アブラハム・マズローは、人間の基本的欲求を5段階(生理的、安全、社会的、承認、自己実現)に分けて解説した。自己実現という利他と利己の統合の先に禅にも似た超越を見ていたが、現代日本において、彼のピラミッドは、超越とは、逆に、表層的価値付けの欲望を満たす道具であるかのようだ。
自己超越欲求などと言う造語まで生まれ、真理など微塵の価値もないと言わんばかりである。空洞化した「高次病」的な人々は自己実現を他にしらしめて空洞から目を逸らす。マズローが向けたあたたかで、曖昧さを包み込む視線は「承認欲求お化け」という基本的欲求を恥じる言葉で遮断され若者たちに届かない。
ところで、私は他人の自慢話を聞くのがこの上なく好きだ。特に正直に堂々と語られる自慢話ほど、人と人との間において語られる世間話の中で、高揚感とスリルを伴うものはないと感じている。
素敵な服を手に入れたこと、良い学校に合格したこと、愛する恋人ができたこと。この手の話は輝きに満ちて、朝露に濡れた蕾が花弁を開くがごとく爽やかだ。
比べて、過去の栄光は物悲しく、こちらにすがるように語られる。どこか切なくて、寂しげなのに、語り手が危険を察したふぐのように腹を含ませ棘を向けるものだから、こちらも抱きしめることすら出来ずに手をこまねくことになる。
彼らは一度は得たはずの承認を目の前で踏みつけ取り消されたのだ。 そしてその日から、消え去った承認の亡霊を追い求め同じ場所をグルグルと歩き続けているのだ。私はそれを笑えるほど悪人ではない。それで切なさに耐えきれず話を止めてしまう。
「で、今のあなたは?」
つい口にした私を責めるような相手の目の中に、京太郎は突然現れた。
彼は中年営業マンで、結婚8年目。遅い結婚だった上に盛り上がりは瞬くように消えてしまった彼の結婚生活。京太郎はそんなものさと自分に言い聞かせつつ、それでも最近は家に帰るのがすっかり億劫になってしまっていた。ある日駅前にスタンドバーができた。
スタンドバーの名前はジャブロー。初めて見かけた日、もしかしてと思って入ってみると、案の定、レビル将軍の軍服を着たマスターが、プロジェクターの映し出す機動戦士ガンダムを見ながらコーヒーを飲んでいるところだった。京太郎は胸の奥から甘く軽やかな気持ちが湧き上がってくるのを感じた。ガンダムは京太郎にとって子供時代そのものであった。いや、本当はそこまでガンダムオタクと言えるほどの知識はないのかもしれない。しかし、ガンダムを見てると漂ってくる夕飯の香りとか、開け放った窓のそばの蚊取り線香、隣で膝を抱えた妹がむき出しの膝を舐めてはその匂いを嗅いでいる姿。そんな穏やかな自分の原風景がそこに浮かぶのだ。
その時を思い出そうとするとガンダムのセリフも同時に蘇り、京太郎は驚いたことに、本格的なガンダムオタクに負けないくらいガンダムを語れる知識があるように話せるのであった。
だから京太郎の最近の楽しみは、毎日ジャブローで、マスターや他の客たちとガンダムについてはもちろんのこと、自分たちが10代を過ごした昭和に流行したプロレスやアニメについてのお喋りを楽しんでいた。
ジオン公国と地球連邦については真剣に語り合うのに、自民党と公明党については誰も話さなかった。会社の話も家庭の話も誰もしない。
妻の珠恵が毎日帰りの遅くなった京太郎について、どう考えているのか、京太郎にはよく分からなかった。京太郎がジャブローであった面白おかしい話をしてやっても、珠恵は鼻をフンと鳴らすきりだ。珠恵は、京太郎より10歳年下なので、ガンダムの話についていけないのだろうと思い、機動戦士ガンダムについて、詳しい解説のされたYouTubeの番組や、関係図、キャラクター解説など様々に教えてはやったのだが、いかんせん、興味を示さない。京太郎は、珠恵にはガンダムが複雑で難しすぎるのだろうと結論づけた。女なのだ。宇宙の国交なんて複雑な話は理解できないのだ。
京太郎は珠恵の向上心のなさに呆れつつ、男脳と女脳の違いから来るものだろうと寛大に受け止めることにした。
「またお米が値上がりしてたよ」
瑣末なことにしか関心のない珠恵はせっかくザクのモノマネで風呂から上がってきた京太郎に水を差す。
給料は十分に稼いでいるのだから、米の値段にいちいち一喜一憂しないで欲しいと京太郎は不機嫌になる。
しかし「全然十分じゃない。全然足りない」そう言い放った昔の彼女よりはマシな珠恵だ。京太郎は気を撮りなおそうとソファに身を投げ出して目を閉じる。
「京ちゃん、来週の買い出し、駅向こうのスーパーに行こう? 同僚の佐田さんがそこに少し安いお米があったって言ってたから」
珠恵が仕事に就きたいと言った時、京太郎は寛容に受け入れた。
「夕飯の支度に間に合うように、残業のない勤務しかできませんってちゃんと面接で言えよ? 残業の後に夕飯の支度じゃ疲れちゃうだろ?」
とアドバイスまでした自分だ。
「採用されてから言っても通らないことでも、面接前なら通るものだ。パートさんの確保はどこの会社もくろうしてるからな」
我ながら世情に通じた素晴らしいアドバイスだったと思うのだが、何が気に食わないのか珠恵はフンと鼻を鳴らして立ち去った。
珠恵はパートタイムではなく正社員になった。女だから男に甘えていればいいものを。京太郎はそんな珠恵に少し不満だったが、しかし、妻がやりたいと言うのならやらせてやるのが今どきの男だろうと飲み込んだ。親の世代とは時代が違うのだ。仕方ない。
「女脳は短絡的らしいぞ。わざわざ遠いスーパーで安い米を買うなんて典型的だよな。男脳の俺から言わせれば、米の値段なんかどこも変わらないよ。駅向こうまで行くその時間分の有意義にすごした方がいいね。いつものスーパーにしよう」
京太郎は、自分の合理的見解に驚いたように黙ってうなずく珠恵を可愛らしく思った。そろそろ久しぶりに抱いてやってもいいかもしれない。
「イカとかタコとか切っても血が出ないものは精がつくんだぞ。明日スーパーで買ってこよう」
珠恵はこちらに流し目を寄越して立ち去った。俺たち夫婦もまた盛り上がりが来るかもしれない。満足気に鼻息を漏らした京太郎は、ガンダムのファーストシーズンのDVDBOXに手を伸ばした。
SNS上で珠恵の持つアカウント名はタマさん。ネット上に観察された男という性の生む被害を、ストーリー仕立てで紹介するこのアカウントは案外ウケがよく、より多くの人からアクセスしてもらえるように、先日課金して青い公式マークをつけたばかりだ。
珠恵は多くの女性のためになればと男の悪いところを発信しているのだが、男たちはそんな珠恵の活動にまで口を出してくる。まるで、米の買う店にまで男脳女脳と騒ぎ立てる京太郎そっくりだ。ネチネチしていて鬱陶しい。
タコとイカの下りにゾッとして睨みつけたが、何が嬉しいのか京太郎はニヤニヤと笑ってソファの上で脚をばたつかせた。気持ち悪い。新しいアニメが受け入れられずに、ずっとガンダムばかり見ている京太郎は、そのうちに岩のように動かないソファの主になるのだろう。珠恵の祖父のように。
幼稚な京太郎にうんざりしつつも珠恵は離婚を選ぶなんてとんでもないと思い込んでいた。
珠恵にとって、離婚とは堪え性のなく、幼稚で自己中心的な人間がするもので、職場を始め世間で自分がそんな目で見られるなんて耐えられなかった。それも幼稚な京太郎のせいでなんて許せない。
だから珠恵の夢は、京太郎の突然死であった。自分の手は汚さず、同じベッドに横たわって。ある朝目覚めると京太郎が死んでいて、珠恵はその脈拍を確認し、呼吸を確かめたあと、ゆっくりと惰眠を貪るのだ。
京太郎が最近毎晩飲んで帰るようになり、いよいよ神様からのギフトが届き始めたのかと嬉しかった。
それからしばらくして、京太郎は土曜の買い出しに荷物持ちにと珠恵に着いて来るようになった。毎日遅くなることの罪滅ぼしにと京太郎は得意げに言った。
珠恵が買い物でスーパーの中を歩き回って疲弊していく間、自販機前のベンチに腰掛けて缶コーヒーを飲みながらiPhoneでYouTubeのガンダムチャンネルを見て珠恵を待つ京太郎の姿は、小学生気取りのおじさん。悲しい珍獣みたいだと珠恵は思う。
膝丈のハーフパンツから突き出た毛むくじゃらの脚が貧乏揺すりで小刻みに震えている。
「女脳は買い物が好きだな」
ずっしりと重たい買い物袋を受け取りながら、京太郎がニヤつく度に珠恵は二度と飯食うんじゃねーぞ。トイレットペーパーでケツも拭くんじゃねえと怒りが込上げるが何も言わない。
言っても無駄なのだ。言っても離婚したい訳じゃないし、すごく腹の立つ男だが、京太郎さえいれば私は「誰かの妻」でいられるのだ。珠恵はそう思って堪える。早死してもらうために大容量のコーラとポテトチップスとホイップクリームを今週も買った。早く死んで私を未亡人にしてくれと。
京太郎は、イカもタコも買っていないらしい珠恵にガッカリしたが、代わりに大好物のコーラやポテトチップス、ホイップクリームの缶が入ってるのを確認して小さなトキメキと罪悪感を感じる。
「来週は俺、会社からまっすぐ帰ろうか?」
珠恵はゾッとして首を振る。
「いいよ、京ちゃんにも楽しみが必要だよ?」
首を振って健気に励ます珠恵に、自分たち夫婦の冷めていたのは自分の思い込みで、男脳ならではの身勝手さだな。と反省した京太郎は、でっぷりと出たおなかを珠恵に擦り付けた。
珠恵は婚期にあせって彼氏の愚痴を京太郎に聞かせて攻め落とした29の夜を呪った。あの頃なら、もっと選べる人が沢山いたのだ。タンクトップにジーンズで自転車に跨り、颯爽と走り去る20代の女の子を見て思い知る。なぜ、あの日、あんなに若さを無駄にしてしまったのか。ここで倒れてあの子に転生したい。
弾力のある京太郎の腹をさりげなく肘で押しやりながら、珠恵は過去の自分の美しさを思う。
私は、今を生きる人が好きだ。彼らは今を生きようと必死だ。今が過去になる瞬間に気が付かずに。
誰が彼らの悪口を言えるというのか?
彼らは今を捕まえたいのだ。少しどんくさいだけ。なにも悪いことなんてしていない。
私はくちをつぐむべきだろう。
[© Choko Moroya]
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