑かけられない』って。すぐ一人で抱えちゃうの。別に気にしないでいいのにって言っても、すぐ気をつかうからさ、私も敢えて言わないようにしてるのよ。何もね。だからもう、半年は会ってないかな。まあ、きっと困ったらまた『かすみさーん』って泣きついてくるんだと思うよ。ま、そんなもんよね。わたしってほら、おねえさんみたいな雰囲気あるから」
かりかりかりかりかりかりかり。お煎餅食べる時、栗鼠ごっこしちゃいますよね。しちゃいませんか? かりかりかりかり。
「そう、実は、この度……こほん! あ、こほんって古いかな? でも言っちゃわない? こほん! えー、こほん! この度、わたくし、渡邊かすみは、篠崎慶一郎さんとお付き合いを始めさせていただくことになりました! えへへー! そうなのよー! 照れちゃうけどね。彼がぐずぐずするから、わたしね、もう仕方なく言ってあげたのよ。本当はね、女からいうことじゃないわよね。男がさ、お願いするものじゃない? こういうことって。女からお付き合いしましょうなんて、普通はそんなこと『かすみさんにそんな恥はかかせられませんから』ってみんな言ってくるものね。そうよ。そんなものよね。まさか女からは言わせられないって、みんな思ってるからさ。でも、彼ったら意気地がないのよ。それはね。それは彼にとってはわたしは高嶺の花? なーんていい気になっちゃうけどさ。でもまあ、事実、高嶺の花なわけじゃない? そこにさ、あの意気地のない男がさ、言えないわけよ。付き合ってなんて。むしろ、わたしから食事やデートに誘われたことにどぎまぎして? 食らいついていくだけで精一杯よね。『どうしてこんなすてきな人が僕なんかさそってくれるのかな』って。そう思ってるんだとわたし思うの。仕方ないよね。男は美人に物怖じするって言うじゃない? 美人に生まれるのも楽じゃないわねえ! ねえ? って冗談よ、ふふふ。でもさ、まあ、そんなわけだから、仕方なく? わたしが誘ってあげて、彼を救い出してあげたのよ。孤独な闇の中から? まあ、恩人っていうのもおこがましいんだけどさ。まあ、実際でも、そう感じてるんだと思うよね。そうでしかあり得ないもの」
ごごごごごごご。あれは3.11の一週間後。暗い気持ちで横になっていたら地響きが聞こえたんでしたっけ。ごごごごご。
「本当に、恋愛のはじめだからさ、わりと気をつかうのよ。そんなに恋愛経験もないだろうからね。やっぱりこっちがリードしてあげなきゃっていうかさ。わかってないのよ。女の扱いを。だからわたしがね、敢えて可愛らしく『こうして欲しいな』とか、ね? そんな風に、ね? うまくやってあげるのよ。たいへんヨォ。そんな風にさ。わたしも、別に? わたしにぞっこんの、昔からモーションかけてくる、ほら、前に話したっけ? 慶応ボーイの? ずいぶん年とった慶応ボーイね。慶応じじい? ま、なんでもいいんだけど。あの彼を愛せたら楽なのにねぇ。なんかダメなのよ。すごく愛してくれてるのは分かるんだけど。本当に好きになれないのに、打算で付き合うってことができないのよ。わたしには。それで、その彼のことも振り続けて……よく考えればかわいそうよね。わたしが振り向くまでいつまででも待ちますって忠犬ハチ公かって、ね? まあ……ね? 振り向いてあげられたら、きっと幸せにしてくれるんだけどね? わたしにも気持ちってものがあるからさ。そこまで合わせてあげられないわよね。まあ、仕方ないのよ。彼もわかってるんじゃないかな」
べとべとべとべと。あ、窓際に置いてあったカセットテープのケースって黄ばんでべとべとになってましたね。べとべとべとべとべと。
「で、そんな人のことはいいのよ。彼ね。彼とお付き合いが始まったんですよ。いよいよ。でも大変よ? モテない人だから。もう、なーんにもわかんないんだから。とにかく尽くしたがるわけ。そんな風にしたら女に飽きられちゃうとか、そんなこと考える余裕がないのよね。とにかく尽くすのよ。まあ、わたしはね? 彼がモテてこなかったって知ってるから、目をつぶってるけど、ちょっとつくしすぎじゃないかな? まあ、楽しくて仕方ないんだろうね。わたしみたいな明るくて、優しくて可愛い人に優しくされたことないんだもんね」
ぷっぷっぷっあれ? 電波が。ド……ぅん……ね‥‥トンネル…‥入っちゃ……ぷーぷーってやりませんでした? やりましたよね。懐かしいな。あの頃。自由は僕らの隣にあった。
「でも青春しちゃってます。まだまだ若いぞ! かすみさん! って。五十過ぎちゃっても、まあ、過ぎてるなんて誰も気が付かないからね。彼もきっと年下くらいにしか思ってないから」
過ぎたことは、過ぎてすぐには気になるのが人情ですが、稀にとうに過ぎ去ったものがまだそばにあると思っちゃうなんてこともあるようで。
「愛されてるなって。本当。彼がわたしに尽くすのが幸せなら、そうさせてあげてもいいかなっていうか。結局、尽くさせてあげているのよね。結局はね。結局」
するってえとなにかい?
「わたしがいないと彼ってどうなってたんだろうね? 彼の人生。恋人も出来ずに、友達もいない。仕事と家の往復で」
恥ずかしがるこたぁねぇよ。なまじ目鼻があるってんで苦労してる女はいくらでもいるんだから。
「彼に尽くさせてあげてるわたしが、一番尽くしてあげてるってことなのよね」
てけてんてん転迷開悟。
[© Choko Moroya]
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