私はやけに景気のいいご立派な人間を見かけると、つい覗き込んでしまう癖がある。その人達はすべからく張子の虎だが、決して空っぽではない。その中には必ず裏切られ、打ち捨てられた小さな魂が青白く震えている。
私はその小さく純粋な魂を励ますように、祈るように小説を書く。きっとずっと書き続ける。
そんな儚くか弱い人間の業が深いのも尤も至極というわけで、そんな業をこれ以上にないほど背負い込まされているものが秩序であると私は考える。
秩序ほど切なく寄る辺のない人間たちに寄り添えるものはない。秩序は現実に向き合う勇気のない、つまりあらゆる芸術に恐怖心を抱くような救いがたき人々の為に正解を用意した。時には「正解はない」という渾沌すら「正解」に仕立てあげてその華奢な飴細工のように脆い心を守ってきたのだ。
人が人を裁くことは妥当か? 不遜か? なんてことはストラトフォードの吟遊詩人にお任せすることにしてそんな「お堅い」「小難しい」話題を避けることを洗練とすることで合意を取り付けたか弱き人々には、おぞましく理解を超えた事件に気軽に重い刑を宣告してこそスマートを旨とする。リンチ殺人には100万回の死刑を、痴漢は市中引き回しの刑、婦女暴行は鞭打ち千回。
「しかし日本国憲法はもちろん国際的にも拷問は禁じられて……」
なんぞ宣うやつは数秒から数分間のシカトの刑に処すのがいいだろう。
そう、日常生活の細かなあれこれについても秩序は手厚くサポートしてくれる。ハンサムで東証一部上場企業に勤める男性に結婚を申し込まれた女性は紛うことなき勝ち組で以降一切の不服や不満はその女性の狂気または利己心とする。婚外恋愛(所謂不倫である)は成就してはならず、よしんばその二人が結ばれたとしても必ずそれ相応の報いが下ることとする。子供の早熟な知性はなるべく早期に摘み取り従順に躾けなければ不幸になるし、食事は衛生的な工場から出荷された食事より家族と唾液を飛ばしあいながら仲良く語らう家族の周りを忙しなく給仕して回る女性の手作りが好ましい。(特にポテトサラダは手作りすべし。)
昨今、唐突に増加傾向にある「マイノリティ」に対しては寛容であることが「現代風」とされ、不平不満の類いを撒き散らすものは2023年6月1日以降「異常者」「偏屈」「鼻つまみもの」として扱うよう秩序によって義務づけられた。
Don’t think-just follow! 秩序は優しげに微笑む。
しかし、それならば秩序はキッチュの女王か? と問われれば私は即座に否定する。断固Noだ。
秩序は人々の願い、儚く脆い切実な祈りにも似た願いを叶えるべく時に厳しくも優しい教師の顔で、時にわがまま盛りの幼子の仕草で、そして時に立ちはだかるいやらしい悪役を引き受けることすら厭わずそばにいてくれる。人類きっての忠実な相棒とは秩序のことではなかろうか。
秩序が忠実であればあるほど、人間は現実から目を逸らしていられる。カオスの中に産み落とされた寄る辺ない卑しき自分を見ずに済む。
そう、彼らが望むも望まざるも、1分1秒休むことなくカオスである。それなのに、か弱く救いがたき人々にはそれが耐えられない。そんなことを認めたら命すら落としかねないと怯えている。だから秩序は人間の業の産物、言うなればフランケンシュタインの怪物である。創造主に喜ばれようと必死に灯した火が戦禍を巻き起こすことになろうとも悪いのは秩序ではない。
病院の待合室にはテレビが置いてある。10年ものあいだ冷凍庫に保管されていた男性の遺体についてリポーターが報告する。つい先日も冷凍庫に10年間保管されていた女性のニュースを見たばかりだ。なるほど首相の名前を冠した経済対策が始まったばかりの頃には大きなセカンド冷凍庫を購入しバリバリ稼いでいた人が少なくないのかもしれないなどと感心していると、iPhoneが振動して小久保由起からのメッセージが表示された。
「突然だけど今夜食事しない?」
私はOKとだけ返信した。
指定された店に到着すると小久保由起は真剣な面持ちで電卓を叩いていた。比喩ではなく、実際に計算していたのだ。飲み放題では何をどれだけ注文したら単品よりお得なのか。
メモをとりながら何事か口の中で呟き、検算まで済ませたところで徐に深呼吸すると私の目を見て小久保由起は声を上げた。
「もう今夜はとことん飲まなきゃやってられない」
飲み放題にしたらしい小久保由起ははじめに日本酒を注文していた。私はヤケ酒には反対である。そんな依存を誘発するような、いや既に精神的に依存しきったような飲み方は健康とは言えない。
しかし小久保由起のことは止める気にはなれない。彼女はせせこましい計算を経て納得のいく価格を割り出した上で「ヤケ酒」の体裁をきちんと整えて今夜をスタートさせたわけだから、こちらとしてもその情熱に水を差すわけにはいかない。
「どうした? 何かあったみたいだけど」
私が店員を呼び止めウーロン茶と枝豆、冷奴を注文すると、ここお通しあるよと由起に睨まれた。
「それで?」
戸惑い気味の店員を身振りで追い返しながら私は由起を促した。
「敏彦が浮気してた」
「えっ! まじで?!」
と一応驚いては見せたが、私は以前由起が「人を人が所有することは出来ないのだから浮気なんかで騒ぐのはみっともない」と浮気が発覚したことで婚約を解消した美里を励ます会の帰り道に批評していたのを覚えていた。「サイテー」「なんなのアイツ」とさらに言葉を重ね友情を示しながらも、この救いがたくも愛すべき友人のハリボテの中を覗ける予感に私の胸の鼓動は高まっていった。
「浮気はいいの、人が人を所有できるなんて幻想だから」
一応はこの信念を覚えていたらしい由起に感心しつつ視線だけで先を促す。
「でもお金まで注ぎ込むのは反則じゃない?」
思いもよらない角度から飛んできた言葉に私はついていくのに必死だ。
「え……っと、ん? どういうこと?」
戸惑いを隠すようにたった今運ばれてきたウーロン茶を一気に飲み干す。グラスの中で目的を失った氷がガチャリと音を立てた。
「だからね、浮気なんだから浮いたお金で回してくれないと。だから浮気って言うんじゃないわけ?」
そんなわけないわけと心で唱えて平衡感覚を保つ。由起の悋惜は伊達ではない。言葉だって由起に損を強いる事はできないのだ。
「え? じゃあ敏彦さん、その相手に貢いでたってこと?」
友人の美里に心を砕いて同情するのをケチった時には正直由起に呆れたものだが、しかし由起は由起なりにお金への執着に見せかけて裏切りの傷や嫉妬心を隠しているのかもしれない。そんな風になんとかハンドルを握りなおそうとした所に由起のヘアピンカーブが襲いかかる。
「まさか! それなら詐欺被害で訴えることもできるからいいのよ。でももっと最悪なの。先月のゴールデンウィークに、私には仕事だと噓をついておいてアイツ、その女と旅行してたんだよ? しかも北海道だって。ハイシーズン並みの旅費を払って北海道! それなのに今になって『俺が悪かった、俺のはお前しかいない』なんてふざけてると思わない? 私は交際期間5年のうちの連休1回分気遣いと小遣いを私に注ぎ損ねてるくせに、どの口が言うわけ?」
心は壊れるためにつくられた──オスカー・ワイルドは正しかった。しかし私は何度でも立ち上がる。由起の嫌いなもの、それははっきりしている。損だ。
私は謎の責任感に駆られて口を開く。
「ゴールデンウィークって由起は何して過ごしたの?」
「私? 私は1日目はママと温泉で日頃の疲れをとって、2日目は紗織と『プラダを着た悪魔2』を見た後に『いきなりステーキ』で肉補給。3日目は家でオンライン編み物カフェに参加して、4日目は野球場でビール、5日目は1人で新宿に落語聴きに行って、最終日は休みの疲れを癒すためにまたママと温泉だよ」
Be just and fear not. さっき通った教会の前でそんな立て看板を見なかったかしら。
「何歌ってんのよ? 全く天然ねえ」
私は無意識に口ずさんでいた。サイエンスフィクショーン ダボーフィーチャー🎵
ダメダメ、気をしっかり保つのよ。
「かなり充実してたんだね。彼氏に愛されたままそんなにのびのびした休暇を過ごせた人なんてなかなかいないんじゃない? すっごいトクしてるね!」
私は誰のためでもない闘いに挑んでいた。渾身の一撃! くらえK.O.
「でも敏彦が私に使うはずだった気遣いと小遣いは?」
敵は気に入っているらしいライムを飛ばしてきた。なかなか手強い。
「前に敏彦さんには無駄が多いって言ってたじゃない? でももう由起に染まったんだね。100%の気遣いや小遣いが必要ない浮かれ気分の無責任な恋でゴールデンウィークを乗り切った上に、貴重な恋のスパイスジェラシーまで仕入れて来ちゃったわけだ。収支はプラス、愛だろ愛。この5年由起から説き続けられた無駄のない暮らしが敏彦さんの血肉になった今、そりゃあ敏彦さんも由起しかいないって白旗あげるわけだ。ベタ惚れだね。もちろん無計画、向こう見ずな浪費女なら無駄に泣いて怒り狂うところだけどさすが由起だね。薄紙の一枚一枚を丁寧に積み重ねて今がある。それを理解できるのは……?」
私は捲し立てながらも由起の頰の力が抜けて顔が綻んでいくのを見逃さなかった。
「まあ、私しかいないか。こんなに寛容な彼女なかなかいないか」
「ですです! アッパレ」
私も息を吐いて笑いグラスを持ち上げた。
「ウーロン茶、おかわり」
由起がすかさず手招きして飲み放題をキャンセルするよう店員を説得し始めたので逃げるようにトイレに立った。
私は秩序にではなく、秩序に救いを求める人々のキッチュさに惹かれてしまう。プラスとマイナス、白と黒、上と下。次々に序列をつけてあるべきものがあるべき場所にあるよう祈るその姿に。
そのハリボテの中で震えながら幸せを求めるその小さな輝きを、しかしバカにすることはできない。自分の脆さや卑しさを受け止められずに、それでも生きていく。キッチュなまま輝き続ける。そんな小さな魂たちの終着点におあつらえ向きの冷凍庫をゴツゴツとした大きな手の店員が勢いよく開けた。
「モーチモチポテト餅6番さーんご注文いただきましたぁ」
「あーりがとうごさいまーす」
「あーりがとうございまーす」
キッチュな掛け声はキッチュな焼き鳥屋の中を元気にこだましていった。
[© Choko Moroya]
※アプリ「編集室 水平線」をインストールすると、更新情報をプッシュ通知で受けとることができます。
https://suiheisen2017.jp/appli/