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生きた「吹き溜まり」

「湘南プロジェクト」の記録

中里佳苗

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第5回 「ごちゃごちゃ言ってもしかたない」と「あきらめるな」のあいだ(2)

    2.「県」や「市」、湘南団地へ

     「『行政』よ、団地へ来い」という呼びかけに応え、委員会は「出張委員会」という形で、湘南団地を訪問することとなる。1998年9月14日、団地における「現地打ち合わせ会」が行われた。メンバーは、湘南市社協職員、新原先生、アドバイザー委員1名、大学院生1名と私の5名。少人数での訪問となった。

     団地住民たちとの「打ち合わせ会」は、月曜日の19時から予定されていた。市社協の国武さんが、車で駅まで迎えにきてくれる。ワゴン車にゆられ、約20分ほどのところに湘南団地はあった。18時半すぎに到着したのだが、まだ外は少し明るかった。小さな商店やスナック、郵便局などが並んでいる団地のメインストリートを、皆でゆっくりと散策した。八百屋に立ち寄ると、ズッキーニや日本では珍しい野菜がおかれている。八百屋の隣には、タイ料理のテイクアウトの店や昔ながらの和風スナック、少し奥まったところにはベトナム人が経営する食材店があった。その隣には駄菓子屋、そして、洋服や海外の缶詰などをおいている雑貨店が見えた。新原先生は「こうした生活の中に色々な文化がある」と話していて、珍しい食材など購入していた。

     「現地打ち合わせ会」の開始時間が近づくと、社協の国武さんに誘導され、湘南団地の自治会集会所に向かう。もともとあった集会所はちょうど改装中ということで、メインストリートから少し外れた公園に、プレハブの仮設集会所が設けられていた。30畳くらいのホールと、12畳くらいの和室、8畳程度の清潔なキッチンと、自治会事務所が備わっている。プレハブ造りといっても、とても新しく綺麗な内装であった。

     自治会長の清水さんや民生委員の播戸さんが出迎えてくれ、和室に通される。横内地区の児童福祉委員をしている女性が、急須でお茶を入れてくれる。しばらくすると、ガテン系の作業服を着た小柄な男性がやってきて、「国際部長です。4年目になります」と挨拶をした。歳は50代半ばくらいに見えた。名前を、上野さんという。上野さんによると、「国際部」の「外国人のリーダー」たちも参加するとのことだった。しばらく待っていると、仕事帰りの外国人たちが、徐々に和室に集まってきた。この日は、訪問者を含め18名が一堂に会した。

     

     

     

     始まりは、こうだった。

     「『外国人のリーダー』にいろいろと協力を要請してきたが、日本人は未だに外国人に対して不満を持っています。外国人を日本人同様に扱いたいと思ってやってきたが、コミュニケーションがうまくゆかないこともあって、外国の人は日本では遠慮しちゃうところもある。なかなか理想通りには進まない。こういう状況に対して、今日は、県と市がどう考えているのか、態度や意見を聞きたい」

     私は、一瞬、あっけにとられた。国際部長の上野さんが唐突に、「県」や「市」の代表として何か発言せよ、と迫ってきたのだ。声をあらげてはいなかったが、どことなく早口で、語尾に怒りが感じられた。

     しかし、指をさされた者たちは、大学の教員とその学生、地域のボランティアと社協職員だ。誰一人として、「県」や「市」の人間ではなかった。この矛先を間違えた「とんちんかん」な投げかけに、私は「どうしよう」と戸惑っていた。「県」や「市」の人間ではないと、あえて訂正する空気でもなく、なんと答えたらいいのかと、頭が真っ白になった。今振り返ると、学生の私には、誰も発言は求めてはいなかったはずなので、何重にも「とんちんかん」な状況が繰り広げられていた。

     上野さんからの問いかけから一呼吸おいて、新原先生が「行政の施策につなげる必要のある事柄と、今すぐに対応していけることを、整理しながら皆さんの話を聞きたい」と返した。新原先生の一言で、場所の緊張感が少しだけ緩んだ。私も、大きく安堵した。「外国人のリーダー」たちも、堰を切ったように発言し始めた。

     まず、ラオスのリーダーがこんな話を切り出す。

     「小学校の近くにある公民館では日本語教室をひらいているが、もっと近くの場所に、勉強できる場所があるといいと思います」

     続いて、ベトナムのリーダー。

     「国レベルのことは、個人的にはわからないです。けれど、外国人の子どもをみてうるさいという日本人がいます。日本人の子どもも、外国人の子どもを見下しています。こういうことを、どこに相談したらいいかわからない」

     「仕事場で半年間いじめられました。言葉の暴力がひどかったです。外国人はなにもわからないと思っているようだが、心はわかる。頭だってきちんとしている。ベトナムに帰りたいけれど、ベトナムは社会主義、一度脱国すると帰れません」

     その場にいる「外国人のリーダー」全員が、いじめについて経験しなかった者はいないと話しを続けた。そして、ラオスのリーダーが言う。

     「子どもの教科書を買いませんか、という詐欺にあった人がいる。子どもに勉強させたいと思っているのは、みな同じです。だけれど、親が日本語ができないので、詐欺にあう。また、親は日本語がわからないので、子どもに勉強を教えることができない。通訳もおらず、勉強する環境もなく、困っている。やっぱり、言葉が問題と思います。あと、子どもを塾に行かせたいが、金がない外国人は多い。勉強をさせられず、大学に入ることができません」

     このような話を受けて、新原先生が「皆さんにお聞きしたいのですが、勉強するとしたら、この集会所で勉強するのがいいですか?」と問うと、「外国人のリーダー」が口を揃えて「そうです」と答えた。新原先生が、子どもには勉強の補習の場、大人には実質上必要な日本語を教えてくれる場を、団地の中に作っていくというアイデアを述べた。国際部長の上野さんが、間髪入れずに口を開いた。

     「外国人の世帯が155もあるのだから、相談の窓口くらい団地にあってもいいのではないか。そうしないと自治会が、外国人の面倒を見続けないといけない。市が、相談所や日本語教室をつくるべき」

     清水会長がたたみかける。

     「アメリカでは難民に対して言語の教育を徹底しているようだが、日本はボランティアに頼りすぎているのではないか。また、ボランティアも公的施設で活動することにこだわっている。湘南団地にたくさんの外国人が住んでいるのだから、生活相談をしかもこの団地で実施してもらえないだろうか」

     新原先生が、返答をした。

     「行政の施策につなげるには時間はかかると思うが、今後も交流をもち、よく話を聴いてそれを行政側に伝えていくことを地道に行えば、動きがあるかもしれない。なので、もっと団地の人たちの話を聴きたいと思います。集会所の場所は確保できますか?」

     「場所の確保はできます。なんなら、国別に話し合いの機会をもったらどうでしょうか」

     清水会長の提案により、次回からは、出身国別の住民に集ってもらい、それぞれの話を聞く会をもつことになる。この日の「打ち合わせ会」が終了したのは、21時10分。仕事帰り、夕飯を食べずに集っていた人たちも多かったことと思う。終始一貫して緊張感が漂う会に、ただ座っていただけの私ですら、疲れを感じた。のっけから「県や市、意見を述べよ!」と詰問された「現地打ち合わせ会」。次回もまた「県」や「市」の人間として座っていなければならないのだろうかと、どこか重たい気持ちで帰路についた。

     

    3.「ごちゃごちゃ言っても始まらない」と「あきらめるな」のあいだ

     第2回「現地打ち合わせ会」は、2週間後の1998年9月28日にもたれた。ラオス出身の住民が16名ほど集まった。30、40代くらいの成人男性が主だった。自治会の人が声をかけたようで、湘南団地の学区である小学校の校長先生も着席していた。そして、今回もまた、国際部長上野さんの一言から始まった。

     「団地自治会もしくは県・市政に対して、また、小学校校長への不満、質問を言ってください」

     「県」や「市」という設定は、相変わらずであった。やはり今回も、「県」や「市」の人間として座っていなければならないようだ。しかし、前回とは少し様子が異なり、ラオスの人々が不満に思っていることを聞こうという。その対象は、自治会や小学校も含まれていた。

     話題は、日常的な困りごとから、海外に住む家族の「呼び寄せ」に関すること、子どもの教育に関して、日本語教育に関して、通訳制度、仕事のトラブルに関してなど、多岐にわたった。やり取りはこのような感じである。

     

     ラオス人 「近所づきあい、昼間、うるさいと言われる。遊びに来た友達の車を空いている駐車場に置きたいが、おかせてもらえない。日本人はいいのに。差別ではないのか」

     国際部長 「棟の会長の許可をもらうこと。それでもダメな場合、自治会に電話してください。夜9時までやってます。そもそも駐車場は一家に1台と決められている。もし、自治会の規則を守っていれば、そんなに苦情はこないのでは?」

     

     ラオス人 「自転車が盗まれて困ってます」

     国際部長 「それは警察に行ってください。ここじゃないでしょ」

     

     ラオス人 「給食費を免除してほしい。(免除基準など)日本人と同じにしてほしくない。貧乏の国から金持ちの国にきたのだから。ゼロから始めたのだから」

     民生委員 「日本人の貧乏の方がおとなしい人が多い。つつましいし、補助が出るとわかっていても申請しない人もいるのに。外国人の方がもらえるものはもらおう、とする。遠慮が無い」

     

     ラオスの人々と自治会のやりとりは、外国人の話を日本人がピシャリと封じるような形で、どこか険悪な雰囲気だった。私には、慣れない日本語で一生懸命話しているラオスの人々を、頭ごなしにやりこめる自治会の人々、という構図に見えた。じっと聞いていると、自治会の人々が「外国人はがめつい」「ルールを守らないくせに要求ばかりしてくる」「日本人の方が小さくなっていて、逆差別だ」という意見を口にする場面もあり、外国人への偏見と思える発言も多く聞こえてくるのだった。

     このようなやりとりが続き、場が少し騒がしくなってくる。私の記録メモには「只今8時15分、ザワザワしてくる」とあり、1時間強、上のような日常の困りごとに対する問答が続けられていたことが分かる。内容の煩雑さに、嫌気がさしたのだろうか。自治会長の清水さんが、突如、吐き捨てるようにこう言った。

     「小さなことをごちゃごちゃいってもはじまらない」

     私はその発言を耳にして、憤りを覚えた。そもそも、今回の会議は、自治会や小学校、「県」や「市」が、外国人の生の声を「聴く」という、大前提があったはず。「聴く」とは、「傾聴」し、話の内容を理解して他者に寄り添うことだと、大学などで知識として学んでいた。だから、こうした場でも、「小さなこと」を「聴く」姿勢が大切なのではないかと、「もっともらしい正義」が、私の中に沸いたのだ。しかし、私の中に沸いた正義感と憤りは解消されぬまま、第2回「現地打ち合わせ会」は、時間切れのような形で終了となった。

     第3回「現地打ち合わせ会」は1998年10月19日。気づけばもう、肌寒い秋となっていた。この日は、ラオス、カンボジア、ベトナム、中国、ブラジルの「外国人のリーダー」たち7名が集った。「現地打ち合わせ会」も3回目となり、「外国人のリーダー達」の倦怠感というか、少し億劫さが見え隠れする雰囲気で、会議は始まる。

     国際部長からの「中国のお父さん、何かありませんか?」というふりに対し、中国の男性が「あとで」と答えた。その瞬間、自治会長の清水さんが、「2,3分いただく」と言って、急に大きな声で話し出した。

     「『何回やっても同じじゃないか』とみんな思っても、前回の声は県や市のほうへいっている。だから何回やってもダメだと思うな。何回でもいいから、声に出して言わないとダメ。当事者のあなたたちの声が一番重たい。必要である!!」

     清水会長が言い終えると、堰を切ったように、プレハブの和室に拍手が響いた。外国人も日本人も、その場にいる全員が拍手していた。私も圧倒されて拍手をしてしまったが、その拍手の意味が、実はよく理解できていなかった。

     拍手の意味が分からないというよりは、清水会長の矛盾した態度に、私は当惑していたのだ。外国人が懸命に日常の困りごとを話しているその場で、「小さなことをごちゃごちゃ言ってもはじまらない」と吐き捨てた清水会長。その人が、目の前で、誰よりも熱っぽく「あきらめるな」「何回でもいいから、声に出して言わないとダメ」と外国人を叱咤激励しているのだ。どっちが本当の清水会長なのかと、頭の中はクエスチョンだらけだった。

     しかし、当時の記録を読み返してみると、「小さなこと」を誰よりも「聴い」ていたのは、清水会長だったのだろうと感じる。「現地打ち合わせ会」の記録メモには、こんな場面も残されていた。

     

     ボランティア 「今から日本とラオス語ができる子どもを育ててゆけば、よい通訳になれると思う」

     ラオス人 「そうは思うが、無理。子どもは日本語しかわからない」

     新原先生 「大人になってからラオス語の勉強をするという方法もある。専門性の高い言葉を学んで、通訳になってゆけるかもしれない。もし希望があれば、そのような場はつくれると思う」

     清水会長 「通訳とはいっても、本当に仕事の基盤はあるのか。ボランティアなら、来ないよ」

     

     ラオス人 「仕事の差別がある。10年前はよかったのに、市の職安にラオス人が多い。今ここにきている仲間でも、3~4人失業している。ラオス人はもういらないと言われる」

     国際部長 「ラオスのリーダー、ラオス42世帯の中で、何人失業しているのか調べてください。もし、多いなら、団地の草刈りなどやらせて、協力したい。いいよね、会長?」

     清水会長 「自治会ができることは協力する。だが、自治会ができないこともあり、仕事の差別に対するフォローは全体の課題だ」

     

     このような記録を振り返ってみると、清水会長は「小さなこと」に対して、細かく現実的に対応してきた人だということが分かる。清水会長は、「通訳」を育てるといった夢のあるアイデアに対して、仕事としての基盤を作らねば「絵に描いた餅」であると言った。失業者には、自治会で草刈りという仕事を設けて、金銭的な援助をすることを、迷うことなく了承した。一方で、就労に関する人種差別に対しては、社会全体に対する問題提起を忘れずにいる。そして、チャンスがあればいつでも、外に向けて、そのような現状を声を大きくして訴え続けていた。こうした姿勢が、本来の意味での「聴く」ということではないか。

     「ごちゃごちゃ言ってもはじまらない」と「あきらめるな」のあいだには、1000世帯を束ねる団地自治会長として活動してきた清水会長の足跡が、沢山つまっていたのだ。そのことに気づいた時、それまで私が抱いていた、清水会長への反感や「もっともらしい正義」は、こなごなに砕け散ったのだった。

     

    [© Kanae Nakazato]

     

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