1.「うちら」の「呼び水」になった青年たち
これまで見てきたように、湘南団地に住むカンボジア難民の少女たちは、「湘南プロジェクト」という「生きた『吹き溜まり』」の中で、地域社会に小さな「不定根」を生やしていった(第24回~28回参照)。その過程を、団地の自治会役員や「湘南プロジェクト」に集う多くの人々が見守り、彼女たちの成長に寄り添っていた。
今回は、その中でも、彼女たちを影ながら支えた青年たちについて語ってみたいと思う。彼らは、表立って語られるような「何かをした」という人々ではない。しかし、記録に残るような派手な動きをしなかったとしても、気づけばいつも「傍にいる」彼らの存在が、カンボジアの少女たちの「心の支え」となっていたのは事実であった。
まず、彼女たちが団地の「ふれあい祭」に参加するきっかけとなった日のことを、少し振り返ってみよう(第24回~25回参照)。高校を卒業して間もないカンボジア人のヒアンは、2001年10月14日に行われた「高校進学ガイダンス」という場で、進学に関する体験をスピーチした。高校進学を希望する外国籍の中学生や親が60名ほど集い、彼女の話に耳を傾けた。そして、そのスピーチの後、彼女たちが「ふれあい祭」に参加していく、一つの「きっかけ」が訪れた。
(ヒアンと私が自己紹介をしている)その隣で、男性ボランティアに恋心を抱いている中学生が、彼に向けて「今度カンボジアの料理を作って持ってくるね」という話を、元気いっぱいにしている。同じカンボジア人であるヒアンとサリカが、「うちらもカンボジア料理作れるんだよ」と応戦した。私はそのパワーにのる形で、「11月に『ふれあい祭』があるから、その時に、みんなでカンボジア料理作って売る?」と提案してみた。飛んだり、跳ねたりしながら、女の子たちは、その話にのってきた。「うちらは… 」「うちは… 」と。
この記録にある、中学生に恋心を抱かれていた「男性ボランティア」とは、ヒデという愛称で呼ばれる23歳の青年だった。彼は、茶髪にサングラスをかけ、車高を低く改造したワゴン車に乗っていた。「ヤンキー」のような風貌だが、明るく「ノリのいい」ヒデは、中高生には人気があった。
彼は、中途障がい者であり、主な移動方法は「車いす」だった。ヒデはかつて、夜間高校に通いながら仕事に就いていたが、何トンもある資材の下敷きとなり、脊髄損傷で下半身不随となった。
ヒデの座右の銘は、「他力本願」だった。それは仏教的な意味とは少し違って、「自分の願いは他人の力を借りて実現していく」という意味だ。その話をする時はいつも、「『やってもらうのが当然』と思って」「頼んだ相手に『申し訳ない』なんて思わないで」手助けをお願いすると、繰り返し言っていた。「自分の足」で動き続けるために、他者の力を借りる。そのような生き方を甘んじて受け入れるのだと、自分自身に言いきかせているようだった。
記録を振り返ってみると、ヒデが「湘南プロジェクト」に初めてやってきたのは、2001年4月16日のことだ。ヒアンがスピーチをした「進学ガイダンス」の、ちょうど半年前になる。この日は、ヒデの他にも、20代前後の若者たちが、湘南団地にやってきた。ヤマ、スー、パチという、ボランティアの青年たちだ。彼らは、新原先生の知り合いだった。先生と彼らは、先生が当時関わっていた、多様な文化的背景を持つ青少年のプロジェクトで出会ったという。
彼らのリーダー格であるヤマは、ヒデと同い年で、県内の大学に通う学生だった。180㎝を越える大柄な体形で、自分で改造したバイクに乗り、ビンテージ風の服装や持ち物がいつもお洒落だった。彼は、バイクの改造だけでなく、革小物を作成したり画才があったりと、手先がとても器用だったが、実際には、手の指に先天性の障がいがあった。日常生活に支障が無さそうに見えても、些細な場面で手元がもたつくことがある。そのことで、理不尽に扱われることもあったそうだ。
ヒデもヤマも、ヤマの通う大学のサークルで知り合った。そのサークルは、外国人の子どもたちと、キャンプをしたりイベントをしたりするボランティアグループだった。そこへ両者が顔を出したのがきっかけだ。大学生ではないヒデは、正確に言うと、大学に通う高校時代の同級生から誘われた。
この「きっかけ」の話題になると、「『かわいい子が沢山いるから』と誘われてサークルに行ってみたんだけどさぁ…」と、ヤマがぼやき始める。すると、すかさず外国人の男子中高生たちが、「俺らのような『かわいい子』が沢山いて幸せだよね」とつっこむのが恒例だった。
ヤマたちより3つ年下のスーと、スーより1つ年下のパチは、ラオス国籍だった。彼らは、小学生の頃に日本に移住したので、難民キャンプで過ごした記憶やラオス語で教育を受けた記憶が残っていた。
スーは、タイの難民キャンプにて生活をしている時、金網に囲まれた「ベトナム難民」の居住区があったことを話していた。なぜそうした居住区があったかというと、ベトナム人は、「戦争を起こした人々」という印象が強く、他の国の難民に襲われてしまうからと説明してくれた。「同じ人間で、同じように戦争から逃げてきただけなのに、動物のように囲われていて可哀そうだった。子どもだったけど、いつもそう思いながら見てた」と言う。思いやりがあり、真面目な性格のスーは、高校を卒業後、大手の自動車会社へ就職した。周りから「優等生」と言われることもあったが、その評価には反抗心を抱いているようだった。
例えば、こんなエピソードがある。とあるミーティングの最中、難民や移民の支援をしているボランティアの女性が、一つの冊子を持ってやってきた。そこには、ヤマが添削したというスーの作文が載っていた。難民として日本に来た時の記憶が書かれており、内容は秀逸だった。ボランティアの女性はその作文を褒め、「スーは優等生なのよ。みんなの自慢なの」と一言添えた。
その女性が去るや否や、作文が載った冊子を広げ、ヒデがスーの文章を朗読し始めた。間髪開けずにスーも、大きな声でひやかすように声を重ねた。「照れ隠し」の部分もあったと思うが、それはまるで、「優等生」という評価を拒否するかのようだった。支援者たちが期待するような「模範」的で「優秀」な難民という役割を演じることを、彼は全力で阻止しているように、私には見えた。
パチは、高校に進学したスーとは異なり、中学卒業後すぐに建設業に従事した。「親方」の元で、左官や溶接の修行をしているという。高校に進学しなかった理由は、シンプルに「勉強が嫌いだったから」と答える。とはいえ、「俺は馬鹿だと思われてっけど、ホントは勉強できたんすよ。日本のやり方が分からなかっただけで、ラオスのやり方ならできるから」と言って、わり算のひっ算を、ラオス流に解いてみせてくれたことがある。彼は、運動神経がとてもよく、枝のない街路樹や電信柱をスルスルと登るので、仲間からは「サル」と揶揄されていた。ひょうきんで仲間想いの性格だけれど、喧嘩がとても強く、「切れると誰もとめられない」という激しい一面ももっていた。
パチが教えてくれたラオスのわり算ひっ算
当時、比較的時間に余裕があったヒデとヤマは、月1回のペースで、湘南団地の「子ども教室」に顔を出していた。仕事をしているパチとスーは、「湘南プロジェクト」の教室が終わる頃にやってくることも、しばしばだった。団地に到着すると、集会所の教室から出てくる子どもたちに声をかけ、「最近、何してんの?」と近況を聞く。彼らは、たったそれだけのために、車やバイクを1時間近く走らせて、団地までやってくるのだった。
彼らは湘南団地の夏に行われる「団地祭」にも、全員で応援に来た。「日本語教室」の大人たちが、カンボジア料理や南米料理の屋台を出店した2001年のことだ(第23回参照)。ヤマたちは、暑いテントの中で揚げ物をする外国人の人々に、飲み物やアイスを差し入れてくれた。「お客」として売り上げに貢献してくれただけでなく、呼び込みや買い出しの手伝いをし、屋台の一員として自然と楽しんでいた姿が印象的だった。
スー、パチ、ヒデ、ヤマ 2001年団地祭にて
そして、実は、この2001年度の「団地祭」にて、カンボジアのヒアンたちと彼らは出会ったのだという。ヒアンやサリカが、「日本語教室」の屋台をのぞきに行くと、ヒデやスーたちが屋台の周りでウロウロしていた。深く話すことは無かったものの、お互いに同年代の若者ということで、自己紹介し合い、知り合いになったそうだ。
この時の絡みがやがて、冒頭で見たように、「進学ガイダンス」の場面につながっていく。カンボジアの少女たちは、顔見知りのヒデに対し、「カンボジア料理」をネタにして、自分たちのルーツについてアピールをした。「うちらは…」で始まるテンションの高い話を、ヒデは、ただ静かに優しく聴いていた。ヒアンは後に、この場面を振り返り、「ヒデさんも応援してくれていたから、カンボジアの屋台をやってみようかなと思えた」と話している。ヒデたちの存在が、彼女たちの背中を押したのだと思う。
実際に、ヒデ、ヤマ、パチやスーは、カンボジアの少女たち自称「うちら」(第25回参照)が参戦した「ふれあい祭」に駆けつけ、様々なサポートを行った。また何より、屋台が終了した後で行った、近くのファミレスでの「打ち上げ」は、ヒアンたち「うちら」にとって、とても楽しいものだったようだ。この「打ち上げ」の軍資金は、プロジェクトの代表の新原先生が、ポケットマネーから事前に渡してくれていたと記憶している。
「打ち上げ」では、カンボジアの少女たちとヒデたち、また手伝いに来てくれた大学生数名で、2~3時間、特に脈略も無い馬鹿話をして騒いだ。皆、肉体的にはへとへとであったが、同年代の若者たちは意気投合し、その掛け合いはとてもパワーに満ちていた。
ちなみに、この「打ち上げ」を終えると、ヤマたち男性陣は、湘南市から車で1時間以上かかる相模原市に移動している。相模原市に住む、外国人の中学生たちに呼ばれたので、カラオケに行ったのだ。ヤマが話している電話口から、「寂しいからきて!!!」という、元気な少年の声がもれてきていた。「あいつらマジでわがままなんだよ。でもさー、年下の子たちからお願いされると、断れないよね」と苦笑しながら、皆で行くことになる。彼らは、いつも「当たり前」のように、呼ばれたら子どもたちの元に駆けつけ、できるだけ一緒にいるのだった。
ヒアンたち「うちら」も、そんな彼らという存在に励まされ、湘南団地での地域活動にも積極的に参加するようになる。彼らは、ヒアンらが何かやる時はいつも、応援に駆けつけてくれる楽しい「仲間」となった。ヤマやヒデたちが、「湘南プロジェクト」という「吹き溜まり」に合流していたことが、カンボジアの「うちら」という若い枝葉の「呼び水」となったことは、間違いなかった。
2.「ボランティア」らしくないボランティア
ヒデ、ヤマ、スー、パチの青年たちは、神奈川県内の外国籍の青少年を支援する活動をしていた。彼らは、自分たちのことを「ボランティア」と表現することが多かった。けれど、それを聞くたびに、いつもどこか「しっくりこない」気持ちになった。
その違和感について、特別に取り立てて考えてみたことはなかったけれど、改めて思い返すと、「しっくりこない」という部分に、彼らの特徴があったのではないだろうか。ここではそのことを、できる限り言語化してみたいと思う。
まず、ボランティア活動をする人々の多くは、どこかのボランティア団体に所属して、特定の活動拠点を持っているものだ。しかし、彼らには、活動拠点というものが無かった。彼らのスタイルは、神奈川県の各地域に点在している支援活動の拠点を、まるで「寄港地」のようにして、縦横無尽に「渡り歩く」というものだった。湘南団地の「湘南プロジェクト」も、その「寄港地」の一つだった。
彼らが「ボランティア」に行く場所は、神奈川県の綾瀬市、川崎市、相模原市、湘南市、大和市、横浜市と、広範囲にわたった。これは私が知る限りなので、実際にはもっと多かったかもしれない。神奈川県に点在している、外国籍の子どもたちの支援をする「現場」に、彼らはちょくちょく顔を出していた。大和市に行った後で相模原市に行くなど、活動拠点を「はしご」することもあったようだ。
ヤマたちが、特定の活動拠点を持たなかった理由の1つに、「いろんな現場にいる同年代の子たちを、他の現場に連れていって、つなげてゆきたい」という想いがあった。外国人の10代・20代の人間関係は、想像以上に狭かったりする。特に、中学や高校から就職をした青少年は、職場と自宅の往復で、なかなか人間関係が広がらない。
たとえ国籍は異なったとしても、「外国人」として生きている子たちに、慣れ親しんだ既存の生活圏を越えて、新しいつながりを作っていって欲しい。「そっちの方が楽しいじゃん」と、よくヤマは語っていた。そんな彼らは、「湘南プロジェクト」に顔を出す際も、たびたび、他地域に住む外国人の中高生を連れてきていた。
ヤマたちが「ボランティア」というカテゴリーにそぐわなかったもう1つの理由として、彼らが「教室に入れないような子たちと、一緒に時間をすごしていた」ということがある。彼らは、ボランティアが運営する支援の場を訪れると、「なんとなく居場所がない」「はみ出して」いるような子どもたちを見つけて、声をかけるのだった。ヤマによると、そういう子たちは、ボランティアの教室の「外」でたむろってたり、会場の「隅っこ」にいたり、教室を出たり入ったりしているという。
「湘南プロジェクト」の中で言えば、まさに、カンボジアのヒアンたち、「うちら」のような子たちだ。ヒアンたちはかつて、教室にはなかなか入らず、「廊下」を居場所にしていた(第26回参照)。また、「湘南プロジェクト」には、「廊下」にも入らず「外」の公園や階段の踊り場にたむろっている子たちもいた。教室が始まる時間には必ず集まってくるのに、会場の中には入ってこない。しかし、彼らが居場所を求めているのは、明らかだった。
ヤマたちは、そのような子たちに、何気なく声をかける。大人を警戒して「斜に構えて」いる青少年も、ヒデやヤマの醸し出す雰囲気に、不思議と心を開くのだった。近寄りがたい感じの「いかつい」子たちには、「タバコミュニケーションが有効だよね」と言って、ジッポを鳴らしながら近づいていった。ヤマたちは、誰に対しても、媚びを売ったり下手に出たりすることは無く、自然と人の懐に入っていく、そんな魅力を持っている人たちだった。
ただ、そのような子たちに寄り添っていたヤマたちは、いつも教室の中にはいなかった。いたとしても、他のボランティアが「教室」でやっている学習支援などの活動には、ほとんど混じらなかった。混じらない代わりに、座っていられず落ち着かない子たちに、すかさず声をかけ、教室の端でおしゃべりをしていた。当時の私の中では、「雑談」が「ボランティア」活動のカテゴリーに入ってなかったので、なんとなく、彼らは「ボランティア」らしくないという印象だったのだろう。
そんなヤマたちの活動は、各「現場」に良い影響をもたらしていたと思う。「現場」で活動している「ボランティア」は、「いつも通り」に決められた活動することに精一杯であり、「見えなくなっているもの」「見逃しているもの」に気づけないことも多い。私自身は、ヤマたちと一緒に動くことで、「見えなくなっているもの」に気づかされることが沢山あった。
ヒデやヤマが湘南団地に通ってくるようになった2001年の前半というのは、ちょうど「日本語教室」が刷新される真っただ中だった(第19回~23回参照)。「日本語教室」のことで頭が一杯だった私は、それ以外の事柄には注意が向けられていなかった。その夏の「団地祭」で、ヤマたちはカンボジアのヒアンたちと出会っていたというのに、私自身は、彼女たちの姿すら記憶に残っていない。彼女たちは、「日本語教室」の屋台に立ち寄ってくれていたのに、私には、彼女たちは「見えていなかった」。ヒデやヤマたちの存在がなければ、私もヒアンたちとは出会えなかったように思う。
ヤマたちは、通常の「ボランティア」とは異なるスタンス、異なる動きをすることで、自分たちの果たすべき役割を、誠実にこなしていた。「現場」の「ボランティア」が目を向けていない部分や見逃したものに注目して、その部分にあえて踏み込んでいく。そんな「現場」全体を下支えするような活動を続けていた。一般的な「ボランティア」らしくはない動きだったけれど、とても重要なボランティア活動だったように思う。
「現場」で活動するボランティアの多くが、このような彼らの活動のユニークさとその意味を、しっかりと理解して支持していたことと思う。しかしその一方で、一部の「ボランティア」からは、酷い誤解を受けることもあった。「子どもたちを集めて騒いでいるだけ」「遊びの延長」とか、「現場」が汗水たらしてやってきた成果の「いいとこどり」といった、心無い言葉を浴びせられることもあった。リーダー格のヤマは、いつもそのことで心を痛めていた。
しかし、彼らの活動は、決して「遊びの延長」などではなかった。彼らのボランティア活動は、彼らなりの想いから産まれた、唯一無二のスタイルだったのだ。次節では、もう少し詳しく、彼らの活動の中身を紹介してみたいと思う。
[© Kanae Nakazato]
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