1.「湘南プロジェクト」の「始まり」
外国人住民の流入に対し「何の支援も受けられなかった」と怒りの声を上げる湘南団地を舞台に、「湘南プロジェクト」が発足することになるのは、1998年10月19日のことだ。その経緯は公的な記録に残されていないから、殴り書きのメモをたよりに、私がそう印をつけた「始まり」である。
「湘南プロジェクト」という名前はまだ無かったが、団地でなにがしかの活動を「やる」と決めた日を、「始まり」とした。ただ、その「始まり」は、意気揚々とした華々しいスタートではなく、「苦虫を噛みつぶしたよう」な感触の出発だった。
これまで会議室で議論をしてきた委員たちは、湘南団地への「出張委員会」として現地へ赴いた(第4~5回参照)。そこでは、仕事や教育に関する喫緊の悩みから日常の些細な困りごとまで、ごちゃまぜに訴え続ける外国人住民と、彼らに昼夜問わず寄り添っている自治会の人々と出会った。
「出張委員会」は、この「出会い」を、10月19日の在住外国人支援活動研究委員会に持ち帰った。報告がなされた後、団地自治会の清水会長がこのように述べた。
「湘南団地の外国人は見返りを要求してきます。すでに、自治会の国際部長に、『あれだけ言ったことへのリアクションはあるのか』と、外国人が言って来ている。この委員会は、彼らに会った。会ったということは、その人たちへの責任を負うことだ。責任をもって対処していかねばならないということです。これができないと、むしろ、外国人との距離が大きくなってしまうかもしれません」
これを受け、「出張委員会」に同行したアドバイザー委員が応えた。
「やはり日本語教室を次回から始めてほしいという要望が出されていました。日本語教室は、日本語を教えるだけでなく、日本の生活習慣などのわからないことも聞けるといった、生活上の問題等を相談できる場になればいいと思います」
いよいよ、湘南団地に日本語教室を作る話になるのかなと、私は少しワクワクした。すると、日本語ボランティアの小野寺さんが、割り込むようにこう発言した。
「湘南団地近くの公民館では、日本語教室をしているボランティア団体がある。そちらの方が、私たちよりもよく団地のことを知っていると思う。ただでさえ、私たちの国際交流協会の日本語教室は、ボランティアの手が足りていません。手伝えるとしても、湘南公民館までで、手一杯です」
湘南団地の近くにある公民館は、団地の子どもたちが通っている小学校からほど近く、距離で表すと1㎞、徒歩で15分くらいの場所にある。小野寺さんは、近くに日本教室があるのに、湘南団地にも教室を作るというのはどうかと批判しつつ、「手伝いは難しい」と先手をうった。のっけから、ストレートな拒否反応を示す小野寺委員に対し、清水会長がピシャリと言い返した。
「団地の話をしているのに、なぜ、またもや公民館の話が出てくるのか? 制度からはみだせないで、ボランティアをやってゆくという姿勢をどうにかしていただきたい」
小野寺さんと清水会長のこうした応酬には、もはや「慣れっこ」になっていた。委員会にオブザーバー参加するのは、私もこれで3度目だ。毎回、「ハブとマングース」と揶揄されるほどの対決が繰り広げられており、この時も、正直「またか…」と聞き流していた。
しかし、それは大きな油断だった。団地に日本語教室を作るという議論が、少し脱線し始めた時だ。藪から棒に、清水会長が立ち上がり、ある人物を指さして、こう叫んだ。
「やるのかやらないのか、はっきりしてほしいと言ってるんだ。私はさっきから、あんたに何ができるかと聞いている!! できないならできないと、はっきり言え!!!」
ものすごい剣幕だった。清水会長が「あんた」と指をさしたのは、新原先生だった。
私は、とっさに「なぜ?」と思った。新原先生は会議の冒頭から、「日本語教室の機能をもった相談の場を作っていく」「今後も団地に隔週でなら通える」「行政や団地の外に働きかけると同時に、内側へ深くかかわるために一つの外国人家族を長期的に調査する」といった方向性を示しており、他の委員らも、そうした姿勢に感化されていた。小野寺さんの先ほどの発言でさえ、「湘南団地に日本語教室を作る」という指針がでたからこそ、引き出された反応なのだ。新原先生は「やる」と言っていた。それなのに、なぜ?
清水会長の怒号は、明らかにおかしかった。しかし、新原先生は大変冷静に、またいつもより強い口調でこのように返した。
「そんなことを言って。せっかくここまでやってきたのに、本当にこれで誰も行かなくなってしまいますよ、それでいいんですか? 確かに僕は、何もできないかもしれない。けれども、何もできなくとも、湘南団地のみなさんに、『来るな』といわれるまで、僕は行き続けます。何年でも、何十年でもです」
清水会長は、聞き取れない声で何か口ごもってから、静かに椅子に座った。何を思っていたのか、表情からは読み取れなかった。その場はシーンと静まりかえり、清水会長の反応を待っているような、妙な沈黙が続いた。
会議に参加していた湘南保育園の園長が、ゆっくりと口を開いた。
「日本語教室を、まずつくりましょう。外国人の方々には、個別対応してゆくような形で、口コミで信頼を勝ち取ってゆけばよいのではないでしょうか。団地の集会所が駄目なら、保育園を使ってください」
湘南保育園は、団地の敷地内ではないものの、隣に位置していた。その施設を「使ってください」と身を投じる言葉が、その場の重苦しい沈黙を破った。園長の姿勢に感謝を述べながらも、新原先生は「日本語教室は、湘南団地の中でやらねばならない」とはっきり答え、このように続けた。
「湘南団地の集会所は、月曜日が空いているとのことです。皆さんのご都合もあるでしょうから、毎週か1週間おきくらいの間隔で、場所をお借りして、とにかく日本語を勉強する場を始めたいと思います。みなさん、いかがでしょうか」
反対する委員は、いなかった。だが、場は静まり返っていた。これから新しく活動をスタートさせていこうという時なのに、「旗揚げ」時の高揚感は無く、委員たちは静かに各々うなずくだけであった。そして、最後に、清水会長がこう発言した。
「それは良いことだと思います。それができるなら、始められればと思います」
あれだけ「湘南団地に相談所を! 日本語教室を!」と声を大にして吠え続けていた清水会長にしては、拍子抜けするほど、あっさりした反応だった。喜んでいるような声でもなく、心がここに無いような、どこか他人事へ感想を述べているような、そんなトーンだった。清水会長の方へ視線を向けると、背中を丸めた会長の肩を、隣の委員が、慰めるかのようにポンポンと叩いているのが見えた。
今でも、あの時の清水会長の怒号と張り詰めた空気感、そして重苦しい沈黙が蘇ってくる。願いは叶ったはずなのに、なぜか、うなだれて肩を落とす自治会長の姿は、忘れることができない。思い返すたびに、どこか苦みを感じる記憶である。
しかし、あの日のあのやり取りで、湘南団地で何かを「やる」ことが決まったのだ。これが、「湘南プロジェクト」の「始まり」だった。
[© Kanae Nakazato]
※アプリ「編集室 水平線」をインストールすると、更新情報をプッシュ通知で受けとることができます。