4.団地自治会の「道」
「外国人の支援はしたいが、自治会とかかわりたくない」と言って、団地には近寄らずにいた小野寺さんも、とうとう団地にやってきた。団地に日本語教室が開設された直後の、1999年1月29日のことだ。また、日を別にして、小野寺さんと一緒に国際交流協会でボランティア活動をしていた人々も、団地の教室を数回訪れている。
団地に新設された日本語教室には、当時、日本語教育の資格と経験を持った「プロ」の教師が携わっており、ボランティアはその教師の授業を見学していた。小野寺さんは見学後、自身の日本語教室にて、「自分たちもあそこまでできなくてもいいから、テキストを進めるだけじゃなく、色々な試みをして、面白い日本語教室にしていこう」と提案していた。持ち帰った知的な刺激を、自分たちの活動に活かしていたようである。
しかし、いずれの来訪も、「見学」にとどまった。彼らが、このような「見学」ではなく、団地の日本語教室にかかわる「ボランティア」として教室を訪れることは、一度もなかった。そして、小野寺さんは、顔を合わす度に、「湘南団地は遠いから行けない。他にやりたいこともあるし。もっと遠くから来ている新原先生たちには悪いけど」と言うのだった。
「もしかしたら協力してくれるかもしれない」と期待していた私であったが、徐々に、「湘南市の日本語ボランティアが団地に来ることは難しい」と、肌で感じるようになった。また、行政よりは「まだまし」と思った彼らもまた、行政と同じように、団地と距離を置きたい意識を固持しているのではないかと考えるようにもなった。
これは、私の中の「ボランティア」、すなわち、ボランティアに同調し、実際にボランティアとして活動していた自身の態度や思考を振り返っての、自罰的感情の吐露にすぎないのかもしれない。しかし、以下のような清水会長とのやりとりから、私が考えたことをここにまとめておきたいと思う。
それは、団地に開設された日本語教室で行われた、外国人中心のパーティでのことだ。カンボジア料理、ベトナム料理といった外国の料理がテーブルに並び、各国のダンスや音楽で盛り上がっていた。清水自治会長が遅れてやってきたので、私は外国の料理を皿に盛り付け、差し出した。その皿を見て、会長はおもむろに、こんな話をしたのだった。
「今まであらゆる場所で、『外国人との共生』とかについて話をしてきたけれど、自分は外国人の作る料理に一切口をつけたことがない。ご馳走されても、食べたことがないのだよ。美味しいのか、不味いのかも分からない。口をつけたことがないのだから。たいがい、こういう活動をやっている人は、外国が好きなのかもしれないが、私にはどうしようもない限界がある。偏見だとか言われても、仕方ない。だからといって、外国人のために何もしないというわけにはいかなかった。対外的には、一生懸命に彼らのために話そうと思って、駆けずり回ってやってきた。私の言うこと、分かるかな?」
ちょっと意地悪な口調だったが、優しい表情をしていた。清水会長は、そんな話をしたことなど、さらさら覚えていないだろう。しかし、その内容が、いつまでも心に残って、私の中の「ボランティア」を揺さぶり続けた。
「外国人のために」「外国が好き」「外国人を支援したい」と言っている「ボランティア」は、「外国の料理を喜んで食べる」と思う。外国の文化を尊重し、好意的な態度で外国人に接するだろう。だが、その一方で、「ボランティア」は、「遠いから」と団地に行かないこともできるし、「コミュニケーションが難しいから」と、そりの合わない人や厄介な出来事と距離をとることもできる。
対して、清水会長をはじめとする自治会の人々は、「遠いから」と団地に行かないことはできないし、「好きではない」と言って、隣に住む外国人が抱えている問題を無視するわけにもいかなかった。自治会は、ありとあらゆる問題を持ち込んでくる外国人の話を、辛抱強く聴き続けてきた(第4~6回参照)。
彼らが接してきた外国人のなかには、自らも騙されて詐欺まがいのことをしかけてくる人や、金を借りたまま返さない人、酔いつぶれて喧嘩を繰り返す人たちもいた。実際に、湘南団地の日本語教室にも、「明後日までに家賃を振り込まないと追い出される」といって金の無心をする人や、不法就労して収監された親族を助けたいといった相談を持ち込んでくる人もいた。正直、「灰汁の強さ」で言ったら、自治会の人々以上かもしれない。そのような外国人とのかかわりを真正面から引き受けていたのが、団地の自治会だった。
「寄り添う」という言葉には、どこか優しいイメージがあるが、団地自治会の「寄り添」い方は、時には厳しく叱ったり、あちこちで起こる喧嘩を、身体をはって止めに行くなど、激しさのあるものだった。言葉も通じない、主張の強い外国人との付き合いでは、「強さ」が無いと負けてしまう。外国人を好きにはなれず、偏見を抱いていたとしても、「同じ住民だから放ってはおけない」と言って手を貸し続けることも、「寄り添う」ということだ。たとえそれが、傍から見たら、「灰汁が強」く、不器用で粗暴な「流儀」であったとしても。
そのような自治会の人々を前にして、「体質が硬い」「考え方が古い」「管理的」「差別的」「コミュニケーションが難しい」と言ったボランティアは、一体、何を見ていたのだろう。また、「外国人は支援したいけれど、自治会とはかかわりたくない」と言った時の「外国人」とは、自治会が日々顔を突き合わせてきた外国人と、同じ人々を想像できていたのだろうか。彼らの支援したい「外国人」とは、厄介ごとは持ち込まないで、日本語を教えるだけで感謝してくれる「都合のいい何か」ではなかったか。
様々なボランティアが、自治会の「灰汁の強さ」を理由に、湘南団地にかかわることができなかったと話していた。しかし、団地を孤立させた原因は、ボランティア側にもあったのではないかと思う。
団地を「島」と表現していたように、もともと地域の中に存在していた、団地と距離を置こうとする意識に、ボランティアは囚われていたように思う。そのことに無自覚であったが故に、団地自治会と外国人との独特な関係を理解する前に、自治会への表面的な批判に傾いてしまった。あと一歩踏み込んで、自治会の人々がしてきた「寄り添」い方を理解しようとしていたならば、同じ方向を向いて、外国人支援を行えたのではないだろうか。「自治会の人々がもう少し態度を改めてくれたら」と思っていた私も、なんと盲目的だったのだろう。
ここでもう一度、湘南プロジェクトの「始まり」を思い返してみたい。清水会長は、団地に日本語教室を作ることが決まった瞬間、うなだれて、肩をおとした。背中を丸める会長の様子が、私には意味不明だった。だが、今なら少し分かる。あの時、清水会長は、好きでもない「他者のため」に、何かをまた一つ、背負ったのだ。
外国人の作った料理を口にしたことが無く、日本語ボランティアからは「差別的」と言われた団地自治会長が、最も、差別から離れた「道」を歩んでいた。少なくとも、自分が持っている差別や偏見に、清水会長は自覚的であった。自覚をした上で、外国人たちを、自分たちなりのやり方で、真正面から受け容れ、支え、代弁し続けた。その自治会の人々の一つひとつの選択は、差別から、最も遠く離れたものだった。
「湘南プロジェクト」は、このような自治会の人々が歩んできた「道」を理解し、また理解しようとして、その「道」に引き込まれ、惹きつけられた人たちによって作られた。その「始まり」は、今も思い返すたびに苦々しい感触が蘇ってくる。しかし、それは、確かな重みのある、忘れ難い一歩だった。
[© Kanae Nakazato]
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